五の段 鬼憑……3
岡崎は三杯目のジョッキを店員に注文した。
「だからな、琢磨、そう真剣に考えることはねえって。世の中憎んだって、俺たちに変えられるわきゃねえんだって」
顔をしかめたままの琢磨を指差して、岡崎は店内の音楽に対抗するように声を張り上げ、かつ、諭すように続けた。
「中にはどうしようもなくて、悪事に手を染めるヤツだっているんだぜ? だいたい、世の中な、平和ボケすりゃあ、するほど、快楽、ってもんを欲しがるんだよ。生きることに、必死にならんでも済むとな、馬鹿野郎な事を考えちまうんだよ……」
「岡崎さん、飲みすぎじゃないですか?」
「何言ってやがんだ、たった三杯じゃねえか……」
「お酒が入ると、すぐに説教するんだから……」
琢磨はカクテルを手に口元を綻ばせた。
店内の喧騒を眺めやって、盆を片手に近寄ってくる店員を呼び止め、同じカクテルとチーズの盛り合わせを注文する。
「しかし、おめえ、お洒落な店を知ってるんだなぁ」
岡崎はビールを一口飲むと、辺りをみわたした。店内は中世ヨーロッパの宮殿のような豪奢な造りになっている。床は白い大理石で、歩いている人間が映るほどに磨かれていた。円いテーブルには精巧な彫り物があって、天井にはシャンデリアがぶら下がっている。
店内は客でいっぱいだった。店員は忙しく立ち働いて、あちこちを行ったり来たりしている。客の出入りも多く、岡崎の隣を派手な化粧をした若い女の子が男と腕を組んで通り過ぎていった。向こう側では、大勢の若者が長い時間、たむろするように騒いでいる。
娘も大学に受かって、こんな風に男友達をつくるのかと思うだけで、岡崎の酒量は増えるばかりだった。
「こんな風に、ずっと笑って暮らせればいいのに、こういう若者の影には犯罪に手を染める者もいるんですよね」
ぼんやりと騒ぐ若者に視線を送りながら、琢磨が言った。
「防犯課にでも、移動するか、お前?」
「考えてみます」
岡崎はジョッキを片手に身を引いた。
「本気で言ってんのか? だがよ、お前とお代官様と、二人で犯罪論を戦わせたら、さぞや大激論なんだろうな」
「犯罪者は断罪すべきだというやつですか?」
「久保係長の口癖だよ」
岡崎は目の前のポテトを口に放り込んだ。
「でもな、もしも、俺の娘が誰かに殺されるようなことがあったら、俺だって犯罪者になるかもしれん……時々、そう思うこともあるんだよ」
「岡崎さんはそんなことしません」
「いやに断言するじゃないか」
琢磨は子供が褒美をもらったように、無邪気に微笑んだ。
本当にこんな風に、ずっと笑っていられたら犯罪なんて起こらない気もする。だが人間とは忙しい生き物だ。怒ったり、怨んだり、嫉んだり。悲嘆にくれて、生きる気力をさえ失うこともある。
だからこそ、楽しいのでもあろうが。
「そういや、野辺山ちゃん、確か、しばらく一人だって言ってたな」
「佐々木麗子が現れなくなって、一週間ほどお会いしていませんね」
岡崎は内ポケットから携帯電話を取り出した。
「きっと一人やもめを楽しんでるかもよ」
野辺山教授の携帯番号を選択して押しながら、岡崎は笑っていた。飲み仲間は多いほうがいい。早いめに佐々木麗子の友人を訪れて、今日はこうして羽目をはずしに来た。このまま家に帰らずに、琢磨のアパートか野辺山の自宅に押しかけることだってできそうだ。
だが、何度目かのコールののち留守番電話に切り替わった。
「出ねぇよ、先生」
「岡崎さん! 何度もかけたら迷惑なんじゃないですか?」
琢磨の忠告も聞かずに、岡崎は再び野辺山を呼び出した。気分のいい酒は、すっかり岡崎の血中を駆け巡って思考回路を鈍らせていたのかもしれない。
二度目のコールで、つながった。
「野辺山ちゃん! 今、飲んでる──」
