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あたしは、猫。 作者:山本 風碧

第三章 魔法薬のレシピ

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19 空っぽの薬瓶

 今日は雨。それもすごい雨。もう既に雨粒とは言えないような水の塊が、まるでバケツをひっくり返したくらいの勢いで落ちて来る。視界に移る地面はミルクを入れた紅茶色の川となり、濁流の渦さえ見える。馬車の上に居るというのに、その車輪の音も聞こえない。
 なんなの、ほんとにこの天気は。髭がぴりぴりする。雷が落ちそう。
 あたし……雷は嫌い。轟く轟音。闇に光るその稲妻。その光に照らされた……大きな人の影。
 なぜか雷が近づくとその像が脳裏にちらついた。いつの事なのか分からない。でもその記憶は妙に生々しく、突然のように蘇る。何か、すごく嫌なことが近づいてるような、そんな気分になる。不安が胸の中で膨らむ。大きく息を吸い込むと目をぎゅっと閉じ、稲妻が視界に入らないように手で蓋をした。

 あたしは馬車に備え付けられた荷台の、荷物の隙間に寝そべっていた。座席には屋根があったけれど、荷は野ざらしだった。一応厚い布が掛けられていたものの、その細かい目の隙間から一滴、二滴と雨水が漏って来て鼻先に落ちる。
 視界の端にある板の隙間から覗くと、リュシアンは前の座席に腰掛け居眠りをしていた。夢を見ているのか、うなされている様で、その顔色が少し悪い。
 昨日の真夜中、リュシアンがこっそり城を抜け出してるのを見て、あたしは思わずあとをつけて来たのだ。
 その荷物の量からして、どこか旅に出るみたいだった。
 あたしに黙ってそんなこと、ずるいわ! そう思ったら我慢できずに、気がついたら城を飛び出していた。
 変身が解けた後で良かった。人間の姿だととてもじゃないけど目立って尾行なんか出来なかったから。
 あたしは殆ど何の準備もせずに飛び出して来たけれど、魔法薬だけはと、それが入っていた壜をそれごと掴んで来たのだった。でも――
 あたしは手に握ったままだった一粒の魔法薬を首のリボンの中へと仕舞い込む。もう壜の中にはこの一粒しか残っていなかった。シャルルに言って作ってもらうようこの間お願いしていたけれど、まだ追加分は出来ていないみたいだった。
 でも、変身……もうしない方がいいのなら、丁度いいのかもしれない。
 昨日のリュシアンの態度を思い出し、あたしはため息をついた。
 猫の姿で寿命がつきるまでリュシアンの傍に居られたら、それでいい。彼の幸せな姿を傍で見ていられたらそれだけでいい。ちょっと前まではそう思えていたはずなのに。
 その、のんびりと平和な生活を思い浮かべてみるけれど、なんだかとてつもなく大きなものが欠けている様に思える。
 それに――そのうち、リュシアンもお嫁さんを貰うだろう。その傍らで、あたしはペットとして過ごす――そう考えると、鋭い痛みが胸を刺す。
 お嫁さんになれる女の子は、あたしじゃない。あたしじゃ、駄目なんだもん。
 いくら人間に変身したって、あたしはどうしても猫。いくら今一番近くに居るとしても、リュシアンは最後にはきっと本物の人間の女の子を選ぶ。リュシアンに結局聞きそびれたままの、あの空色のリボンの女の子、とか。たとえそうじゃなくても、後から現れる女の子にあたしはすぐにその距離を追い越される。――種が違うっていう、リュシアンが決して飛び越えてくれることのない大きな壁によって。

