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あたしは、猫。 作者:山本 風碧

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ちょっと病気中

 薄青のカーテンは陽光に照らされて暖かい色に変わっていた。昨日の天気が嘘みたいだ。柔らかく暖かい光がカーテンの隙間から差し込んでいる。石作りの床は暖められ、部屋の中から冬の気配が逃げてしまっていた。
 僕はその日仕事を休んだ。
 アリスが熱を出して、――その上腹痛だそうで。間違いなくあの雨のせいだろう。一年ぶりとも言える体調不良に、僕は慌てふためいていた。
「遅くなりました」
 階下から大声が響き、僕は慌てて部屋を飛び出した。
 玄関から、大柄な女性と小柄な老人が一人ずつ現れる。
「マリー、助かる」
 今朝一番で、近所の領民に頼んでマリーを呼んできてもらったのだ。医者もついでに拾ってきてもらった。
「お世話になります」
 彼が持っていた大きな荷物をを持つ。老人に頭を下げると、彼はにこりと微笑んだ。
 幸いアリスはただの風邪だった。そして腹痛は、ええと、……別の理由だった。それをアリスが渋々話すのを聞いて、思わずほっとしてしまったんだけど(やはり少し自信がなかったのだ)、それが彼女の癇に障ったらしい。アリスはふて腐れてベッドに潜り込んでしまった。
 医師から薬を受け取ると、行きと同じく領民に頼んで送り出した。彼はこの辺りに医師がいないことを心配していて、シャルルのことを尋ねてきた。彼がいた頃は、彼が薬を調合していたらしいのだ。彼にしか作れない薬もあって、彼が今いないことを知ると惜しがられた。
 マリーは散らかった城内を片付けている。昨夜の嵐は、部屋の中まで侵入したかのようだった。僕は彼女を城で一人にすることを早急に考え直さなければならないようだった。
「お嬢様、食事です」
 いつの間に作ったのか、マリーは食事を持ってきた。パンで作った粥だった。卵が入っていてとろとろのそれは、僕の分も用意されていた。アリスは空腹には敵わなかったのか、ふて腐れるのを一時やめて、身を起こした。
 傍に寄ると、スプーンで掬って彼女の口へと運ぶ。大きく口を開けるアリスは幼い少女のようだ。だけど、いつもうっすらと色づいているはずの頬は赤く、桃色のはずの唇も真っ赤。くっきりした二重まぶたは、今日は三重になっていて、瞼がひどく重そうだった。その上、吐く息までもが色づいて見えて、思わず目を逸らす。どうも、目の毒だった。
 そんな僕を見て、マリーは呆れた様子で
「お嬢様のことはお任せください。主人はお仕事があるでしょう」
と追い出そうとする。僕は素直に途中になっている掃除でもしようと腰を上げたけれど、アリスが嫌がった。
「リュシアン、行かないで」
 心細そうに、縋る。僕の服の端を握りしめる。その、あまりに切実な声と真剣な目に、僕は躊躇う。アリスは今にも泣きそうな顔をしていた。
「掃除をしてくるだけだよ。すぐに戻るよ」
「行かないで」
 絞り出すような声だった。今生の別れでも無いというのに、そんな響きがあった。
 ちらりと見るとマリーが深刻な顔をしている。僕は顔が引きつりそうになっていたのを必死で堪えた。
「アリス」
「一人にしないで」
「大丈夫ですよ、私がいますよ」
 マリーがそうなだめるけれど、駄目だった。アリスの潤んだ緑色の瞳にはマリーの姿は映されていない。彼女は僕だけをじっと見つめていた。


 廊下には二人分の声がぼそぼそと響いていた。僕の部屋の前。部屋の扉は少しだけ開けている。隙間から夕日が差し込み、絨毯の上に赤い線を引いていた。
「風邪で心細くなってるだけだとは思うけどね、……急がなきゃいけないね」
 マリーの暗い声に僕は頷く。
 さっきようやくアリスが眠った。取り乱す彼女を落ち着かせるために、睡眠薬を少し混ぜた。だからしばらくは起きないと思う。でも起きたときに僕らの姿が見えないと、きっとまずい。だからあまり部屋から離れられなかった。
「気が付かなかったんだ」
 あんなに依存されてるとは思わなかった。毎晩一緒に眠るから、だから余計に。単なる愛情と勘違いしていた。傾向は――あったのに。彼女が僕と眠る理由は、僕と少々違ったのかもしれない。僕は温もりと安らぎを求めて。でも彼女は闇が怖かった。孤独が怖かった。だから――一人じゃ眠れなかった・・・・・・・・・・のだ。

