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  Sperm Business 作者:GFJ
第19話 苦悩 1
 大地の名刺とパンフレットがマリアの手から落ちた。マリアの間違いだった。地中海病院のミスでも大地の仕組んだ罠でもなかった。
 どうしたらいいのだろう。何も知らない大地。花を自分の子と信じて、花を守るために結婚を申し出てくれた。マリアのことを好きだと明言してくれなかったことに少しばかり腹を立てたりしたけれど、何て身勝手だったんだろう。純粋な気持ちでマリアに結婚を申し込んでくれていたのだ。そんな彼を疑っていたなんて。なんと大きな過ちを犯してしまったんだろう。取り返しのつかない過ち。
 大地とのぎこちない会話が次々に思い出された。こんな幸せがかつて存在しただろうか。その幸せがさらさらと指の間から落ちていく気がした。マリアが番号を間違ったりしなければ、その幸せをずっと享受できたのだ。愛しているなんて陳腐な台詞をもらわなくても良かった。暖かく見守ってくれる大地の存在がどれだけ有難かったか。けれど、もうおしまいだ。
 大地に何と言えばいいのだろう。離婚は確実だろう。もともと契約のような結婚である。離婚を申し出られるのは仕方が無いと思う。自業自得なのだから。けれど、大地に何と言えばいいのだろう。どれだけ彼を傷つけるだろう。そのことの方が今のマリアには辛かった。このまま黙っておくというわけには……。言わなければならない、という気持ちと、幸せを失いたくない、大地を悲しませたくない、という気持ちがマリアの心を激しく行き来した。事実を知った時、大地は何と言うだろうか。何と言って怒るだろうか。しかも、すでにマリアは大地を傷つけてしまっている。大学に戻ったまま帰ってこない。否、大学へは戻っていないかも知れない。自分のアパートで一人過ごしているかもしれないのだ。

 大地は血液型がA型だと言った。マリアがO型。花がO型なのは大地の子として矛盾しない。大地は何も知らないのだ。でも、いつかはばれる。今は何の疑問も抱いていないとしても、いつか必ず不審に思う日が来る。成長すれば成長するだけ、発現していなかった遺伝子が働き出す。そして間違いなく疑いようのない特徴が現れてくるはずなのだ。その日まで知らない振りを続けていく……、不可能だ。
 どうしてあの時、もう一度、番号を確かめなかったのだろう。どうしてプロフィールをもらわなかったのだろう。激しい後悔がマリアを襲う。プロフィールを見ていれば、その時に気がついたはずなのだ。ドナーが大地ではない、ということに。
 マリアは床に座り込んだまま途方に暮れていた。

 メールの着信を知らせる音楽がなった。大地からだ。
 
 研究会の準備を先に済ませることにしました。今日は戻れません。それから、さっきはすみませんでした。大地

 マリアは携帯を握り締めてぽろぽろと涙を流した。謝るのは自分の方なのに。嗚咽で息をするのでさえ苦しかった。近いうちに全てを話して、謝罪して、そして終止符を打とう。苦しいけれど、せめて大地に対して正直でいたい。彼を今解放しなければ、将来、一層つらいことになるだろう。最初の計画通り、『精子バンク』を利用して一人で子供を育てていくという方針に戻るだけだ。マリアは必死で自分に言い聞かせた。 

 花の世話をするだけでも普段から寝不足気味だが、その日、マリアは別の理由で眠れなかった。とうとう一睡もできないまま白々と夜が明けた。
 自分の決心が変わらないうちに、大地には連絡を入れておこう。そう思ったのは、一夜を過ごしてからだった。

 大切な話があります。私はあなたに謝らなければなりません。今度来られる時に、ゆっくりお時間を下さい。マリア

 これで後戻りできなくなる。そう思うと、送信ボタンを押す指が震えた。しばらく携帯画面を睨み付けて、マリアは目をつぶってボタンを押した。

 大地からの返信があったのは夕方だった。

 わかりました。今日、そちらに行きます。7時くらいになると思います。大地


◇ ◇ ◇ ◇ 

 大地は手にクマのぬいぐるみを持っていた。
「これ。花に」
 照れ笑いをしながら玄関先で、花を抱いたマリアに差し出す。シャラシャラと透明袋が音をたてた。ピンクの大きなリボンがついている。
 マリアは、たまらなくなって泣いた。どうしてこんな時にぬいぐるみなんて買ってくるのよ。これ以上、私を責めないで。謝らなくちゃいけないってメールしたじゃない。空気読んでよ。
 マリアがしゃくりあげている前で、大地は彼女が落ち着くのをしばらく待っていたが、とうとう切り出した。
「上ってもいい?」
 いつまでも玄関で二人向かい合っていても埒が明かない。マリアは、上腕で頬をぬぐって、ウンウンと頭を縦に振った。

 花を抱いたまま、マリアはソファに座った。ソファには充分なスペースがあったが、大地はソファに座らずにテーブルの椅子に座った。椅子に横向きに座ってソファのマリアと向かい合っている。
「引越し、やめようか?」
 大地が口を開いた。
「え?」
「無理、してたんでしょ? ボクは、今のままでいいから」
 マリアの顔は再び涙でぐしゃぐしゃになった。そういうことじゃないのに。大地の優しさがどこまでもマリアを追い込んでいく。
「そう……じゃなくて……、花はね、花は……」
 マリアは一気に喋ってしまおうと思ったのに、横隔膜がマリアの意志を無視して定期的に引きつって息を吸い込む。子供が泣いてるみたいだ。うまく喋れない。
 その時、大地から思いがけない言葉が飛び出した。
「ボクの子じゃないってこと? それを言いたかったの?」
「え?」
 マリアはまだ横隔膜の興奮を抑えられない状態で、驚いた様子で大地を見た。しばらく沈黙が続いた。再びマリアは混乱していた。 
「知ってたの?」
 大地は黙ったまま頷いた。
「いつから?」
「最初に花に会った時」
「似てないと思った?」
「そうじゃなくて、ベッド柵にかけてあった花のプレート」
 大地は両肘をテーブルと椅子の背もたれにつき、両手を目の前で組んで、左右の親指をこすり合わせていた。
「ボクの血液型はA型です。でも、A型はA型でも、Oの混じらないA型なんです。父も母もAB型。珍しい組み合わせでしょう。つまり、ボクの子供でO型はありえないんですよ」
 あの時……。あの時に大地は知ってしまったのだ。大地が花を見ながら泣いていたのは、そういうことだったんだ。ようやくマリアは、理解した。
 マリアは、大地から受け取った登録番号をパンフレットから探すとき、番号を間違えてしまったことを告げた。
「ごめんなさい。謝っても取り返しがつかないことだと分かっているの。本当に本当に、ごめんなさい。どんなに謝っても許してもらえることじゃないんだけれど」
 大地は、まっすぐにマリアの方を見て言った。
「終わってしまったことについては仕方がないですよ。原因について考えるより、今後どうするかの方がずっと大事でしょう」
「でも……。昨日、自分の間違いだと気づいて、ずっと悔やんでる。眠れなくて……」
「もっと前の段階でボクらは間違っていたんじゃないでしょうか。そういう意味で、ボクとあなたは同罪です」
 マリアは、大地の言葉の意味を理解できないまま、自分の疑問を投げかけた。
「自分の子供じゃないと知ってて、あえて結婚を申し出てくれたのよね? どうして?」
「ずっと、迷ってました。花に会うまでは。花の顔を確認したら終わりにすべきだと自分に言い聞かせてもきました。でも、あのプレートを見た時、つまり、花がボクの子ではないと気づいた時、何と言うか、恐ろしいほど切なくなりました。何か手違いがあったんだろうな、と咄嗟に思いました。ボクは、どうしたらいいんだろう、目の前にある現実にどう対処していったらいいんだろうと、途方に暮れました」
 マリアは目を真っ赤にしたまま、大地の言う事に耳を傾けていた。
「このまま別れたら、本当に何のつながりもなくなるんだと気づいたんです。花ともあなたとも。赤の他人になるんですよ。ずっと、つながっていると信じていたのに。最初から何の関係もなかった、そして、その後も、ずっと。でも、結婚すれば、書面の上だけでも結婚すれば、繋がっていられる。たとえボクのDNAを引き継いでいなくても。胎児の頃から花の成長を見守ってきたという実感を引き継ぐことができるんです。二人に関わり続けたかったんです」
 マリアは、心がえぐられる思いだった。何か手違いがあった、大地は、単純にそう思った。何の疑いもマリアに対して持たなかった。自分が大地を疑っていたのと何という違いだろう。あの短い時間に大地は結婚へと結論をもっていったのだ。マリアを責めてもおかしくないのにそうしなかった。騙されたと感じてもおかしくないのに、そう思わなかった。それに、あれだけ自分のDNAにこだわっていた大地が、血の繋がっていない花を心から大事にしてくれている。マリアには、こんな人が存在すること自体が信じられなかった。
 さらに大地は続けた。
「それからもう一つ。あなたが花を妊娠していた頃、ボクは精子バンクについて色々調べました。本当はこんなことは精子バンクのドナーになる前にやっておくべきことでした。そして、自分がやってきたことに対して疑問が生じてきました」
 大地がじっとマリアを見つめた。



次回は、7月16日(木)に更新予定です。


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