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クリーンルームを閉鎖するにあたって

作者: 橘 永佳

 呪いあれ……。

 深い闇の中、透き通った光で出来た手術器具が何十何百と浮かぶその室内で、僕の頭の中に響いてきた声は、かすかに、でも確かにそう呟いた。

 まるで、祈るように。


 下校時間、すっかり散って葉桜の体を成した校門横の桜の木の下で、葵姉さんと美咲さんが僕を待ってくれていた。

「智くん、こっちこっち」

 美咲さんが僕を見つけて大きく手を振る。葵姉さんも軽く手を挙げていた。とたんに周囲の注目が集まる気がして、僕は慌てて小走りになる。

「お待たせ、葵姉さん、美咲さん」

「何慌ててるの?」

 美咲さんが僕の様子をみてくすくすと笑う。「そうもいきませんよ」と少し周りをうかがいながら僕が応えると、「どうして?」と二人して小首を傾げる。僕は思わず小さくため息を吐いた。

 “クールビューティー”と呼ばれる葵姉さんと、“西校の華”の美咲さんがそろっていれば目立って当然だというのに、この二人にはその自覚が少し希薄なのだ。すでに『三年のお姉さま方独り占めかよテメェ』とクラスでやっかみ混じりに冷やかされている僕としては、もうちょっと自覚してほしいところ……だが、この二人はその辺りにそろって無頓着ときていた。とにかく、「じゃ、いきましょう」と促して、僕たちは校門をくぐった。

「高校生活はどう? 智くん。そろそろ馴染めた?」

「ええ、何とか」

 美咲さんの弾むような声に、僕も明るい声を意識して応える。それを見て葵姉さんが「ん」と頷いた。

 退院が入学式に間に合わなかったから、僕がクラスに参加したのは皆より半月遅れだった。そのことを気遣ってくれているのだ。

 高校も中学と同じで最低週一回の通学で出席日数は足りるから、毎日行く必要は無い。実際、デバイスさえあれば何処でも授業は受けられるし、単位さえ取れれば問題なくちゃんと卒業出来る。爺さんぐらいの世代ではそうもいかなかったらしいんだけれど。

 しかし、人間関係的にはそうもいかない。スタートラインでは特にそうだ。幸い、まだ新しいクラスでは変にグループが固まっていなくて、一足遅れで参戦した僕も何とか仲間に加わることが出来たようだった。

 これまでは病院通いとかで欠席がちだった僕には、ちょっと新鮮な体験だ。ホッとして、正直嬉しかったりする。

 そのとき、ポケットの中から着信音が鳴った。引っ張りだしてみると、コールではなくメールだ。文章をチェックして、僕は思わず苦笑いして、少し考え込む。

「何?」

 その様子を見て葵姉さんが訊いてきた。

「うん、御鹿崎から。相談してたんだけど、まず自分でもっと調べてから言ってこいって」

「相談? あのこと?」

 少し眉を寄せる葵姉さん。わずかに散った濃い青色の光が見えて、ばつが悪くなった僕はまた苦笑した。その様子を見て、美咲さんが「何の話?」と訊いてくる。

「……そうね、美咲にも聞いてもらおうかな」

 少し思案してから葵姉さんが美咲さんへと顔を向けた。美咲さんは僕が“見える”ことを理解しているから、だろうけれど、僕はちょっと戸惑った。

 たぶん、姉さんは美咲さんからも僕へクギを刺してほしんだろうな。止めさせるために。

「ん? 真面目な話? 葵」

「ちょっとだけ、ね」

 のぞき込んでくる美咲さんの目に、葵姉さんは軽く肩をすくめて返す。「ふーん」と不思議そうに首を傾げてから、美咲さんは軽く頷いた。

「よし、じゃあ立ち話も何だから、そこでお茶でもしながらにしよう。私の新MDデビューでおごっちゃうよ♪」

 そう言いながら、美咲さんは鞄から真新しい携帯デバイスを取り出して自慢げに笑った。笑顔に黄色の光がきらきらと散りばめられている。僕はその顔に見とれてしまったが、、葵姉さんはマジのあきれ顔になった。

「あんたねぇ、それ高校入ってから三回目でしょう。ご両親に迷惑かけるんだから気をつけなさいよ」

「あはは、まーね。昨日もたっぷり絞られたとこよ」

 葵姉さんのツッコミに、美咲さんはばつが悪そうに照れ笑いをした。

 折り畳めば手帳サイズ、広げれば教科書サイズになる携帯デバイスは、一昔前はスマートフォンと呼ばれた代物だったらしい。そのころから電話やメールに留まらずに様々な用途に使われていたそうだが、今や個人の証明ツールとして個人証明用のアクセス権限を持つマスターとなるデバイス、通称MDを誰しも必ず一つは持っている。

 MDを無くした場合は、新しく用意したデバイスをMDとして登録し直すのだけれど、ハンパなく面倒な手続きをとるか、事前に登録しておいた本人を証明する人、肉親がいればたいていそこに落ち着くんだけれど、その人に同行してもらわなければならない。

 しかし、そう何度もMDの再登録するとなると、その度に引っ張り出される側としてはたまったものではない。美咲さんのご両親は共働きで二人とも結構多忙らしいからなおさらだ。そりゃ絞りたくもなるだろう。

 でも、美咲さんにはあまり効果がないだろうな、と僕は内心呟いた。デバイスマニアの美咲さんにしてみれば、新しくなってラッキーぐらいの認識のはずだ。僕たち“デバイスちょっとニガテ組”の姉弟と違って、携帯型から据え置き型まで複数使いこなしているぐらいだし。きらきらと光を散らす美咲さんのまさしく華のような笑顔が、それを物語っていた。

 ……笑顔ホントに可愛いなあ、美咲さん。

「おごってくれるそうだけど? 智」

 唐突に降ってきた葵姉さんの冷めた声で、姉さんが僕をじっと見ていることに気づいた。僕は焦って慌てて手を振りながら応える。

「へ? あ、いや、えっと、ちゃんと自分で払いますよ」

「いーのいーの、お姉さんに遠慮しないの。後輩は先輩を立てるものよ♪」

 さらっと僕の言葉を流して、美咲さんは交差点角のカフェへと歩きだした。そのやりとりを見て、葵姉さんが軽くため息を吐く。

「まだまだね、智」

 見透かした呟きに顔が赤くなる。


「で、話って?」

 手前に置かれたカフェオレに手をつける前に、美咲さんが話しを促した。

「“クリーンルーム”のこと」

 ブレンドを口に運びながら、葵姉さんが答える。美咲さんの顔がわずかに曇った。

「“クリーンルーム”?」

「そう。気にしてるみたいなの、智がね」

 “クリーンルーム”。それは、現代の医療が及ばない患者が行き着く治療。正しくは“難治性傷病対象特殊医療行為”のことで“ルーム”ではないのだけど、実際にはある国立病院の一室で行われるため、通称クリーンルームと呼ばれている。

「この間ようやく順番が回ってきて、……治ったんだよね?」

 美咲さんが噛みしめるように言い、僕は頷いた。

 小学校に入って間もなく、僕の脳に腫瘍が見つかった。髄芽腫と呼ばれるそれは、僕の小脳と視覚野の境の奥深くで膨らんで脳を圧迫していて、手術したものの全てを取り除くことは出来なかった。僕は、それからつい最近まで、薬と放射線による治療を繰り返して命をつないでいたのだ。

 それが、クリーンルームで全快した。

 クリーンルームは、あらゆる病気を治してしまうのだ。部屋の中に何があるのか、何をするのかは全て非公開。確かなことは、そこに入った人は、中から帰ってきたときには苦痛から解放されているということだけだった。

