跋の段 縁由
病室は静かだった。窓の向こうには青々と茂った枝が伸びていて、葉の一枚一枚に光の粒が転がっていた。
目蓋の上に光が落ちた。ゆっくりと目を開けると白いマス目のある天井がぼんやりと視界に入る。
息を大きく吸い込むと、引きつったような痛みが腹部を襲った。奇妙な違和感が腹部にある。身体も、自分のものであってそうでないような感覚だった。
生きていたのか……。
長い夢を見ていたようだった。生まれてはじめて見た怨霊が、いまだ横に座っているような気がして、背中に冷たい汗をかいた。
耳を澄ますと、静かだと思っていた病院は、小さな騒音に包まれている。行きかう足音、何かを移動させる音、遠くに響く放送、話し声。
「お父さん?」
聞きなれた声が岡崎を呼んだ。ゆるりと顔を横に向けると、ベッドサイドに綾子が座っている。そのうしろに、長女の佳織と次女の晴香がいた。
綾子は随分年をとって見えた。いつも化粧は薄いが、今日は何もしていないらしく、目尻のしわが妙に目立つ。佳織が綾子の肩に手を添えて、「よかったね、お母さん」と言う。三人は肩の荷を降ろしたように、視線を交し合って微笑んだ。
「すまなかったな」
いつもなら口にしない言葉を、岡崎は素直に言った。なんだか、とても家族に対して悪いことをした気分だった。今までだって別段いい事をしてきたわけではなかったし、あまり家族を大切にしてはこなかった。それ以上に、今回の事件で心配をかけてしまったことが、とても悪いことのように思えた。
綾子が驚いて口をあけていた。
「珍しい、お父さんが謝ったよ」
「お父さん、変になっちゃった」
娘二人が茶化すように笑っている。
「まったく、久保さんから電話をもらった時は、お父さんの保険証書をどこにしまったか、思い出すのに苦労したわよ」
「やだ、お母さんたら、素直じゃないよ」
「ホント、真っ青になってたんだよ、お母さん」
娘たちの明るい笑い声と、岡崎と同じで素直でない綾子をみていると、心底死ななくてよかったと思えた。
岡崎には、生きて、家族のために何かをする時間がまだある。死んで、歯噛みをしながら、子供たちの未来を心配する必要などない。生きていれば、いくらでも娘たちの未来に手を差し伸べてやることができるのだ。
麗子の気持ちが、今になって理解できた。
守りたかったのは希実の未来だったのかもしれない。死んでしまった自分にはできないことを、託せる者を探し出すことに全精力を尽くして逝ったのだ。
助かったのに、胸が痛んだ。
いまだ、名前すら知らぬ怨霊が見せた最後の慟哭の声が、耳に残っているかのようだった。
*
綾子たちが帰ったあと、再び小さなノックの音がして遠慮がちに病室の扉が開いた。
岡崎が顔を向けると、入ってきた人物は顔を綻ばせた。
「ああ、気付いていたんだね、岡サン」
野辺山は淡いピンクのタオルを胸に抱いていた。
「もう大変だよ、岡サン。親、一年生、一日目は本当に慌しく終わってしまった」
ベッドのそばに腰を下ろした野辺山は、胸に抱いていたものを岡崎に見せた。
ピンクのおくるみに包まれた希実がいた。桜色の頬は艶があった。きょとんとした顔をして、笑いかけもしないが、大人しく野辺山に抱かれている。
「やっぱり、このおくるみがお気に入りでね」
「元気そうじゃないか」
「そりゃそうだよ、祟られないように、大切に育てているからね」
「麗子さんは?」
野辺山は黙って首を横に振った。
「あのあと、消えてしまったんだよ。久保さんがやってきてね、僕も事情を説明しているうちに、見えなくなってしまったんだ」
酷く、残念そうだった。
「琢磨は?」
「彼は治療中だ。元気、とはいえないが、かなり貧血もあるし、栄養状態も悪いようだよ。左の手首は酷い内出血だが、こっちは大した事ないから」
岡崎は息をついて枕に身をゆだねた。
