六の段 管掌……1
野辺山はすっかり体調を崩して大学を休んでいた。学会も欠席せざるを得なかった。
絞められた首には紫色になった手の跡がくっきりと残っている。まさか七月の蒸し暑くなった初夏にタートルネックの服もあるまい。女性ならそれなりにお洒落のしようもあるが、いつもジャージや薄汚い白衣姿の野辺山では、かなりの無理がある。
野辺山の妻、真理子も連絡を受けてすぐに帰国した。
岡崎もたびたび仕事の帰りに野辺山を訪ねた。今日もずっと疲労感が付きまとうと、昼間に電話で聞いて知らぬ顔ができなかった。
玄関に出迎えにきた野辺山にはどこか生気がなく、貧血で今にも倒れそうにみえた。
「野辺山ちゃん、どう?」
「よくないね」
佐々木麗子に首を絞められ、異様な体験をして一週間が経っていた。
「捜査のほうはどうなの?」
「よくねぇよ」
「そりゃ気の毒だ」
リビングに案内され、岡崎はソファを勧められた。向かい側に腰掛けた野辺山は、ため息をつきながら深くもたれかかり、首を撫ぜた。
岡崎と琢磨は、一週間前に何があったのか野辺山からすでに詳しく聞かされている。
瀬地矢愛育園に出かけてから、佐々木麗子が成仏したと思い込んでいたこと。そのことが、どうやら、彼女の気配に気付けなかった原因の一つでもあり、麗子が力を蓄えていたのではないかと野辺山は考えていることも。
「悪いね、真理子は今日当直だから、せっかく来てもらったけど、ビールしかないよ」
「十分だ」
岡崎はビールの缶を目の高さに持ち上げて顔を綻ばせた。これが目当てでもあったが、正直言って体のほうも疲れきっていた。
三件のミイラ死体事件の被害者達に接点などありはしない。それぞれ、チームを組んで調べつくしているが、見付かったのは、佐々木麗子の祖母の出身と、平沢幹夫の母親の実家が同じ県だったということくらいだった。これにはほとんど意味がない。
一方の佐々木麗子は、調べれば調べるほど大人しく控えめな人物像が浮き彫りになっていく。育児に関しても、毎日同じ時間にベビーカーを押して散歩に出かける彼女を、何人もが目撃していた。
相談できる親もおらず、頼れる友人たちは独身で仕事を持ち、夫には逃げられ、どれほど孤独だったか、男である岡崎には想像もつかなかった。
「麗子さんは、そうか、どちらかというと大人しくて、尽くすタイプの人だったんだね」
「そうらしい。寂しかったのかもしれないな。温かい家庭のために、あんな男に尽くしてさ」
「岡サン、彼女が聞いてるよ」
野辺山が大して声の調子も変えず当たり前のように言うので、岡崎は思わず飲んだビールを吐き出しそうになった。
「毎晩なんだ、何とかならないかな」
野辺山は深く椅子に座りなおして、頭の後ろで手を組んだ。心底、疲れ果てたという顔だった。よく見ると、目の下にはクマができている。
「野辺山ちゃん、痩せた?」
「痩せもするよ。毎晩、あんなの見たら、おかしくなりそうだ。毎晩、目を抉られる映像が繰り返されるんだぜ? 決まって、その女は赤ん坊を抱いてるんだ。でもって、洞窟のようなところで寝かされてる。僕は何を麗子さんが伝えたいのか、さっぱり分からない。だから毎晩みるんだろうけどね……」
「赤ん坊を抱いているのが、佐々木麗子さんだと、そう思う?」
「いや、別人じゃないかな。彼女なら、視点が違うと思うわけだよ」
野辺山はいつもの調子を取り戻して、講義口調で続けた。チョークかタバコの変わりに、人差し指を立てて、小さく振っている。
「いいかい? 赤ん坊を抱いた女を、僕は見てるわけだ。もしも女が麗子さんと同一人物なら、麗子さんに憑依されている僕が女の容姿を見ることはできないはずだ。赤ん坊を抱く女の目を通して周囲を見ているなら、麗子さんと女が同一人物だと考えられるんだけどねぇ。僕は赤ん坊を抱いた女を、眺めてるわけだから……ただ、洞窟に横たわっている時は違う」
「そっちは麗子さんだと言うわけか?」
「いや……洞窟の時は僕自身が横たわっているような感覚がある。きっと同化しているんだろうね。だってそうだろう? 麗子さんはマンションで発見されたのであって、洞窟とは縁がなさそうだし。でもだよ、こう考えられないかな。僕は麗子さんが見た映像を、そのまま引き継いで見ているんだよ」
岡崎はビールを煽ってから、首をかしげた。缶をローテーブルに置き、身を乗り出す。
「やっぱり、別人だと思うんだ。麗子さんも僕と同じように、洞窟で寝かされているという疑似体験をした。きっとそれは、赤ん坊を抱いた女の経験だ。疑似体験をした時に偶然に女の記憶を覗き見た。覗き見た、というより、波長が合ったんだろうよ。きっと最も強烈な記憶だったんだろう。それが、目を抉られた時の映像となって残っている、とそういうわけだよ。どうだい?」
「わかったような、わからんような。要するにさ、野辺山ちゃん。赤ん坊を抱いた女ってのは?」
「犯人、じゃないかな。麗子さんはそれを僕に教えたかった」
野辺山は右手の人差し指で岡崎をさし示した。
岡崎は返事のしようがなかった。つまるところ、この連続ミイラ死体の犯人は亡霊だと、野辺山が言っているのと同じことだからだ。
それでは、近頃のワイドショーを賑わせる、偽霊媒師と同じだ。
テレビでは連続ミイラ変死事件と題して、いろいろな霊能力者が現れてコメントに余念がない。犯人はエジプトの死者だとか、ペルーやアリューシャン列島のアリュート族、中国の晋の時代にも死者をミイラにする習慣がある地域があり、そこから現れた呪いだとか。琢磨が指摘したのと同じ、二十五日毎、という情報もどこからか入手し、世間は呪いのミイラ事件といって騒ぎ立てている。
警察が何も立証できないのが、呪いの根拠にもなりつつあるくらいだ。
岡崎は大きく咳払いをして、遠慮なくビールをお代わりするために立ち上がった。
「じゃあ、野辺山ちゃんはその赤ん坊を抱いた女の目的はなんだ、って言うの?」
勝手知ったるキッチンの冷蔵庫からもう一本ビールを拝借しながら尋ねた。
「さあ……」
「確かに麗子さんは目を奪われたさ。例えばだけど、赤ん坊を抱いた女が目を取り戻そうとしてる、ってのは分かるが、じゃあ、耳がなかった平沢幹夫は? 首が切られていた相沢美登里は?」
野辺山を責め立てるのは筋違いだが、この際、自分のことは棚に上げておくことにした。
「僕が気になってるのはね、岡サン」
体を起こした野辺山は、いつものように膝の上に両手を置いて組み、顔を岡崎に向けてきた。
「女が赤ん坊を抱いていることだ。それで、目を抉られた時には赤ん坊の姿がない。赤ん坊はどうなった? それが、希実ちゃんと重なるんだ。僕の杞憂であって欲しいけど」
足元から水風呂ならぬ、氷風呂に使ったのかと思った。全身の関節を瞬間冷凍されたようだった。
「やめてくれよ、何考えてんだよ、野辺山ちゃん」
野辺山は首を横に振った。
「分からない……何も分からないよ」
*
香坂の妻、秋枝は精神的に参ってきていた。
夫は日々やせ細り、会社を欠勤し、書斎にこもったまま出てこない。小学校六年生になる息子も、怖がって部屋から出てこなくなっていた。
何の心配もなく、今まで生活してきた。夫は営業職で毎晩遅いが、人並み以上の暮らしをしてきた。マンションを買い、子供も受験を控えている。仕事もせずに専業主婦でいられるのも、友達とランチに出かけ、エステに週一回通えるのも、すべて夫のおかげだった。友達と旅行にも行きたかった。年をとっても、綺麗だねといわれるのが自慢で、夫の給料がもっと上がればと、願わない日はない。
それが、根底から覆されようとしている。
何が不満だったのか、秋枝にはさっぱり分からなかった。専業主婦として、家の事はきちんとこなしてきたつもりだった。帰りの遅い夫の食事も手抜きせず、起きて待っていた。どんなに遅くても、朝はきちんと起きて、夫の健康を考えて和食を用意した。夫にはそれなりに、尽くしてきたつもりだった。
今も、夫の香坂義夫は書斎にこもったままだ。
気が狂いそうだった。
一人で家にいると、書斎が気になって仕方なかったので出かけようとも思ったが、気分がすぐれない。結局、秋枝は気を紛らわせるためにテレビを付け、ソファに座り込んだ。
昼過ぎからテレビを見ることは稀だった。大抵、友達と出かけるか、子供が帰るまでに買い物に行くのが習慣だったからだ。
テレビは、芸能人の結婚の話題から、特集へと変わっていった。
最近、連続して起こっているミイラ死体の特集らしい。
ミイラ?
秋枝はふいにその言葉が、夫の義夫と重なって聞こえた。日ごと痩せていく夫の姿は、ミイラといってもおかしくない。もちろん秋枝はミイラなど見たこともなかった。博物館など興味もないし、ましてエジプトなどの歴史も関心がない。
テレビは連続ミイラ死体事件が一定の周期を持っていることを伝え、被害者が徐々に痩せ細っていく、と証言をしている人物がモザイクで登場していた。続けて、霊能力者が出演し、怨霊が関わっていると力説を始める。
秋枝は落ち着かなくなって立ち上がった。
まさか、という思いが沸き起こる。
霊能力者の解説を無視して、秋枝はキッチンにぶら下げてあるスケジュール用のカレンダーのところに駆け寄った。家の予定や覚書代わりに使っているカレンダーだ。
義夫が部屋に籠りだしたのは何時のことだっただろうか。
会社から電話があったのが、六月二十六日だった。夫が、初めて無断欠勤をした日だ。
秋枝はテレビを振り返った。
二人目の被害者の発見が、同じ日ではなかったか。
慌ててテレビのリモコンを取り、秋枝はチャンネルを変えた。昼過ぎのこの時間、どこも主婦向けのワイドショーや特集、料理などをやっていることが多い。
他局でも、同じ特集を組んでいる。
被害者の、遺体発見日が一覧になっていた。
──六月二十六日。
秋枝はリモコンを取り落としていた。廊下の向こうにある書斎のほうを振り向く。額から汗が噴出した。なのに、体は寒気を感じる。開け放ったベランダ側の大きな窓から、冷たい風が吹き込んで、秋枝の体温を奪っていった。
藁をも縋る思いで、秋枝は電話を取っていた。 |