 しかし、病や障害に苦しむ人にはまさしく光明で、クリーンルームの治療を希望する申請書は世界中から絶えることなく、長蛇の順番待ち状態。僕は9年近く待った。

「じゃあ、もう『過去の苦しみは振り返らずにこれからの人生を歩む』んじゃないの?」

「それはもちろんそうですよ」

 美咲さんがそらんじた宣誓文の一節に、僕は即答する。

 その一節はクリーンルームに入る前に書かされる宣誓書の中の言葉だ。言葉通りの意味だけど、クリーンルームの正体を明かさないために疑問と詮索を封じる意図も含まれている、と思う。

 いや、そのはずだ。何しろ、実際に中に入っても普通は全く訳が分からないだろうから。

 クリーンルームに入る時、目隠しされてヘッドフォンをつけられて、車いすかストレッチャーで運ばれる。そして、運び出される。

 それだけ。

 たったそれだけなのだ。何もなく居るだけ。しばらく待って、運び出されたときには、もう治療は終わっている。後は経過観察と確認の検査が済めば退院である。これでは自分が何をされたのか分かりようもなく、疑問が湧くのは当然。だからこその宣誓書なのだろう。

 別に、宣誓文はいいんだ。けど。

「ですけど、えっと」

「ん?」

 言葉選びにまごつく僕を、美咲さんは小首を傾げて待っている。

 こういうとき、口下手な自分が恥ずかしくなる。相手が美咲さんだとなおさらで、余計に慌てて更に頭の中がこんがらがって、どんどん収集がつかなくなってしまうのだ。

「“見えた”らしいのよ、例の“落書き”が」

 これまた恥ずかしいんだけど僕の頭の中を把握している葵姉さんが、僕がテンパる前に手早くフォローを入れた。

「見えたの?」

「はい」

 僕の見ている世界が他の人には見えていないことを知ったのは、小学校に入る前のことだった。

 僕の目には、人の発する光が見えていた。

 時期で考えると、もしかしたら腫瘍が脳の視覚野を圧迫したのが原因かもしれない。とにかく、僕の目に写る人は、時折だけど、光の粒をまとうことがあった。

 それは線ではなく点で、文字通りキラキラと散りばめられている。散る光はその人の感情を表しているようで、嬉しかったり楽しかったりするときは黄色、怒っているときは赤色、悲しいときには青色、という具合だった。

 それが点描のように、細かい水玉模様が被さっているように見える。感情が弱ければ荒くまばらに散り、強くなるほどに隙間なく濃密になっていく。光の色は混じることがないみたいで、見えてしまったときはたいてい複数の色の光が散っていた。人間の感情って複雑なんだな、とつくづく思う。

 そして、感情がプラスなら光は透き通り、マイナスなら黒く濁る。

 黄色でも、まっすぐな喜びなんかは透き通っているけれど、暗い喜び、例えば誰かの不幸を喜ぶみたいなのだと、その分濁って黒ずんでいく。

 そんな感じで、僕の目には時折、極小にちぎった色紙で誰かが気まぐれに絵を描いたような光景が見える。それを葵姉さんは僕の名前と引っかけて“サトリの落書き”と呼んでいるのだ。

 そうはいっても、見えても多くは濁っていて、薄汚れているようなくすぶっているようなくたびれているような絵柄で、大体はこっちの気分も暗くなってしまう。引用された心を読む妖怪のサトリも、さぞかしうんざりしてたんだろうな、と同情してしまうぐらいに。

 それに、見えたときにとっさに受け流せなくて、表情に出てしまって気味悪がられることだってあるのだ。そりゃ成長してからは子供のころみたいにモロに口に出したりはしなくなったからイジメられることもないけれど、正直ろくなもんじゃない。

「あれ? 目隠しされたんじゃなかったっけ?」

「そうなんですけど、でも見えたんですよね」

 そこは自分でも意外だった。でも確かに見えた。今まで考えたこともなかったけど、実際に光っているのではなくて、感じたことを僕の脳がそう認識するということかな、と僕は考えていた。どこで感じているのかは謎だけど。

「ふうん……。で、何が見えたの?」

 そこにはこだわらずに、美咲さんは先を促す。話の、僕の中での優先順位をちゃんと分かってくれていた。

 あのクリーンルームで見えたのはー。

「ものすごく濃密な黒い光。たぶん、元は青だと思う。それと、透明な黄色の光。黄色は固まってメスとかの道具になってた」

「メス? 形があったの?」

「うん。それもたくさん」

 驚く美咲さんに、僕はうなずいた。

 本当に極まれなことだけど、光の粒が集まって形作ることがあるのだ。強い感情が何かのイメージとガッチリ結びついていると、そうして光が像を結ぶことがあるみたい……なんだけど、これまた輪をかけてろくなものにならない。小さい子供の亡骸を形どったドス黒い青い光が見えたときなんか、半月はうなされたほどだ。

 マイナスほど、人の感情は強烈になりがちらしい。

 だからこそ。

「でも、それって透明だったんだよね? 純粋な気持ちの塊って珍しくない? それなのに周りは真っ黒だったの?」

 そう、美咲さんの言う通りだった。実際、プラスの光であんなにしっかりした形のものを見たのは初めてだ。しかもあれほどの量。あったことはないけど、悟った人とか聖人とかが目的を持ってイメージすればあり得るかもしれない。それなのに、その周囲は隙間がないほどに塗りつぶされた黒。元は青色と感じたから、憎悪とかじゃなくて、あれはたぶん、絶望とか孤独とか、そういう類のもの。

 清流のような心と確固たる意志、底なしの絶望と孤独。

 これほど両極端の光景は初めてだった。記憶に焼き付いて頭から離れない。

 それと。

「それと、声も聞こえたんです。今回は。小さかったけど、『呪われよ』って」

「え?」

 美咲さんから曇った青に光が少しこぼれ出す。薄気味の悪い話だから無理もない。申し訳なさで僕の肩が落ちた。

「『呪われよ』って、ちょっと怖いわね」

 美咲さんは素直にそう口にした。

 こんな僕を相手にして美咲さんは変に気を遣わない。思ったことを素直に言って、それでお終い。後には全く残さない。だからこそ、僕も構えずに接することができる数少ない人の一人だった。今回みたいにイヤな思いをさせてしまう時は気が引けるんだけど。

「でも不思議な話よね……。声が聞こえたのだって初めてなんでしょう? 初めての目白押しね。で、それが気になって調べてるっていう話なわけだ?」

「はい」

 本当はまだ話していないことがあるんだけれど、そこで話を一度まとめた美咲さんに僕はうなずいた。

 痛くも苦しくもなかったとはいえ、そのメスとかの手術器具が僕の頭の中に滑り込んで、腫瘍を切り裂いて取り除いて縫い合わされたなどと言ったら、余計な不安を煽るだけだ。気苦労で青ざめるだけだと思うから、葵姉さんにだって言っていない。

「そういうこと。詮索しても多分良い結果にならないって私は言ってるんだけれど」

 黙って見ていた葵姉さんが、やや呆れた口調で話に加わる。葵姉さんは、僕がクリーンルームを気にしていることを快く思っていなかった。あまりこだわらずに、これからの生活にもっと目を向けてほしいと思っているらしい。母親代わりの姉さんには今まで心配のかけ通しで、僕のことについてはめっきり心配性になってしまったんだけど、ちょっと、その、過保護な気もしないでもないよな、と思ってたりする。

「そうよね、クリーンルームについてはいい話は聞かないし……って、そもそもまず話題にならないわよね? そう言えば」

「そう、そこなんですよ」

 言いながら途中で気付いたことに、美咲さんは少し驚いたようだった。

 あのときの光景と体験もそうなんだけど、クリーンルームについての情報があまりに少ないことが、僕には気になっていた。保健労働省のサイトでも、クリーンルームは奥の奥にひっそりとあって、受診の申請方法以外に何も説明が無く、本当に必要最小限の情報しか公開されていない。まるで『こういう制度があります。以上です』と言わんばかりで、立場上隠すわけにはいかないけど大っぴらにもしたくない空気が感じられた。

