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怨嗟の輪廻
作:暁さくや



四の段 寄寓……4


 六月二十六日。
 香坂はこの日から会社に出勤しなくなった。
 無理して購入した郊外の高級マンションには、香坂専用の書斎がある。四畳半の狭い空間だったが、彼にとっては贅沢で自由な空間であった。
 子供に仕事の邪魔をされないように、内装する時に予め鍵をつけてある。
 香坂は書斎にこもると鍵をかけた。
 机の上を占拠していたパソコンと几帳面にファイルされた書類を乱暴に隅に押しやると、買ってきたばかりの小箱を積み上げる。ざっと二十箱はある。
 ちゃんと机と椅子が設置してあるが見向きもせずに、香坂は床の上に胡坐をかいた。
 頬を緩ませ、子供のように目を輝かせながら、箱のひとつを手に取った。
 車のプラモデルだった。
 香坂は子供の頃から細かいものを組み立てるのが好きだった。時間を忘れて熱中し、何度、母親に叱られたかしれない。怒りながらも、完成させると決まって母親は根気のある子供だと褒めてくれた。褒めて、頭を撫ぜてくれた。子供だった頃、香坂の心はそれだけで満たされた。
 箱を開けると、プラスチックの枠に細かなパーツがびっしりと散りばめられていた。元となる車の本体を取り出し、箱の写真と見比べる。色をつけるためのカラーのビンを一つ一つ手にとって、完成図をイメージしていった。
 自然と心が和んできた。
 仕事に追われ、ローンに追われ、嫌な付き合いをしていたこともすべて忘れていた。営業成績を上げても、母親のように香坂自身を褒め称えてもらえることはない。上司の決まり文句はいつも「やれば出来るじゃないか」であった。
 パーツの一つを手にして、設計図どおりに組み立てていく。作業が細かいので、香坂はうつむき加減で、丁寧に一つずつ、車のプラモデルを完成させていった。
 部屋の外では、無断欠勤する夫をなじる妻の声がしばしの間、響いていた。
 が、それも、しばらくの辛抱だった。
 鍵がかかった部屋へは、妻は入っては来ない。そのうち静かになって、香坂は作業に熱中することができた。
 郊外の日中は騒音がない。
 子供たちは学校へ行き、家に残る女たちの大半はパートか買い物、友達と食事やエステに出かける。
 書斎は静かだった。
 どこからともなく、時を刻む秒針の音だけが響いてきた。
 無論、香坂には何も聞こえていなかった。左腕にはめられた腕時計が、時を刻んでいく。規則的に、囁くように、確実に時を刻んでいった。
 赤い、血のような色をしたバンドの腕時計であった。まるで手首から多量の出血をしたあとで血糊が乾き、どす黒くまとわりついているかのようだ。
 その時計が時を刻んでいる。
 香坂は、時を忘れて没頭した。
 日が落ちて、何度、妻が呼びにきても一切返事をせずに、食事すらとることはなかった。
 部屋を闇が包み込んでいく。香坂は仕方無しに、机の上のライトを点灯した。ただひたすら、眠ることもなく作業を続けた。
 机の電燈が狭い部屋に香坂の影を作る。
 薄かった影が、不意に墨を混ぜ込んだかのように澱んで闇を深くした。
 そこから、人影が沸き立った。
 影は香坂にまとわり憑くように揺らぎ、やがて、一人の人間の形を成する。
 老婆だ。
 闇に同化してしまうのではないかと思うほどの薄墨色の着物をまとい、枯れ枝のような腕を膝にのせて正座している。髪は艶を失って縮れ、根元から白くなって銀鼠色になっている。頬はこけ、目が落ち窪み濃い影を落としていた。
 薄い唇がわずかばかり持ち上がり、あるかないか判然としない笑みが老婆の顔に張り付いた。
「楽しかろう?」
 どこからか声が湧き出した。老婆の口元は動いていない。しわがれた声だった。ラジオの選局を誤ってノイズが入ったままのような声だ。思わず背筋がむず痒くなる。
「楽しむがよい。かわりに、いただいていくぞえ……」
 老婆の声に反応するかのように、香坂は小さく痙攣した。寒気を感じて、ブルリと震えるくらいの、わずかな痙攣ではあった。
 骨に一枚皮を巻いただけのような腕が、香坂の背に触れる。
 再び香坂が痙攣した。
 しかし、顔は満足げに笑っている。手は、変わらずに車を作り続けていた。













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