六の段 管掌……2
土岐河警察署刑事課に取次ぎの電話が入ったのは、ちょうど琢磨がコーヒーを入れ替えてくれた時だった。
「久保課長。ちょっと」
刑事課の一人が、久保を呼んだ。電話を久保が取り、話を始めるのを横目で見て、岡崎は琢磨が入れた熱いコーヒーで喉の奥を潤す。
岡崎と琢磨は佐々木麗子の子供、希実に関しても調べることを久保に許可され、これから産院と保健所を回ることになっていた。
生まれた赤ん坊は産院で健診を受けてから退院する。その後は、一ヶ月健診と四ヶ月健診を、大抵の子供は受けているはずだった。健診を受けていなければ、最近では保健師から家に電話がかかってくるという親切さらしい。もしも、早期から希実に異変があったとすれば、このいずれかの時点で何かしらの発達上の問題点が指摘されているはずだ。
「岡崎さん、産院のほう、これから時間が取れるそうです」
「おお、行くか」
そそくさと書き途中の調書を片付けると岡崎は腰をあげた。
「ところで野辺山先生のほうは、どうなんですか?」
「ああ、また今夜にでも、慰めに行ってくるよ。野辺山ちゃんがとり憑かれてたって、俺に除霊ができるわけでもなし、事件早期解決が、何よりの除霊じゃねえかと思うしな」
「ホントに、あの赤ん坊が関係してるんですか?」
「分からん」
眉がよった。そんなことは自分が誰かに聞きたいくらいだった。このままでは、深いしわが眉間に刻み付けられそうだ。頭の上から、岡崎自身にも分からない事をのんびりと問いかけられると、自然とそうなってしまう。
「岡サン!」
受話器を肩にはさんだまま、久保が岡崎を手招きした。
何事かは分からないが、岡崎は久保課長のデスクに向かった。久保はメモをとりながら、電話の応対をしていた。
「住所は分かりました。今から捜査員を行かせますから、しばらくお待ちください」
久保の言葉を聞いて、岡崎の眉間のしわはさらに深まった。また余計な仕事に向かわなくてはいけないかもしれない。
「奥さん、取り乱さず、どうか落ち着いて。はい。そうです。いいですか、捜査員が到着するまで、自宅でお待ちください」
くどい位に念を押して、久保は電話を切った。切ってすぐに、住所を書いたメモを岡崎に手渡す。
「ミイラ死体になるかもしれない、という電話だ」
「またですか?」
岡崎は露骨に不快な顔をしていたに違いない。嫌いなカレーを無理やり食べさせられたとしても、ここまで嫌そうな顔はしないと、自分でも思うくらいだった。
痩せてきた、家に籠るようになった、という理由から、テレビで報道されているミイラ死体になるのではないかという通報が、一日に何十件とかかってくるようになっていたからだ。それらすべてを一件一件調べていくわけにはいかない。捜査員が向かうと、よくてただの拒食症や引きこもり、最悪イタズラということも続いていた。
久保は岡崎の態度に怒るわけでもなく、メモをさらに突き出した。
「今度はちょっと、臭うぞ」
「課長の勘ですか?」
渋々メモを手にした岡崎を、久保は腕組みして眺めやった。どうだ、参ったか、と言わんばかりに微笑む。
「琢磨と、あと二人ほど連れて行ってくれ。名前は香坂義夫、四十歳。ラクヨー電機の営業社員だ。いいか、ここが重要だ。妻によれば、義夫は、六月二十六日、この日から突然、人格が変わって部屋に籠り、やせ細ってきたらしい」
「六月二十六日?」
声をあげたのは琢磨だった。琢磨は「二十五日周期説」を重要視している。次の被害者が現れるとすれば、まさにこの日しかない。そして、エックスデーは七月二十日だ。
「今日は何日だ?」
「七月十三日ですよ、岡崎さん」
久保は腕組みしていた手を解き、デスクに手をのせて立ち上がった。
「くれぐれも用心してくれよ。まさか、怨霊だなんて思いたくないけどな……危険だと思ったら、すぐに応援を呼ぶんだ。こちらもそのつもりで待機しているからな」
岡崎と琢磨は、軽く敬礼して久保の前を辞した。
*
マンションは、第1種低層住居専用地域に指定される閑静な住宅街の一角にあった。
都市計画によると、これに指定された地域は高層マンションの建設はできず、騒音などを発する工場、風紀を乱す遊戯施設などは一切建築が許可されない。そのため、香坂義夫が住むマンションも三階建てで、緑に包まれた高級感漂う造りになっていた。
