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第7章「再起」
――窺、it is ストレート that...。
「……むぅ」

 水の注がれたガラスのコップの側面とにらめっこをしているイズミ。だらしなく顎をテーブルに付けている。
 膨らむ頬は、まるで水族館に展示されたフグの子供のよう。それほどまでに悔しかったのだろう。

「……だからって、いつまでそうしてるつもりなんだ。さっきからずっと物陰で角さんが笑ってるぞ」

 最終下校時刻からおよそ三十分後の、喫茶「アル・フィーネ」。曲がりなりにも飲食店だというのに、夕食時に俺たち以外の客の姿が一つとして見えないのは大問題だと思うのだが、唯一の店員である角さんはそれをまるで気にかけていない様子だった。

「むぅー……」

 もうかれこれ一時間以上、イズミはこんな調子だ。これ以上はこの先の計画に支障をきたすことになるので、いい加減立ち直ってくれないと困る。

「仕方ないだろ、相手はテニス部期待のエース。ましてや“覚醒者(スレイヤー)”かもしれない男だ。だからイズミが負け――」

「うぁぁー、それ以上は言うなぁぁぁー!」

「――るのも仕方ないというか、当然というか。だから元気出しなさい」

「……由利也クンのいじわる」

 イズミの表情がころころと変わる。このオーバーなリアクションははたして演技なのか、素なのか。どちらにせよ、これほど取り乱したイズミの姿を見るのは初めてかも知れない。貴重な経験だ。筋違いかもしれないが、丹羽のやつに感謝する。


 テニス部先代副部長こと杉山 零により放課後一番でセッティングされたスペシャルマッチ「丹羽 烈人バーサス立松 イズミ」は、圧倒的大差のもと丹羽 烈人に軍配が上がった。

 初め、人並外れた身体能力の高さと驚異的なスポーツ・センスを武器に果敢に攻め入った挑戦者(チャレンジャー)イズミは、なんと第一ゲームをストレートで先取した。
 ところがそれは、まあ何ともありがちな展開というやつで、丹羽がイズミの実力を測るために様子見していただけだったらしく。「相手にとって不足なし」と判断したのか、反撃に出た丹羽は続く第二ゲームを逆にストレートで取り返してみせた。

「……二ゲーム目で私が油断したのが悪かったのよ。そこからうっかり相手のペースに飲まれて……」

 まったく、「よく言うよ」以外に掛ける言葉が見当たらない。なにせ、その後イズミは丹羽から一ポイントしか奪うことができなかったのだから。

 当初二ゲーム先取のルールで開始された試合は、二ゲームを軽々先取されたイズミが駄々をこね、三ゲーム先取へ変更。三ゲームを先取され四ゲーム先取へ。四ゲーム取られ五ゲーム取られ、最終的には六ゲーム先取――すなわち一セットマッチになっていた。
 そのもはや攻防とも言えぬやり取りの末、第六ゲーム。カウント三-〇(フォーティ・ラブ)、マッチポイント。
 そんな状況で、「これで満足か?」と言わんばかりに一点を譲られ、直後見事なサービス・エースで勝負を決められてしまったのだから、イズミが不機嫌になるのも仕方ないといえる。

 まったく、丹羽のやつの大人気なさにも甚だ呆れる。先輩である久留米には勝ちを譲っておきながら、ファンだと申し出て試合を挑んだイズミのことは全力で捻り潰すときた。はっきり言って、どうかしてる。普通、機嫌を取るべきはファンじゃないのか? ……そもそも「ファンが付く」という感覚がいまいちわからないが。



『カラン、カランカランカラン……』

 店のドアに取り付けられた鐘が、小気味の良い乾いた音を鳴らす。

「――来たわね」

 イズミの眼の色が変わる。「気持ちを切り替えろ」なんて、言われるまでもない。余計なお世話だ、とでも言うように。
 狭い店内を辿り、俺とイズミの座る最奥の席へと向かってくるのは、エナメル製の白いスポーツバッグを肩に提げ、背中に厚みのあるテニスバッグを担いだ男。一目で古宮高校(うち)の生徒だとわかる、黒ずくめに五つの金星。――五つ。

「来てくれてありがとう、丹羽 烈人クン」

「まぁ、来ましたけど……なんで彼氏連れなんスか」

 視線に乗せ、あからさまな敵意をぶつけてくる学ラン姿の丹羽。この様子だと、俺が今日の放課後テニスコートにいた人物だというのはわかっているようだ。

「気にすんな。まあ座れよ」

 俺らしくもない、上級生としての威圧的な態度をとってみせる。『くれぐれもナメられないように』。それがまず初めにイズミが俺に忠告したことだった。

「……クソッ、話がちげー」

「あら? 私は二人きりだと言った覚えはないけど」

 くす、と笑うイズミ。その姿はもはや妖艶でさえあり、ぞくり(・・・)と俺の方こそ反応してしまう。
 それを受け、苦言を漏らしつつも渋々席に着く丹羽。間を空けず、角さんが丹羽の分のお冷を運んできた。
 ここまではイズミの描いたシナリオどおりに事が進んでいる。