 もっとも、今日日ネットで手に入らない情報なんてあり得ないから、検索すればすぐに分かるはず……だったんだけど。

「で? 調べてみたんでしょ?」

「……よく分からなかったんですよ」

 当然訊いてくる美咲さんに、僕は肩を落として答えた。

「ちゃんとした説明として載ってるサイトが無いんです。あるのは噂話みたいなのばっかりで。それも、クリーンルームに行くことになったりした人に同情したり励ましたりする書き込みとかしか見あたらないんです。クリーンルーム自体についての話が無い。肯定か否定かすら出てこないんですよ」

 この一ヶ月ほど調べ倒したのだ。家の据え置き型デバイスに夜中までかじりついて調べたというのに、めぼしい情報が欠片も引っかからなかった。国家機密からお隣のご飯の献立までネットにはあるというご時世で、こんなことはもはや異常と言っていい。

 まるで、世界中が目を背けているみたいだ。

「なるほど。それで御鹿崎くんに相談したんだ。で、訴えは差し戻されたわけね」

 そう言いながら、美咲さんはカップを手に取った。

「はあ、そういうことです……」

 ネット強者のあいつならば、必要ならば保健労働省のメインサーバをクラックしてでも情報を仕入れるだろう。極度の光線過敏症の御鹿崎は、家の中に居る時間が長いから慣れた、と病室で知り合ったときにあっさりと言っていたが、慣れの次元を超えてるよなぁ、と僕は思っていた。

 しかし、慣れの問題だと思っている御鹿崎は『やればできる』し『やるだけやってから他人を頼れ』と、かなり手厳しい。僕なんかはいわゆる“教えて君”扱いであっさり突っ返されることがほとんどだ。今回だって“やるだけやって”から相談しているつもりなんだけど。

「固執するべきじゃないのよ。ネットでもそれだけ避けられている話、多分気が晴れるようなものじゃないわ。大体、そんなことは隣近所の態度を見れば始めから分かっているでしょうに」

 ブレンドを飲んでいた葵姉さんが、そう言ってからカップをテーブルに戻した。

「それは分かってるんだけど……」

 そりゃあ、僕にだって分かっている。むしろ僕が一番感じているはずだ。周囲の『あそこに行かなきゃならなかったって、大変だったんだね』、『辛かったよね、もう大丈夫になって良かったね』的な気遣いを感じないわけがない。あれじゃあまるで腫れ物に触れるかのようだ。

 ……いや、腫れ物扱いだ、実際。

 ふと妙に冷静になって、現実が身にしみた。

 葵姉さんの言う通りだと思った。姉さんは間違ってはいない。この先に隠れているもの、隠されているものは、わざわざ突っつき出すようなものじゃないんだろう。僕の身の回りの現実感が、躍起になっていた僕の熱を引いていく。

 でも、それでも疑問は消えなかった。あの両極端な光景は何だったんだろう。どうして声まで聞こえたんだろう。あの言葉は何だったんだろう。

 どうして、僕には見えるんだろう。

「んー、それでも、どうしても気になるんだね? 智くん」

 黙り込む僕へ、カップを両手に包んだ美咲さんが声をかける。僕は黙ったままその目を見返した。

「ん、分かった。お姉さんが少し調べてあげる」

「ちょっと、美咲?」

 葵姉さんが珍しく慌てた。一緒に僕をたしなめてもらうことをあてにしていたのが外れて、少し腰が浮く。そんな姉さんを美咲さんは手で制した。

「まあまあ、葵。この手のものは納得できないうちは割り切れないもんでしょ? それに、ネットに何もないってことはまず無い。智くんは遠からずたどり着つくわ。分かってるでしょう?」

「……もう少し先でもいいでしょうに」

「このまま引きずるよりもいいかもしれないわ」

 葵姉さんは口をつぐんだ。一理ある、と思ったらしい。

 ……二人は何か分かっている?

 美咲さんは僕に目を向けて続けた。

「ただし、私も葵と同じで、智くんにもっとこれからの生活へ目を向けてほしいと思ってる。だから、何か分かっても君には全部は伝えないかもしれない。そういう約束でいいわね?」

 僕は無言でうなずいた。

 

 翌日の放課後、僕と葵姉さんは招かれて美咲さんの家にお邪魔した。リビングの家族共用据え置きデバイスに電源を入れてから、美咲さんは僕たちへと振り返った。

「結論から言うとね、リビングルームの情報は見つかったわ」

「もう?」

 ここに呼ばれたときから察しはついていたけれど、それでも僕は驚いてしまった。一ヶ月探して見つからなかったものをたった一晩で、と思うとやっぱりショックだ。

「見つからなくても仕方なかったと思うよ、智くんではね」

 美咲さんが苦笑しながらフォローしてくれる。でも、僕ではって?

「僕では見つからない?」

「うん。智くんはまだ誕生日を迎えてないから、まだ15歳以下の中レベルのフィルタリングがかかってるしね」

「あ」

 開いた口がふさがらなかった。

 そう言えばそうだった。“青少年の健全な育成のため”に、制限年齢以下の子供がデバイスを使うときにはフィルタリングがかかる。これは、サーバに個人情報登録がある限り、デバイスが年齢をチェックして自動的に作動する仕組みになっていて、いわゆる“不適切な情報”は全てカットされるのだ。

 今やあらゆるデバイスは常にリアルタイムで自動更新しているから、ユーザが僕である限り、どこのデバイスでも自動的にフィルタリングされる。そのことをすっかり忘れていた。

 はたと気付いて葵姉さんへ振り返る。姉さんは無言で目をそらした。

 葵姉さんは気付いていたのだ。昨日、二人が何か分かっている様子だったのはこのことか。

 デバイスが立ち上がってログイン画面になる。美咲さんは僕らを促しながら、デバイスの前に座った。

「まあ、私と葵だってまだ17歳だから低レベルのフィルタリングはかかってるし、ネット上の全ては覗けないわ。でも、今回はそれでは困るから、ちょっとイジってフィルタ無しで探してみました」

 にやっと笑いながら、やや得意げに僕たちへと振り返る。

「ちょっと、美咲」

「どうやって?」

 葵姉さんと僕の声が重なる。美咲さんは苦笑とも照れ笑いともとれる顔で、

「いやいや、キーロガーで父さんのパスワードをちょっと拝借して、ドッペルゲンガーで父さんのアカウント使っただけよ」

と応えた。葵姉さんが額を押さえながらため息を吐く。

「……あんた、それ典型的ななりすましのやり方なんじゃないの?」

「いやいや、そんな大それたものじゃないって。私程度でも使えるこんなベタな手で、今時なりすましなんか出来やしないって、普通は。設定をデフォルトのままでほっとく父さんが悪いのよ」

 葵姉さんの声に対して、美咲さんの声はあくまで明るかった。悪びれた様子は全くない。ただ、僕の目を見て、

「でも、智くんは真似しないように」

と付け加えた。それからディスプレイへ向きなおってログインする。

「でもね、何でもかんでもフィルタかければいいってもんじゃないと思うんだよねー、私は。段階的に緩めてるって言っても、そもそもがキツすぎるのよ。現に、今回はフィルタリングが強すぎて情報が出ないもんだから智くんが怪しがってたじゃない?」