すべてが終わったのかどうか、それすらも定かでない。自身が見て、聞いたことは未だに信じられなかったし、誰かに夢でしたよ、と言われれば、簡単に鵜呑みにしてしまいそうだった。
「岡サンも刃渡りの短い果物ナイフだったから、大事には至ってないんだよ。しかし、よく分からないが、何で、岡サンの腹にナイフが突き立ったの?」
「麗子さんじゃないかな。少なくとも、俺はあの時本気で希実ちゃんを刺そうと思ってたし」
「ほんとに?」
怪訝そうに覗き込む野辺山に、岡崎は苦笑いを返した。自分自身でもよく分からないからだ。ただ、希実が死ねば怨霊が琢磨にたたる意味もなくなるだろうと、それだけは考えていたかもしれない。
「それより、大丈夫なのか? 希実ちゃんを育てるなんて安請け合いして。真理子さんはなんて?」
「真理子は人が変わったみたいに優しくなったよ」
岡崎は目を丸くした。
「それに関しては、詳しく聞かねえことにしようかな」
二人は心の底から笑いあえた。
「でもよ、野辺山ちゃん。あの怨霊は消えてなくなったわけじゃねえだろ? いつも希実ちゃんのそばに、いるんじゃねえのか?」
「それならそれで、いいよ」
野辺山は見たこともないような優しい目を、希実に向けた。春の日差しの下で咲き誇った桜でも、見ているかのようだった。
「僕と真理子にも、これでよかった気がするんだ。いままでも幸せだったが、これからまた違う幸せをもらえたわけだ。どんな因縁か知らないけれど、ね。麗子さんも、はじめからそのつもりだったんだろうしね。そう考えると、今まで喉につかえていたものは、全部消えてしまうんだよ、岡サン」
「確かにな……」
岡崎は点滴の針が固定された左腕を上げて、頬をかいた。
「しかし、あれだね、岡サン。子供を育てる、ってのは、とてつもなく大変なことだね」
左手で希実を抱きかかえ、野辺山は右手の人差し指を立てた。
「まず、部屋の掃除だ。希実は、もう這い這いするんだよ。これがイカン。床に物を落としておこうものなら、希実がわざわざ立ち止まって手にするじゃないか! つかまり立ちしてウイスキーのビンを倒すし、スリッパをかむだろう? テレビのリモコンはおしゃぶり代わりだ……それでだね、離乳食、と言うのがまた、困りもんだ」
野辺山の口から子育ての大変さを延々と聞かされるとは思ってもみなかった。よくそこまで観察したなと感心するほど、野辺山は希実の一挙手一投足を事細かに話して聞かせてくれる。まとめて一冊の論文にでもすれば、かなり実用的な育児書が出来上がるのではないかと、密かに考えて岡崎は心の中で失笑していた。
「ああ、野辺山ちゃん。タバコをやめないと、いけないんじゃねぇか?」
野辺山は小さく眉を寄せ、人差し指を振った。
「そうだよ、それが問題だよ」
その時、希実が小さな声をあげた。まるで、野辺山の苦悩に返事をしたかのように、じつにタイミングのいい声だった。
「声、出したよ。聞いたかい? 岡サン」
岡崎も目尻が下がった。
「聞いたよ」
「まだ笑いはしないけどね、思っていたほど、異常さは感じないんだよ」
希実が小さな手を伸ばす。何かを掴み取ろうとでもするかのように、おくるみの中から腕を出した。病室の空を希実の大きな黒目が、ゆっくりと左から右へと移動していく。
「何を見てるんだろう?」
岡崎もベッドから身を起こして、希実を眺めた。
「知ってるかい? 幼い子供には、霊が見えるんだってさ。でもちっともおかしな事じゃない」
野辺山は希実が見ている病室の天井に視線を移した。
岡崎には、ただの白い天井にしか見えない。ただ、そこに、麗子と、名も知らぬ女の姿があるような気がした。
佐々木希実が、野辺山希実になるには、まだ法的な手続きが残っている。
だが、それも遠い未来ではない。
── 了 ──
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