 イズミは、テニスの試合を通じて丹羽の“人を超えた”身体能力を発揮させることができなかった。となると、体育祭までにできることというのはかなり限られてくる。だから、もはやなりふりかまってなどいられず、強硬手段に出るしかなかったのだ。すなわち、

 『……丹羽 烈人を問いただす?』

 『そ。……もう、それしかない』

 イズミが計画とも言えぬ計画を持ち出したのは、試合に負けてまもなくのことだった。


「さっそくだけど、いいかしら、丹羽クン?」

「はぁ……なんでしょう?」

 丹羽は明らかに不快感を露にしている。まあ、それも当然か。
 『よかったら放課後お話しませんか』なんて、学校一の美女(芳邦談・俺が保証)からお誘いを受けたのだ。それで指定された店に行ってみれば、何故か別の男が同席している。男としてはテンションだだ下がり、といったところだ。

「昨日の放課後、部活が終わった後売店で何か買っていたでしょ? 何を買っていたの?」

 っ……。思わず息を呑む。ほとんど直球じゃないか。

「……それが何か? つーか、何で立松先輩がそんなこと知ってるんスか」

「偶然見かけたのよ。それで、どうしたの? もしかして第二ボタンでも盗まれた?」

 直後、丹羽の肩がぴくりと跳ねたのを、俺もイズミも見逃さなかった。

「……何なんスか、さっきから」

「あ、ほんとにそうなんだ。モテるのね、丹羽クン」

 イズミが微笑みかけると、一瞬丹羽が破顔した。

「えっと……ま、まぁモテないって言っちゃ嘘になりますけど」

 クールを装っていた丹羽の顔に赤みが灯る。……オチた、か。
 目的あっての演技とはいえ、好きな女の子が男を篭絡するところを間近で見てしまうというのは、なかなかにショックが大きい。しかし、耐えるしかない。イズミが俺に二つ目に言ったのは、『私が何を言っても動揺を見せないこと』だったから。

「そうよね! 練習にもファンの女の子が大勢来てるし……」

「……あんなの、邪魔なだけッスよ。あれがいるから、オレが軽い男に見られる」

 眉間にシワを寄せ、小さく鼻息を鳴らしつつ言う。ひねくれた謙遜に聞こえるが、本音を言っているようにもみえる。
 丹羽が謙遜し、イズミが褒める。そのやり取りを何度か繰り返した後、イズミが切り出す。

「それで、売店でボタンを買ったのよね? 今、ボタンは五つ揃っているし」

 上機嫌だった丹羽の顔が、再び(かげ)る。

「……またそれ。オレの学ランのボタンが五個揃っていて、何の問題があるっていうんスか」

「問題あるわ。――だって、あなたのボタンを盗ったのは私だから」

 イズミがブレザーのポケットから何かを取り出す。煤けた金色の円形――男子制服(学ラン)のボタンだ。“大人(ライヤー)”に襲われた場所から回収した物か、鎌掛け(ブラフ)かのどちらかだろう。
 ――――イズミが、仕掛けた。


 店内が静まり返る。イズミが不敵に笑い、丹羽の顔から表情が抜け落ちた。
 無表情のまま、ただイズミだけを見つめている丹羽。それが何を意味しているのか、俺には判断が付かない。


「ちょっとトイレ行ってくるわね」

「あ、ああ。行ってらっしゃい」

 イズミが席を立つ。これも予定通りだ。イズミが揺さぶりをかけた後で、今度は俺が探りを入れる……とかなんとか言っていたけど、はっきり言って大して効果があるとは思えない。まず第一に、気まず過ぎてどうしようもない。

「……えっと、あんた……名執先輩でしたっけ?」

「お、おう」

 イズミがテーブルを離れて一分も経たないうちに、丹羽の方から俺に話しかけてきた。これは想定外だ。

「悪いんスけど、オレ……」

 言いづらそうにしながら、一度息を吐いて続ける。俺にはそれが、生唾を飲み込んでいるようにも見えたのだが。

「惚れました。立松先輩(あのひと)に」

「……そうか」

 なんというか、それは仕方ないと思う。うん。
 それより、分析だ。丹羽は、イズミが居なくなった途端、俺にイズミの話を振ってきた。これをどうとみるか。
 俺を“大人(ライヤー)”と何の関係も無い一般人だと認識し、当たり障りの無い会話をしようとしている?
 逆に、俺が“関係者”であることを知っていて探りを入れてきている?
 いや、俺が“関係者”であるかどうかを確かめようとしている?
 もしくは、こいつは本当にただの一般人で――――

