怨嗟の輪廻(2/30)PDFで表示縦書き表示RDF


怨嗟の輪廻
作:暁さくや



一の段 胚胎……1


 部屋には、鼻の粘膜が切り刻まれそうなほどの強烈な腐敗臭が充満していた。
 まるで生ゴミを捨てた袋に頭を突っ込んだようだった。
 あたりは夕闇に包まれたように薄暗い。
 遮光カーテンがすべてを拒絶するかのように、明るい日差しをさえ拒み続けている。それがかえって部屋の温度を上昇させる手助けをしているらしい。
「なんだぁ、こりゃあ」
 六月のむせ返るような湿気の中で、土岐河警察署刑事課・警部補、岡崎純一はネクタイを緩めて息をついた。わずかに広くなった額に滲む汗をハンカチでふき取る。そのまま厳つい四角の顔をつるりと拭った。
 部屋を見渡すと、片付けるという日本語を知らないのではないかと疑いたくなるような状況だった。
 テーブルの上には食べかけのパンが散乱し、流しには食器が山と詰まれていた。三角コーナーでは、魚の頭がとろけるようにして腐っていた。悪臭の原因はこれらしい。もちろん食器棚は暇をもてあましている様子だ。
 部屋の四隅には目に見える埃が積もっている。床はもともと白っぽい色調のフローリングだったようだ。それが分かるのは少々ずれて動いたソファーの跡が残っているからだった。どう見ても床は煤けたように汚れている。
 洗面室に足を運べば、タンスに入っている洋服はすべて着尽くしたと察するに余りある洗濯の山が積まれている。浴室ではシャワー水栓から定期的に水滴がもれ落ちていた。
「一日中、片付けもしないで何をやってたんでしょうか、この仏さん」
「不謹慎だぞ、琢磨」
 岡崎は、肩越しに覗き込んで呟く部下の琢磨貴彦をたしなめた。
 どこにでもあるマンションの一室であった。
 玄関から廊下が真っ直ぐに伸び、両脇に五、六畳の洋間が一室ずつ、左に洗面と浴室、リビングの扉を開けると対面キッチンの縦長のリビングダイニング、その隣が四枚扉で仕切られた和室だ。
 いつもなら、こぢんまりとした核家族の住まいには、今日に限って大勢の人間がいた。
 現場を検証するために、鑑識の人間や刑事課の者が捜査している。
「どうぞ、いいですよ。終了しました」
 現状保存のための捜査が終了し、鑑識課の者が奥の現場へと入室を許可する。
「現場は奥の和室です」
 鑑識班の検証が済み、岡崎たちはようやく和室に入り込むことを許された。口元をハンカチで押さえながら足を踏み入れる。
 そこだけが、現実世界から切り取られたかのような空間だった。
 一組のベビー布団の上に女が一人、倒れている。
 人間と、呼びたくもないような死体だった。
 全身の皮膚は干からびて、筋がたっている。肌の色は土気色に変色し、ところどころ暗紫色に変わっていた。
 岡崎は乾燥しきった生姜を思い出していた。それに、そっくりな色をしていた。
 ミイラ、というものを見たことはなかったが、これが確かにそうだといわれると、絶対納得するだろう。
 女の口は大きく開いていた。
 パッカリとあいた暗闇からは、今にも(うじ)が這い出てきそうだった。そんなことを思うのも、周囲に充満する饐えた(すえた)匂いのせいかもしれない。
 さらに、女の瞳は失われていた。
 物欲しそうに、寂しげに、眼窩に収まるはずの眼球はない。吸引力のある闇が、そこにはあった。底知れぬ深さをもつ井戸を覗いたかのようだ。
 岡崎の後から、生理現象にしたがって胃の内容物を吐き出す音がした。
「琢磨ぁ、吐いてねぇで、女の身元、教えろぉ」
「すみません」
 琢磨は慌てて洗面所に駆け込んでいった。
 あきれたように腕を組みなおしながら、岡崎は改めて部屋を見渡した。雑然と散らかった部屋は、荒らされたようには見えなかった。和室には、何も置いていない。タンスはすべて玄関脇の洋間に集中して置かれていたし、テレビなどはリビングにある。和室は子供に危険のないよう配慮されているようだった。
 確かに、部屋は人が毎日のように住んでいたとは思えないほどに荒れている。しかし、強盗が荒らしたとするのなら、引き出しの中身も荒らされていていいはずだった。
 食器棚やテレビ台についている引き出しの中は、整頓されたままだった。引き出しはきちんと閉まっている。食器棚の引き出しの一つには、現金と通帳と印鑑が入ったままだ。洋間に置かれていたドレッサーも同じで化粧品が散乱していたが、脇に置かれていた装飾品の入ったケースには、ダイヤの指輪が残されていた。
 部屋を見渡すうち、あまりの息苦しさに岡崎はまたネクタイを緩め、今度はボタンをはずした。
「鑑識さん、もうカーテン開けていい?」
「いいです、窓枠の指紋も採取済みですから」
 鑑識の一人が言い終る前に、岡崎はカーテンに手をかけていた。いい加減うんざりしていた。
 窓を開けると、森の中で深呼吸をしたような澄んだ空気がなだれ込んでくる気がした。部屋の中よりは、幾分か湿気の少ない風が頬をなでていく。外の空気だって大して綺麗だとは言えないはずだったが、この部屋に比べれば何倍も清浄に感じる。久々に、空気がおいしいと岡崎は思った。