 一人でぶつぶつと言いながら、美咲さんは画面を手早く進めていく。そして手を止めて、

「でも、アレは……。アレこそ……」

と、何か小さく呟いた。聞き取れなかった僕が「美咲さん?」と訊いたのには応えず、彼女は向き直って居住まいを正した。

「もう分かってると思うけれど、中レベルのフィルタリングではねられるってことは、あまり好意的な内容じゃないわ。フィルタ無しで出てくる書き込みとかは、良くて冷やかしや興味半分、悪くて誹謗中傷。一言で言えばホラー扱いなのよ。宣誓書に『過去の苦しみは振り返らずにこれからの人生を歩む』ってあるのは、せっかく治ったのにそんなことで苦しまないでほしいってことじゃないかな、と思う」

 そこで一度言葉を切って、美咲さんは僕へ目を向けた。一言引っかかったけれど、その目を無言で見返す。

「だから、私はネットに散らばっているそんな情報を君には伝えない」

 美咲さんの目は動かない。

 僕の目も動かない。

 やがて、美咲さんは視線を外してため息を吐いた。

「でも、それじゃあ納得いかない、のね?」

「はい」

 美咲さんが苦笑する。青い光が散った。

「約束したじゃない」

「すいません」

 僕はうつむいた。

「美咲!」

「葵、智くんはこのままじゃ割り切れないのよ。大丈夫、あの闘病生活を越えてきたんだから、ちゃんと真実と向き合えるわ。この子が強いこと、葵が一番知ってるでしょう?」

「姉さん!」

 言い争いになりかけた二人の間に、僕は割って入った。葵姉さんとにらみ合いになる。

「……っ!」

 根負けした葵姉さんがそっぽを向いた。

 ほっとため息を吐いた僕は、美咲さんへ気になった言葉を尋ねた。

「あの、さっきの『ホラー扱い』って何ですか?」

「……鋭いね、君は」

 表情を柔らかくして、美咲さんは続ける。

「本当にそのままの意味なんだけどね。クリーンルームが何なのかを見たら、たいていの人はそう感じるんだろうな……」

「見たら……って、見れるんですか!?」

 驚いて、僕は身を乗り出した。

「室内の様子とかじゃないわよ? もっと直接的なもの。今もクリーンルームの中で人々を治療している、城崎幸一郎本人が会見した時の記録動画が、ログボックスの中にアップされているのよ」

「本人の動画? ログボックスに?」

 ログボックスは誰でもファイルをアップして公開できるネット上のフリーディスクスペースで、管理体制は“人々の善意”に委ねられているサイトだ。善悪問わず公開できるスタンスのため、政治的大事件からゴミ袋が宙を舞う姿まで何でもアリなのだが、誰かをけなすファイルが公開されればけなされた本人が削除するといった具合に淘汰されていって、開設から半世紀近く経った今では、多くの人が後世に残しておきたいと思うものが集まる巨大な記録保管庫と化している。

「そう。アレは智くんの疑問に答えられるものだと思う。曖昧な記事や好き勝手な冷やかしや中傷を集めたりしても、無意味で余計な傷を負うだけだから、アレ以外は必要ないわ」

 そう言いながら、キーワード検索して、ヒットしたもののリンクをたどりながら、美咲さんは画面を進めていく。普段よりも少しテンポが悪い。何か、指が重たそうに見えた。

「正直、何度も見たいとは思わないわ、私は。現実の記録動画だから、スプラッタな絵面じゃなくて真面目なんだけど、かえってその分だけ内容が重たいのよ」

 美咲さんをまとう青い光が曇っていく。僕は、その光から目をそらしたくなるのを我慢した。

 目をそらすのは無責任だ。

 美咲さんの手が止まった。僕へと振り返る。

「それじゃ、再生するわよ」

 僕はうなずいた。美咲さんが再生ボタンをクリックする。


 場所はどこかの、会見とかでよく使われる感じの部屋だった。画面の中央からやや左よりの位置で、男の人がスタンドマイクを触っている。中肉中背で父さんぐらいの年齢だろう。スイッチを入れているらしい。

 スピーカーが咳払いをアウトプットする。

 「皆様、お忙しい中にご臨席いただきありがとうございます。

 この会見は、城崎幸一郎氏の希望により開かれるものですが、すでに城崎氏は満足に声を出せる状態ではないので、僭越ながら私が氏のコメントを代読いたします。ご了承ください。

 まず、城崎氏にご登場いただきます」

 スピーカーから大きなどよめきがあふれる。すぐに画面右から、車いすに座る誰かが押されながらフェードインしてきた。画面が車いすへとズームする。

 ……っ、男の人、だよな? じゃなくて、生きている、んだよな?

 どよめきがあがるのがよく分かる。病院着らしい薄っぺらいガウンをまとうその体は、それよりも貧弱な印象を感じるものだった。

 枯れ木のようにやせ細った手足も、ガウンからのぞく骨の浮いた胸板も、まともな栄養状態ではあり得ないことを示している。その皮膚は枯れ果てているか膿んで黒ずんでただれているか、いずれにしても肌らしいところはどこにもない。その上、ところどころの瘤が見るからに不自然に膨らんでいる。顔面までも。

 いや、顔はもっと凄惨だった。唇は萎んだように薄く黒ずみ、噛み合わせがずれているように歪んでいる。鼻は付け根のいびつな瘤で圧迫されていた。目は落ちくぼみ、その上くぼむ方向と程度が左右で全く違うから、まるで別のパーツのようだ。

 その目は、白く濁っていた。

 胃からのどの奥までに、急に何かを隙間なく詰め込まれたように苦しくなる。確かに、ホラー映画の特殊効果並、下手すればそれ以上だ。これが現実だったという事実が、そのインパクトをさらに跳ね上げる。

 僕がクリーンルームに入るときに目隠しされた理由はこれだったのかもしれない。機密保持とかの意味もあるんだろうけれど、何より患者の心に余計な傷を負わせないために必要だろう。子供にとっては特に。

 画面が少し引かれた。スタンドマイクの向こうに立つ男の人と、車いすの城崎幸一郎が画面に収まる。男の人が紙を取り出して広げた。

「それでは、代読いたします。

『城崎幸一郎です。皆様もご存じの通り、私には傷病を癒す力があります。“万能の手術室”や、海外では“unlimitted cure”と呼ばれているこの力は、遠い将来に見つかる治療方法、技術、薬、設備を手元に呼び出すことができるものです。一種の超能力ですが、実際は万能でも無限でもなく、もちろん神の奇跡でもありません」

 じゃあ、あの光の手術道具はそういうものだったのか。でも、僕の目に光として見えたってことは、実体としてあったわけじゃないはずだ。他の人には見えなかっただろうから、万能の奇跡みたいに見られたのかもしれない。

 城崎幸一郎は、ほとんど動かなかった。

 代読が続く。

「奇跡ではなく一種の能力ですから、エネルギーも必要ですし、副産物も発生します。要するに、力の引き替えとなる代償もあるのです。

 この力の代償は、癒した人の、病や傷の苦しみが、わずかに私に残ることです」

 葵姉さんが息を呑んだ。

「残る苦痛はわずかですが、決して消えることなく全て蓄積していきます。死の病では“死”は残らず苦痛のみ残されます。私は、死ぬことなく苦痛のみを蓄えていきます」

 ぞっとした。実際に体が震える。

 クリーンルームはあらゆる病や傷を受け付けている。あらゆる、だ。そして、クリーンルームを訪れる人は途切れることがない。途切れることなく、次の日も、その次の日も。そうしてずっと繰り返されてきたはずだ。

 この姿はその積み重なった果て。

 あの中には、今や僕の残したモノも重なっているはずだ。

 息が苦しくなった。体が重い。罪悪感に潰されそうになる。

「私は、自分の姉にこの力を使った時に、自分の行く末を覚悟しました。人の口に戸は立てられない。噂を聞いた人は私の元へと訪れるだろう。そして、等しく苦しむ人を“選別”することは出来ないだろう、と。数千数万もの人に力を使えばどうなるか、それを覚悟したのです」

