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第1章「出会い」
――赤、赤に染まる視界。
 傾きかけの日差しが目を侵し、本日三度目の睡眠の終幕を告げる。
 誰もいない教室。柑橘類の果汁のような陽の光。時刻は午後四時前。今日も無事、学校での一日が終わったというわけだ。

「……っ、くぅ」

 背伸びをすると、背骨がパキパキと音を立てた。首を回すと首が、指を捻ると指が。そこら中の関節が悲鳴を上げる。
 まいったな。ちっとは運動でもしないと、このまま体だけ老い死んでいってしまう。


 黒板には、雑多に書きなぐられた丸文字の英単語。日直が消すんじゃないのか、こういうのって。
 仕方ないので、意味を忘れた「Alternative」諸共、黒板消しで息の根を止めてやる。ふう、すっきり。


 とある事情でいつもより少しだけ重い学生カバンを担ぎ、教室を出ようとする。
 すると、思わぬ引き留めを食らってしまう。

「花びら……」

 教室を横に断つ風に乗って、一枚の桜の花びらが俺の顔を(かす)めた。
 振り返り、満開の桜の木を見つめる。

 ――――きっと。もう、君に会うことはないだろう。

 心の中で告げ、教室を後にする。



 東棟一階廊下。体育館と、中庭を横切る渡り廊下とを結ぶ、この学校で最も主要な通路であるこの廊下でさえ、この時間ともなれば人影は(まば)ら。
 窓からは昼よりも少し弱くなった日差しが入り込み、床を照らし縞模様を形作っている。

 静かだが、遠く、運動系の部活動の威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
 なんてことはない、いつもの放課後だ。


 ――――だけど。

 今日はそれが、異様な世界(くうき)を孕んでいる気がして――――



 体の側面に強い衝撃を受け、俺の体が吹っ飛ぶ。その距離、およそ三メートル。

「――――がっ……!?」

 後頭部、背部、臀部。それぞれが同時に廊下の壁に叩きつけられ、脳が鈍い痛みを享受する。
 何だ、何が起こった? 眉間をチリチリとした痛みが駆け抜ける中、辺りを見回す。


 三メートル先。俺がさっきまで立っていたその位置に、白いユニフォームを着た背の高い茶髪の男子生徒が肩を押さえて立ち、オロオロと申し訳なさそうな顔を俺に向けている。


     ――状況整理。

 あの格好には見覚えがある。間違いない。バスケ部だ。
 今はもう四時。バスケ部含め、運動部はとっくに活動を開始しているはず。なら、あいつは遅刻ということになる。
 遅刻をしたから、急いだ。
 急いだから、走った。脇目も振らず。
 脇目も振らず走ったから、廊下を歩いていた俺におもいっきり衝突してしまった。

 ……こんなところだろう。ただの事故だ。
 しいて言うなら向こうが悪いけど、気にするほどのことじゃない。

 茶髪の男が、「あ……」とか「えっと……」とか呟きながらこちらに歩み寄ってくる。
 さっきから、俺が壁に寄りかかったまま一向に起き上がろうとしないからだろう。
 そして、無口なその男は俺の近くまで来て屈み、何も言わずに右手を差し出した。
 本当は面倒だからそういうのはいらないのだが、せっかくの好意だし受け取って――――

「……おい。何だよ、それ」

 屈んだその生徒の、伸びたユニフォームの首元から、ふと――――有り得ない物が見えてしまった。

 彼の左の脇腹辺り。直径十センチメートルほどの、痣。
 くすんだ――――いや。腐りきったような淀んだ緑色をしたその痣は、ぐすぐすと蠢動(しゅんどう)しているようにも見える。

「――――ああ、これ……ですか」

 男がユニフォームの(すそ)を捲ってみせる。
 (あらわ)になる緑の痣。火傷の痕とも、膿んだ傷口とも一線を画した異様な“痣”。
 あんなもの、俺は今までに見たことがない。あれは……何だ?