「……先輩、ずいぶん反応薄いッスね。オレがあんたの彼女に惚れたっつってんのに」

 心底不思議そうな顔をこちらに向けてくる丹羽。――いや、心底など読めるなら苦労はしてないが。

「というか、俺はイズミの彼氏でも何でもないからな」

 ……と言えと、イズミから命令されている。悔しいったらないが。

「え。マジスか。名前で呼び合って、席も隣に座ったりしてるのに?」

「……しつこいな。違うっての」

 あんまり言わされると自分の惨めさに泣けてくるからやめてくれ。

「付き合ってないってことは……キスもセックスもしてないってことスか?」

「……ッ! ゲホッ、ガホッ!」

 口に含んだお冷が気道に入り込み、同時に鼻に焼けるような痛みを覚える。

「ほー、なるほどなるほど。じゃ、安心していいってことッスね」

「ゲホッ。あ、安心って、何がだ」

 こいつ、揺さぶるためにわざと直接的な言葉を使ってきやがったな。……そしてそんな手にまんまと乗ってしまう自分の純情さが哀しい。

「――泉さんは、オレが頂きますんで」

「…………は?」

 何を言ってるんだ、こいつは。

「ま、脈アリどころか向こうから誘ってきてるくらいッスからね。なんてったって、オレの学ランのボタン盗むくらいッスよ? どう考えたって彼女、オレに惚れてます」

 目を細め、舌舐めずり。整った顔が歪にゆがむ。卑下た表情だ。不快極まりない。

「あ、先輩もしかして自分の方こそ脈アリだとか思ってました? オレと泉さんが喋ってる間もずっと余裕ぶって黙りこくってましたもんね。はは、バカバカしい。誰がどう見てもあの人はオレに――」

「なあ、丹羽とやら」

 口が止まると共に、丹羽のにやついた顔が失われる。まったく。黙ってりゃモテるだろうに、特定の(ひと)がいないのにはこういうわけがあったのか。
 こいつ――――腹立たしい。耐えがたいほどに。

「お前がイズミに惚れてるのはわかった。それは仕方ないとも思う。あんな魅力的な女の子、そうそういやしないからな」

 丹羽が、つまらないものを見る目そのもので俺を軽く睨む。

「――だがな」

 悪い、イズミ。せっかくの計画が台無しになりそうだ。
 だけど、こいつが調子に乗ってるのが、どうしても気に食わなくてさ。

 だから言ってやる。

「イズミは渡さない。お前なんかには、絶対に」

 とす、と何かの物音。音のした方を見ると、

「…………イズミ」

 床に落ちた紺のカバン。緩く開かれた右の手。唖然を具現したような表情を浮かべたイズミが、そこに立っていた。
 間違いなく、俺の言葉を聞いていた。そしてどうやら、それを冗談や何かとして受け流すことができずにいる。
 俺自身何故か取り乱していてイズミの心情を読むことなどできそうにないが、何か取り返しの付かない事態になってしまっているという感覚が、俺の頭蓋をガンガンと揺さぶり続けている。

「イズミ、今のは――」

「さてと。そんじゃ俺はそろそろお(いとま)させていただくとしますか」

 俺の言を遮るように、荷物を担ぎ立ち上がる丹羽。未だ立ち尽くしているイズミを一瞥し、イズミに届かないような音量で舌打ちを一つした後、こちらへ振り返り、憎々しげな顔をして言う。

「先輩。先手は取られましたけど、オレもこのまま負ける気はさらさら無いッスから」

 捨て台詞を一つ。今度は、確実にイズミに聞こえる声量で。
 ゼロ円の会計を済ませ、店を後にする丹羽。俺もイズミも、言葉を発せずにいる。

 代わりに、店の入り口付近の席から話し声が聞こえてくる。

「……これってなかなかの大ニュースじゃない?」

「そうだな。まさかあれ程の直球を名執が放つとは」

「うんうん! ねーこちゃん、クリームソーダごちそうさま!」

「え、あ、はい……百四十円、確かに……」

 当然、聞かれていたようだ。というかあの三人、丹羽を尾行(つけ)てたな? くそ、面倒なことになった。

 「まったく」と、やや誇張気味に肩をすぼめておどけてみせるも、依然イズミは何も喋らない。

 そうして長い沈黙が店内を満たしてからしばらく、

「――――帰ろ、由利也クン」

 ようやく開かれた口から発せられた一言が、それだった。

 俺の前を行くイズミの後を追い、店内を出入口に向かって歩く。途中、息を顰めてこちらの様子を窺う四人の女子とすれ違ったが、彼女らに何も言うことは無かった。

 ふと振り返って見た店の一番奥のテーブルには、三人分のコップが置かれている。
 そのうち二つになみなみと注がれた冷水。
 その湖面が、微かに揺れて見えた。
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