第1話 マリア
「国籍は?」
「え? 国籍? ……日本人で」
「血液型は?」
「血液型ですか? いえ、別に何でも構いませんが……」
「その他希望はありますか?」
「希望……ですか?」
「背が高いとか、目が大きいとか、ストレートの髪とか、頭がいいとか、まあ、いろんなご希望があると思うんですけど。特に希望がなければ、コンピュータでランダムに抜粋することになります」
ライフスタイルが大きく変わった。
子供は、体外受精がメインになり、精子バンクを利用する女性が年々増加していた。
岡島マリア、三十一歳。独身。両親は彼女が小学6年生の時に離婚し、以後、母の手によって育てられた。父親の暴力が離婚原因で、そのため家庭裁判所でも経済的に養育困難とされながらも母親が親権を獲得したのだ。
マリアは何度か恋をした。あれほど憎んだ父なのに、選ぶ相手は父と似ていた。自分でも驚きだった。父と違うタイプを選んだはずなのに、交際途中で相手が次第に自分を力で支配しようとしていることに気づく。そのたびに、自分に引き継がれた母親からからの負の連鎖を呪った。父親と似た男を選んでいるのか、それとも、相手を父親のような人間に自分が変えているのか、それはマリア自身にもわからなかった。気づけば逃げようとしても逃げられない状況に追いやられている。交際中の相手の中に粘着質の父親の姿を見出しては、沸き出でてくる激しいアンビバレントな感情に彼女は苦しめられた。
母親は酒場で働きお金を貯めたあと、マリアが高校2年の頃に独立して小さなスナックを開業した。本当に狭い店だった。母がどんな苦労をしてきたのか、マリアは具体的に知らなかったけれど、何となく母親の身体から放たれる目に見えない粒子の色で感じていた。そのことは決して口にしなかった。思春期特有の潔癖さから、母を汚らわしいと思ったこともあったが、彼女が必死にマリアを守ろうとしていることも同時に感じていた。そして、恋をするようになってから、母親の深い悲しみが理解できるようになって、自分が母親を嫌悪した理由をも悟った。自分の中に流れている血が彼女に母親と同じ道を歩ませようとする、その運命に必死に抗っていただけなのだと。
学問のない母親は、自分と同じ惨めな思いを娘にさせたくなかった。女の身を守る最大の武器は決して女ではない。学問を身につけること、それが幸福になるための必要条件であるというのが母親の出した結論だった。
マリア自身も男性の力を借りずに自分の足で生活していく将来像を小さい頃から思い描いていた。結婚に甘い夢を見がちな年齢になってもマリアは決して結婚に憧れることはなかった。結婚を考えたことがない、と言えば嘘になる。しかし、彼女の数少ない恋は、結婚の幻想を抱こうとすると途端にそれを破壊した。いよいよ自分には結婚は無理なんだと確信させただけの恋。彼女にはそれを打ち破るだけの経験がなかった。
マリアが大学に進学し、心理学を専攻するようになったのは、自分が辿ってきた格闘の日々の意味を理解するためでもあった。母親はマリアが大学に進学するというだけで喜んでくれた。心理学であろうが経済学であろうが文学であろうが、実際のところ、その違いもよくわかりはしなかった。
自分の心理を理解することによって、場合によっては現状打破の可能性があるかも……、心の奥底にそんな期待があったかも知れない。父に対する憎悪の感情を克服することが、結果的に幸福な結婚への道へ繋がるかも知れないと。
しかし、残念なことに、そうは行かなかった。時代は、個人の願望を手に入れるのに、より積極的な方向へと進んでいた。個人の多様性を尊重する方向。あるいは、煩わしい規制が取り払われた方向……。以前には考えられなかったライフスタイルの選択肢がマリアの目の前に提示され、彼女はまぶしいまでの光が自分に降り注いでいることを感じた。皮肉なことに、そのことをはっきりと彼女に教えたのはマリアがK大学に入学し心理学を専攻したことに深く関係していた。
彼女が先進的な生殖医療を取り入れている病院のことを知ったのは、大学2年の夏休み前だった。それは臨床心理学の教授をしている畑先生の噂がきっかけだった。女医でもある畑教授は、未婚の母である。二人の子供は専任のベビーシッターが面倒を見ているという噂、そして、精子バンクで計画妊娠をした、という噂。クラスメート達が興味津々でひそひそ話に花を咲かせている、そんな中で、マリアの心臓は高鳴った。
---そんな方法があったか。
最初につぶやいた心の声。ぱあっと明るい未来が開けた気がした。クラスメート達の意見は否定的な物が多かったが、
「男なしで子供を作れるのはいいよね。うざいじゃん」という楓の意見を否定する者はいなかった。『畑教授が精子バンクを利用したこと』に対する否定的な意見の本音には、欲しいものを全て手に入れてしまった(ように見える)彼女に対する嫉妬心が多分に含まれていた。自分達にそういうことをするだけの勇気がないことの裏返しでもある。誹謗中傷は覚悟してるはず、という言葉の奥にあるのは彼女達の妬みに他ならない。畑教授は米国の精子バンクを利用し米国で出産した、そして、利用した精子はどうやら日本人のものらしい、というのがもっぱらの噂だった。米国の精子バンクで日本人の精子が手に入ることや、その提供者について、皆、好き勝手なことを噂した。
精子バンクのことを知らなかったわけではない。ただ、自分とは無縁だと思っていた。ところが、目の前にモデルケースが突然現れた。それも、あの、美人で有名な、天から二物も三物も与えられている畑教授のような女性が、わざわざ精子バンクで妊娠する、という手段を取っているという事実。胡散臭さしか感じられなかった『精子バンク』というシステムに、マリアは強烈に惹きつけられた。全てが解決できる。父親の残像に苦しめられることもなく、結婚という手段を取ることもなく、母親になることができる! しかも、自分の人生を設計する上で、煩わしい恋愛から結婚へのステップを踏むことなく、好きな時期に妊娠できる。マリアにとって、こんなすばらしい手段を取らない、という手はなかった。
大学在学中に畑教授の存在を知ってから、マリアは『精子バンク』で妊娠、出産をするという漠然とした考えを暖めてきた。このアイデアは、いろいろな意味でマリアを自由にした。恋愛の可能性を全て捨てたわけではなかった。ただ、彼女にとっての『精子バンク』は、最終的に頼ることのできる『保険』であった。『保険』のお陰で結婚に対して強迫観念を抱く必要がなかったものの、それが却って彼女を結婚から遠ざける原因となった可能性もある。
結局、三十歳を超えて、彼女は、この『保険』を使うことを決心し、実行に移したのだった。
長いお休みを頂いていました。ようやく重い腰を上げ、新しい連載を始めることにしました。
今回も医療系の物語ではありますが、前作とは趣を変えて綴っていこうと思います。
毎週木曜日に更新予定とします(変更もあり得ます)。
次回は、3月12日(木)に更新予定です。
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