  *

 事件が起こったのは、土岐河城下町として歴史ある建物が多く残る街だった。駅周辺は整備・開発されてマンションが立ち並んでいる。その一角である。
「被害者は佐々木麗子、二十一歳。発見者は夫です。夫の、陽司、同じく二十一歳、山岡製作所の作業員です」
「若いな」
 琢磨貴彦の報告を、岡崎純一はマンションの玄関に程近い一室で聞いていた。ひょろりと背の高い琢磨の、のんびりとした口調は、岡崎をいつも苛々とさせる。
 琢磨の報告を書きこんだ手帳のカバーは、使い込まれて縁の皮の部分が白くなってきた。尊敬する先輩から譲り受けてもう二十年になる。四十半ばもとうに過ぎてしまった。
 被害者の名前を書き記した所で、岡崎は筆を止めた。
「もちろん死後何日、なんてのは──」
「はあ、鑑識さんも検死官も首を傾げるばかりで」
 現場ではすでに遺体を搬送する作業にうつっていた。廊下を、黒いシートに包まれた担架が通っていく。
 岡崎も二十年以上刑事をやっているが、こんな事件は初めてだった。
「で、それがその、二人の子供だってのかい?」
 岡崎は頬を人差し指で掻きながら、斜め後ろを振り向いた。琢磨が手招きする。部屋の入り口を塞いでいた捜査員たちが、誰からともなく道を空けた。
 そこを女性警官がおくるみに包まれた赤ん坊を抱いてやってきた。
 赤ん坊は、和室の惨状を忘れさせてくれるほどの穏やかな寝息をたてていた。親指を口に入れ、ふっくらとしたリンゴのような赤い頬は艶々としている。ひとめ見ただけでは性別は分からないが、身を包むピンクのおくるみで、赤ん坊が女の子であるとわかる。
 若い女性警官は慣れない手つきで赤ん坊を岡崎に差し出そうとした。
 岡崎はそれを手で制すると、首を振った。
「寝かしておけよ、起きると厄介だ」
「あれ? 係長のところはお子さんいらっしゃるでしょうに。懐かしいんじゃないですか?」
 捜査員の一人が揶揄するように声をかけてきた。
「懐かしいもんか、もう子守はうんざりだ──で?」
 視線を送る岡崎に気付いて、琢磨は頷き手帳を捲った。
「裏付けはまだですが、どうやら夫の陽司はしばらく家に帰っていなかったらしいです。それで今日の朝、六月になったので衣替え用の夏物のスーツを取りに来て、すると新聞は下の郵便受けに溜まったままで、玄関も開いていたそうです。奥を覗くと、和室であの死体を発見し、驚いて後退った拍子にソファーにぶつかったと」
「そら、びっくりするだろうさ、あんなの見たら、なあ」
 岡崎は頬を掻きながら、赤ん坊を振り返った。
「この子はどこに?」
 女性警官は困惑したような表情で赤ん坊を眺めやってから、ぎこちない笑みを浮かべた。
「死体の、そばにいたと、そう聞いていますけれど」
 岡崎は眉を寄せて目を眇めた。頼んでいた店屋物がカツどんではなく、大嫌いなカレーだった、とでも言わんばかりだ。
「そば?」
「はい。赤ん坊がいると聞きましたので同行したのですが……到着した時はご主人が玄関で携帯を片手にしゃがみこんでおられて、部屋の奥は薄暗かったんです」
