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あたしは、猫。 作者:山本 風碧

第四章 優しく残酷な魔法

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24 優しく残酷な魔法

 あれからひと月。季節はもう夏に足を踏み入れていた。
 空は青々と冴え渡り、遠く地平線にはもくもくとした厚い雲が魔人のようにそびえ立つ。
 庭の木々は濃い色の葉で覆われ、鮮やかな原色の大きな花が咲き誇り、足下の影は強い日差しの分だけ深みを増している。
 あたしは仕事も無くふらふらと庭を散歩している。ただの野良猫みたいに。
 二階の書斎を見上げると、リュシアンが表情を無くしたままの顔で仕事をしているのが見える。もともときれいな顔だから人形が動いているようで、とても気味が悪い。暑いはずのその部屋なのに、まるでそこだけまだ夏が来ていないように冷え冷えと冷めた色に見えた。
 木が枯れて。あたしが人間の姿に変われなくなって。このシャルルの城にやってくる前のあたし達に戻っただけなのに、リュシアンの顔からはすべての表情が消えてしまっていた。彼は怒りもしないし泣きもしないし、もちろん笑いもしなかった。
 リュシアンは微笑むかわりに仕事に打ち込みだした。まるで別人のようになってしまった。そうだ……あたしが知ってる前の主人やその周りの人間みたいに、お金を稼ぐ事に心を尽くすようになってしまった。
 そして、あれだけ信心深かったというのに、聖典は燃やして、お祈りも止めてしまった。あたしは、彼を包んでいたきれいな空気がどんどん淀んで行くように見えて、心配で堪らなかった。
 シャルルに相談しても放っておきなさいって。今は何を言っても無駄だからって。

 あたしは、人間だったんだって。
 あの男達が山でそう言ってた。帰ってからシャルルに聞いてもそうだって。
 リュシアンが「どうして教えてくれなかった」って掴み掛かったけれど、「知らないとは思わなかったのよぅ!」って。それは本当みたいだった。上流階級では常識なんだって。
 そう言われてもまったくピンと来なかった。だって、結局のところ、あたしは未だに猫の姿でうろうろしてる。そして、もう人間の姿になる事も無い。
 嬉しいとも悲しいとも今は思えない。いつもみたいに感情はすぐに風化していって、なんだか、今まですごくいい夢を見ていたんじゃないかなってそんな気分だった。
 人間になって、そしてリュシアンと結ばれて。あの実さえあれば、それも叶うはずだった。リュシアンの心の壁は取り払われたはずだった。でもそれが壊れた次の瞬間に、新しい別の壁が出来て。結局あたし達は何も変わる事が出来なかった。あたしは彼の好きな『人間の女の子』にはなることが出来なかった。彼の憎んでいる猫の姿の中に『あたし』は取り残されてしまった。
 きっと優しく残酷な魔法は、あの魔法薬――エクリプスとともに消えてしまったのだ。
 リュシアンを好きなのは相変わらずだった。諦めたくない。その気持ちはひと月前には強く胸にあった。今だって諦めたくなんかないけど、でも……その大きな壁に向かうのが、なぜかひどく怖かった。