静かだった。
これから起こりえるかもしれない恐怖が、こんな静謐な場所で起こるなどと考えたくもなかった。
思わず岡崎は「怨霊」が出ると決め付けている自分に苦笑した。野辺山の首にくっきりと残っていた指の痕を見たからかもしれない。
「三階の三一六です」
琢磨が部屋番号を確認してインターホンを押した。すぐにかすれた声で返事があり、こちらが警察であることを告げると、玄関のオートロックが開錠された。
「窓の下にいなくていいですか?」
同行した捜査員の一人が岡崎に問うた。
「まさか、被疑者を確保しにいくわけじゃねぇんだから。俺達は被害者の可能性がある人間を保護しに行くんだぜ?」
エレベーターで三階に上がると、それぞれの家にポーチがついている。
贅沢な造りだった。岡崎の住む小さなマンションとは大違いだ。
エレベーターを降りると、身奇麗にした四十代の女性が門の前に立っているのが見えた。ひどく、やつれている。岡崎達の姿を見た途端、安堵したように息をつき、深く頭を下げた。
香坂秋枝はこれから夫がどうなるのか、と聞いてきた。
「一連の事件と関連があると決まったわけではありませんよ、奥さん。とにかく警察病院のほうを手配してあります。そちらで詳しい検査をしていただいて」
「でも夫は、頑として動きません。部屋だって鍵をかけてあるんです」
秋枝は祈るように手を胸の前で組みながら、涙ぐんでいた。
「とにかく、ご主人にお会いします。鍵を開けることくらい、すぐにできますから」
岡崎達は警察手帳を広げて、秋枝に見せた。戸惑いを見せつつ、ようやく彼女は玄関を開けた。手早く部屋に入ると、シューズロッカーから人数分のスリッパを用意した。
「そちら側の扉です」
マンションは三LDKではなく、四LDKのようだった。入口から二番目の扉の前で秋枝が足を止める。
岡崎も「失礼します」と言って、中に入ろうとした。
「岡崎さん……」
囁くような小声で琢磨が呼び止める。岡崎は先に他の二人を家に入れて、振り向いた。
琢磨貴彦が、青くなって玄関の手前で立っている。ひょろりと大きな体が、すっかり玄関口を塞いでいた。
「何やってんだ、お前」
琢磨は口を少し開け、目を見開いたままだった。厭々をする子供のように、首を振る。
「岡崎さん、入れませんよ、僕」
「何が──」
言いかけて、岡崎は思い出した。野辺山の法医学教室を訪れた時、佐々木麗子が部屋にいるから寒いと言っていた琢磨の言葉をだ。あの時、わずかばかりでも霊感をもっているらしい琢磨に嫉妬したことを、岡崎は覚えている。
「まさか、お前、いる、とか言うんじゃないだろうな」
「応援を呼びましょうよ、岡崎さん」
「応援って、誰のことだよ!」
「だって、真っ暗じゃないですか、この家の中。ひどく冷たくて」琢磨はスーツの腕を捲り上げて岡崎に見せた。「見てくださいよ、こんなに鳥肌がたってる。身体が沈んで、床にめり込みそうです。こんな気分の悪い場所は、生まれて初めて来ました……」
馬鹿なことを言ってないで、だったらそこで見張りでもしていろ、と言いかけて岡崎は振り返った。
秋枝が口元を手で覆って、眉を寄せていた。捜査員二人も、顔を見合わせている。
岡崎は玄関から入って、家を眺めてみた。
暗いようには見えない。時間はまだ午後の三時過ぎだ。季節はもう初夏で、いくら風通しのよいマンションだといっても、寒いという言葉はそぐわない。
けれど確かに、空気が重い。飲みすぎて翌朝に酒が残り、体が少しだるい、くらいの感じではある。あるいは、調書と睨めっこしすぎて肩が凝ったか。
それでも怨霊がいるといって、帰るわけにはいかない。希実の発達に関して、保健所と産院も回らなくてはならないのだ。
「こちらですか、奥さん」
扉の一つを指差して、書斎であることを確認する。
「香坂義夫さん、いらっしゃいますか!」
扉を叩いてみたが返事はなかった。耳をあてて中の様子を伺ってみたが、時折、スプーンなどをかき回すようなガチャガチャという音が聞こえるだけだった。中に誰かがいて、何かをやっていることは確からしい。しかもまだ、生きている。
「開けて、よろしいか」
