曾祖父が死んだ。九十八歳であった。明治の末に農家の三男として生まれた曾祖父は、大正から昭和にかけての日本の勃興もどこ吹く風に、ただその若い年月を田畑の世話に費やして、生地を離れることなく五男二女をもうけた。そして中年にさしかかる頃、老いた兵隊として新潟の守備に従軍し、幸い外地へ赴くこともなく無事に家に戻ることができた。しかし二人の兄は華南と南洋で戦死した。家督を継いだ曾祖父は、以来維新前からの土地を守って、ついに自らの生まれた村を動くことがなかった。その曾祖父が生前に、何度か私に語った不思議な話がある。
曾祖父が九歳になるかならぬかのころ、曾祖父の祖母が亡くなった。天保年間に生まれたその女性がどのような人であったかはわからないが、曾祖父が言うには、ただとても優しい人であったという。
当時の家は菊見川という川に沿った小里という村にあり、焼き場と墓地は川のずっと上流にあった。そして奇妙に聞こえるかもしれないが、村の墓地は当時まだ新しかったのである。この北陸の山と海が迫る狭い土地には古い風習が長く残り、明治の中期までは人が死んだときに小舟を組んで川に流していたのだそうだ。当然海へ出た小舟は陸に戻らずに沈まなければならないが、潮を読んでうまく外海に出るような時を選んだらしい。ただ曾祖父の祖母が死んだ大正年間には、そのような風習はすでに廃されていたそうだ。ところが、である。
焼き場で棺を燃やし、骨を持って家に戻った日の晩のこと、幼い曾祖父は一人屋根裏で布団に入っていたのだそうだ。すると屋外に何かの気配を感じた。不審に思って窓辺から外を覗くと、一個の青い人魂が村外れからふらふらと入ってきたのである。人魂は斜向かいの一軒に近寄ると、ついと消えた。するとその家の戸口が開けられて、四角い光に人影が立つのが見えた。しかしそれ以上は何事も起こらない。しばらくすると戸は閉められた。そうすると消えていた人魂がまた現れて、今度は向かいの家の入り口に向かって飛んでゆく。その家でも同じことが起こった。曾祖父が息を殺して見ているうちに、人魂はついに曾祖父の家へ向かってきて、屋根裏の窓の死角にすうっと入り込んだ。
どんどんどん。扉を叩く音がしたそうだ。小さく、だが屋根裏まではっきり聞こえたらしい。階下で大人が立つ音がして、屋根裏の窓辺に冷たい風が起こった。引き戸を開けたのである。言葉はわからなかったが、大人が何事か外に呼びかけるのが聞こえ、それから小声で喋る声が続いた。しばらくして風が止まった。曾祖父が外に目を戻すと、軒下から青い光がふらふらと現れて、家の横へ回りこんでどこかへ行くのが見えた。
曾祖父は直感したらしい。あれは祖母の霊であると。死出の挨拶に、世話になった各戸を回っているのだ。だが祖母は皆に会えたのだろうか。黄色い光が漏れ出す戸口に、逆光の家人を見て、それでもう満足なのだろうか。それにそもそも、自分は祖母に挨拶していない――。
そう考えた曾祖父は、窓のつっかい棒を外して外に出た。まだ体重の軽かった曾祖父は、軒伝いに低いところを捜すと、そのまま庭に降りたらしい。家人は気づかなかった。光の消えた方へ向かうと、村外れの林の中にちらちらと浮かぶ光がある。曾祖父はそれを追って、河原に出た。
夏の夜だ。石ころだらけの川縁に、高く伸びたススキの穂が月の光を遮って、暗い足元はどうなっているかわからない。しかも裸足だった。人魂を必死で追ううち、川の音が近づくのがわかった。そして一株のススキを両手で分けて越えたとき、片足が急に水に落ちたのである。