 シャルルが庭の池で泳いでいる。ジョアンお手製の小さな水泳用パンツを穿いて。それは、白地に赤の水玉模様。一体どういう趣味なんだか、パンツの上からぶよぶよで灰色のお腹がはみ出して、全く似合っていなかった。
 あたしはその傍でやっぱり池の魚を追っている。どうしても鬱々としてしまうので気晴らしだった。
「書斎ってお化け屋敷みたいなのよぅ。リュシアンったら幽霊みたいだし」
 ……もうちょっと心配してもいいと思うけど。あっけらかんと言うシャルルに、あたしは呆れてため息をつき、目の前で跳ねる魚を取り逃がす。
 シャルルはさらにぶつくさ文句を言う。
「リュシアンが変に頑張ってるから仕事がなくなっちゃったわ。これじゃ太る一方じゃない」
「なあに? それで泳いでるっていうの?」
 シャルルは「休憩休憩」と呟きながら池から上がると、大きなカップに入った大量のミルクを一気に飲み干した。そして傍にあった氷で出来た皿から冷えたチョコレートをすくいあげて口に運ぶ。
「太る一方なのは……別の理由じゃないの?」
 溜息と同時にそう呟くけれど、シャルルは全く気にせずにチョコレートを完食し、ミルクをおかわりした。首輪がひどくきつそうに見えるのは気のせいではないはず。
 そうして満足げなシャルルにあたしは気になった事を尋ねる。
「リュシアンは……やっぱりお金が欲しくってあんなに頑張ってるの?」
「そうみたいねぇ」
 シャルルは再びどぼんと池に飛び込むと熱心に浅瀬を歩き始めた。その動きに合わせて水面がゆらゆらと陽光を反射し、あたしは眩しさに目を細めた。
「賃上げを申し込んで来たから、じゃあ倍働いてもらおうかしらって言ったのよぅ」
「どうして、お金なんか」
 あたしは不思議でしょうがなかった。以前貧乏脱出のためにお姫様と結婚しようとしたリュシアンだったけど、本当の目的はお金じゃなかったはずだった。でも今のリュシアンは――。
 中身が誰かと入れ替わったとしか思えない。
「……ちょっと痛い目を見た方がいいのよぅ」
 冷ややかな声に顔を上げると、シャルルはむっつりと水面を睨んでいた。
「え?」
「リュシアンは今、自分のことが可哀想で、それで必死なんだから。気持ちは分かるけど、……本当に可哀想なのは一体誰よっ。もっとマシな答えを出すと思ってたのにっ。幻滅だわ!」
 バシャバシャと両手で水面を叩くシャルルに唖然とする。彼がこんな風に感情を露にするのは本当に珍しかった。
「幻滅?」
 意味が分からなくて尋ねるけれど、シャルルは不機嫌そうに運動を続けるだけで、それ以上何も言わない。
 あんなに打ちひしがれてるリュシアンに対して、そんな風に言うシャルルが不可解で、あたしはその額からほのかに上がる湯気をじっと見つめる。でも、いくら眺めても当然そこに答えが浮かぶ事はなかった。


 *


「あ」
 バサバサと書類の束が机から滑り落ちる音ではっとする。
 大きくため息をつくと椅子から立ち上がる。書類を一枚一枚拾い上げると重ねて机の上に置く。今日何度目だろう。うとうとしてしまって、間違いばかりだった。
「あ!」
 今度は書類の端に引っかかってインクが溢れる。あっという間に机の上に濃紺のインクの海が出来た。仕上げたばかりの契約書が駄目になる。
「…………はぁ」
 疲れていた。
 シャルルに賃上げを願い出たら、「じゃあ倍働いて。アリスが使えないから仕事が増えちゃって」と素っ気なく言われた。考えられないくらいに冷たい。僕が何のためにそう言っているかくらい分かっているだろうに。
 僕が金を稼ぐ理由はそんなにおかしいのだろうか? アリスを人に変えるあの『魔法薬』を手に入れたい。そう思うのが、そんなにいけないことか?
 そんなわけない。僕はアリスのためにあの実を手に入れる。
 聞けば店にはまだ在庫が残っているらしい。もちろん一粒の値段がとんでもない額にはなっていた。いくら金持ちでも躊躇するような額だ。一粒で金貨一枚。あの男達が言っていたことは本当になった。――僕の給料の半年分。今まで貯めた金を叩いても到底足りなかった。
 だからもっと働くしか無かった。何も考えずに、ただひたすらと。
 あの実を手に入れて、僕は彼女を手に入れる。たとえ一年に一度でもいい。彼女を抱きしめて眠る事が出来ればそれで良かった。それだけでも十分に幸せだと、自分に言い聞かせていた。――そう思い込まないと心が壊れてしまいそうだった。


