二の段 連接……2
岡崎と琢磨が科捜研、科学捜査研究班の報告を聞いたのは、野辺山教授の法医学教室を訪問した翌日のことだった。
佐々木麗子のミイラ死体が発見されて、三日が経過した。
科学捜査研究所でも、麗子の細胞などの詳しい検査がなされてた。だが、野辺山教授の見解となんら変わりのない結果でしかない。毒物などは一切検出されず、また刃物などによる傷もなく、首を絞められたという索条痕もない。結局、死因は特定されなかった。あとは、本人であることが最終的に確認されるDNAの解析結果待ちだった。
麗子の干からびた指にはめられていた結婚指輪は、夫・佐々木陽司と同じものであった。また、頭蓋骨と写真を照らし合わせるスーパーインポーズ法によってでも、麗子本人であることは一致していた。ただ、最終的な結論をDNA鑑定に依存しているわけだ。
事件性を示す目撃証言や物証は何ひとつ出なかった。
室内の指紋も、佐々木洋司、麗子、希実以外のものは発見されていない。
岡崎の部署内でも、早くも事件性ナシ、という動きになりつつある。他にも抱える事件は多くあって、変死事件ではあるものの、特異な死亡状況からみても殺人などでの立件は難しいという見解に落ち着きつつあった。
まさか解剖所見に従って、非現実的な捜査を行うわけにはいかない。
岡崎も今は違う仕事に忙殺されていた。
二件の傷害事件の調書がたまっている。岡崎がもっとも不得意とするのはデスクワークだった。不備を指摘されるのは日常的なことで、これは刑事の仕事ではない、と公言しているくらいだ。
インスタントコーヒーを片手に悪戦苦闘する岡崎の右肩を、刑事課の課長・久保が叩いたのは、ちょうど昼の休憩まであとわずかという時だった。
「まだ、完成してなかったの? 岡サン。悪いけど、放火殺人」
「聞こえませんでした」
岡崎はペンを走らせながら、顔を上げずに言い返した。
久保も負けずに、今度は岡崎の両肩をしっかりつかんで揉み始めた。
「まあまあ、岡サン。そう言わずに行ってくれないか? 行けば、調書の提出期限が、少しのびることになるんだがなぁ」
滅多に声を荒げることのない寛容な上司だった。目尻が下がっていて、ふっくらと大福餅を連想させる丸い体型も、久保の温容な人格を強調している。およそ刑事課にいるとは思えない風体だが、仕事に対する姿勢は誰よりも厳しい。勧善懲悪を地でいく性格だ。影で「お代官様」と呼ばれていることは、さすがに久保の耳には入っていないはずだった。
岡崎も久保に対しては安心して冗談も言えるし、信頼もしていた。
「調書の提出期限が延びても、その間に別の仕事してたら、一緒でしょうがぁ」
斜め向かいで、同じく調書を書いていた琢磨はすでに立ち上がっていた。
「後輩さんはヤル気満々だ」
腰の後ろに手を回しながらすでに踵を返した久保をみて、岡崎は舌打ちした。冷めたコーヒーを一気に喉に流し込むと、机の上に散乱した書類を片付けた。
「約束ですからね、課長。提出期限は延長です」
「聞こえませぇん」
久保は笑いながら、他の捜査員たちにも声をかけていた。調子がいいのはいつものことだが、それに上手くのせられている自分も、どうかと思っていた。しかし、仕事とあれば仕方がない。少しくらい警察官を休ませてくれてもいいはずだった。事件の解決のために奔走しても、警察は何をやっているんだという非難が常に付きまとう。そういう時は遣り切れない思いを抱え込んで酒に訴えるしかない。
「どうだ、琢磨。今夜あたり、行かんか?」
コップを煽る真似をして琢磨を誘ってみたが、当の後輩は即、首を横に振ってきた。
「僕、デートなんです。岡崎さんも、たまには早く家に帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「うるせ、余計なお世話だよ」
琢磨の後頭部に平手をぶち込んで、岡崎はため息をついた。
家に帰ったら、妻の綾子と喧嘩が待っている。もっぱらの話題は、高校三年生になった長女と、中学三年の次女の進路だ。高学歴を望む綾子と、叩き揚げで刑事を勤めてきた岡崎とでは、こと学歴という価値観に関して言えば北極と南極ほどの距離の開きがあった。
「現場はどこだ?」
捜査員の一人が、車のキーを手に駆け出した。
「大崎町三丁目の雑居ビルです!」
*
岡崎が担当になったのは、早朝におこった放火殺人事件だった。
燃えたのは、大通りの抜け道として利用される狭い道に建っているビルだった。道幅が車一台分であったこと、夜間の路上駐車が常習であったことなどから、消火活動がかなり難航した。火を消し止めてから、無人と思われていたビルから遺体が発見されるまでにも、少し時間を要したらしい。
一番烈しく燃えていたのは、雑居ビルの入口だった。そこから、黒く煤けたビンが発見された。
雑居ビルに投げ込まれた火炎瓶が、運悪く管理人室の前に積まれていた廃品回収の古新聞に燃え移ったというのが、現在のところの見解だ。
被害者は雑居ビルの管理人だった。
管理人室はビルの一階にあり、四畳半の小さな窓のない部屋だった。本来なら、納戸として使われるはずの狭い部屋は、消防法からみれば違法ともいえる造りになっている。そこを管理人は勝手に自分の部屋としていたらしい。
いつもなら不在であるはずの管理人は、その日偶然、家賃を滞納していた契約者に督促状を叩きつける目的で部屋に泊まっていた。家賃を滞納している焼鳥屋の主人が、営業終了の深夜二時、最後に管理人に会ったと証言している。出入り口が一つしかない部屋の唯一の逃げ道が燃え上がったために、管理人は部屋に閉じ込められ、あっという間に炎にまかれて死亡した。
「ひでぇな、こりゃ」
岡崎は煤けた古い雑居ビルを見上げた。五階建てのビルは現在すべて賃貸契約が結ばれて空きなしだった。一階には管理人室と焼鳥屋、二階が消費者金融、三階が東山芸能プロダクション、四階と五階がアパレル会社のようだった。一階の焼鳥屋はビルの裏手、一筋向こうの道路沿いに入口が設けられている。ちょうどエレベーターと階段の向こう側に、完全に独立した形で店が一軒あるのだった。
岡崎は一階にある集合ポストから上を見上げた。
一階と二階へ続く階段は、真っ黒に焼けていた。焦げた臭いが充満し、いまだ漂う煙に目が痛くなる。ポストも一部炎の勢いによって歪んでいた。最もひどいのは、管理人室だ。燃えるものは、すべて燃えつくしたといっていい。
おそらく管理人は眠っていたに違いない。起きていたとしても、外に出ることは不可能であったし、火にまかれるか中毒を起こすか、どちらにしても逃げることはできなかったはずだ。
琢磨はハンカチで口元を覆ったまま、眉をひそめた。
「確信犯ですかね」
「さあ、どうかな。どんな恨みを持ってたか知らんが、ひでぇ犯人だ」
「ですが、管理人が泊まっているこの日を選んだんですから」
「決め付けちゃいかんぞ。憶測とか思い込みってのが一番怖いんだ。偶然、とか、運が悪いってヤツも、この世にはあるんだからな」
岡崎は再び雑居ビルを見上げた。
理由はなかったが、空気が澱んでいるように思われた。焦げついた臭いと、そこから立ち上る煙に、気持ちが沈んでいくのが分かった。
見ず知らずとはいえ、人が命を理不尽に奪われるというのは、何度経験しても気分のよいものではなかった。 |