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残照
作:まったりorz


 夕暮れだ。空は燃えるように赤い。いつの間に季節が変わったのか、少し前ならばもう夜の帳が下りてきている時間なのに、最近はやけに日が落ちるのが遅い。章子は赤く滲む空をじっと見据えた。

 章子の住む家から少し離れた所にその森はあった。森という程のものではないかもしれない。住宅街を抜けて小高い丘を登ると、鬱蒼とした木々が生え、光は暗い緑に遮られ昼間は薄暗い。森にしては小規模なその場所は、夕暮れの時だけ、傾いた西日が木々の間に差し込み幻想的に彩られる。
 その森の終着点は、隣町をはるか下に見下ろす事の出来る章子の秘密基地だ。くすんだ緑の雑草を踏み分け、木々の合間をぬって進むと、唐突にその緑が途切れる。途切れた先は断崖だ。
 その断崖に立ち尽くして、真っ赤な夕陽が静かな町の先のもっと静かな所へと沈んでいくのを見るのが好きだった。町は赤く赤く染まり、まるで燃えているようになる。その赤い陽を全身に浴びながら、あぁ、自分も燃えているのかもしれない、と、一人うっとりするのだ。

「いつになったら本当に燃えると思う?」

 ただ夕陽に見とれていた章子は、ふと思い出したように、隣に居る凛一に声をかけた。凛一の返答はない。ただ困ったように首を傾げるだけだ。気怠い生温い風が章子の後ろから吹いて、凛一のシャツを揺らした。

【残照】

 凛一は口数の少ない男だ。章子はたまにそれに嫌気を感じるが、それでも口喧しくつまらない話をしてくるクラスメイトに比べれば全然ましだと思っている。凛一はいつも曖昧な笑みを浮かべるだけで、章子の言動に何を言う訳でもなく、ただ後ろをついてくるだけの存在だった。
 ……影みたいな男。そう、凛一はまさに影みたいな男だ。何を言うでもなく、曖昧な笑みだけを貼り付けた男。章子は、凛一が楽しそうに笑っている顔どころか、クラスメイトとまともに会話をしているところすら見た事がない。同じ高校に入って、ほんの少し背も伸び大人びた凛一に、興味本位で話しかける女子を何度となく見たが、やはり彼は章子の後ろで静かに微笑むだけだった。たまにしつこい女子に掴まってしまうと、凛一は困ったように顔を伏せて消え入りそうな声で、うん、そう、と小さく答えた。そういう女々しい態度は、少し章子を苛立たせた。

「ねぇ、もっと毅然と出来ないの?」

 呆れたように章子が言うと、凛一はやはり地面を見つめたまま曖昧に笑った。この男はいつもそうだった。章子は、もう何年も凛一と共に行動しているが、まともに会話したこともなければ、目が合った覚えもない。凛一はいつも何かから、もしくは世界の全てから目を背けている、何度もそう感じた。章子は一度、ふとした思い付きから凛一をからかった事がある。

「そんなに下ばっかり見て、何か面白い事でもあるの? 影にでもなりたいの?」

 凛一は目を伏せたまま微笑むだけだった。ただ、その影のような彼も唯一顔を上げることがあった。それは赤く染まる空を眺めるときだ。二人で木々の影を踏み分け、その秘密基地を見つけたのは、春のことだった。薄緑の柔らかい匂いに包まれ、アザミや蛇苺の花が色とりどりに揺れた。その色が静かにオレンジに包まれはじめた時、章子は初めて凛一が顔をあげるのを見た。伸びた前髪から覗く端整なつくりの顔立ち、青白い頬も夕陽を浴びて火照っている。黒い瞳は柔らかい光を反射させ、静かに輝いた。章子は惹きこまれる様にその横顔を見つめた。凛一の先に見える空は、炎の先のような橙に染まり、途切れ途切れの薄雲はまるで火の粉を散らしたかのように茜空を彩っている。そんな眩暈を覚える程の空に抱かれる凛一は、燃えているようだ、と章子は思った。

 
 その限られた時間の中にだけ存在するかのような世界に章子は惹き込まれた。鮮やかに燃える空、町、そして凛一。普段は影のように顔を背けている凛一は、この限られた世界にだけ存在する世界に居たいのかもしれない。そう章子に思わせる程、赤く染まる世界を見つめる凛一の目は、真剣そのもので、また章子の目に映る世界は魅力的なものだった。それはいつしか日課のようなものになり章子は、やっとつまらない日常から楽しみを見つけた嬉しさに憑かれたように森を進むのだった。凛一も何を言うでもなく章子の後ろを影のように随った。

