七の段 発露……3
岡崎は車で野辺山の自宅に向かいながら、何度も携帯電話をかけた。赤信号に止まるたび、リダイヤルしてみるが一向に出ない。すぐに留守番電話のメッセージに変わってしまう。
気持ちがせいてきた。
琢磨だけでなく、麗子にとり憑かれている野辺山にも何かが起こっているのではないかという不安が、岡崎を襲ってきた。
刑事事件として捜査をすすめてきた岡崎も、もうこれが人間業でないことを承服するしかない事態になっている。
二十五という数字には何か意味があるに違いない。同時に、身体の一部が奪われ、そこにはもともと何かを身に付けていたらしいことも、分かってきた。
野辺山の自宅に着くとすぐに、門から入ってインターホンを鳴らしてみた。返事はない。扉を思いっきり叩いて「野辺山先生!」と何度も叫んでみたが、何の反応もなかった。
「野辺山さんなら、さっき、フラフラ歩いて出かけられましたよ」
うしろから、初老の女性が声をかけてきた。向かいに住んでいるらしい。二階で掃除をしている時に、野辺山らしき人物が家から出て行くのをみたと言う。
「そうですか」
女性が去っていくのを待って、岡崎は扉に手をかけてみた。難なく玄関ドアが開く。信じられない面持ちで、しばらく扉を眺めやった。鍵もかけずに、野辺山はふらりと家を出たことになる。
いくら乱雑で物事に頓着しない性格だといっても、出かける時に鍵をかけないなどというのはおかしい。
「どこに行ったんだ、野辺山ちゃん」
野辺山も気になるが、琢磨のことも心配だった。時計は十一時になっている。希実と会う約束は十三時だ。それまでに、琢磨の家にも行かなくてはならない。
岡崎は野辺山と一緒に行きたかったが、このまま琢磨を放置しておくわけにいかない。琢磨のマンションには一度しか立ち寄ったことがなかった。あの時は、酔って一緒にタクシーに乗って帰っただけだったが、だいたいの場所は覚えていた。
岡崎は再び車に乗り込んで、アクセルを乱暴に踏んだ。タイヤが激しく水飛沫を上げる。
琢磨のマンションは隣の駅近にあるワンルームだったと記憶している。管理人が常駐していて、セキュリティは万全なんだと言っていた。
「お前、自分が警察官なんだから、セキュリティなんかに頼るなよ」
「ダメですよ、岡崎さん。予防できることは、きちんとやっておかないと」
そう言って、琢磨は酔っ払いの乗ったタクシーから降り立った。
まるで、昨日のことのように記憶が鮮明に甦ってくる。
途中、道を間違いながら、ようやく琢磨のマンションに到着した。昼近いのに、空腹すら感じなかった。心臓は年に似合わず精力的に働き、全身の血管も拡張して、小さな血栓くらいならふっ飛ばしてしまいそうな勢いだ。
岡崎は警察手帳を管理人に見せ、同僚が中で倒れているかもしれないと嘘をつき、同行してもらって琢磨の部屋に辿り着いた。琢磨の部屋の前で、もう一度携帯電話をかけてみた。発信してから、玄関の扉に耳をつけて中の音を確かめてみる。
かすかに、琢磨の携帯電話の着信音が鳴り響いているのが聞こえた。
「開けてもらえますか」
管理人は肯くと、合鍵で部屋を開ける。何かあったら連絡をくださいと言い置いて、管理人は戻っていった。
岡崎はゆっくりと扉を開けた。
脳裏には、香坂義夫の姿があった。車の模型作りに熱中していた香坂。その痩せ方は異常で、枯れ木のような状態であるのにもかかわらず、力は恐ろしく強かった。
部屋は薄暗い。
玄関から入って右手が簡易の台所、左手が洗面と浴室。部屋は一枚の引き戸で仕切られている。
引き戸は開いたままで、向こう側の部屋のカーテンが閉まっているのが見える。
「琢磨? いるのか?」
玄関が自然と閉まって、パタンと音をたてた。思わず岡崎の肩が跳ね上がった。
俺は何を怯えてるんだ……。自分が思いのほか、怨霊が出てくるのではないかと恐怖していることに、初めて気付く。
「琢磨? 返事くらいしろよ」
岡崎は靴を脱いで、部屋に上がりこんだ。台所は綺麗に片付いている。鍋とフライパンが一つずつ、調味料なども揃っている。彼女がやってきて、ここで食事でも作っているのかもしれない。いや、琢磨なら、案外まめに食事を自分で作っているとも考えられる。
念のため、トイレのドアを開けて中を確認してから、岡崎は引き戸の向こう側の部屋を覗いた。