 食堂ではアリスが自分の椅子に座って丁寧に毛繕いをしていた。テーブルの上の燭台に照らされて、いつもは冷たい色をしたその銀の毛が、柔らかい色に変わっている。
 僕は彼女のかわりに給仕をしていた。今までの彼女の仕事は全部僕が引き継いでいた。そこまでしなくても、と最初はひどく嫌がっていたアリスも、「お金のためだ」と無理矢理納得させた。
 いつものように彼女の使っていたフリルの付いた白いエプロンをつけると、シャルルが迷惑そうに顔をしかめる。
「似合ってないわ。趣味が悪いったら。食事がまずくなっちゃう」
 そう言いつつ彼は焼きたてのパンを丸呑みにする。ローストビーフを切り分けて皿に乗せると、瞬きをする間にそれは消えてなくなり、ソースだけが形を残す。
「シャルルが言ったんだろう。……アリスの分まで働けって」
 アリスに聞こえないように小声でそう文句を言う。
「あらぁ? そんな事言ったかしら?」
 とぼけるなよ。
 僕は腹を立てたけれど、アリスがこちらを気にして目線を移したので、とりあえずその言葉を飲み込む。
「……『倍』働けとは言ったけどね。――の事とは言ってないし」
「なに?」
「別にぃ」
 ふんと鼻を鳴らすと彼は食事に集中しだす。目の前にあったサラダが見る見るうちに消えて行く。
 この頃、シャルルはこんな風にちょっとした事で突っかかってくる事が多かった。疲れていて怒るのも面倒で放っておいたが、あからさまに喧嘩を売られるとさすがに気に障る。
「言いたい事があれば言えばいいだろう」
「ふん。今のあなたに言う事なんか何も無いわ! 猫にコバン、豚に真珠よぅ! 馬鹿はこれだから嫌いなのよぅ!」
 コバン? 耳に慣れない言葉をぶつけられるけれど、侮辱されてる事だけは分かる。
 ――なんでここまで蔑まれなければならないんだ。
「なによ、その目! やろうって言うの?」
 互いの目線がぶつかり火花が散る。僕は思わずシャルルに手を伸ばしかけ、シャルルは歯を剥き出すが、高い透明な声にそれは止められた。
「ねぇ」
 アリスがひょこっとテーブルの下から顔を出す。そして僕を見上げ、懇願するように僕を見つめる。その瞳の熱に押されて僕は言葉を待った。喧嘩の仲裁? アリスは僕の味方だよな?
「あたしのお肉は?」
「…………」
 僕はあっという間に怒りを削がれ、ため息をつくと肉を切り分けてアリスの皿に乗せる。彼女は黙々とそれを平らげると、大きなあくびをして椅子の上で丸くなる。
 その平和な様子。周りをふわふわ蝶が飛んでるかのようだった。
 暢気なもんだな……。
 僕は今の自分と比べ、その差異がなんだか羨ましくなり、彼女を見つめて短く息をつく。
「…………羨ましい? アリスの事が?」
「え?」
 冷たい声に顔を上げると、シャルルが今までに見た事も無いような凶悪な顔をしてこちらを睨んでいた。
 その汚いものを見るかのような目に思わず怯む。こんな悪意は今までどんな人間にも向けられた事が無かった。
 彼は追い討ちをかけるように僕に向かって言い放つ。
「この、――――偽善者」


 ――偽善者?
 どういう意味だったんだろう。そんな事を言われるような事をした覚えは無かった。言いがかりか?
 じっくり考えようとしたけれど、疲れで瞼が重くなる。いいや。明日また考えよう。
 僕はベッドに横になると、枕の下から赤いリボンを取り出して月の光に翳す。泥だらけですり切れたそれは、アリスを連れて帰ったあと、全ての役目を果たしたように首から抜け落ちた。
 もう使えないし、捨てたよと言うと、よほど気に入っていたのだろうか。彼女はひどく落胆した。見かねて新しいリボンをジョアンがどこからか手に入れて来て、彼女は今はピンク色の華やかなリボンを首に巻いている。そんな格好をしていると普通の上品な猫に見えるのが不思議だった。
 手元のリボンの固く結ばれた結び目には、黒い染みが出来て見るからに汚らしい。捨てたと言ったのだし、本当に捨てても構わないんだろうけれど、何となくこうして取ってある。このリボンにはなんだか甘くて苦い思い出がいっぱい詰まっていた。
 指でそっとなぞる。その滑らかな感触はまるでアリスの肌のようで、一瞬だけ触れたあの夜の事を思い出さずには居られない。
 雷鳴と同時に猫の姿になるアリス。僕はあのとき自分が雷に打たれたようなそんな気分だった。
 あと少しだった。迷わなければ間に合ったのかもしれなかった。もし時を戻せるのなら。僕はあの時の自分に急げと言うだろう。
 でも本当に時を戻せるのなら、――出会う前に戻りたい。
 好きな女の子に触れられない。それがこんなにも辛いなんて知ってたら、……僕はこの恋を選ばなかったかもしれない。
 逃れられない現実を前に、僕はそんな事を思いながら眠りにつく。そして今はもう咎める者のいない夢の中でアリスを壊れるほどに抱いた。
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