第9話 喫茶店『樹々』
次の週、日曜日の十一時に彼がマリアのオフィスまでやってきた。二時から講演会に出席する予定になっているので、あまりゆっくりはできない。
車で行くのかと思っていたら、彼は地下鉄で、と言う。車は持っていないらしい。カーキ色のTシャツの上に、ブルーとグリーンの細いストライプ柄の綿シャツを羽織っている。下はありきたりのチノパンツ、靴はスニーカーである。マリアと会うために特別オシャレをしてきた、という感じは一切しない。一言で言えば、ダサい。マリアがこれまで付き合ったことのある男性とは全然違う。彼らは皆、それなりにオシャレだった。
コーヒー店は、マリアのオフィスから時間にして二十分の所にあった。地下鉄で四つ先。二つある出口のうち二番出口から出て、歩いて五分のところにあった。こんな近くにありながら、ほとんど降りたことのない駅。
商業地区というよりは住宅街になる。新しいマンションと古い家々が混在する街。二車線の道路脇には街路樹が植えられており、その奥に可愛い店が並んでいる。洒落たブティックや携帯電話店、インド料理店にサンドイッチ専門店。住み心地の良さそうな綺麗な街だ。
歩きながら、不意に大地がマリアに話しかけてきた。
「マリアというのは『精子バンク』を利用するのに最もふさわしい名前ですね」
カチンと来ることを言ってくれる。マリアは聞こえないふりをした。落し物として届けられた封筒に名前が書いてあったので覚えていたのだろう。しかもマリアという名は印象に残りやすい。しかし、そんな失礼な事を普通言うだろうか。
「聖母マリアは男なしで受胎した」
大地はお構いなしに続ける。
「だから……?」
マリアは棘のある言い方で返事をした。
「いえ、それだけのこと。気分を害したのならごめんなさい」
この人は、相手を気遣うということをしない人なのだろうか。精子バンクを利用しているのか? という質問にしろ、今回の発言にしろ、普通なら躊躇するであろう事をいとも簡単に言ってのける、平気で人を不愉快にする特殊な才能の持ち主らしい。
マリアが付き合ったどの男性とも違う種類の生き物であることは確かだった。彼女の知る男性は皆優しかった。最初だけは。
気まずい空気が流れ、二人は黙ったまま肩を並べて歩いた。
大通りから細い通りへ入ったところで、目指すコーヒー店が近くにあることをマリアは鼻で感じた。香ばしいコーヒーの香りが道路沿いに漂っている。
黙って歩いていた大地がマリアの方に顔を向けて笑った。
「あそこです。あのレンガ造りの建物」
笑うと、なかなかの好青年である。もう少し自分を飾ったらいいのに。女性とあまり付き合ったことがないのだろうか。人の気を惹くことを考えない人物、失礼な物言いで相手の機嫌を損ねることは今までもあったに違いない。損する性格だとマリアは感じた。
P有りウラ、という小さな看板が見える。赤レンガの建物はこじんまりしていた。 『樹々』という文字が、渋色の木製プレートに堀り込まれている。
大地がドアを開けると、今まで微かに漂っていたコーヒーの香りが一気にマリアの全身を包み込んだ。
「いい香り……」
思わずマリアはつぶやいた。大地が後ろのマリアを振り返って、さりげなく手で合図をする。お先にどうぞ。ぶっきらぼうな人かと思ったら、こんな気が効いた所もあるのだ。
室内は落ち着いた雰囲気で、静かなオーボエの音楽が流れていた。
奥まった場所まで進んで、大地はマリアに席を勧めた。二人は向かい合って座る。傍目には、二人がどんな風に映っているのだろうとマリアはふと思った。
長い髪を後ろで結わえた細身の女性が水の入ったグラスを持ってやってきた。年にしたら五十歳前後だろうか。綺麗な人だ。
「いらっしゃいませ」
大地は頻繁にここへ来るのだろう。女性の笑顔が『顔見知り』に対するそれであることにマリアは気がついた。
「コナ、二つ下さい」
大地はメニューを見もせずに女性に言った。
「はい、わかりました。ごゆっくりどうぞ」
女性は、眉をほんの少し上げて、ニッコリ笑って言った。マリアは、その女性が、常連のお客さんが彼女を連れてきた、とでも思っているのだろうと感じた。そう思われることに、マリアは微妙な心地悪さを感じる。
「学会でハワイに行ったことがあるんです。その時、初めてコナコーヒーを飲んでね。それからですよ、コーヒーに病みつきになっちゃって。この店を見つけた時は、嬉しくて嬉しくて」
カウンターの奥に、口ひげをたくわえたマスターが見えた。優しい目をした人だ。音楽に混じって、豆を砕く音が聞こえてきた。マリアは、落ち着く場所だと思った。少なくとも、いい場所を教えてもらった。本当の恋人と、こんな所で本物のコーヒーを楽しみたいものだ。でも、そんな夢はとっくの昔に諦めている。
大地は、饒舌になっていた。コーヒーの話や、初めてこのお店に入った時のことなどを嬉しそうに話す。マスターは謎めいた人で、医師か科学者か、どちらかだろうと言った。ここの前には田舎で『森』という喫茶店を一人で開いていたらしいことも。マリアには、どうでもいい話だった。
「岡島さん、結婚されてないでしょ?」
コーヒーやここのマスターの話をしているかと思ったら、突然、大地がマリアに話をふった。
マリアは、腹が立った。この男の脳みそには、失礼な言葉ばかりが並んでいるのだろう。
「それが、何か?」
「いえ。ボクは、『精子バンク』を誤解していたんです。ドナーになる前は、不妊症のカップルが精子を買うものだと、そう、信じていたんですよ。ところが、そうじゃなかった。ドナー登録が済んでからですよ。今、未婚の女性の間で『精子バンク』を利用するのが流行っているって知ったのは」
この男がマリアをコーヒーに誘ったのは、いや、わざわざ落し物を届けた真の目的は何なのだろうか。『精子バンク』を未婚のマリアが利用する事を非難するためか? マリア自身、『精子バンク』利用の動機が不純なのではないか、そんな一抹の後ろめたさがあったからこそ、今までずるずると行動を先延ばしにしてきたというのに、この男は、いちいち人の一番気に触る所にナイフを突き立ててくる。
いやな男なのに、なぜマリアが彼からのコーヒーの誘いに応じたのか、それはマリア自身にもよく分からなかった。単に『精子提供者』である彼への興味からだったのかもしれないし、表情や彼の動作から悪気を感じなかった所為かもしれない。
再び二人の間に微妙な空気が漂いだした時、口ひげマスターが二人の前に現れた。
大地と、それからマリアの前に、左手で丁寧に珈琲カップを置いた。
「いらっしゃいませ。先生は本当にコナがお好きですね。ごゆっくりどうぞ」
大地に向かってマスターは笑って言ったあと、マリアの方を向いて微笑みながら軽く会釈をした。大地はいつもコナを頼むのだろう。
琥珀色の液体がゆったりとマリアの前で揺れている。
マリアは、その香りと味をゆっくり堪能した。言葉は何もいらない。こんな美味しい珈琲を飲んだのは初めてだった。大地が島田コーヒーを評価しなかったことが頷ける。『なるほど』とマリアは心から思った。こんな美味しいコーヒーを知ってしまったら島田コーヒーはダメだろう。ここで、焙煎豆を購入できるだろうか、マリアは大地そっちのけで、自分の考えに没頭していた。カップに口をつけたまま、そっとカウンターの方を見る。販売用の豆があるかな、と思いながら。
するといきなり、大地がマリアの顔をまっすぐに見て言った。
「よかったら、僕の精子を使ってくれませんか?」
マリアは、口に含んでいるコーヒーを噴き出した。それは、大地の綿シャツに見事な模様を描いた。マリアの中で驚きと戸惑いと腹立たしさ、そして、コーヒーを噴いてしまったことの申し訳なさが一緒くたになった。大地のシャツについたコーヒーをぬぐおうとテーブル上に立てられた紙ナプキンを手に取ったマリアだったが、それよりも、口にわずかに残っていたコーヒーが鼻に抜けて今度は激しく咳き込んだ。持っていたナプキンで口と鼻をふさぎ、マリアは咳が収まるのを待つしかなかった。
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