八の段 干戈……3
騒然とする瀬地矢愛育園をあとにした岡崎と野辺山は、琢磨の家へと取って返していた。今、あの老婆が行く場所は二つしか考えられない。
一つは、土岐河城址、わかくさ公園。しかし、こちらは考えにくい。身を隠す場所もすでになく、まさか、閉じ込められていた洞窟に籠るとは思えない。
もう一つは琢磨の家だ。
老婆の目的が赤ん坊だったことは分かった。目を抉られて殺される前、老婆は赤ん坊を抱いていた。赤ん坊に対して思いを残して死んでしまい、代わりに希実を我が子にしようとしているのかもしれない。
「つまりさ、野辺山ちゃん。怨霊は希実ちゃんを取り込んでる、ってことか?」
「いや、希実ちゃんは明らかにおかしい……赤ん坊にも霊がとり憑いているのか……だとしたら、分かりやすい。希実ちゃんにとり憑いているのは老婆の抱いていた子供の霊じゃないかな。希実ちゃんを奪い、自分の子供の霊を宿らせた」
「だとしたらなんてヤツだ。赤ん坊を奪われる苦しみを知っていながら、麗子さんから希実ちゃんを奪ったってのか?」
「そうなるね……」
乱暴に踏んだアクセルで、野辺山の腰が軽く浮く。
「怒るのはわかるけど、安全運転でね、岡サン」
「免停になったってかまいやしないさ」
左にハンドルをきった途端、タイヤが道路と摩擦を起こして甲高い悲鳴をあげた。今度は道を間違えずに、琢磨の住むワンルームマンションに到着する。さっきと同じ管理人から鍵を借り、エレベーターに乗る前に課長の久保に電話を入れた。
「岡崎です。琢磨が怨霊につかまりました。佐々木希実も奪われています。すぐに琢磨のマンションに救急車の手配と、誰か、寄越してもらえませんか?」
一息に話す岡崎の切羽詰った口調に、電話口の向こうで久保が息を飲んでいるのが手にとるように分かった。
「わかった。こっちも収穫があったんだぞ、岡サン」
「もしかして、身につけていたものですか?」
「そうだ。平沢幹夫はどうやら誰にも会っていなかったらしいが、いま、一人目の犠牲者、相沢美登里の家族に確認してきた。ちょうど、死ぬ一月前頃から、首に紅いチョーカーをしているのを、妹が見ている。高校にして行っていいのか、と訊ねたらしいんだ」
「首に? 琢磨は香坂と同じ紅い時計をつけられています。今から、向かいます」
応援が到着するのを待つようにと、久保が叫んでいたが、岡崎は電源を切るボタンを押した。応援が何人来ようとも、怨霊を前にしては同じことであるのは分かっている。
「どうする、岡サン」
「わからん。分からんが、琢磨を放っておくことなんかできやしねえさ……」
岡崎は笑っていた。こんな時になぜ笑えるのか、自分でもよく分からない。
死を、意識したことは、刑事という仕事がら何度もあった。けれども、こんなに間近に、こんなにリアルに死を意識したのは初めてだった。十年ほど前に大学の同級生を亡くした時以上に、「あの世」というものが扉一枚向こうに存在していた。
綾子の顔と娘たちの笑顔が脳裏に浮かんできた。思えば、いい家族だった。妻が三人いるようだと、いつも思ってきた。
幼稚園の時に描いてもらった、お父さんの似顔絵が思い浮かんできた。小学校の時の「お父さんと仕事」という作文は確か優秀賞をもらった。他にはどんな思い出があったろうか。どこへ連れて行ってやっただろうか。思い出せることが、案外少ないことに、岡崎は驚いていた。いつも帰りが遅くて、非番の日に夕食をとるくらいしか顔を合わさない。いつしか、子供達のことは綾子に任せっきりになっていった。
父親らしいことを何もしてやっていないな……
不意に岡崎は思った。
当たり前のように父親になったが、本当の親にはなっていたのだろうか。
「どうしたの、岡サン」
「悪かったな、野辺山先生。巻き込んじまったな」
「先に麗子さんに見込まれたのは僕じゃないか」
野辺山も笑っていた。
「麗子さんは?」
「いるよ」
今は涙を流していないという。
岡崎はエレベーターのボタンを押した。
*
鍵を開けると、ドアが軋んだような音をたてて開いた。
中は真っ暗だった。物音一つしない。まるで、そこだけが切り取った別世界のように思われるほどだった。
時計はまだ四時を回ったところだ。初夏の四時は、まだ日が高い。日没まではあと三時間はあるだろう。
さっきマンションに入る時、左側から日差しを感じた。ベランダの左側から日が差し込んでいることになる。つまり、マンションは南向きで、これほど暗くなるわけがない。
異様な暗さだった。闇に目が慣れ、しばらくすると辺りが見えるようになるのが普通であるが、琢磨の部屋は違うようだった。
皮膚がびりびりと逆立っていく。ぞろりとした不快感が背中を駆け抜けていった。
「琢磨?」
玄関を入ってすぐ脇に電気のスイッチがある。手探りで探し当て、スイッチを入れた。
点くはずがなかった。カチカチという音が、虚しく部屋に響く。
どうやら、老婆と希実はここに戻ってきているようだった。
その時、岡崎の右脇からすうっと冷たい風が流れ込んできた。人が動いた時と同じ、空気の流れだった。岡崎は息を止めて、右側をみていた。
「見えるの? 岡サン」
眉を寄せ、生唾を飲んでから、岡崎は肯いた。声が出せなかった。
佐々木麗子だった。身体の輪郭は仄かに光を帯び、そのおかげで周囲が見える。紫苑色とも藤紫とも見える淡い光が、麗子を包み込んでいた。
冷たい、体温のない光。
長い髪を後ろで結わえ、化粧っけが全くなく眉が薄い。卵形の顔には暗い影が落ちていた。無論、眼窩におさまるはずの眼球は失われている。ミイラ死体が着ていたのと同じ、白いTシャツにスカート姿だった。
空気が流れるのと同じくらいの存在感で、麗子が部屋の奥へと進んで消えた。
「……来たねぇ……」
引き戸の奥から、耳障りな声が響いてきた。
玄関扉が、大きな音をたてて閉まる。岡崎も野辺山も肩が跳ね上がった。
「帰さぬからね……」
闇の奥に、老婆が座っていた。隣で、希実が指を吸いながら腹ばいになって眠っている。右側に置かれたベッドがまた、こんもりと堆く山になって布団が被さっていた。そこには琢磨が座っているのだろう。
「琢磨をどうした? あいつは何をやってるんだ」
老婆はゆるりと顔をベッドのほうへと向けた。
「この男かい? さぁ……極楽へ行く、夢を見ておるのじゃよ。日常の苦痛から逃れて、平和で犯罪のない世界で、女と暮らしておるのじゃろうよ」
「何を馬鹿な!」
岡崎は怒鳴って足を踏み出した。
「おや、それはこの男の望んだこと。心底現世が嫌になって、極楽を望んだのよ。人の世は、とかく苦しみばかり。最後の時を、こうして幸せに過ごすことの、何が馬鹿だと言うのじゃ?」
赤ん坊のように膝を抱えて布団に隠れる琢磨を、岡崎はみた。
確かに、琢磨は潔癖ともいえる性格だったかもしれない。犯罪を憎んで警察官になったものの、かえって犯罪を目の当たりにすることが、琢磨のストレスとなっていたのだろうか。
愕然とする岡崎に、香坂義夫の姿が思い浮かんだ。
彼もまた、日常から逃れて、童心に戻り、車の模型に没頭したのだろうか。
「なるほど、だから脳だけは生々しく生きているわけだ。快楽で満たされた脳には、異常な興奮物質と麻薬が充満している。それは、科学的にも証明されているよ、岡サン」
野辺山が後ろから、いやに冷静に話しかけてきた。岡崎の眉間のしわが深くなる。
日常が嫌だから、逃避するのか。
「冗談じゃねぇ。そんなものは、生きているって言わねぇんだよ!」
はき捨てるように言って、岡崎は部屋の奥へと駆け出していた。暗闇の中、狭い台所を抜けて奥の部屋に入る。駆け込んで、琢磨のかぶっている布団を剥ぎ取った。膝に額をつけて蹲っている部下の腕をつかむと、力任せに引っ張った。
「岡サン! やめろ!」
野辺山の制止の声が耳に届くのと同時に、岡崎は自らの体が急落下する時のように浮いたのを感じた。そのままベランダ側の壁へ投げ飛ばされる。大きな音をたてて、背中を打ち付け、床に落下した。危うく窓に激突し、突き破るところだった。
息ができず、激しく咳き込んだ。
野辺山が岡崎のもとへ駆けつけようと引き戸のあたりまで来たが、老婆がゆっくりと顔を向けてきた。
ちょうど、岡崎と野辺山の間に、老婆が正座する形になる。
「どうする? わらわを殺すかぇ? あの時のように、目を抉り、乳飲み子を取り上げ、座敷牢に閉じ込めるかぇ? どんな想いをして、息絶えるまでの二十五日間を過ごしたか、お前になど分かろうはずもないわ!」
老婆が大きく目蓋を持ち上げた。深遠の闇が、眼窩の奥に閃いた。
着物の裾を枯れ枝と同じ手で押さえ、優雅な仕草で立ち上がる。衣擦れの音すらしなかった。
「土岐河時実のように、狂い死にするかぇ? それとも、わらわの目を抉った正室、由宇のように、井戸に飛び込んでみるかい?」
「まさか……」
野辺山が苦しそうな声をあげた。
「まさか、なんじゃと申すのじゃ。そうじゃよ、土岐河の人間を根絶やしにしたのは、わらわじゃ。いい気味じゃ」
岡崎は腰に手を当てながら、ようやく顔を上げた。
闇の中にたたずむ女の深い怨念を目の当たりにして、体の芯が震えた。心臓が凍り付いて痛む。何度か咳き込んで、岡崎は懇願するように声を絞り出した。
「恨みを晴らしたんなら、それでいいじゃねえか。希実ちゃんを返して、琢磨を元に戻してくれ」
「恨みが晴れた?」
老婆は軋む音をたてそうなぎこちない動きで、岡崎のほうへと向きを変えてきた。壊れたロボットが、最後の電力を使って首を回したかのようだった。
「お前、知ったような口を利くじゃないか」
突然、琢磨がベッドの上に立ち上がった。琢磨の目には何も映っていないようだった。遠くを見据えて、口がわずかに開いている。ベッドから飛びおると岡崎の脇に立つ。琢磨は岡崎の胸元をつかんだ。首が締まって、岡崎は苦悶の声をあげる。
琢磨が顔色一つ変えずに、手に力を込めると、岡崎の身体はずるりと持ち上がっていった。
「岡サン、逃げるんだ。早く!」
引き戸に手をかけ歯噛みする野辺山を、老婆はおかしそうに眺めた。
「逃げる? ククク……どこへ逃げるんだい。お前達は、わらわの子のために生きてもらおうよ……ククク……恨みが晴れる? そんなことあるはず無いんじゃよ。土岐河を根絶やしにしても、城が戦で燃え尽きても、わらわの気持ちは晴れることなぞないのじゃよ」
「岡サン!」
野辺山の叫びも虚しく、岡崎は再び空を飛んでいた。人間の、琢磨の力とは思えなかった。いくら背の高い琢磨だといっても、岡崎を片手で持ち上げて投げ飛ばすなどとは常識では考えられない。
岡崎は、散乱したCDやディスクの上に、激しい音を立てて落下した。
声も出なかった。グキリ、と、何かが折れる音がする。
琢磨は操り人形の如く、何事も起きなかったかのように、またベッドに上がって膝を抱え込んだ。
老婆が、岡崎に駆け寄ろうと足を踏み出した野辺山を睨み返して牽制した。目がないのに、たしかに睨んでいるように見える。
