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怨嗟の輪廻
作:暁さくや



二の段 連接……1


 雨が降っていた。
 今年は六月になったばかりだというのに、梅雨のはしりだとかでよく雨が降る。五月の末から毎日のように降り続き、どこの家の中にも、きっと洗濯物が衣料品売り場さながらに陳列されているに違いない。
 岡崎はコーヒーカップを片手に、窓から音もなく、しとしとと降る雨を眺めていた。
 佐々木麗子はその特異な死亡状況から、検死の後、即日、司法解剖に回された。監察医務院という施設があるのは、東京特別区・大阪・名古屋・横浜・神戸の五地域のみで、他の地域は法医学教室に委託することになる。
 岡崎のいる法医学教室の窓からは、この字形に建っている創英大学医学部の校舎が見渡せた。時計はちょうど一時をさしていた。三コマ目の講義が始まるころだ。白衣を着た学生や研修医が歩いている姿が見える。
 岡崎はぬるくなったコーヒーを飲み干して、応接用のソファーに身を沈めた。
 教授の部屋はどこにでもある事務室のようにも見えた。
 沢山のトロフィーや表彰状らしきものが並んでいる以外は、棚にびっしりと本やファイルがあるだけで何もない。並んでいる本は法医学や医学関連だけでなく、一般の文芸書から、何故か野球やスキー、テニスなどのスポーツ関連の本まである。かなり雑食な読書家らしい。
 本だけはきちんと整理されていた。雑誌などは几帳面にも発刊順に並んでいる。
 ただ机の上は違う。パソコンの周囲にも本や書き殴ったメモ、食べかけのサンドウィッチなどが散らかり放題で、一体いつ片付けたのかと問いただしたくなる。
 きっと本は助手あたりが片付けているのかもしれない。
 相変わらずわけが分からん人だ。声を出さずに岡崎は呟いた。
 創英大学医学部法医学教室教授・野辺山哲(のべやまさとし)とは、岡崎が土岐河警察署に配属になって以来の知り合いだった。事件で出会ったあと、偶然にも親戚の葬儀で再会し、互いの妻が再従姉妹であることが判明した。
 以来、親しく付き合うようになったのだが、いつ来ても野辺山の周りが片付いていたことなどなかった。岡崎はこの机の上と似たような場所を思い出さざるを得なかった。
 昨日、事件のあったマンションの和室で見た光景が、どうにも頭から離れない。
 干からびた死体がどうやら脳裏に焼きついてしまったらしい。
 岡崎はポケットから手帳を取り出すと、間に挟んである一枚の写真を取り出した。女が一人、写っている。
 遺体は干からびて人相も分からなかったから、岡崎にとっては、写真を手にして初めて麗子に対面した気分だった。
 化粧っけが全くない。眉も少し薄かった。髪は後ろにひとつに束ねている。美人とはいえないが、とても綺麗に笑っていた。
 この写真は背景を消して人物だけを取り出した合成だが、実物は違う。実際は産院の病室で、佐々木麗子が生まれたばかりの赤ん坊・希実を抱いて微笑む写真だった。
 女は子供を生んだばかりが一番美しいという。偉業を成し遂げた満足感と充実感で、マシュマロのように優しく笑えるのだ。岡崎の妻、綾子だって、今は目を吊り上げて亭主を締め上げているが、二人の子供を生んだ時は同じ顔をしていた。
 日付は十一月二十一日。写真の下に、産院の名前がある。写真は、独身時代のもの以外は、これしかなかった。産院を訪ねると、写真は記念に看護師が撮ったものだという。麗子は希実をたった一人で産んだのだ。たった一人で産んで、一人で育てていた。
 赤ん坊はあのあと乳児院に預けられたが、機嫌よく過ごしているとさっき聞いたばかりだった。
 それだけが救いだな。
 岡崎は赤ん坊の寝顔を思い出して、表情を柔らかく崩した。
 少し角ばった顔はどう見ても厳つくて、娘二人には「塗り壁」だと敬遠されるようになってきた。一係でも強面で通っている。気安く話しかけてくるのは琢磨くらいで、岡崎は珍しく神経の太い新人だと思っていた。
「やあ、待たせたね」
