三の段 接合……3
「どうします? 岡崎さん」
琢磨が重い口を開いたのは、創英大学医学部の校舎の脇にある駐車場だった。キーのロックをはずしながら、車越しに岡崎を覗き込んでいる。琢磨は背が高いので、車から頭が出ているが、岡崎は半分隠れる形になっている。
返事をする気分ではなかった。
どうやら、野辺山教授はこの事件を霊現象か何かだと思っているようだ。
現実、佐々木麗子の遺体は科学的にも説明のつかない状態にある。身体は完全なミイラだが、脳だけは生々しく生き残っていた。加えて、野辺山に付きまとう麗子の幽霊。
岡崎は車に乗り込んでから、「早く出せ」と琢磨を急かした。
「どこへですか? 一人めの犠牲者が出た、隣の県まで?」
「何を馬鹿なこと言ってんだ。東山芸能プロダクションに決まってる」
「あ、そうですよね。まずはそっちですね」
琢磨の思わず早送りのボタンを押したくなる話し方に、岡崎は訳もなく少しばかりイラついた。
野辺山教授の部屋を出てから、ずっと佐々木麗子の顔がチラついて離れない。赤ん坊を抱いて微笑む写真の中の彼女ではない。眼球を失った恨めしそうな眼窩が二つ、真っ直ぐに岡崎を眺めている。昔、小学生だった頃、いつも理科室にぶら下がっていた骸骨の人形のように、ゆらりと宙に浮いている姿だ。
もしも野辺山が言うように、五月六日に発見された女子高生の死体が佐々木麗子と同じ状態だとすれば、これは連続殺人の可能性もある。もしくは、野辺山の言葉を借りれば奇病。こういう時には横のつながりの薄い警察の弱点が浮き彫りになる。押しかけて、事件の捜査資料を閲覧するにも手続きが必要だ。
──五月六日?
岡崎はなぜか日付が気になった。いつか、どこかで、似たような日付を聞いたような気がしたからだった。
「岡崎さん。東山芸能プロダクションは、確か仮事務所を借りてるんでしたよね」
「ああ、そうだ。間違えるなよ。放火現場に行ったって、無意味だからな」
「それにしても、驚きました。法医学でお世話になってる教授先生に霊感がおありだなんて。どうりであの部屋、寒いはずですよね」
岡崎は車のシートにもたれていた背を起こした。
「寒かったのか? お前」
「ええ、なんだか鳥肌がたって仕方なかったんですよ。岡崎さんに教えてもらって、ちょっと納得しました」
運転しながら微笑む琢磨の顔が目に入って、岡崎は少しだけ嫉妬した。何も感じない自分のほうがおかしいと、言われた気がしたからだ。
*
東山芸能プロダクションの仮事務所は放火事件のあった雑居ビルのすぐ近くだった。
駅にも程近い雑居ビルは芸能活動の拠点としても絶好の立地条件だったらしい。東山芸能プロダクションの経営そのものには、たいして影響がなかったらしく、岡崎達が訪問した今日も、来客もあり、電話は鳴りっぱなしで、五人いる社員のうち三人は外に出て不在だった。
さんざん待たされたあげく、申し訳なさそうにお茶を運んできたのは二十歳そこそこに見える若いアルバイトだった。
まるで若い男性雑誌の表紙を飾っていそうなお洒落な服を着ているのに、顔は全く十人並みで、あまりのアンバランスさに呆れるのを通り越して、気の毒にすらなる風体だった。
「すみませぇん。もうすぐ帰ってくると思うんだけどぉ」
東山芸能プロダクションの中で、特に音楽芸能を担当している社員が不在であることを謝罪しているらしかった。
岡崎は思わず眉がよったのを自覚した。「敬語すら使えないのか、こいつは」と顔にはっきりと出たに違いない。岡崎は思わず、舌打ちしていた。礼儀を知らない若者に、つい腹が立ったが、ここで怒っても仕方ない。自分に言い聞かせて、何も言わずに出されたお茶を手にした。それがいけなかった。お茶は薄い上に冷めていた。白湯に薄い黄色の色をつけたのと同じだった。
腰をあげかけた岡崎に、隣から慌てて琢磨が声をかけてきた。
「岡崎さん! デ、ディスクを預けていったん戻りますか?」
「そうだな、おい、君!」
怒りに任せた鋭い声で、踵を返していた若者を呼び止めた。彼が振り向くと、腰の辺りに無意味にぶら下がっている何本ものチェーンがジャラリと音をたてた。
振り向いた顔は、にこやかに微笑んでいた。
岡崎は毒気を抜かれて言葉を失っていた。彼に頼み事をしても無駄に終わるだろうと思いつつも、今日は出直す以外にないと腹を括った。ディスクを若者に渡し、この中に記録されている音楽を持ち込んだ人間を思い出してもらえるよう、他の社員へ伝言を依頼した。もしくは、持ち込むような人間の中に怪しい者が混じっていなかったかも思い出してもらえると有り難いと伝えた。
「怪しいヤツ?」
若者はディスクを手にして、岡崎の顔を真っ直ぐ見上げてきた。