 城崎幸一郎は動かない。代読している人も、時折原稿から顔を上げるだけだ。

「果たして、この数年で私は数万に及ぶ人の病や傷を癒しました。

 結果は、ご覧の通りです」

 吐きそうになった。逃げ出したくなるのを必死でこらえる。

「ですが、人は忘れます。そういう生き物です」

 その一言に引っかかった。イヤな予感が走る。

「私による治療が当然のことだと、治って当たり前のことだと世の中に思われていると耳にしました。本当にゴミ箱のように扱われている、と」

「そんなっ!」

 僕は思わず叫んでいた。そんなことってあるかよ、と胸の内では続けていたけど、舌が回ってくれなかった。

 震える僕の肩に、葵姉さんの手がそっと触れる。

「そういうものよ、人間は」

 淡々とした言葉だった。頭にきて振り返った僕は、でもそこで声を呑んだ。

 姉さんが光に包まれていた。強烈な赤色。見たこともないほどだった。

「この姿を見てほしい。貴方たちの苦しみが残されるこの姿を。捨て去って省みなかったゴミ箱の中身を」

 城崎幸一郎は動かない。

 その姿は、間違いなく僕の目に焼き付いた。

「この姿 忘れ去る 者に 、呪いあれ』」

 区切りながら、一呼吸間をおきながら、代読者は城崎幸一郎の言葉を読み上げた。

 動画が終わった。始めに戻って待機状態になる。

 言葉はなかった。誰も。


「……者に 、呪いあれ」

 そこで動画は終わる。何度見ても、何かが変わるわけじゃない。そう分かっていても、僕は繰り返し再生ボタンをタップする。どうせ今晩も簡単には寝付けないだろうし。

 MDの画面は広げても据え置き型には及ばないから、初めて見た昨日に比べれば衝撃は薄まる。その上何度も見ていれば、さすがに慣れもする。今、僕はそこそこ冷静に会見を見ることが出来ていた。

 そう、会見動画は僕のMDでも見ることが出来た。何故か中レベルのフィルタリングにかからない。美咲さんは「これこそ18歳までフィルタにかかるべきだと思うんだけれど」と納得のいかない様子だったけれど、僕にとっては、そりゃあ実際のとこ心底ショックだけれど、それでも見れて良かった、と思う。僕ぐらいの、いわゆる大人と子供の間ぐらいの年齢には、はっきりさせないと納得できない奴も多いんじゃないかな、とも思う。

 美咲さんが言った通り、確かにこの動画は僕の疑問の多くに答えてくれた。周りの態度も、情報が手に入らない不自然さも、宙に浮かぶメスも、部屋に充満する黒い光も、「呪いあれ」という言葉の意味も。

 あの宣誓文は、この呪縛にとらわれることのないように、という意思も込められたものなのだろう、多分。周囲の接し方は、これを見た人たちの同情と遠慮が折り重なって生まれたんだろう、と思う。

 クリーンルームで治療を受けた人が見れば大ダメージを受けることは、誰にとっても想像に難くないはずだ。少なからず心が折れる。

 だから、本人の周りは腫れ物に触れるような態度になる。余計なことは言わずに気遣いを見せるようになる。心ない言葉は本人のいないネット上に飛び交うが、それはフィルタリングではじき飛ばす。少なくとも、まだ未熟とされている18歳未満のフォローとしては有効だろう。

 それで納得いかない場合はこの動画にたどり着くわけだ。この真実を見れば、否応なく納得せざるを得ない。まさしく問答無用だ。もちろんこれは過激な手段、一生モノのトラウマを負い、下手をすれば心が壊れる。それでも、周りへのわだかまりはなくなって、また周りの人も一層フォローするようになることが期待できる。

 そもそも、そこまでしてたどり着く奴は僕みたいに強情っ張りの頑固者だろうから、精神的に追い込まれる割合はやや低めになるのかもしれない。思い返せば、この会見動画を除けば完全にフィルタリングされている情報を探し回っている時点で、何となくイヤな予感はしたし、気づかないうちに覚悟も固まっていたような気もする。

 色々考えてみると、そこそこ上手いセーフティーネットになっているような気もしてきた。

 それでも、僕は会見を見た。繰り返し、繰り返し。一点、納得いかないのだ。

 メスの色が透明な黄色だったことが。

 城崎幸一郎のコメントや姿から、あの奈落のような黒は理解できる。でも、それならあの黄色い光は一体どういうことなんだろうか。あの会見を見る限りでは、喜びが形を成すほどに強固なものであるはずがない。それどころか混じることすらないはずだ。

 それに、あのコメントなら、表しているのは孤独や絶望じゃなく憎悪になる。ならば黒い光は元は赤だったはずだ。それなのに僕は青と感じた。

 本当に何もないというのだろうか。色を見間違えたのだろうか。数十数百と感じたあの手術器具は勘違いだったというのか。

 自信がなくなっていた。自分の記憶、感じたはずのことが本当にあったのかどうか、分からなくなってきていた。この後に、彼の心境に変化があったのかもしれない。もう僕には見つけられないであろう彼の時間の中に、大きな変化をもたらす出来事があったのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせ始めて、それでも釈然としなくて、僕は動画の再生ボタンを押し続けていた。

 ……って、あれ?

 ほんの一瞬、意識が飛んだような気がした。目をこすりながらデバイスの時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。

 寝ちゃってたのかな? 昨日はろくに寝られなかったからなぁ。思ったよりも早く眠気がきたのか……。

 いや、ちょっと待て。

 ハッとして、僕は再生位置を少し前まで戻す。

 おかしい。睡魔に負けてオチたのなら話が飛んでいるはずだ。読み上げられていた言葉は頭の中できっちりとつながっている。一言も飛んでなかった。いくら何でも一瞬すぎる。

 飛んだ? どこで?

 進む動画の隅々まで目を走らせてチェックしたが、元々城崎幸一郎は全く動いていないし、代読している人だって時折顔を上げるだけ。動き自体がほとんどない。

 それでも、食い入るようにして、さらに何度も同じ範囲を再生する。

 あ!

 一瞬、本当に一瞬だけれど、代読の人の顔の位置がわずかにズレた。ディスプレイの小さいMD上では1ミリにも満たないけれど、でも確かに、「結果は、ご覧の通りです」と「ですが、人は忘れます」との間で、代読の人の顔が、顎の位置が下にズレている。記憶の中の、骨董品のフィルム映像でコマが抜けた瞬間に感じた違和感と近い。

 コマ抜け……映像が抜けている?

 カットされている!?

 慌てて動画を戻して始めから会見を見直す。

 これまでは、コメントの内容と本人の凄惨な姿に気を取られて、どうしてもそちらに注意していたけれど、視点を変えて画面全体を、少しでも動きのある代読の人に注意しながら、また動画を繰り返した。

 ……ある。

 同じようなところが、他にも何カ所かあった。始めに見つけたところほどじゃないけど、ごくわずかにズレている気がする。

 これ、もしかして編集されてるんじゃないか?