 待ち人がやってきたので、岡崎は手帳をしまって立ち上がった。
「結果は?」
「相変わらず急くねぇ、岡サン」
「さんざん待たしといて、そりゃねぇだろうよ」
 白衣を着た男が立ち上がった岡崎にかまう風でもなく、向かいのソファーに腰を下ろした。テーブルに、まるでごみを捨てるように紙の束を投げ置く。
「ほい、報告書」
「野辺山さんよ、簡単に説明してもらえると有難いんだよ。この足ですぐ行きたいところもあるしな」
「まあ、座りなよ」
 野辺山は笑いながら、白衣のポケットからタバコを出して火をつけた。体を起こして自らの膝の上にひじを乗せ、岡崎を見上げる。
 白衣はアイロンもあたっていないし、一体いつ洗濯したのだと問いただしたくなるような汚れもついている。白衣の下はラフなポロシャツにジーンズで、これでよく教授として教壇に立っているな、と肩書きを疑いたくなる風体だ。それでも涼しげな目元は、とても岡崎と同い年とは思えず、白衣を脱げば精悍な中年にみえるだろう。適度に日焼けした健康的な肌は、スポーツマンを連想させる。
「で、アレは他殺? 事故?」
 岡崎は早口で尋ねた。要するに知りたいのは、事件性が在るか無いかなのであって、それさえ聞ければ用は足りる。
「だから、急かないでくれるかな」
 少しは休ませろよ、という言葉がそこに見え隠れした。岡崎も仕方無しに腰を下ろす。野辺山はゆっくりと一度タバコをふかしてから、声を低くして言った。
「人間業じゃ、ないかもな」
 周囲の空気の流れが一瞬、止まったようだった。録画再生を停止したのと、同じ感覚を岡崎は味わっていた。
 部屋は静かで、雨の音だけが響いてくる。
 野辺山は岡崎の反応を楽しむかのように、喉の奥で小さく笑うと続けた。
「結論から言えば、あの仏さんは完全なミイラだよ。ただし、あんなミイラは歴史上まれに見るだろうね。エジプト人もびっくりだ」
「ミイラじゃないってことか?」
「いや、法医学的に見たら、ということさ。岡サン、ミイラの作り方、知ってる?」
「知るかよ、そんなもん」
 岡崎は昨日の和室の状態を再び思い出して身震いした。
「エジプトではね、死体から内臓を取り出して、別の壺に入れるんだ。映画のハムナプトラ、見た?」
「知らん」
「なんだぁ、あれ、面白いよ」
 野辺山は眉をひそめる岡崎を見て、悪戯っ子のように微笑んだ。
「映画はおいといて、まあ、なんでそんなことするかっていうとね」
 野辺山は簡単にこう説明した。
 身体の腐敗が進行するよりも早く急激な乾燥が起きると、細菌の活動が弱まりミイラ化する。自然発生ミイラは砂漠の砂の中から見つかる事が多い。それは急速な乾燥をもたらす自然と、餓死による脱水状態であることによって、水分量が少ないという絶対条件が整うからだ。しかし、こういった自然のミイラは不完全なことが多い。死体の中で一番先に腐敗が進行するのは、外気に触れることのない内臓である。
「だから、エジプトでは内臓を取り出すわけさ」
「じゃあ、この佐々木麗子の場合は、完全なミイラになる、ってなことは──」
 野辺山は大きく頷いた。
「まず不可能だろうね。まあ、すごい偶然が天文学的な確率で起これば別だよ。だけどねぇ、春だしね、雨も降って湿気もあったし、死蝋っていうなら分かるけれど、三ヶ月もあの状態でいる──」
「三ヶ月?」
「そう、ミイラになるにはそれくらいはかかる。ああ、その前に餓死か脱水状態になってなきゃいけないし、さらに三週間は加えといて」
 言葉を遮った岡崎に機嫌を損ねるふうでもなく、野辺山は指で三をつくって顔を綻ばせた。
 餓死状態になるには、体格や脂肪の多さにもよるが少なくとも三週間はかかる。
「でもね、餓死、っていうのも考えられない」
 野辺山は一度吸ったきりのタバコを灰皿で押し消すと、報告書を指差した。
「読んでもらえばわかるけど、仏さんの死体の脳は死後一日、って所だった」
 岡崎は報告書に目を落としていた、その姿勢のまま硬直した。
 体は死んで三ヶ月はたっているのに、脳だけが死後一日?
 岡崎は心霊写真でも見るように、野辺山をゆっくりと見上げた。
「脳はね、溶けちゃうんだよ。聞いたことない? 脳死状態の人の脳は機能を失って崩れていくんだ」
 野辺山の表情が硬くなっていくのが、岡崎にも分かった。
 ミイラの作り方だの、ハムナプトラだの言っている、茶目っ気のあるところはあっさりと消え去り、代わりに、法医学の講義用の小難しい顔になっていく。
「まだ緊急検査結果だから、正確じゃないよ。でもさ、脳からは、大量のエンドルフィンとドパミンが検出された。それにグルコースだってたんまりあった。脳は確かに生きていたし、死んでいなかったよ、一昨日まではね」
 至極自然に聞きなれない単語を並べられて、岡崎は危うく聞き流すところだった。足の裏から、むずむずと蕁麻疹が広がっていきそうだったが、捜査のためとあればそれも我慢するほかない。
 岡崎は頬を人差し指で掻きながら、小首を傾げた。
「あのさ、野辺山ちゃん」
「分かってますって。だからね、脳からは、過剰なくらいの興奮物質が検出されたのよ」
 ドパミンはアドレナリンやノルアドレナリンの元になる神経伝達物質のひとつである。アドレナリンとは副腎で分泌されるホルモンで神経伝達物質の代表選手だ。心拍が上がるのも、アドレナリンが一役買っている。現在、仮説ではあるが、統合失調症(幻覚・妄想など)は、中脳辺縁系ニューロンのドパミン過剰によって生じるともいわれている。また、同様にエンドルフィンは体内で生産される天然の鎮痛薬であり、モルヒネそっくりの快感作用をもたらす脳内麻薬物質である。ある種の恍惚感をもたらすともいわれている。
「それと、脳はバカ食いなんだ。グルコースは、ブドウ糖、って言えばいい? まあ栄養なんだけどさ、人間が摂取した糖の四分の一は脳にいくんだぜ? それに等しい分の糖は確保されていたようだから、頭に限って言えば、餓死したわけじゃなさそうだ」
 野辺山は急に疲労感を感じでもしたかのように、肩に手を当てて首を左右に動かしながら、ソファーに体を沈めた。
 岡崎の中で昨日考えたことと、いま野辺山が言ったことが見事に一致していくような気がしていた。
 赤ん坊は生きていた。
 佐々木麗子の隣に寝ていたにもかかわらず、だ。
 つまり、佐々木麗子は三ヶ月かかってミイラになったのではなく、短時間でああいう状態になったと考えるほうが、すべて辻褄が合う。
 麗子の夫・陽司は言っていたではないか。
 ゴールデンウィーク明けに喧嘩をしたと。
 五月七日には、麗子は元気に喧嘩ができた。さらに、近所の目撃情報によると五月の二十九日、やつれてはいたが、麗子はたしかにベビーカーを押して散歩に出たらしい。
 そして、六月一日、ミイラとなって発見された。
 わずか三日。この三日の間に、麗子の身に何かがおき、ミイラ死体となった。
 岡崎はその話を野辺山にした。捜査上の秘密保持は義務ではあったが、この場合は例外だと勝手に決め付けた。だいいち、報告書をひとりで勝手に先に読みに来ていること自体、規則違反といわれても仕方ない。
 野辺山は話を顔色ひとつ変えずに聞いていた。
 話し終わった後、二人は沈黙した。
 相変わらず、雨の音だけが部屋に充満していった。廊下からも足音ひとつしない。講義が始まったのか、学生達の話し声もしなかった。
 静寂の中に、取り残されたかのようだった。
「おかしな話だな、岡サン」
 野辺山は再びタバコをポケットから取り出した。だが、それを吸いもせずに、一本を手にしたまま、しばらく弄んでいた。
「仏さんは、あっという間にミイラにされたわけだ。不思議なことに、脳だけが生きていた。体はミイラなのにね……でも少なくとも、死ぬ時は幸せだったろうよ。そういう結果が出てるしね、脳からは……だけど」
 野辺山は持っていたタバコを灰皿に押し付けた。火すらつけていなかったのに。岡崎はそれを指摘しようとしたが、次に野辺山から出た言葉があまりに非現実的だったので、呆然とした。
「泣いてたよ、僕の見た仏さんは、目が無いのにさ、涙流すんだぜ?」
 これを岡崎の脳が理解するまでに、たっぷり一分はかかった。
 何をバカなことを言っているのかと、返そうと思ったが出来なかった。野辺山がこのようなことを言うのは初めてではなかったからだ。
 野辺山は法医学教室の教授という地位を持つ、いわば科学者でありながら、非現実を肯定するに十分な経験も豊富だった。
「しきりに目を指差すんだよね、だけど、霊体が弱々しくて、声が聞こえない。そんな霊に会うのは初めてだな。強い人は犯人を教えてくれたりするからねぇ。まあ、たいていは現場にとり憑くみたいだから、一緒に死体といる人は滅多にいないけどね」
 野辺山は見えるのが当たり前で、何の疑問も持ちませんとばかりに微笑んだ。
 岡崎は、背中に氷塊を入れられたのではないかと思うほどの寒気を感じていた。岡崎にはおよそ霊感というものはなかったが、野辺山がこの話をする時だけは、いつも背中がむず痒くなるのだった。













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