岡崎の確認に、妻は頷いた。
手袋をはめ、ポケットから取り出したJ字状の金具を鍵穴に差し込んだ。ものの三秒とかからず、鍵が外れる。
扉は滑るように開いた。
背中が見えた。丸い背中だ。扉を背に、男、香坂義夫が胡坐をかいて座っている。
四畳半ほどの狭い部屋に小さな窓があった。片脇に机とパソコンがあり、スチールラックを本棚代わりにしてある。
部屋は足の踏み場がなかった。小さなプラスチックの欠片やビニール袋が散乱している。右端には小箱が山のように積み上げられていた。机の上には、小型から中型まで、無数の車の模型が並んでいる。
「お父さん、こんな、いつの間に……」
岡崎の肩越しに秋枝が呟いた。香坂義夫は妻の声に反応したかのように肩を震わせた。
ゆっくりと振り向いた顔は、土色だった。生気がない。頬はこけ、目が零れ落ちそうなくらいギラギラとした光をためている。髪は根元から白く変わっていた。
「香坂さん、お聞きしたいことが──」
「岡崎さん、出てください!」
琢磨が玄関先から叫び声をあげた。
「黒い影が、うわっ!」
言葉にならない声をあげて、琢磨は玄関に座り込んだ。座ったというより、腰が抜けたという表現がぴったりだ。
岡崎も、他の捜査員も、そして秋枝も異様な琢磨の怯えように虚をつかれて立ち竦んでいた。黒い影も、人影すらも見えない。部屋は東向きで、日差しもない。
琢磨が腰を下ろしたまま、後退していく。
だが、琢磨にかまっている暇はない。同じく見えない黒い影とやらに怯えているわけにもいかない。岡崎は香坂の話を聞くために部屋の中に足を踏み入れた。
「──入るな」
低い声だった。すべてを拒絶するように、香坂はまた背を向けた。
「しかし、香坂さん。奥さんが心配しておられますよ。病院を手配しましたから、一度行ってみましょう」
「俺はどこも悪くない」
「香坂さ──」
香坂の肩に触れようと伸ばした手を、振り向きざま弾かれた。反動で岡崎がよろめく。
凄まじい力だった。
岡崎も、警察官として柔道の黒帯をもっている。道場でもそう簡単に若い者に負けたりはしない。そのがっしりとした身体を、腕一本でよろめかせたのだ。
香坂が、煙が立ち上るようにユラリと体を起こした。細い体のどこに力が残っているのかと、思うほどだった。体ごと岡崎に向き直り、香坂はうつむき加減の顔のまま、上目遣いに睨み上げた。
「俺の楽しみの邪魔をするな」
抑揚のない低い声には、岡崎を後退させるだけの気迫があった。
「岡崎さん、ダメです、戻ってください!」
琢磨が玄関先から叫んだ。
「琢磨、応援を呼んでくれ。救急車でもいい……さあ、香坂さん。我々は香坂さんの楽しみを奪い取ろうとしているわけじゃありませんよ」
再び差し出した手を、香坂が見下ろした。
香坂も反射的に手を差し出した。
その左手に赤いものを見つけて、一瞬、岡崎は心臓が打ち鳴らされた。手首でも切って血を流しているのかと、思ったからだった。
腕時計らしかった。
紅かった。尋常な色ではなかった。殺害現場に横たわる遺体から流れ出て乾燥した、どす黒い血の色に似ている。錆びて饐えた匂いが、岡崎の鼻をついた。
血の、臭いだ。ただの血の臭いではない。鉄臭い香りの中に甘いものが混じっている。どこかで嗅いだ記憶のある、不思議な臭いだ。
「さぁ、香坂さん」
岡崎はすっかり香坂が気を許したものとばかり油断して、一歩近付いてしまった。その隙を、香坂は見逃さなかった。積み上げた積み木がくず折れるようにかがみこむと、岡崎の腹の辺りに突進してきた。
まともに頭突きを食らって、岡崎は部屋から投げ出され、向かいの廊下の壁に背中を打ちつけた。
香坂秋枝の悲鳴が、廊下にまで響き渡る。
「岡崎さん!」
ちょうど電話を終えた琢磨も身を起こした。捜査員たちは二人がかりで、香坂を押さえにかかる。
腹を抱えて蹲った岡崎を琢磨が助けおこした。
苦痛に顔が歪んだ。異常な力だった。痛みを堪えて、岡崎は琢磨に抱えられたまま声を振り絞った。
「やめとけ、無理するな」
なんとか香坂に触れようとしていた捜査員二人も、岡崎の言葉に書斎を出た。
捜査員が部屋を出ると、香坂義夫は音を立てて扉を閉めた。
秋枝が泣き崩れた。
岡崎も、琢磨も、手が出なかった。 |