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第2話 突然、炎のごとく

 通勤中に『箱男』を読んでいると、電車の中で突然カバンを頭からかぶりたくなる衝動にかられる。
 それだけで、世界の全てが変わる気がした。

 昔この小説をモチーフに『箱女』という小説を書いたことがある。内容はより現代的に、高校生の彼女が突然ダンボールの箱をかぶって現れるという短編作品だった。
 その小説は、未だに俺のパソコンの片隅に埋もれている。おそらく日の目を見ることはないだろう。

 小説の投稿サイトに公開したものや公募小説に応募したのは、ほんの十数作品。他の殆どの小説はデスクトップのデータフォルダの中に埋もれている。
 中には書いたことすら全く記憶に無い作品もある。
 幾千の文字の中で踊り、無限の妄想の中で俺は自分を失っていく。実際に箱をかぶっていないだけで、隔絶した閉塞感は何処に居ても同じなのかもしれない。

 ふと外を振り返ると、地下鉄の窓に映る通路灯が瞬間的に闇の中に流されていった。

  *

 常に小説の妄想に囚われ続ける俺が、会社に行ってもまともに仕事をこなせる筈が無い。
 出社してデスクに着くより前に、早速上司に呼び止められる。嫌味と溜息混じりの上司の小言は、始業開始のチャイムまで続いた。

 しぶしぶ席に戻る俺を見て、隣の席の東川咲奈が椅子を近づけてくる。
「昨日の報告書ですか?」
「…文章量が多すぎたらしい」
 やり直しを命じられた報告書の束を、団扇のように扇ぐ。
「マキさんの報告書って、小説みたいですよね」
「文章書き始めると、止まらなくなるんだよ」
「報告書でも?」
「やっぱりマズかったな」
 ネクタイを緩めながら苦笑いする俺は、さぞかし卑屈に映るだろう。

「…わざとですよね?」
 上司から見えないように東川咲奈は隠れて小さな笑顔を見せる。栗鼠のように大きな瞳が、眼鏡の奥から覗きこむ。
「知ってたのか?」
「マキさんって、分かっててやるんですから」
「……」
「コーヒー、入れてきますね」
 口の端を上げてそう言うと、東川咲奈は席を立つ。俺のデスクの上に、いつの間にか琥珀色をした飴がひとつ置いてあった。

 実は上司の望むような要旨を簡潔明瞭にまとめた報告書も、もう既にデスクトップの片隅に作ってある。小説と同じく報告書でも様々なバリエーションを作ってみただけだ。
「まいったな…」
 小さく呟き、その飴を口の中に放り込んだ。

 ちなみに俺は知り合いから『マキ』と呼ばれている。でもこの職場で俺をそう呼ぶのは、2年後輩の東川咲奈しか居ない。
 社内引きこもりを実践している俺に、何故彼女だけが話しかけてくるのか?
 この時の俺には、知る由もなかった。

  *

 昼休みに携帯電話を開いていると、突然背後から東川咲奈が話しかけてきた。
「あれ?マキさんもメールなんてやるんですか?」
 画面を見つめたまま、冷ややかな声で返す。
「俺だって友達くらい居る…稀少だけど」
「冗談ですよ~」
 くすりと笑って、彼女は後ろから携帯電話のディスプレイを覗き込む。シンプルな七分袖のブラウスから細い腕が伸びてきて、俺の携帯電話のフレームをそっと押さえる。

「誰からです?んん、神楽さんですね!」
「お、思い切りプライバシー侵害されてるんだが」
 微かに柑橘系の香水の匂いがして、思わず振り返るのを躊躇してしまう。そんな俺の一瞬の戸惑いなど全く意に返さず、東川咲奈は相変わらず無邪気に話しかけてくる。
「あはは~。で、神楽さん何の用ですか?」

 俺は携帯電話をポケットに入れると、極力動揺を隠すように立ち上がった。
「ああ。今日の夜、神楽と辻と飲みに行くんだよ。その店の連絡」
「仲良いんですね、マキさん達の同期って」
「そうでもない。三人だけだよ」
 皮肉混じりにそう言うと、俺は喫煙室に向かう。

 普段ならそれで会話も終わっていた筈なのに、何故か東川咲奈は俺の後を付いてくる。
「な、なんだ東川?煙草吸うようになったのか?」
「まさか~。ジュース買いに行くだけですよ」
 何となくさっきの動揺を見透かされた気がして、微妙な居心地の悪さを感じつつ喫煙室に入る。
 昼休みも早い時間だったので、喫煙室にはまだ誰も居なかった。きょろきょろと辺りを見渡しながら、東川咲奈は喫煙室の自販機に向かう。

 部署の中で東川咲奈とだけは話が出来るのも、彼女が新入社員だった時に俺が研修担当だったからだ。もしそうでなければ、まともに話す機会すら無かっただろう。

 排煙機のスイッチを入れ煙草に火をつけると、立上る煙が微かにモーターの呻る排煙機に一瞬で吸い込まれていく。
 吸気口を怪訝そうな表情で見つめる俺に、レモンティーのカップを持ったまま東川咲奈が話しかけてくる。
「何神妙な顔してるんですか?」
「…煙草の煙」
「煙?」
「俺、空中に拡散していく青白い煙を見るのが好きなんだけどな…どうも排煙機ってのは味気ない」
「へえ~。男の人って、そういうものなんですね」
 意外そうな表情を浮かべて、東川咲奈はセミロングの髪の毛先をくるくると手で弄ぶ。…それがいつもの彼女の癖。

 少しの沈黙の後、先に口を開いたのは東川咲奈だった。
「マキさん、えーと…。今度、一緒に映画観に行きませんか?」
 唐突な彼女の言葉に、俺はただ排煙機に吸い込まれる煙を見つめる…フリをするしかなかった。

 手にした煙草が、その灰の形を残したまま長く燃え尽きているのにも気付かずに。


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