六の段 管掌……3
野辺山は眠っていた。
夢を見ているのかどうか、いや、寝ているのかどうかすら定かではなかった。
身体を丸めて、誰かが眠っている。
狭い場所だった。手足さえ十分に延ばすことができない。息も苦しかった。周囲は暗くて何も見えない。
耳には、ざわざわと人が話す声が通り過ぎていく。時折、目覚まし時計のようなけたたましい音が鳴り響くこともある。
電車が、通る音のような気もした。
これが、なんなのか、分からない。野辺山自身の記憶なのか、佐々木麗子の記憶なのか、それとも赤ん坊を抱いた女の記憶なのか。
野辺山はまどろみながら、冷静になろうとした。落ち着いて考えれば、何かが分かるような気がするのに、だんだんと圧迫されて身体が押しつぶされていくような錯覚に陥る。
寒い、苦しい、助けて──
「哲さん? 寝ているの?」
聞き覚えのある、少し鼻にかかった声が野辺山を揺さぶりおこした。
「すぐに夕食の支度をするから。こんなところで寝ていちゃダメよ」
うっすらと開いた目に映ったのは、見慣れた顔だった。少し疲れて、後れ毛が頬にかかっている。
青い石のピアスは、そういえば先月の誕生日にプレゼントしたものだったっけ……
「真理子?」
野辺山真理子が瀟洒なスーツを身にまとって微笑んでいた。野辺山と同じように、健康的に肌は日焼けし、頬にわずかだがシミがある。とても四十半ばには見えない快活な雰囲気だ。
野辺山はリビングのソファーに座っていた。夢にしては、妙にリアルすぎた。
「また、あの女の人?」
「そうみたいだ……僕が彼女の訴えの意味を、理解しないからいろいろとやってくれる」
もたれていた背中をおこすと、出来の悪い木製家具のようにギシギシと関節が音をたてそうなくらい軋んだ。
「あなたは赤ん坊に会いたいんだろう、犯人を教えたいんだろう、って言ってたじゃない?」
「そうなんだけれどね」
妻の真理子は野辺山の霊感の強さをよく知っていた。真理子本人は、全く何も見えないし感じもしないようだが、夫の言うことは信じているらしかった。以前、一度、日本酒が飲みたいと訴え続ける老人の霊に出会い、二人で日本酒通になったこともある。
今回の佐々木麗子の事も、真理子にはすべて話してあった。
真理子は夫の隣に腰を下ろした。
「ねぇ、私、思うんだけど」
「なにを?」
真理子は、少しためらうように視線を逸らした。外科の第一線で、男勝りに仕事をしている妻には珍しいことだった。
「私が彼女なら、自分を殺した犯人なんかどうでもいいと思うわ。だって、きっと母親なら、残してきた子供が一番気になるんじゃないかしら。居場所が分からなくたって、這ってでも、とり憑いても、子供のところに駆けつけて、守護霊よろしく守っていくと思うわ」
「そうだな、やっぱり。だけど、そうなると佐々木麗子さんの行動がよく分からない。赤ん坊に会いに来なかったり、僕にとり憑いてみたり……やっぱり、犯人を教えたいのかな、と思ってしまうんだ。どう考えても赤ん坊を抱く女の姿が目に焼きついてるし、今の夢だって、なにかのヒントのような気がするんだ」
真理子はまた、言いよどむように唇を噛んだ。
二人の間で子供の話が出ることは少ない。野辺山も真理子が子宮摘出の手術を受けてからは、無意識にこの手の話題を避けていたところもある。子供を望まなかったわけではなかったからだ。選択肢は多くあった。真理子が流産を乗り越えて、どんな想いで子宮内膜症を克服しようとしていたか、保存手術の効果がなかった時にどんな想いで摘出手術を決意したか、胸が痛くなるほど分かりすぎていた。
「子供のいない私が言うのもなんだけど、外科で手術をしていても、母親って強いわ。ホントよ。だから余計思うの。麗子さんだって、岡崎さんの話からすれば、きっと子供を可愛がっていたはずよ? だったら、答えは一つじゃない。自分の子供に会いたいのよ。私が、七週目で子供を失った時、この子が助かるなら私は死んでもいいと思ったもの」
真理子の目には涙はなかった。乗り越えた者の強い光が妻の目にはあった。
「なるほど……」
だとしたら、答えは一つしか考えられない。野辺山の杞憂が、当たっていたことになる。
「私も、哲さんと同じ考えよ。麗子さんは、子供を捜してるのよ。自分の子供を。哲さんに探して欲しいんじゃないかしら。だから、泣いているんじゃない?」
「瀬地矢愛育園にいる、希実ちゃんは、麗子さんの子供じゃない、って言うんだね、君も」
「そうよ、じゃなきゃ、会いに来ないわけないわ」
真理子は言い切った。
佐々木希実は、麗子がミイラ死体となっていたにもかかわらず生きていた。希実が、人間でないとすれば、生きていたことにも納得がいく。麗子が見せる女が抱く赤ん坊。あれが、希実と取って代わっていたとしたらどうであろうか。
身体は希実でも、中身は麗子の子供ではないわけだ。
野辺山は背筋が寒くなった。
麗子が、隣で笑っているような気がしたからだ。 |