睨まれると、ぬるりとした視線が絡みつくようだ。
「行かせぬ」
老婆が、滑るように移動した。骨と皮同然の腕を野辺山に伸ばし、首に手をかけようとした時だった。
希実が声をあげた。
音の出るボールを握りつぶしたような声は、徐々に泣き声に変わっていった。
老婆の動きが止まる。
野辺山はその隙を逃さず、老婆を突き抜けて岡崎のもとに駆け寄った。
希実が泣きじゃくっている。
ぐったりと意識を失っている岡崎を抱き起こした野辺山が顔を上げると、希実の周りが藤色の光に仄かに包まれていた。
「ライナスの毛布か……いや、もしかして……」
本当の母親の匂いに、希実自身が反応を示したのかもしれない。それとも、暗闇に反応したか……。
「岡サン、しっかり!」
岡崎は左肩を押さえて呻き声を上げた。
「折っちまった……」
顔を上げた岡崎は、希実を挟んで麗子と老婆が対峙しているのを見た。だが、深い闇は藤色の光をも飲み込もうとしていた。淡い光は、色を失いつつある。
「わらわの子じゃ……わらわの。報われぬ子じゃ」
老婆は希実を抱きかかえようと手を差し出した。けれども、希実の泣き声はおさまるどころか、狂ったような叫び声に変わっていく。
「不憫な子じゃ……ここへ、つれて来るでなかった……それもこれも、土岐河の呪いじゃ……」
呟く老婆の背中からは、怒りの炎が立ち上ったかにみえた。闇が陽炎のように揺らぐ。
「今、満たしてやろうほどに」
老婆は泣きじゃくる希実にそっと手を添えた。琢磨の全身が、痙攣したかのように跳ね上がった。
「琢磨!」
左肩を骨折しているにもかかわらず、今にも起き上がり、駆け出しそうな岡崎を野辺山が押さえ込む。「琢磨に何をしやがった」
「煩いね……」
老婆のひと睨みで、岡崎が呻き声とともに腹を抱えこんだ。野辺山が庇うように岡崎の前に出たが、遅かった。何かに腹を蹴り上げられたように、岡崎は二つ折りになっていた。
一方、膝を抱えて身体を丸めた琢磨は、時おり小さく震えながら、またうずくまった。
老婆は暴れる希実を抱きかかえた。土色の干からびた腕で希実を抱え、もう片方の手で自らの胸元をはだける。そのあと、希実の頭を抱え込んで胸の辺りに押し当てた。
岡崎も、野辺山も一瞬息が止まっていた。
いつの間にか老婆の姿が女にかわっていた。白い着物を身にまとった、美しい女だ。
長い黒髪を後でゆるく結わえている。肌の白い女だった。艶かしいほどの桜色の唇は薄く開かれ、まつげの長い切れ長な瞳は真っ直ぐに希実に向けられている。
はだけた胸元からは、豊かな乳房が片方のぞいており、それに希実が吸い付いていた。満足そうに、喉を鳴らしながら母乳を飲んでいる。
「馬鹿な……」
「野辺山ちゃん、俺たち、何を見てるんだ……」
野辺山は首を横に振った。直後、電撃に打たれたように顔を上げる。声を落とし、壁に背を預けた岡崎の耳元に近付いてきた。
「ミイラ──そうか、ミイラ死体は、希実に母乳を与えるための、餌だったんだよ、岡サン……」
「え、えさ?」
「そう、餌。岡サンだって、母乳が何から作られているか知っているだろう? 血液だよ、体液。脳はね、体の中で一番保護されているし、死なないような機構を持ってる。脳血流関門といって、余計な物質を通さない機構すらあるんだよ。脳だけを守って、全身から血液を奪うってやり口じゃないか?」
二人は、以後、口をあけたまま、女が希実に母乳を与える姿を眺めていた。
希実が食事をほとんど摂らないのに痩せていなかったわけも、邪魔だった麗子を始末したのに、その後も平沢や香坂などの被害者が出続けたわけも、すべて辻褄が合う。
岡崎は、魔物と化した女の執念に声も出なかった。 |