 所々がカットされているのかもいれない。ほとんど動きのない内容だ。都合の悪い部分をカットしてつなぎあわせてもまず分からない。音声だって、お手本のように一定の調子で抑揚なく読まれているから、切り貼りしても不自然さは感じられないだろう。何より、絵面のインパクトがあまりにも大きすぎて、こんな些細な変化に気づくわけがない。

 そう考えると、最後の言葉も不自然だ。あそこだけ、噛み含めるように言葉を区切って読まれていた。言葉を強調していると思っていたけど、それまでゆっくりではあっても流暢に読んでいたのを変えるような演出は必要ないはずだ。間が空きすぎている。

 何かがつかめた気がした。頭が一気にフル回転する。

 これが編集されたものだとすれば、元ファイルもあったはず。でも、それはまだどこかに残っているんだろうか? もう不要、いや不都合なファイルだからって消去されているかも。とにかく探してみるしかない。でもどうやって? フィルタリングされているから僕では手がかりすらつかめない。リンクをたどるにしてもスタート地点にまず立てないんだ。そもそも、これが編集されているかどうか確認しなきゃ。でも、僕じゃファイルの解析なんか出来っこないぞ。せめて動画の作成編集アプリでも使えれば……って、一からマスターしてる暇なんかあるかっ。フィルタリング外して、ネット上を自在に覗けて、ファイルの解析が出来て……。

 御鹿崎。

 MDの通話アプリを出してコールを御鹿崎へ打った。そして待機中のボタンをタップする。もう夜中の1時近いが、御鹿崎ならまだ起きているだろう。あいつがコールにすぐ気づくとは思えないけど、待機中にしておけば通話のリクエストを送っているだけだから通話回線はつながってない。回線がふさがる心配はなく、自分が待機解除しなければ、相手が手が空いてリクエストに応えるまで、他のことをしながら気長に待つことだって出来る。

 もっとも、他の何かに手なんかつかないから、僕はMDを前に待ちの体制に入った。

 途端にMDから着信音が鳴った。慌ててディスプレイを確認すると“御鹿崎さんがリクエストに応えています。回線を接続しますか?”と出ていた。珍しく早いリアクションに面食らいながらも、“はい”をタップする。

「御鹿崎か? こんな時間にごめん。今日は早いな?」

「いや、ちょうどMDのデータ整理をしようとしたところだった。何か用か? 篠山」

 抜群のタイミングだったらしい。御鹿崎が相手だと、結局捕まらずに後でメールが来るケースがほとんどなのだ。

「ああ。見てもらいたいものがあるんだ。前に相談したクリーンルームのことなんだけど、その本人の動画ファイルがあって、」

「それならもう見たぞ」

 僕が全部言う前に、御鹿崎があっさりと口を挟んだ。

「え、見たの?」

「ああ。お前から話があったときにな。大体、あのぐらいすぐにたどれるだろうが。あっちこっちからリンク貼られてたぞ、あのファイル。ちゃんと探してから頼んでこい」

 相変わらずの辛辣な物言いだった。こっちの方が年上なんだけど、御鹿崎の中では年齢は基準ではないらしい。“僕はお前みたいにフィルタ外したり政府のサーバに潜れたり出来ないんだよ”と内心呟きながらも、僕は「悪い悪い」と苦笑した。

「……まあ、気分の良いものではなかったな。同情はする」

 珍しくトゲのない御鹿崎の声に、僕は慌てた。

「いやいや、そうじゃなくって、あのファイルを調べてほしいんだよ」

「ん? 調べる? 何を?」

「編集されてるんだよ、あれ」

 畳みかける僕に、MDの向こうの御鹿崎が戸惑った。

「……どういうことだ?」

「いや、編集されているんじゃないかな、と思うんだ。所々カットされて、つなぎあわされてるんじゃないかと」

「ちょっと待て」

 そう言って、音がごく薄いノイズだけになる。続いてキーボードを高速で叩く音が聞こえてきた。

 御鹿崎が作業用に使っている据え置きデバイスは、どれも高スペックなだけでなくサーバレベルの耐久性をも誇るハイエンドらしく、24時間常時起動していると言っていた。もちろんサーバもある、とのこと。僕とは全く次元が違う。

「どこだ?」

 御鹿崎の声はすぐに戻ってきた。もうファイルに着いたらしい。

「かなり後の方、最後よりちょっと手前ぐらい。『結果は、ご覧の通りです』と『ですが、人は忘れます』との間。他にもありそうだけど、そこが一番分かりやすい」

「分かった」

 また声が消えて、キーボードの音が小さく伝わってくる。

「前後で解像度自体に変化は無し、光源に対する陰の角度と長さも一定、色調変化も見られない。ただし、人物の位置がごくわずかにズレているな。特に読んでいる奴の顎の辺りが11ピクセル下になってる。しかし、実寸表示にしても1ミリそこそこだぞ? 肉眼で見つけたのか? よく気がついたな」

 御鹿崎の声に驚きが混じる。

「音声にも断絶があるな。可聴域を越える20Hz以下と2万Hz以上の領域で音波が不自然に断絶している。俺たちの耳では聞き取れないがな」

 キーボードの音と併せて、御鹿崎の声は続いた。

 音声にも? それなら。

「じゃあ、最後の言葉はどうだ? この姿、忘れ去る者に、呪いあれってやつ」

 返事はなかった。代わりに、猛烈なキーボードの音が応える。

「こっちもだ。可聴域以外は波形がブッツリ切れてやがる。それに、ここは断続の度合いが大きい。これは、話してる途中で単語だけちぎってつなぎやがったな?」

 御鹿崎が忌々しげに吐き捨てた。

「御鹿崎、改めて頼みがある」

「ああ」

 御鹿崎はうなずいていた。もう協力してくれる気になっている。

「オリジナルを探してほしい。もう抹消されてるかもしれないけど、もしかしたらどこかに残されてるかもしれない。あるなら、それを見たい」

「分かった。引き受けてやる」

 即答だった。

「ありがとう」

「篠山はやれるだけやったからな。結果はメールで伝える」

 そう言って、御鹿崎は通話を切った。

 もっと時間がかかると思っていたのに、次の日の昼前に御鹿崎からメールが届いた。授業中で、こっそりチェックしたタイトルには“見つけた”とあった。昼休みに入った瞬間に、ダッシュで教室を飛び出す。

 あまり人のいなさそうな所、邪魔の入らない所……第二校舎の屋上!

 いちいち遠回りなルートしかない不便な第二校舎を駆け上がって、屋上に飛び込む。

 案の定、誰もいなかった。

今日は天気も良く、青空に白い雲が悠然と漂っている。

 座り込んで壁に背を預けつつ、息を整えた。そして御鹿崎のメールを開く。

オリジナルが見つかった。場所はダミーと同じでログボックスの中だったが、ファイル名は乱数でタグ付けが一つもなく、ファイルのメタにまでキーワードになるのがないファイルだから、普通の検索では絶対にヒットしない。ログボックスの奥の奥、どこからもリンクされていない、世間から忘れられて孤立したジャンクファイル群の中の一つだ。最後に直リンクを貼っておいてやるから、そこから行け。中身は無修正、間違いなくオリジナルだ。保証する。内容は自分で確かめろ。正直、虫酸が走る。内容に対してじゃない、人間に対してだ。あのダミーはもしかしたら善意のつもりかもしれないが、お門違いも甚だしい。俺たちはそこまで脆弱じゃない。ちゃんと向き合えるはずだ。コケにされて気が悪いから寝る。完徹だったしな。篠山、ファイルを見て、もし何かしたいと思うなら言ってこい。この件に関してだけは、今後も協力する。

 御鹿崎にしては珍しく感情的なメールだった。

 最後に、リンクが貼ってある。

 深呼吸する。

 青い空と、広がる街並みが目に入る。

 僕は、リンクをタップした。


 「皆様、お忙しい中にご臨席いただきありがとうございます。

 この会見は、城崎幸一郎氏の希望により開かれるものですが、すでに城崎氏は満足に声を出せる状態ではないので、僭越ながら私が氏のコメントを代読いたします。ご了承ください。

 まず、城崎氏にご登場いただきます。

 それでは、代読いたします。

『城崎幸一郎です。皆様もご存じの通り、私には傷病を癒す力があります。“万能の手術室”や、海外では“unlimitted cure”と呼ばれているこの力は、遠い将来に見つかる治療方法、技術、薬、設備を手元に呼び出すことができるものです。一種の超能力ですが、実際は万能でも無限でもなく、もちろん神の奇跡でもありません。