『リュシアンさえ居ればいい』

 彼女が叫んだ声が蘇る。彼女が駆け落ちでもいいというのは、そういうことだ。僕さえいればいい。それがたとえ些細なものでも、僕たちの間を引き裂くものを排除したがっているようにも思えた。
 でも――じゃあ、万が一僕がいなくなったら? そのとき、彼女は二度と一人じゃ立てないんじゃないか?
「重たいかい」
 マリーが躊躇ったように問う。僕は首を横に振る。覚悟はしていたのだ。あの時からずっと。
 僕は、彼女の全てを受け止めると。
「当てはいくつかあるんだ。だから、明日にでも始めるよ。でも――まずはアリスを安心させたい」
 ――彼女に約束を。
 僕はマリーにいくつか頼み事をする。マリーは僕の言ったことに少し驚いていたけれど、妙に嬉しそうに頷いてくれた。

 *

「あ~あ……」
 あたしは空に向かって呟いた。晴れ渡った空。流れ込む心地よい風は、今日はまだ暖かい。冬は少しずつ近づいているはずなのに、ユペールはまるで何かに遮られたかのように、まだ秋のままだった。その穏やかな気候はまるでリュシアンの笑顔のよう。その日だまりの中にいると、先日の嵐の夜のことなど悪い夢のように思えた。
 熱が下がるにつれ、あたしは自分で言ったことに打ちのめされていった。
「行かないで」だって。馬鹿みたい。この間からどうも駄目だった。自分がとんでもなく重たい女に思えて嫌で堪らなかった。だって――あの時のリュシアンの引きつった顔ったら!
 単に寂しかっただけ。体は辛いし、傍にいて手を握って欲しかっただけなのに。なのにあんな風に引き止めちゃったら、そりゃびっくりするに決まってる。
 反省して、今朝はいっぱい我慢してリュシアンを送り出した。彼は仕事が大変なんだもの。今日は城下町まで用事があるからって、朝早く出かけて行った。しばらくマリーが残ってくれてるから大丈夫だよって、あたしにしっかり言い聞かせて。
 そのマリーは中庭で洗濯物を干している。パンパンと皺を伸ばす音が聞こえる。あたしはその音につられて窓から身を乗り出した。
 彼女は目ざとく窓辺のあたしを見つけて、大きな声を上げる。
「お嬢様、今日はまだ動いちゃ駄目ですよ!」
 相変わらず〈お嬢様〉なんだから。うんざりする。もう違うのにって何度言えばいいのかしら。もう〈奥様〉なのに。事実そうなんだし、知ってるはずなのに。一度そう言ったけれど、まだ早いって。結婚式までは〈お嬢様〉でいいのです、って。相変わらず変なところで頑なのよね。
 そうだわ。そういえば、昨日あたしが月のものだって言ったとき、マリーはリュシアンと同じくらいほっとしてた。そして二人で目を見合わせてた。だから、多分リュシアンに子供のことで注意したのはマリーなんだと思う。余計なお世話。邪魔をしないで欲しかった。
 マリーのことは大好きだけど、リュシアンとのことでちくちく言われるのは嫌いだった。まるで、反対されてるみたいで不安になっちゃう。
 ……せめて誰か一人でもあたしたちのことを心から祝福してくれる人がいれば、あたしだってもうちょっと安心できるんだと思う。
 シャルルに会いたい。そう思った。彼なら、きっとニマニマ笑って、リュシアンに「さっさと結婚しちゃいなさいよぅ」って言ってくれるに決まってた。
 この間手紙を送った。リュシアンが結婚してくれないとか、リュシアンのお父さんが反対してるとか、両親が何か企んでいるとか、マリーがうるさいとか、そういう他の人には言えない愚痴をたくさん書いて。
 シャルルから送られてきたあたし宛の荷物には、封筒と便せんが大量に入っていたのだ。送れってことなんだと思った。だから、たくさん手紙を書いた。そしてそこに書いてあった通りに、庭の木に結びつけておいたのだ。魔法使いらしい方法だと思った。届いたかどうかは知らないけれど、いつの間にか手紙は消えていた。でも返事は来ない。
 寂しい。満たされない。なんでなんだろう。
 昔、あたしが猫だった頃が懐かしかった。あんな風に、辛いことを忘れて、のんびり過ごして行きたかった。人でいるのって苦しかった。元に戻れた時はあんなに嬉しかったのに。
 結婚すれば、子供が出来れば、何かが変わりそうだってそう思う。この鬱屈した日々に終わりが来るんじゃないかって。だけど、どこか違っている気もする。どこが違うのかはよく分からないけれど。
 シャルルならその答を知っていそうな気がしていた。
 だからあたしはずっと返事を待っていた。