「ねぇ、いつになったら本当に燃えると思う?」

 恍惚として赤く染まる町を見下ろしていた章子は、ふと隣で空ばかり見つめている凛一に問うた。凛一は、不意に自分に向けられた言葉に、戸惑って視線を泳がせた。そしていつものように目を伏せて、影のような男へと戻った。髪の隙間から覗く、あの曖昧な笑みの形に歪む唇を見て、章子はまるで自分がその世界にすら認められていない存在であるような気分になって、苦々しく吐き捨てた。

「相変わらずね。つまんない男」
  
 ……久々に美し茜空を見る事が出来たというのに。何だか白けてしまった。章子は苦い気分で、オレンジの影をさした凛一のシャツが揺れるのを睨んだ。長い梅雨がやっと終わり、この森も久々に燃えるような夕陽を浴びる事が出来るのだ。静かに咲く花も変わった。野罌粟や待つ宵い草の黄色い花が陽を受けて色濃く影を落としている。病に冒されたような山百合もまた甘く香った。

「つまらないよ。僕はここから見える夕陽以外興味が持てない人間なんだ……」

 夕暮れも影をひそめた頃、ぽつりと呟いた凛一の声が章子に届いたかは定かではない。章子は空が次第に色を失い始めると同時に、さっさと踵を返して行ってしまったから。森の終わりには、凛一の影と夏草の匂いが薄く揺らぐだけだ。

 それから凛一が自分の後をついて来なくなっても、章子は何とも思わなかった。別に凛一が何を思っていようが、何を望んでいようが、章子にとって、それははどうでもいい事だったから。凛一は学校に来るのをやめてしまったらしい。病気だとか家の事情だとか様々な憶測が飛び交ったが、それはくだらない噂に過ぎない事を章子は知っていた。凛一はあの森に居るのだから。章子が夕空を見に行くと、凛一はいつも木陰に座って夕陽を眺めていた。そして、章子が話しかけるとやはり曖昧な微笑だけをかえし、すぐに視線を空へと返した。町は相変わらず赤く燃えた。章子は、夕陽に染まる空よりも、この燃えているような町を見るのが好きだと思った。

 全てが燃える、燃やされる、薄い炎の膜の中にあるようだ、章子はそう思うと楽しくて仕方がなかった。

 その日の夕陽は今までで一番見事なものだった。凛一はいつものように、月桂樹の根元に寄りかかるように座って、夕陽を見据えている。季節外れの芥子の花弁がその傍で色褪せて散っているのも陽を浴びて鮮やかに赤く滲んだ。夕暮れだ。空は燃えるように赤い。いつの間に季節が変わったのか、少し前ならばもう夜の帳が下りてきている時間なのに、最近はやけに日が落ちるのが遅い。章子は赤く滲む空をじっと見据えた。森も葉陰にゆるやかな赤い空気を満たしはじめる。

 章子は断崖に立ち尽くして、真っ赤な夕陽が静かな町の先のもっと静かな所へと沈んでいくのを見た。町は赤く赤く染まり、まるで燃えているようになる。その赤い陽を全身に浴びながら、あぁ、自分も燃えているのかもしれない、と、一人うっとりするのだ。

「いつになったら本当に燃えると思う?」

 ただ夕陽に見とれていた章子は、ふと思い出したように、隣に座る凛一に声をかけた。凛一の返答はない。ただ困ったように首を傾げるだけだ。気怠い生温い風が章子の後ろから吹いて、凛一のシャツを揺らした。そのシャツも、袖から覗く青白い腕も赤い陽に照らされて美しく揺らめく。柔らかい炎に包まれているようだ、章子は曖昧な笑みを作ることさえやめたらしい凛一の態度に苛立つこともなく赤く染まる世界に心を奪われた。

「この世界がずっと続けばいいのに」



 
 空の色は静かに変わり始めた。べったりとした炎に照らされていた町は、気だるい夏の空気だけを残して、静かに夜の濃紺に鎮火されはじめる。章子は静かにざわめく薄闇とともに黒い影だけが濃くなった森を振り返った。森の先はきっと夜が来ているのだろう。凛一は木の根に背中をあずけたまま、じっと座りこんでいた。彼はもう、その木の影になってしまったらしい。章子は凛一をそこに残したまま森の中へと踵を返した。

 踏みしめる水気を含んだ夏草が靴底へと纏わりつく。まだ昼間の生命力を残した草木の匂い、土の匂いが暗い空気に詰め込まれている。あの夕陽ではきちんと燃え尽くせなかったのだろう。その生温い夜風に混じって、章子は凛一の匂いを感じた。それはきちんと夕暮れに焼け爛れた匂いだった。薄暗い森を踊るように歩く章子に影はない。凛一の腐乱していく匂いも、この鬱蒼とした森の呼吸の中に消されてしまうだろう。
















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