 奇跡ではなく一種の能力ですから、エネルギーも必要ですし、副産物も発生します。要するに、力の引き替えとなる代償もあるのです。

 この力の代償は、癒した人の、病や傷の苦しみが、わずかに私に残ることです。

 残る苦痛はわずかですが、決して消えることなく全て蓄積していきます。死の病では“死”は残らず苦痛のみ残されます。私は、死ぬことなく苦痛のみを蓄えていきます。

 私は、自分の姉にこの力を使った時に、自分の行く末を覚悟しました。人の口に戸は立てられない。噂を聞いた人は私の元へと訪れるだろう。そして、等しく苦しむ人を“選別”することは出来ないだろう、と。数千数万もの人に力を使えばどうなるか、それを覚悟したのです。

 ですから、私は、訪れる人に見返りを求めました。私の生活費のためにお金もいただきましたが、それよりも、約束を求めました。

 “貴方の苦しみは私にわずかに残ります。私がそれを引き受ける代わりに、これからは幸せな人生を送れるように努力してくれますか? もし私と向かい合うようなことがあれば、そのときには胸を張れるように、これからの日々を生きてくれますか?”と。

 ある時、“悪魔との取引みたいですね。まるで呪いをかけられるようだ”と言われたことがありましたが、私の話を本当に理解した人にはそう感じられていたことでしょう。

 でも、誰かが幸せになるのならば、引き受ける甲斐も少しはあるというものだ、と思ったのです。

 果たして、この数年で私は数万に及ぶ人の病や傷を癒しました。

 結果は、ご覧の通りです。

 私は、今の自分の姿を嘆くつもりはありません。もちろん辛くないはずはありませんが、覚悟していた通りになっただけです。苦しみを訴えたいわけではありません。

 私は不安なのです。

 あの約束は守られているのだろうか。そもそも覚えられているのだろうか。

 その後を報告してもらう約束などしていませんから、もう一度訪れる人はありません。幸せに過ごしていれば良くて、わざわざ過去の苦しみに触れる必要などありませんから、それでいいのです。

 ですが、人は忘れます。そういう生き物です。約束が忘れられていてもおかしくはない。それを思うと不安になります。不安はさらなる不安を呼んで、始めから私の話など耳に入っていないのでは、私自身のことは無視されているのではないか、体よく痛苦を捨てるゴミ箱にされているのではないか、と考えてしまいます。

 そんなとき、私による治療が当然のことだと、治って当たり前のことだと世の中に思われていると耳にしました。本当にゴミ箱のように扱われている、と。

 少なからず、ショックでした。今、私の心の中では人間不信が渦巻いています。

 ですから、私はもう一度約束してほしいのです。

 私が引き受ける代わりに、これからは幸せな人生を送れるように努力する、と。

 私と向かい合ったなら、そのときには胸を張れるように、これからの日々を生きる、と。

 偉業を成せとは言っていません。幸せでなくてはならないとも言いません。ただ、そう思っていてほしい。些細なことでかまわない。普通の人生で十分。ただ、そうあろうと、私に胸を張れるように生きていくと約束してほしい。

 そして、過去に私の元を訪れた人に、思い出してほしい。私との約束を。

 これが私のわがままであることは分かっています。覚悟したときにこういうことも予想できていたのですから、今更何を言い出すのか、とも思います。過去の苦しみは忘れればいいと言ったじゃないか、とも思います。

 それでも、お願いです。

 私に意義をください。

 それを訴えるために、この会見をお願いしました。コメントだけでなく私自身も同席したのは、覚えていてほしいからです。

 この姿を見てほしい。貴方たちの苦しみが残されるこの姿を。捨て去って省みなかったゴミ箱の中身を。

 そう簡単には忘れられないでしょう、今の私の姿なら。

 これからも、私は力を使い続けます。私が寿命で死ぬまで、訪れる人は傷病の苦しみから解放されることでしょう。そのための手配はしてもらっています。

 ですがその前に、“呪いをかけられるようだ”と昔言われましたが、今、改めて、初めて“呪い”をかけさせていただきます。

 捨て去る苦しい過去と引き替えに、幸せな人生を送るための努力を。

 貴方の捨てたものが残るこの身体に、胸を張って返せる日々を。

 この約束を、いや、貴方たちの負うこの代償を忘れないでほしい。この姿とともに。

 もし、それでも省みることなく忘れ去るようならば、その者にこそ、呪いあれ。

 願わくば、代償が忘れられることなく支払われんことを。私にも意義を持てるように、切に願います。

 忘れないでください。

 私に意義をください。

 お願いします』

 以上です。今後については城崎氏のコメントにあった通り、現在厚生労働省と協議中ですが、まずは我々有志により設立した財団で氏をお預かりして、治療を希望される方への対応などを行うことになります。お話はお手元にお配りした資料にある受付窓口までお願いいたします。

 会見は以上です……」


 再生が終わった。始めに戻って待機状態になる。

 少しの間、頭が真っ白になった。

 話がまるで違う。

これは切実な訴えじゃないか。呪いなんかじゃない。いや、本人もそう言っているけれど、本人がそう言っているところがあるけれど、そんな話じゃない。

 彼は望んでいたんだ。治療を受けた人の人生が幸せになることを。それは間違いがない。だって、あのとき見た光のメスは、清流のように澄んだ美しい黄色だったんだから。

 僕は、知っている。

 見たから。見えたのだから。

 果てしなく積み重なる苦痛で歪みながらも、世界から省みられなくなって絶望しても。孤独の中で、塗り固められていく暗い闇の中に、それでも失われなかった光。

 忘れないでほしいという切なる願い。

 それが、勝手に切り貼りされて“呪い”として残された。その存在に極力触れずにすむように、世界からなるべく遠ざけて目を背けていられるように。

 御鹿崎の気持ちが良くわかった。今、あいつの中では世間への、人間への嫌悪感が渦巻いているんだろう。僕だって吐き気がする。

 でもな、御鹿崎。

 お前も言ってた通り、これは善意でもあるんだよ、多分。オリジナルを見たら、治療を受けた人には罪悪感だけじゃなくて、責任感とか義務感も上乗せされる。それはもう強迫観念のレベルだよ。あの罪悪感だけでも押しつぶされそうになるのに、この上責任感や義務感まで積まれれば、もう耐えられやしないって。

 僕には、分かる。

 真実は完全には隠しきれない。だって、お前みたいな奴は世界にはゴロゴロいるんだろう? 負担にならないところを切り抜いてつなげることも出来ない。真実がアレだからな。切り抜きようがないじゃないか。

 だから、逆に切り抜いてつなげた。負の部分だけをつなぎあわせて“呪い”という悪意にした。そして世界がそこから遠ざかるように仕向けた。

 悪意ならまだ、背を向けていつか振り切れるかもしれない。周りも手を貸せばなおさら。いつかはその重荷から解放される、忘れることも不可能じゃないかもしれないだろう? 誰だって悪意なんか元々受け入れたいものじゃないからな。

 だけど、善意なら? 自分の幸福を望んでくれる心に背を向けられるかい? 裏切れるかい? 今回はそいつに罪悪感と責任感と義務感が合体してるんだぞ? この重荷からは解放されない。だって、解放されるには約束を果たさなければならないけど、それは一生モノなんだ。簡単そうに言うけれど、努力し続けて胸を張れる人生なんてそうそうあるもんかよ。

 だから、重荷から解放され得る道が選ばれたんだろう。“呪い”という悪意にして、負担を少しでも減らして、それを皆が忌み嫌って遠ざけることにして、それから逃れようとすることが当たり前なことにして、いつかは忘れて呪縛から解放されることが期待できる道が。