途中で言葉を切った岡崎を、琢磨は不思議そうに眺めた。二人は眼を合わせる。岡崎の眉が寄った。
「どうした? 何かあったのか、野辺山!」
電話口から聞こえてきたのは、搾り出したような呻き声だった。
*
岡崎達が飲んでいた店から、どんなにタクシーを飛ばしても、野辺山の自宅までは四十分ほどかかる。
琢磨は車に乗ってきていたが、さすがに飲酒運転をすることはできない。
二人は店にタクシーを呼びつけて飛び乗った。
内ポケットの古びた皮手帳を急いでめくり、野辺山の住所を運転手に告げる。
苦しげな呻き声はただ事ではなかった。
「どうしたんでしょうか、先生」
「心臓の血管が詰まってなきゃいいんだがな」
「岡崎さん、縁起でもない……」
腕を組んだり、足を組みなおしたりしてみたが、どうにも落ち着かなかった。胸騒ぎというものがあるとすれば、こういうことを言うのではないかと、岡崎は始めて思った。
今回のミイラ死体事件は常識の範疇を超えている。
脳だけが生々しいミイラ死体。体の一部を失った死体。警戒態勢の中でおこる小火。赤ん坊らしからぬ、佐々木希実のゾッとするような笑み。野辺山に付きまとう麗子の亡霊。
どれをとっても、何一つ繋がってこないが、唯一共通しているといえば、これが現実的でないという事だけだった。
そのことが、岡崎を不安にした。
苛々しながらタクシーを飛ばしてもらい、野辺山の自宅に着いたのは夜も九時になろうかという時間だった。
見上げた家には、明かりがともっていなかった。
「ホントに自宅からの電話だったんですか?」
「そう言われると、自信がないよ」
岡崎は頬を掻きながら門から中に入った。ガラス窓が仕込まれた玄関ドアからは薄い明かりが漏れている。廊下の電気がついているのだろう。
「いるじゃないか」
岡崎はポケットからハンカチを取り出した。もしもこれが犯罪がらみだった時のために、自分の指紋を残しておくわけにはいかない。悲しい習性というべき行動だ。
乱暴にインターホンを鳴らし、ドアを拳で叩いた。何度も野辺山の名前を連呼し、琢磨が近所迷惑だと諌め、裏から回って家の中を覗いてみようかと決めた時だった。
玄関を開錠する音がした。
岡崎は急いでハンカチでドアをつかみ、開け放った。
玄関先に、スウェットスーツ姿の野辺山が倒れこんでいた。
「野辺山先生! 大丈夫か、何があったんだ」
玄関ホールでうつ伏せになったまま返事をしない野辺山を岡崎は上向きにした。琢磨は家に上がりこんで、ハンカチを片手に電気をつける。
「おい、これ──」
上向きになった野辺山をみて、岡崎が声を失った。
野辺山の顔は真っ青だった。クビにはくっきりと指の痕がついていて、何者かが締めたことを示していた。
「強盗か? おい琢磨、電話だ」
「……待てよ、岡サン」
仰向けのまま、野辺山はかすれた声を出した。弱々しく首を横に振る。
「違うんだ」一旦ひとしきり咳き込んで、野辺山は続けた。「違う、強盗じゃない。麗子だよ、佐々木麗子。僕に、何かを見せたらしい」
岡崎が言葉を失っているのを見て薄く笑うと、肩を借りて体を起こした。
「彼女はいなくなったんじゃなかったのか?」
野辺山は首を横に振った。
「いや、いたんだよ、たぶん、僕の中に……ずっとだ。力を、蓄えていたのかな……今もいるんだ。分かる、感じるよ……」
そう言って、野辺山は自分自身を指差した。
「ちょっと待ってくれ。何がなんだか……」
「そう、僕もわからない。あれが、犯人なのかな……それとも、佐々木麗子なのかな……」
岡崎と琢磨は目を見合わせた。
七月初旬の夜にしては、冷たい風が玄関から吹き込んできた。夏の虫が、小さく鳴いているのが聞こえる。郊外の住宅街は物音一つしなかった。 |