右側にパイプベッドが置かれている。薄暗くて、よく分からないが、テーブルの上にも物はなく、本もDVDなどもきちんと整頓されて置かれていた。
目を凝らすと、布団が盛り上がっている。だが不自然な盛り上がり方だった。横になって眠れば、頭が枕の上にのり、布団も人間の身体の形に膨らむはずだ。それが山のように盛り上がっていた。
「なんだいるのか? カーテンくらい開けろよ」
岡崎はベッドの上で、琢磨がうずくまっているのだと思った。声をかけて、カーテンに手をかけようとしたときだった。
「開けるな」
低い声だった。
「琢磨じゃないのか?」
「かえれ。僕の楽しみを、邪魔するな」
香坂義夫が言っていたことと、同じような台詞が布団の中から聞こえた。心持ち、早口なようにも思える。いつも、のんびりと話す琢磨の口調とは明らかに別人だった。
岡崎は歯を食いしばった。このまま引き下がって、帰るわけにはいかない。香坂とおなじ口調であることが、岡崎を動かした。
カーテンを乱暴に開け、布団の端を握り締めて剥ぎ取った。
琢磨がパイプベッドの上で膝を抱えて座っていた。膝を抱え込み、膝頭の上に額をつけて丸まっている。
うずくまっているのが確かに琢磨だったので、岡崎は息をついた。
「何をやってんだ、お前。遅刻じゃないか──」
岡崎は膝を抱えた琢磨の腕をとって引っ張ろうと手を伸ばした。差し出した手が、琢磨のそばで止まる。
琢磨の左腕に、香坂と同じ紅い時計が巻きついていたからだ。紅い蛇のように、今にもどす黒い血が流れ出そうな色をして手首に巻きついている。
声が出なかった。この時計が何を意味しているのか、どうして琢磨の腕に巻きついているのか、答えが分かっているのに、その答えから逃げようとすら思った。
「琢磨、しっかりしろ! 思い出せよ、そんなことしてる暇ねぇだろう? 香坂義夫が死んじまったんだよ、お前の言う通り!」
声を張り上げたが、琢磨は反応しなかった。
岡崎は力にものをいわせようと、琢磨の肩に手をかけた。
瞬間、音をたてて、カーテンが閉まる。
岡崎は琢磨の肩に手を乗せかけた状態で、硬直した。眼球が零れ落ちるかと思うほど、目を見開いた。心臓が、口から飛び出しそうだった。
琢磨が、膝の上にのせていた顔をゆっくりと持ち上げた。見慣れた部下の顔に重なるように、もう一つの顔が、確かに岡崎にも見えた。
「うわあ!」
岡崎は驚いて尻餅をついた。
琢磨の顔に重なって見えたのは、老婆だった。
針のように細い目をしているが、目蓋はひどく落ち窪んで闇を形成している。口元には薄い笑みを浮かべ、肌は乾燥して艶を失い、ミイラ死体さながらの姿だ。髪は根元から白くなり獅子舞のようにボサボサになって肩にかかっている。身につけた着物は薄墨色で、暗い部屋に溶け込むようだった。
血の臭いが、漂ってきた。
「わらわの邪魔をする者は容赦しない」
テレビの砂嵐に混じって、遠くから聞こえてくるような不快な声だった。
「この男は、わらわの獲物。渡しはしない」
獲物だと?
岡崎は頭に血がのぼっていた。無差別殺人の犯人が言う台詞と同じだった。被害者を人とは思っていない、傲慢な言葉が岡崎の神経を逆撫でした。
体を起こして琢磨にとびついた。腕力には自信がある。腕をつかみ、ベッドから引き摺り下ろそうと足を踏ん張った。
頑なに膝を抱えていた琢磨の腕を解き、もう一方の手をもつかもうとした瞬間、腹に衝撃が加わった。
岡崎は吹き飛ばされ、反対側のラックに激突した。ラックに几帳面に並んだCDや本の類が上から音を立てて落ちてくる。
気を失いかけたが、寸でのところで堪えた。腹部を蹴られて、息ができない。腹を抱えて、ゆっくり顔を上げると、琢磨がベッドに腰掛けてじっと見ていた。
その後で、老婆が枯れ枝のような腕を琢磨の首に回している。
岡崎は絶望的な気分を味わっていた。
連続ミイラ死体を作り出した怨霊が、いま目の前にいる。
部下までもが餌食になろうとしているのに、対抗手段が岡崎にはなかった。
「帰るがいい。お前には用がない。分かったら、消えるがよい」
老婆は勝ち誇ったように唇を持ち上げて鮮やかに微笑んだ。ゆっくりと目蓋が持ち上がる。
岡崎は息をのんだ。喉が渇ききって焼け付き、ひりひりと痛んだ。
老婆の眼窩には瞳がなかったのである。
|