 罪悪感の上に責任感と義務感までひっくるめて一生背負わせるのは残酷だ、可哀想だってことさ。

 僕は苦笑する。

 頭の中に、御鹿崎のメールにあった一言が蘇る。音声化のおまけ付きで。

『コケにされて気分が悪い』

 全くだ。

 全く、気分が悪いよなあ、御鹿崎。

 さて、と。どうするかな……。まずは葵姉さんと美咲さんにこれを見てもらいたいな。僕の思うことをちゃんと伝えよう。それから……。

 

 窓から射し込む光が廊下を明るく照らしている。

 窓の外、病棟沿いに並ぶ桜の木々はまだ三分咲き程度だけど、まだ三月の下旬に入ったばかりだから、むしろ例年よりも早いぐらいだ。8年前は、この廊下ではもう目隠しして車いすの上だったから、初めて見る風景になる。

 少し感慨に浸ってから、僕は振り返った。

 美咲と目が合う。彼女は優しくうなずいて僕の手を握る。僕もうなずいた。

 病室のドアを開ける。

 何の変哲もない個人部屋だった。備え付けの棚やベッドの他には何もない。ありきたりの病室。カーテンは開けられていて、青空から降り注ぐ光が室内も満たしていた。

 ベッドの脇にいすが二つ置いてある。僕と美咲用だ。葵姉さんは「面会を勝ち取ったのは貴方たちだから」といって遠慮していた。

 僕たちは腰を下ろした。

 ベッドには老人が横たわっていた。

 城崎幸一郎が。

 彼は動画の姿よりもずいぶんと年老いていた。もう九十歳を越えているのだから無理もない。

 薄い掛け布団の端が震えだす。やがて、彼の手がゆっくりと持ち上がってきて、僕の方へと近づいてきた。その手が僕の目の高さで止まる。 

 途端に、部屋中が真っ暗になった。いや、暗くなったのではなくて黒い光に埋め尽くされている。以前に見たものよりもさらに密度が濃く、もう完全に闇にしか見えない。

 息を呑んで目を宙へ走らせる。

 あってほしいものが、あった。

 宙に浮かぶ数十数百の手術器具。透明な黄色の光。

 美咲が僕の手を握った。握り返して小さくうなずく。美咲がホッとため息を吐いた。

 逆に、光の手術器具の方がゆらゆらと揺れだした。治すところが見あたらないのだ。今までなかったことに動揺しているのだろう。

 僕は彼の手にそっと、包むようにふれた。

「城崎さん、僕は患者ではありません。いや、今はもう患者ではありません。8年前に貴方に、貴方の“万能の手術室”で脳腫瘍を治してもらった者です」

 僕はゆっくりと語りかけた。

 彼の手からは何も感じない。手術器具もゆらゆらと揺れるままだ。

「今日は貴方にお伝えしたいことがあってきました」

 僕は続ける。声だけではなくて、触れる手からも伝わってくれるように。僕にそんな能力はないけれど、それでも、祈りながら、心を込めて。

「貴方の会見を拝見しました。僕があの会見にたどり着いたときは、残念ながら貴方の訴えは届かない状態になっていました。貴方の会見は刺激が強すぎて、治療を受けた人の心が大きく損なわれることが憂慮された結果です。失礼ながら、そう恐れられたことは無理もなかったとも思います」

 そう、実際にあれは過激すぎましたよ。調べてみたら、立ち直れなかった人達もやっぱりいたんですから。

「ですから、まずそのことをお詫びします」

 反応はない。彼にも、光にも。

「で、お伝えしたいことはそれではありません。いえ、お伝えしなければならないことがあるのです」

 やはり反応はない。

 僕は続ける。

「貴方の治療を受けた人達のその後を、出来る限り調べました。会うことが出来る方には直接お話をうかがいに行きました」

 伝わるだろうか。伝わってくれるだろうか。

「会っていただけた方は多くはありませんでしたが、その方々からメッセージを預かりました」

 光は輝いている。ならば意志は、意識は残っているはずだ。でも、もう耳は聞こえていないかもしれない。聴覚の機能は少しも働いていないかもしれない。

「40年ほど前に貴方に白血病を治していただいた鈴木雪枝さんは、母子家庭でしたがお嬢さんを立派に育てることが出来たと、満足して恥じることのない人生ですとおっしゃってました。お孫さんに囲まれて笑っていましたよ」

 光は揺れ続けている。ゆらゆらと、ゆらゆらと。

「海外から貴方の元を初めて訪れた人を覚えておられますか? 緑内障の患者マイク・ウォルターさん。幼かった彼はその後消化器を専門とする医師になって、もう亡くなっていましたが、生前多くの人を支えたそうです。お嬢さんも同じ道に進んで、若くして消化器官の難病クローン病の治療方法を確立しました。天才と呼ばれているそうですが、お父さんが理想で模範なんですと自慢されていました」

 彼の手からは何も感じない。

「筋ジストロフィーを貴方に治療していただいた福本悠生さんは、九州の公立大学でスポーツドクターをされていました。取り立てて強い部はないそうですが、負傷者が少なくケガからの復帰が早い大学だと言われているそうです。そろそろ引退ですが、まあ十分でしょう、とおっしゃってました」

 遅すぎただろうか。もう伝わらないのだろうか。

「僕と同じ小児性脳腫瘍を治療していただいた神崎啓太さんと、トンネルの落盤事故で負った重度の麻痺を治療していただいたエリス・ウェルハイムさんは経済学者になり、共同研究でリサイクル自体に付加価値が生まれるシステムを提唱しました。今では、リサイクル品は資源や環境の保全のためだけではなく、高い価値のある商品だと市場も認めています。それぞれのお子さんたちに自慢されまくりましたよ」

 伝わって欲しい。頼むから、伝わってくれ。

「交通事故の脳挫傷で負った言語障害を治療していただいた木下俊さんは、去年の秋に恋人ができたそうです。『ただの平社員で取り立てて何も成していませんが、人生に手抜きはしていませんと伝えてください』と頼まれました」

 届いていたんです、貴方の思いは。

「他にも、たくさんのメッセージを預かりました。中には直筆のお手紙を託してくださる方もいました」

 応えていたんです。貴方の思いに。

「皆、幸せな日々を送れるよう努力していました。貴方に対して胸を張れるように生きていました」

 光は揺れ続けている。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと。

 僕は、彼の手を握った。

 伝わってほしいと願って、心を込めて。

「貴方のしてきたことに、意義はありました」

 目を瞑る。意識を手に集中する。

「僕たちは、貴方のことを忘れていません」

 強く、さらに強く、この手に願いを込める。

「貴方の“呪い”に、貴方との約束に」

 伝われ。

「僕たちは向き合って、生きています」

 ……。

 反応はない。彼の手からは、やはり何も感じられない。

 遅すぎたのか? 僕たちは伝えられなかったのか?

 何かに押しつぶされそうな気がした。

 何かをごっそり失いそうな気がした。

「……智」

 美咲の手が柔らかく僕に触れる。目を向けると、彼女は優しい目で城崎さんを指し示した。

 彼の目から涙が一筋流れていた。

 今も変わらず、部屋の中は黒い光に埋め尽くされ、透き通った手術器具が宙を漂っている。

 その中を流れた涙は、透き通った青色と黄色の光をまとっていた。

 きらきらと、きらきらと。


分かりにくく、楽しくはないこの作品を、最後まで読んでいただきありがとうございますm(_ _)m。

評価や感想(ダメ出し)も、少しでもいただければ嬉しいです。


また、近いお話としては「ひかり」があります。直球で文芸系ですが医療系で、こちらも読んでいただければ幸いです。

ファンタジー系では、「はるか彼方のらんちき☆DAYS」があります。ノリが真逆ですが、よろしければ覗いてみて下さい。


どうもありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 舞台を現代あるいは近未来にした上で医療をテーマにしたところは面白いと思いました。どんな難病も治してしまう部屋というのはそれだけで十分な魅力を感じます。その上でクリーンルームという漠然とした…
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