第3話 直交座標系恋愛方程式
「そや、こないだ取引先の受付の娘から辻のアドレス聞かれたぞ」
「ええ?もしかして教えちゃったの?神楽君!?」
「そらもちろん、教えた」
箸を咥えたまま、神楽輝延は座敷の柱に寄りかかりわざと品なく笑う。
行きつけの居酒屋で、俺達はいつもの座敷席に座り飲んでいた。
「勝手に僕の個人情報を~!」
「ええやんか。辻だってまんざらでもないやろ」
「まあ、そりゃそうだけど…」
さっきから対面で神楽にからかわれているのが、辻健市。
関西人丸出しの神楽と、お坊ちゃん気質の辻の掛け合いは見ているだけで愉しい。
冷えたグラスのビールを喉の奥に流し込み、斜に咥えた煙草に火をつける。
それぞれ社外に出向している為に最近はこうして顔を合わせる機会も少なくなったけれど、同期で入社した時から俺達三人は何となく波長が合った。
「辻みたいな草食系が、もて囃される時代なんだな」
「マキ君まで~」
頬を膨らませる小柄な辻の姿は、そっちの気は無くても可愛らしく見える。
「褒めてんだよ。受付嬢に見初められるなんて光栄じゃないか?」
「ぼ、僕は派手な人は好きじゃないのだ~」
照れる辻のさらさらの髪の毛を、神楽がくしゃくしゃに掻き毟る。
「何言うてんねん!これから合コンの段取り決めるんやからな!」
「やっぱりそれが目的じゃないか~!」
俗っぽいやり取りも、不思議と気にならない。軽薄感を洒落として愉しむことのできる二人だからかもしれない。
実際の仕事上では、社内の評価も高くプロジェクトのサブリーダーに抜擢されている辻や神楽と、俺の差はますます拡がっていくばかりだった。
*
飲み始めて数時間が過ぎて酔いがまわり始めた頃、神楽が突然口を開く。
「お前等さ、江間口女史ってどない思う?」
「…え?どう思うって」
「……ねえ、なのだ」
唐突な質問に、俺と辻は互いに顔を見合わせ首を傾げる。
江間口女史というのは、俺達より5歳ほど年上の会社の先輩だ。
その気の強さと仕事のキャリアで、社内でも一目置かれている幹部候補でもある。颯爽とした容姿と相俟って、冷酷な鉄面皮とも陰では噂されていた。
何本目かの煙草を箱を叩いて取り出しながら、尋ねる。
「そういえば神楽の直属の上司だよな、江間口女史って」
「そや…な」
グラスの露で塗れたコースターを手で弄ぶ神楽。珍しく歯切れが悪い。
あまり酒に強くない辻が、顔を真っ赤にしてあやふやな呂律で言う。
「あれ~?神楽君、ま、まさか~!なのだ」
「……」
騒がしい居酒屋の中で、俺達の座敷だけが奇妙な沈黙に包まれる。神楽は大きくひとつ息をついた後、意を決したように言う。
「俺な…江間口女史に告白しようと思てんねん」
*
煙草の灰をステンレスの灰皿に落とし、レモン色の灯りを背景にぼんやりと揺らぐ煙を見つめて俺は言った。
「ま、江間口女史と神楽はずっと同じ職場だったしな。不思議じゃないさ」
「そ、そうかマキ!?お、俺、へ…変やないか?」
「ちっともおかしくないのだ~。ちょっと怖いけど、江間口女史は綺麗な人なのだ~」
珍しく辻が大声を出してはしゃぐ。
「……」
嬉しいような恥ずかしいような、奇妙な照れ笑いを浮かべる神楽のグラスにビールを注ぐ。
「ツワモノだけど、神楽らしいよ。けっこう似合うかもしれないな」
「お…おお。そない思うか?」
「勝算あるのだ~?」
「そんなもんは…分かるわけないやろ」
そう言うと、神楽はグラスのビールを一気に飲み干す。
*
そうだ。やる前から計算したって仕方ない。恋愛なんて、タイミングと勢い。
実直型の性格から言って、きっと神楽は明日にでも江間口女史に話をするだろう。
そして何の根拠もないけれど、神楽と江間口女史はうまくいくような気がした。
同年代の人間は皆仕事や恋愛を謳歌してるというのに、家に篭ってひたすら小説なんか書いてるのは俺だけかもしれない。
人間の位置が座標で示せるとしたら、結びついた相手の座標との距離が式として表せる。ならばその式を導く過程が、恋愛とも言える。
けれど今、俺の軸線上には誰の姿も見えない。
果てない妄想と文字達だけがその座標を取り囲み、俺を埋もれさせていく。
その先に、いったいどんな式が導かれるというのだろう?
「なんか…いいな。お前達」
「ん~何か言ったのだ?マキ君??」
「いや、何でも。それより次、何飲む?」
不思議そうな顔をする辻にドリンクのメニューを渡して、俺はまた煙草に火をつけた。
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