あっ、と声を立てると同時に、後ろから誰かが着物を掴んだ。片手でススキを掴み、膝をついて河原に上がると、曾祖父の目の前に立つ祖母がいた。真っ白な死に装束を逆に合わせ、膝を曲げて軽く屈んだ祖母は、そのまま曾祖父を助け起こした。脇の川辺に月光が差して、小さな木船がつけられているのが見えた。船上には一面、白や黄色の菊の花が蒔かれていたそうだ。
ばあちゃん――
曾祖父がそういうと、祖母は片手を曾祖父の肩に置き、一方の手で優しく頭を撫でた。手は温かかった。そして終始無言だった。祖母が曾祖父を軽く抱き寄せると、老いた肌の臭いがした。
ばあちゃん、いっちまうのかよ――
祖母は微笑んだ。
いかないでくれよ、おれ、やだよ――
祖母は悲しそうな顔をして、小さく首を振ったという。
曾祖父は泣き出した。祖母は真っ白な袖で、それを丁寧に拭いてくれた。死者の装束に涙が染みるのが、なんとも不思議な気分だったらしい。そして曾祖父が泣きやまぬうちに、祖母は静かに歩み出して、船の上に腰を下ろした。櫂などはない。幼い曾祖父にも、祖母を止められないのはわかったという。祖母は船の上からまた曾祖父の頭を撫でると、菊の絨毯の上に横臥した。すると不思議なことに、誰が蹴るでもなく船は水の上に滑り出て、暗い闇の中に消えていったのだそうだ。
そのあと、松明を点けて子供を探しに来た兄や親戚に曾祖父はこっぴどく叱られた。また何が起こったか説明しても、皆本気にしてはくれなかったという。
そして、今度は僕がその曾祖父の死に立ち会ったのだ。
葬儀を無事に済ませたあと、翌日に仕事を控えた僕は、一足先に車で町へ帰ることにした。後片付に時間がかかり、霊前を離れたときは既に日が落ちて大分立っていた。村を出て県道に入り、橋を渡るところで菊見川の標識がライトの中を飛び過ぎた。そのとき僕は思ったのだ。今この川を、曾祖父の霊が乗った木船が流れていくのではないか、と。
僕は道を引き返して、橋の手前に車を停めた。ハザードを点けてライトを消すと、街灯の乏しい田舎の橋はもう真っ暗だった。僕は橋の中央に立って、上流の水面を見下ろした。川面は見えず、ただ豆を流すようなざあざあという音だけが響いている。
ひいじいちゃん!
僕は闇に向かって叫んだ。月明かりの下、ぼんやり光るススキの穂が、真っ黒い水面に沿ってほの白い絨毯を広げている。
ひいじいちゃあーん!
二度叫んだ。やはり何も見えなかった。と、そのとき、それまで凪いでいた空気を動かして、一陣の柔らかい風が橋の上を吹き抜けた。僕ははっとした。何も見えなかったが、そのとき橋の下を曾祖父が通った気がした。ススキの穂は動いていない。ここ以外、ずっと風はないのだ。
僕は振り返って、橋の下手の欄干に向かって走ろうとした。そのとき橋向こうのカーブを曲がって、ハイビームを点けた車がかなりのスピードでこちらへ走ってきた。僕は躊躇して道を渡るのをやめた。車が通過した。その瞬間、知らぬうちに僕の首筋を粟立たせていた興奮が急に冷めた。なにか空気が変わったのだ。僕は慌てて道を渡り、下流を見下ろしたが、そこにはもう何の気配もなかった。行ってしまった。
僕は落胆して車に戻り、溜息をついた。実際に何が起こったのか、確かなことを知る術はない。でもこれが僕に許された精一杯なのかもしれなかった。車を町へ走らせながら、僕はいつか曾祖父やその祖母と同じように、自分もどこかへ旅立っていくのかと想像した。未だに死者が川を下るのは、この土地に根付いた人々の古い意志のためか、あるいはそれを記憶して死ぬ者のためなのか。だが考えるのはやめた。いつか、いずれ、自然とわかる日が来るはずだ。あの曾祖父だって、九十年もかけてやっと今わかったのだろうから。
車は夜の県道を、人里の光へ向かってひた走った。 |