「見たな」

「……え?」

 脚に体重を感じる。後頭部に再びの打撃を受ける。
 表情を()くした男が、俺に馬乗りになっている。

「お、おい。何のつもり――――」

 言葉は、無価値として空に消えた。受け取り手がいないのだということを、俺は肌で感じ取る。
 男から漂う異臭。おそらくは、あの痣のようなものから漂っている。

 だが、それはただの異臭ではなく。俺の嗅覚に圧倒的な死の予感を突きつけた。

     ――――シの臭い。
 死臭とは異なる。死臭とは、既に()わった死の名残。死の後に漂うもの。
 ならば、あとは言うまでもない。シの臭いとは――――これから起こる、シの予期に他ならない。

「――――ッ!!!!」

 顔面の筋肉が引き()る。死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――――
 予感が嗅覚を貫いて脳を突き刺す。
 これまでとは違う。このシの臭いは俺が――――!

 頭蓋を圧し破るほどの頭痛が脳を揺さぶる。
 吐き気。眩暈。視界(せかい)が歪む。

 俺を飲み込むほどの「シ」が、セカイから現実味を奪い去る。
 視界(セカイ)色彩(イロ)を欠いている。(ニク)触覚(ハダ)を亡くしている。
 (からだ)が、俺のものではなくなるような感覚。

 男がその太い右腕を振りかぶる。俺如き軟弱を仕留めるのには、十分過ぎる凶器。
 振り下ろされれば、俺の首など軽く――――



     ――――ここで、ようやくオレの防衛機能が作動する。

 視界(セカイ)がスローモーションになる。男の拳がゆっくりと後退していく。
 突進(チャージ)に備えての充電(チャージ)。 
 だがオレから見れば、そんなものはただの隙だ。

 俺の右手が、何か冷たい物に触れる。知っている。これは、俺の胸ポケットから落ちた物。
 (スチール)製のシャープペンシル。
 ……まったく、十分過ぎる。
 これだけ尖っているのならば――――

 男の腕の動きが止まる。あとコンマ数秒もすれば、俺の頭部に向け拳が放たれるだろう。
 そんな時間は、無い。

 オレはシャープペンシルを握り締め、男の左脇腹緑色の気味悪い腐った拘泥じみた痣に、
     ――――全力で突き刺すのみ。



「……え?」

 動きを止めた男の緑色。そこに深く沈み込むシャープペンシル。
 今、他でもない俺が刺した。


 ミドリから、赤が噴き出す。勢い良く。トメドナク。ひたすらに。あふれる。吐き出される。

 男の■は留まることを知らず、俺の視界に映る全てを赤く染め上げていく。
 いや、違う。俺の視界()そのものを赤く……?

 顔にかかる生暖かいミズ。見えず。ただ俺の顔を赤く染めている感触だけが。
 何も聞こえない。静かに吹き上がる赤い■の音だけが響く。
 嘘だ。そんな音は出ない。
 体中が赤色に犯されていく。感触だけがそう告げる。だって、俺の視界は赤いから。

 男は動かない。ただ赤くなめらかな■を噴き上げるだけの石彫刻のオブジェと化す。

 惨状。赤い世界から目が逸らせない。視界(セカイ)が赤いのだから当然。


 誰かが、誰かの名前を呼んでいる――――いや、叫んでいる。
 俺じゃないと思う。この学校に、俺の名前を呼んでくれる人なんていないから。
 さっきの悲鳴は君か? ごめん、驚かせて。
 黒と赤のコントラスト。
 綺麗だ。赤だけじゃ単調だもんな。

「はぁ……、はぁ……」

 誰かの息遣いが聞こえる。恐怖に震える息遣い。
 恐れているのは俺のことかな。
 大丈夫。俺はもう、しばらくこのままだから。

 ドサリと。微かに聞こえた音。男が、横向きに倒れた音。

「誰か……誰か……!」

 誰かさんよ、来てやってくれ。
 俺ももう、こうして横たわったまま眠りに就いてしまうから。

「ぁ………――――!」

 絶えぬ頭痛。意識が遠退く。
 俺は目覚めた時、俺でいられているだろうか。



 ああ――――なんで、俺が刺さなきゃならなかったんだ?



 遠退く。
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