何かを思い出したような顔だった。唇がもの言いたげに開きかける。
「何か気付いたことがあったら、なんでもいいから教えてもらえないかな」
「はぁ……あれ、いつだったかなぁ。けっこう最近。態度の悪い奴がいたよ。髪がさ、オレンジ色で、目付きが悪いんだ。挨拶もしねぇでドアを叩きつけて帰ったから、俺、よく覚えてんだ。礼儀のねぇヤツだなあって……」
若者は面倒そうに首をかしげて後頭部を掻いた。思わず畳み掛けるように言い返したい衝動を抑えて、岡崎は声を落とした。
「いつごろか分かる?」
「たぶん、火事が出るちょっと前だったと思うんだけど、何時って言われても……」
岡崎は若者の肩に手を乗せた。
「顔、覚えてるんだよね」
若者が怯えたように肯いた。
*
平沢幹夫は、立っていた。
電柱と背後の壁に身を寄せて、ひっそりとたたずんでいた。
立ち並ぶビルや家屋の濃い闇にまぎれ、通り過ぎる者は誰も彼に気付かない。影の一部に同化してしまったかのように、まるで存在感というものが感じられなかった。
大体、大通りの抜け道であるこの路地は、深夜になると人通りがなくなる。
街灯はあるが、通る人間の顔を判別してくれるほど明るいわけではない。
幹夫は、頭を覆うヘッドホンに手を添えた。手は艶を失い乾燥していた。オレンジ色の髪は根元が白くなり、櫛も通さず乱れきっている。
ただ、時折リズムを取るように頭や体が揺れていた。
落ち窪んだ眼窩におさまった瞳は、痩せこけて乾燥した肌にはそぐわないほど、異様に煌々と潤ってみえる。爛々と輝く目は、闇で獲物を捕らえた野生獣のように、じっと一点を見つめていた。
「ば〜か。俺の素晴らしさを、わからねぇヤツは、ば〜かだ」
声までもが艶を失い、カラオケで歌いすぎて喉を痛めたように、しわがれていた。
幹夫は羽織っていたジャケットのポケットに手を入れた。そこに忍ばせた缶コーヒーほどの大きさのビンをしっかりと握り締める。
ゆるゆると移動した視線の先には、二人の警官が立っていた。入口が燃えて煤けた雑居ビルの玄関だった。
彼らは眠そうだった。時折、大きなあくびをしている。それでも居住まいを正し、注意深く辺りの様子を伺っていた。警官たちの隣には一台のパトカーが止まっており、中にも二人の人間が座っているのがみえる。
幹夫がポケットからビンを取り出して右手で握り締めた。筋だった腕には、あまりにも重そうなビンだった。腕は小さく痙攣していた。
「行くのかえ?」
幹夫の耳元で、深夜の暗闇に溶け込むかのような囁き声がした。風が耳元で、ごうと音をたてたのと似ている。
電柱の影に立つ幹夫の周りには誰もいない。
喉の奥で堪えるように幹夫は笑った。
その笑い声にしわがれた声が重なる。音楽でいえば、ユニゾンのように。幹夫の声としわがれた声が同じ高低で含み笑いを続けた。
「面白い獲物じゃたよ、主は……楽しませてもろうた」
闇の深遠から、筋のたった腕が伸びてきた。すっと現れた枯れ木のような手が、幹夫のこけた頬を愛おしそうになでる。
幹夫は笑い続けていた。
狂気に満ちた目は、真っ直ぐ向かいに立つビルの看板を睨み上げている。
──東山芸能プロダクション。
「燃やしてやる」
果てしなく続く闇を背後に背負ったまま、幹夫は足を一歩踏み出した。
「俺の音楽を理解しないヤツは、地獄に落ちればいいんだ」
同じ台詞を一言一句間違えずに、ひたすら繰り返した。お経を唱えるかのように、低く呟き続ける。
幹夫の歩みは、次の一歩を踏み出したところで止まった。止まったのではなく、足が出なかったというほうが正しい。
踏み出したもう一歩は、関節が枯れ枝を真っ二つにしたのと同じように膝からくず折れた。片膝をついた姿勢で、なおも前に進もうとする。もう一方の膝をつき、右手にビンを握り締めたまま、次に右肘、右肩をつき、ついに電柱のそばで横になった。左手は吸い付いたように、ヘッドホンをあてた耳元に添えられたままだった。
「今日で、この苦しみは終わりじゃよ」
横になった幹夫のそばに、生暖かい風が吹いた。蝋燭の火がわずかに揺れるほどの風だ。風に乗って落ちてきたのは、黒い影だった。
右の指は、しっかりとビンに巻きついている。
幹夫が大きく目を見開いた。
「俺の音楽を理解しないヤツは、地獄に落ちればいいんだ」
声は徐々に、闇に溶け込んでいった。言い終わって息を吐き出したまま、幹夫の胸郭は動きを止めた。全身が、小刻みに痙攣し始める。
幹夫のそばに降り立った影が、人の形に集約し始めた。
老婆が正座していた。膝の上に両の手を添え、薄墨色の着物を身にまとい、銀鼠色の長い髪が肩にかかっている。
老婆は暗紫色にかわった薄い唇に笑みをたたえると、そっと片手を幹夫の頭に添えた。
「終わりじゃよ……ようした……」 |