 それにしても一体どこへ行くのかしら。
 道が悪いのだろう、馬車はひどく揺れていた。布と荷物の隙間から外を眺める。雨は少しだけ弱まったようで、雨粒がぴちゃぴちゃと荷台の端で跳ねていた。
 視界が悪くて、ここがどこなのか既に分からなかった。上に覆い被さる布から染みだした雨水が体を濡らす。昨日の天気が嘘みたいに今日は冷えた。
 ……寒いわ。それにお腹が空いちゃった。
 寒さと空腹であたしの頭はすぐにいっぱいになる。なぜだか暗い考えはあっという間に頭の隅に追いやられた。脳みそが小さいから? こういう時、猫で良かったってそう思う。
 あたしは丸くなって少しでも体温を逃がさないようにした。
 いっそ馬車の中に飛び込みたかったけど、見つかるわけにはいかない。まだ城から出てそんなに進んでいないから、今見つかると連れ戻されてしまうに決まっていた。
 リュシアンがあたしに黙って行動するときは、たいていあたしが邪魔なときだ。この頃リュシアンは来客が来ても自分でお茶を運ぶようになってしまった。それによそのお城に行くときも付いて来なくていいって。お仕事の話に邪魔になると思ってるのか、それか、あたしが居ると全部お菓子を食べちゃうとでも思ってるみたい。今回も多分そう。
 でも――女の勘かしら。なんだか分からないけれど、今回は絶対に一人で行かせてはいけないような気がしていた。


 ――ぴちゃん

 鼻の上に冷たいものが落ち、あたしは夢から引きずり出される。いつの間にか眠っていたらしい。
 目が冴えるに従い、急激に寒さを感じて背中がゾクゾクした。
 なにかしら? この感覚……ひょっとして……風邪?
 あまりに昔の事のようで思い出せない。というより、よくよく考えると生まれてから風邪なんか引いた覚えもない気もした。
 一体いつの記憶なんだろう。まだ赤ん坊のときの記憶なのかしら。
 あたしは背筋を這い上がるゾワゾワとした悪寒に思考を打ち切られた。
 どうしよう……動けない、気がする。
 視線を上げるけれど、景色がまるで雨に溶けている様で何もかも輪郭が歪んで見えた。
 ああ、これは、ほんかくてきに……だ、め……
『アリス!』
 どこか遠くでリュシアンの声が聞こえる。ああ、見つかっちゃった……。
『どうして、こんなところに……! あ、……アリス?』
 どうやら、怒っているみたい……やだな、起きたら、怒られちゃ……――
 あたしの思考はそこでぷつりと途切れた。


 *


 ここに居るはずのないアリスが、ここに居て、しかも熱を出している。
 ……どうしたものか。
 僕は今の自分が置かれている事態にものすごく戸惑っていた。
 ずぶ濡れになりながら街を駆け医者を捜すが見つからず、せめてと宿を探して、駆け回る。しかし、ただでさえ大雨に足止めされた旅行客で宿が満室な上、ペットを連れ込める高級な宿など、僕が持って来た路銀ではとても泊まることが出来なかった。
 もともと連れてくる予定もなかった。危険が伴う事が分かっていたから、夜中にこっそり出て来たはずだったのに。
 外は少し勢いを弱めたものの、やはり土砂降り。おまけに冷える。あの体調では野宿は無理だ。下手するとアリスの命に関わる。――となると方法は一つしかなくて。
 馬車の中で横たわるアリスをじっと見つめる。その熱っぽい顔を見て、覚悟が決まった。
 僕はポケットに入れていた、シャルルから受け取った魔法薬を手に取る。出がけに急ごしらえだがシャルルが魔法を施してくれたらしく、それは艶やかな月の色をしていた。
 彼はこうなる事を予想していたのか? まさかとは思うけれど、今までの事を考えるとあり得ない事ではない。
 あれ、でも……? アリスが猫のまま付いて来たという事は、ひょっとしたらこれが最後の一粒? ふとそんな考えが頭をよぎり、『最後』という言葉にひやりとする。
「……いや、まさかね」
 呟いて首を振る。
 今から採りに行くのだから、考え過ぎだ。それに、こういう時に使わなければ意味がない。
 僕は自分にそう言い聞かせると、アリスの口に人差し指を入れ、強引に開かせる。そして無理矢理のように薬を押し込めた。
 直後彼女の体がふわっと光ったかと思うと、一瞬のうちにアリスは少女に姿を変えた。
 眠るようにして、ぐったりと重い彼女に上着を被せ横抱きにかかえると、雨からアリスを庇うように前屈みになって目の前の宿へと走った。