 誰もがこの言葉を疑ったに違いない。
 母親である佐々木麗子がミイラ状態の死体で見つかったというのに、この赤ん坊はいかにも満足げに眠っているのだ。
 時おり思い出したように指を吸い、それでも赤ん坊は目を開けることがない。満たされたまま眠りについている。
 岡崎は部屋の入り口を見た。
 入口の向こう、廊下の先に和室がある。あの死体は一日二日で仕上がる代物ではないはずだ。第一、これまでそんな死体にはお目にかかったことがない。白骨化していると言われたほうが、まだ現実味がある。
 けれど遺体は枯渇しきった大地のように、完全に干からびていた。
 カレイかアジの干物を連想させた。
 魚のほうがまだいい。死体を天日干しにでもすれば、きれいに干からびてくれるのだろうか。
 ああなるまでに一体どれほどの日数が必要なのか、専門的な知識を持ち合わせていない岡崎には分からなかったが、たった一つ言えることがある。
 赤ん坊はどうみても、六ヶ月というところだ。岡崎にも二人の子供がいるから、見当くらいつく。
 ということは少なくとも、赤ん坊が六ヶ月になるまでは、女・佐々木麗子は生きていたことになる。そうでなくては、赤ん坊が健やかに成長していることの説明がつかない。
 一緒にミイラになっていてくれたほうが、今よりはるかに状況を理解しやすかったはずだ。
 岡崎は大きく息をつくと、額に手を当てた。
「とにかく佐々木陽司に会おうか。どこにいる?」
 琢磨が何か言いたげに口を開いた。
「なんだ?」
「病院に運ばれました。捜査員が到着した時には、すでに茫然自失の状態だったとかで」
「じゃあ、誰が、その背広を取りに来たとか言ったんだ?」
「女です」
 岡崎は目をむいた。
 それでもすぐに事情を察した。女連れで、妻のいる家に服を取りに来たというのか。
「悪い男だな、俺より」
「係長が比較対象なんですか?」
 岡崎は琢磨の後頭部を平手ではたくと、馬鹿なこと言ってんじゃねぇ、と一喝し、部屋を出た。
 胸が悪い。
 幼い子供を抱えた妻を捨て、女の元に逃げる。
 そんな人間は山と見てきたが、今回は少し事情が違う。
 誰かに殺されたにしろ、自然にこうなったにしろ、幼い子供を残してたった一人で死んでいった佐々木麗子が不憫に思えた。
 綾子はどうしているかな。
 いつもなら思い出しもしない妻の顔を思い浮かべながら、岡崎は再び和室に戻った。
 岡崎はリビングと繋がった和室の入口から、ベビー布団だけになった部屋を見渡した。遺体がなくなった部屋は、なんだか広く感じられる。
 リビングに目を戻すと、テレビの脇に本と雑誌が積まれているのが目に入った。横積みされているので、何の本かは分からない。十冊以上はある。
 岡崎はリビングに戻って、本を手にとってみた。すべて、育児関係の本だった。
 そこに、佐々木麗子の孤独を垣間見た気がした。













ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう