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歳晩の三日月

作者: 雨宮吾子

 年の暮れの三日月の昇ったある夜、世間の喧騒から隔絶された部屋で少女が鏡台の前に座っていた。それは、舶来品の菓子や洋書が並んだ部屋の中でも、一際存在に重みのある鏡台だった。というのもこの鏡台は彼女が亡き母から受け継いだもので、他の家具と同じように舶来品であったけれども、長い年月を経てくすみや傷みがあり、そのために却って珍重されていた。父は進歩的な性分で新しいものならマルクスからファッショまで何でも取り寄せたけれども、娘が自分とは違う性格であることにはついぞ気付かなかった。だから妻が死没してすぐに若い娘を娶ったり、この鏡台を処分して新しいドレッサーを取り寄せようとした。少女は新しい母が出来ることには反対しなかったが、母の形見でもある鏡台を手放そうとはしなかった。ドレッサーと呼ばずに鏡台と呼ぶところが、この部屋の一角を占める木製の家具の有り難さを表しているのだ。

 少女は自分の容貌に並々ならぬ自信を持っている。そうでなければ、鏡の前に立つ悦びを知らねば、この鏡台が特別な存在となり得るはずはない。まるで老優のような手慣れた仕草でポーズをとったり、自分の顔をあちらやこちらに向けて他人からどのように見えているか、どのような表情をすれば可憐に見えるか、そんなことを研究している。それが毎晩の日課で、ひとしきり研究を終えると満足して眠りに就く。そして、象牙のように素敵な夢を見るのだ。象牙の夢。それはダイアモンドのように高潔かつ硬結であってはならなかった。あくまで象牙のように野蛮で、そして絹のように柔らかでなければならない。

 象牙の夢とは具体的にはどんなものだろうか。具体的な夢というと矛盾して聞こえるが、あえてそれを突き詰めていくなら、あらゆる贅沢があり、あらゆる災厄がない世界のことだ。それが夢見がちな少女の、未だ少女でいる彼女の描き得る最善の世界だ。そのあちこちに快楽の種が潜んでいるけれども、未だそれを認識できない少女の世界だ。


 さて、この晩も食事を終えた少女は、部屋に入るとすぐさま鏡台の前に座った。ナイトガウンの衣擦れの外は全く静謐で清浄だ。まだ化粧に慣れない少女は無垢な唇に口紅を塗りたくる。歪にはみ出た紅がおかしく、少女は一人でにやついた。でたらめな化粧が面白くもあるし、そんなことをしても美しい自分の美貌に自惚れてもいる。やがて唇を拭うと立ち上がり、自分の顔を仔細に観察してあれこれとポーズをとってみた。ふと、衣擦れに刺激されて、ナイトガウンを脱ぎ捨てる衝動に駆られた。いつも心の片隅に感じていたその衝動が、三日月の下に噴出したのだった。少女は急に思い立って部屋の照明を落とし、窓際のカーテンを全開にした。和毛のようにふわふわとした心地良い月光が、少女の身体を包み込んだ。そして、少女はナイトガウンを脱ぎ捨てた。

 自分は今、スポットライトを浴びている。性愛への芽生えが少女の華奢な体の線に豊かなものを植え付け始めている、はずだった。目を閉じて月光を存分に浴びた少女が鏡台の前に裸体を晒したとき、声にならない悲鳴が口腔に木霊した。しわしわと枯れて骨の浮かび上がった身体、くすみのある貧しい身体、衰弱した女の身体がそこにはあった。少女の顔もまた、しわやしみの目立つおぞましいものだった。本当におぞましい。おぞましいと分かっていながら、視線を外すことができなかった。少女はただ一つ衰えのない脳を駆動させて、この状況を理解しようと必死に努力した。世界は相変わらず存在している。それなのに、私はどうしてこのような時の試練を受けているのだろうか? 彼女は縋るようにして窓際に立ち、三日月へと視線を向けた。先程とは打って変わって、今度はそのスポットライトを落としてくれと懇願しながら、三日月に痩せ細った手を伸ばして。

 一瞬、黒い影が窓と三日月の間を通り過ぎて行った。それは本当に須臾の出来事、瞬きをしていたなら見落としていたであろう瞬間の出来事だった。その一瞬が、少女を呪縛から救った。いつの間にか少女を覆っていたナイトガウンの隙間から、膨らみかけた胸元の線が窺えた。痩せ細った手もすっかりと豊かな肉付きを取り戻していた。少女は窓際から離れて、例の鏡台に向かった。狐につままれたような顔をした美しい女がそこに立っていた。

 あれは何だったのだろう? 後年、歳を重ねた彼女はふとその出来事を思い起こした。それは人生における最期の瞬間、世間の喧騒から隔絶された死の庭でのことだ。死を間近にして思い起こしたその困惑。彼女は翳りゆく太陽を仰ぎながら、あの老衰の幻覚が三日月の、女の嫉妬であったことを確信した。それを知ったところで、今更何になるというのか。老化からは逃れられなかった彼女は、そのことを確信した瞬間、口元を綻ばせた。生の縁に立たされ、死の淵に追い落とされていく彼女は、その転調の最中に太陽の加護を授かった。

 それは、三日月を嫉妬させ太陽を惚れさせた女の獲得した、次なる生における美の保障であった。

SF(すこし・ふしぎ)小説。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 優雅で野蛮。そのひとことにつきます。わたしはつねづね、少女とは優雅で野蛮な生き物だと感じていました。澄んだ瞳に世界中のあらゆるものを映して、美しさのなかに秘められた醜さを見抜いて暴露してし…
2017/03/19 20:24 退会済み
管理
[良い点]  なんて陶酔的な文章なのでしょう。  雨宮さんの小説を拝読させていただくのは、これで二作目ですが、作品によってこうも異なる相貌を見せてくれるのか、と恍惚としてしまいました。その筆力に、ひた…
2016/03/07 12:38 退会済み
管理
[良い点] 紙応えのある文章、纏った空気、十二分に堪能させていただきました。 二段落目の描写により、鏡に映る光景を非常に受け入れやすく、描きたい世界と文章の一致に心を込めて執筆していらっしゃるのだろう…
2015/04/10 18:03 退会済み
管理
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