 それから数日後のこと。
 その日リュシアンの帰りが妙に早かった。日が落ちるのが早い季節なのに、日暮れ前に馬車の音が聞こえてきて驚いた。
 ――なんでかしら? 不思議に思うあたしに、リュシアンは微笑みと同時にケーキの箱を差し出す。
「お土産だよ」
「あ、ありがとう」
 なんで? 唐突すぎてわけわかんない。今日はあたしの誕生日でもないし、リュシアンのでもない。なにか祝日という訳でもないはず。多分、本当に普通の何でもない日。
 なんだかんだでまだ城に居座っているマリーを振り返る。
「マリー、あなた誕生日なの?」
 彼女は苦笑いしながら首を振る。
 そうよね。もしそうだったとしても、やっぱり腑に落ちないもの。だって、あたしとマリーが用意した食事はごく普通のもの。今日は鶏のソテー(ただあぶっただけ)とサラダ(ちぎって皿に盛っただけ)とスープ(野菜を煮込んだだけ)の簡単なものだった。あたしにも上手に出来るものをマリーが考えてくれたのだ。そのおかげで、ここ数日で、少しだけレシピが増えた。
 食事を終え、待ちきれなくってケーキの箱を少し開くと、クリームの甘い香りが漂った。
 本当に久々のその匂いに思わずうっとりした。――な、なんて美味しそう!
 リュシアンがマリーに目配せすると、彼女は少し頭を下げて食堂を出て行く。不思議に思うあたしに、リュシアンが言った。
「開けてみて、全部」
 蓋を持ち上げる。中を覗き込んで端の黒い箱に気が付いた。手に取る。
「これ、何?」
「僕からアリスにプレゼント」
「誕生日でもないのに?」
「〈何でもない日〉だからいいんだよ。こういうのは。記念日が増えるだろう?」
 首を傾げながら箱を開けて、目を見開く。
「――リュシアン」
「結婚しようって言ったのに、形にしてなかったから。支度金の中に含まれるんだろうけど、これは君のものになるんだから――先に、ね」
 彼はそう言うと、あたしの左手をとって、薬指にそれをつける。それはあたしの指にぴったりと収まった。
「左手の薬指は、心臓ハートに繋がっている、だから心を結びつけるために指輪を交換する――って、誰か言ってたな、シャルルかな」
 照れを誤摩化すかのように呟きながら、彼は指先に口づけた。
「こ、ここ、これ、高そう! は、破産しちゃう!」
 目の前のその〈指輪〉は、眩しいくらいに光る白金で出来ていて、その中央にあたしの目と同じ色の石が輝いている。し、しかも、そのエメラルドは、あたしの瞳と同じくらいに大きい!
「大丈夫だよ。僕は侯爵なんだからね」
 卒倒しかけているあたしに、リュシアンは笑う。
「え、でも――」
 貧乏侯爵、と言いかけて、慌てて飲み込む。
「何とかなってる。オーランシュのパン屋も順調だし、それから――マルメロのパン、昨日から売り始めたんだけど、バルザックの新店舗で好評だった。君のおかげだ」
「パン? 新店舗?」
「君が考えてくれたパンだ。新店舗のことは言ってただろう? この頃忙しかったのはそのせいだよ。あの店が軌道に乗って、評判が上がれば、同じ街の君の両親の耳にも届く。きっといい結果が出るよ」
「リュシアン……」
「結婚指輪はまだあげられないけど……、それまで、その指輪で我慢してくれるかい?」
「が、我慢って、我慢どころじゃないじゃない、これ!」
 裏返った声で叫ぶと、リュシアンは苦笑いをしながら、あたしを引き寄せた。
「正直、お金を払うときには肝は冷えたけど。"一生に一度"しか買えないな」
 その言葉に視界が潤む。涙を堪えようとするけれど、全くうまくいかない。あぁ、もう、あたし、この頃こんな風に泣いてばっかり! 情けないったら!
 笑って誤摩化そうとして、顔を上げると、リュシアンは真剣な目をしていた。
「僕は、どこにも行かない。ずっと君の横にいる。これはその約束の印だよ」
 リュシアンの青い瞳の中に、あたしが映っていた。歪な笑みを浮かべた、不安そうな少女。彼女は笑っているのに、ひどく怯えた顔をしていた。初めて知った。このところどんな顔で彼を見つめていたのか。知って、驚いた。
 ――だめよ。こんなの。
 直後、無理矢理に笑う。今度こそ本当の笑顔を浮かべようと思った。暗い海から抜け出そうとあがいた。だって、こんな女、リュシアンの隣に余りにそぐわない。こんなところにいたら、彼はそのうち足を取られて溺れてしまう。
 自分の傷を見るのは辛い。だけど、立ち上がろう。逃げたら、逃げ続けたら、またあたしは〈猫〉に戻ってしまう。リュシアンが必死で取り戻してくれたあたしの姿が、消えてしまう。――それは絶対に嫌だから。
「ありがとう、リュシアン。あたし、待つ。――待てる、ちゃんと」
 そう言うと、リュシアンが驚いたような顔をした。だけどすぐにいつもの笑みを浮かべてあたしを抱きしめる。
「ゆっくりでいいんだ――僕が、いるから」
 腕の中でその暖かく堅い胸に頬を埋めていると、無理矢理に作った笑顔から力が抜けるのが分かる。リュシアンは、こんなあたしでも受け止めてくれる。
 ゆっくり、自分を見つめようと思った。自分がどうしたいのか。どうしたらこのどこか虚ろな心が満たされるのか。
 答を探そうと思った。
 そっと指輪を撫でる。この輝きに似合う、そんな女の子になりたい。リュシアンに相応しくありたい。あたしは心からそう思った。
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