「……そちらお連れさんは……?」
 怪訝そうに店主が僕を見つめる。
 そりゃそうだ。結婚もしていない男女が二人きりで旅行などあり得なかった。しかも僕はこの春十八になったばかり。まだ若い。アリスももちろん十六、七くらいにしか見えない。アリスを抱く腕はぎくしゃくして頼りないし、とても夫婦には見えないだろう。その上アリスのこの病状。怪しい事この上ない。
 僕は焦りを必死で抑えると表面上穏やかな笑みを浮かべる。
「は、ハネムーンなんです。……でも、つ、妻が急に熱を出してしまって」
 こめかみを冷や汗が流れた。『ハネムーン』、『妻』、どちらの単語もどうしようもなく恥ずかしかった。アリスは眠っているようだったので、おそらく聞こえていないとは思うけれど、聞かれたらと思うと余計に顔が赤らむ気がした。
 店主は一瞬変な顔をしたけれど、直後にやりと笑ってくだけた調子で言う。
「そうかい。そりゃ、兄さん残念だな。せっかくそんな可愛い嫁さんなのによ」
 顔が引きつるのが分かる。耳が異常に熱い。否定の言葉を無理矢理飲み込むと、曖昧に頷いた。


 部屋に案内され、アリスをベッドに横たえる。店主が丁寧にちょうど宿泊していた医者を連れて来てくれたので、ありがたく診てもらった。ただの風邪だという事だった。薬をもらい、一安心する。
 それから店主に氷嚢とタオルを貰うと、彼女の頭にそれを乗せた。すると顔色も少し良くなり、ようやく一息つけた。
「じゃあ、何かあったらまた遠慮なく呼んで下さいよ。まあお邪魔はしたくないですがね」
 店主がそういいながらにやりと笑い扉を閉める。直後、僕ははっとした。
 ――二人っきりだ。
 どれだけ避けたか分からないこの状況。しかもアリスは今しっかりとベッドの上。もちろんそんな場合じゃない事は分かりきっているけれど、突如そのことを意識して頭に血が上るのが分かる。
 ふと部屋を見回すと、新婚と言ったのがまずかったのか、それともたまたまここしか空いていなかったのか、ベッドはアリスが横たわるその一つしかない。どういった趣味なのか桃色のその壁紙が、蝋燭の炎に照らされて部屋に妙な雰囲気を醸し出す。窓には雨が川を作り、部屋の中の明かりに艶かしく揺れていた。
 部屋にあるもの全てが僕を急き立てているようで、どうしようもなく落ち着かなかった。
 と、とにかく、薬を飲ませないと。
 逃げ出したかったけれど、さすがにそうもいかない。せめてアリスの熱が下がるまでは。
 僕は緊張のせいか、まともに動かない腕で貰った水薬の入った壜を取ると、アリスの上半身を抱えて起こし、口元に持って行く。彼女は匂いを敏感に嗅ぎ取りその唇を真一文字にして拒む。
「アリス。飲んでくれよ」
 強引に壜の口を押し付けるがアリスは顔を背けて全く受け入れない。子供に言い聞かせるように僕は耳元で懇願する。
「アリス、お願いだから」
 それでも彼女は僕の胸に顔を埋めるようにして薬を避け続ける。
 胸に彼女の熱い息が染み込む。その刺激が伝染するかのように広がったかと思うと、一気に彼女に触れている指や腕に柔らかさと熱を感じる。耳元で甘く囁いたのは天使か悪魔か――直後、胸の中で何かがはじけた。
「――――っ!」
 熱い衝動が僕を襲い、アリスを抱きしめる腕に力が入る。頭の中で僅かに残る理性が神に向かって言い訳をする。そうだ、これは……緊急時だから仕方ないんだ――
 壜の中身を一気にあおる。空になったそれがひどく邪魔なものに感じた。
 ――苦い。吐きそうに苦い。甘いものが欲しい。すぐにでも。ほら。それだ。そう、目の前にある――
 視界の端で、空っぽの壜が、くるりくるりと、まるで羽が生えたかのようにひどくゆっくり空中を舞っていた。
 ガシャンと何かが壊れる音ではっとする。
 目の前には銀色の長い睫毛。そして――唇と舌に熱い感触。苦かったはずの口の中は、今は痺れるほどに甘い。

 僕はベッドの上の少女に覆い被さって、その小さな唇に激しく口づけていた。
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