挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
明石二種第一学校蹴球戦記 作者:豊住耕一
7/8

音のない時間の中で

明石二種第一学校の修学旅行は雫石でスキーである。これには理由がある。遡ること20年ほど前、まだ椛沢優理絵の担任がここの生徒だったころ、修学旅行はスキーではなかった。今となっては発端の詳細は定かではないが、旅行先で地元生徒と実力行使を伴う大変な争いを起こし、補導者が出たため、明石二種はそれまでの伝統的な修学旅行先から出入り禁止を食らったのである。

次の年、学校は修学旅行を完成したばかりの上越新幹線を利用して、新潟県は苗場山でのスキーに変更した。が、これは一度で消滅した。いくら新潟県と言えども12月である。雪が降らず、そのため体力をもてあました生徒達が夜中に暴れまわり、大変なことになったからだ。

よって学校は次の年から行き先を雫石でのスキー合宿とした。さらに体力のありあまった初日から眠らせるべく、前日放課後に上野駅13番線ホームにに再集合、夜行急行津軽号に全員を積載し、初日から全力でスキーをさせることにした。ナイタも可である。夜行移動中は電車であるから監視の目が行き届き、次の日から夜は疲れ切って死んでいる、という算段であった。

この目論見は見事成功したので、それ以来伝統的に上野発の夜行列車で明石二種の修学旅行は始まることになっている。

そんなわけで修学旅行初日の夕方、優理絵は練習が終わるとさっさと家に帰り、最終的な支度を整えた。風呂に入って夕食を摂り、家を出た。島津と二人で連れ立つことはPL決勝のあの日以来していない。監督と選手なので、立場というものもある。

何事もなく全員が集合し、列車は上野駅を出発した。足が長いので、座席下が埋まっていて足が伸ばせない旧式のクロスシートは辛かったが、座席をターンさせてもらい、小柄な子が前を買って出てくれたので助かった。普通にきゃあきゃあ騒いで30分程経つと消灯が告げられ、よくある修学旅行の夜になった。

早朝の雫石駅からバスに乗ってホテルへ。荷物を置くとフロントに再集合で、練度別に分かれてスキー演習となった。優理絵は普通に滑れるので最上位クラスである。白瀬と名寄が同じクラスだった。

最上位クラスというものは「好きに遊んでなさい」というものなので、思う存分滑るだけである。とはいえ、最初から完全に自由にすると遊び尽くして暴れ出すので進入可能領域は次第に広がり飽きないようにされているから、初日の午前はまあ、それなりのところしか滑れない。何度か滑って感覚を楽しんでいると、リフトで白瀬と一緒になった。

白瀬は自前のウェアを持ってきていて、その真っ白なウェアから覗く色白の肌と儚げな瞳、そして何かを失ったかのように切なげな口元は、妖精のようだった。100メートルを12秒で走り、時速100キロメートルを優に超えるシュートを打ち放つ怪物の雰囲気は感じられなかった。

優理絵は長いリフトの中で暫しの間その容貌に見惚れ、白瀬に話しかけられたとき意識を取り戻すのに若干の時間を必要としたほどだ。

「監督って、二学の時はどんな人だったの?」

「どんなって?」

「監督になって、人が変わったとか、あるのかなって。わたしは大会とかで何度か見たことあるけど、それだけだから」

何か変わったのだろうか、と思う。

「最近は昔みたいになってきた、かな」

「最近?」

「落ち込む時期があったから」

スキーに参加できず、一人待たされることになった準備小屋で気分を暗くしていないだろうか、と唐突に心配になった。寒い日で、天気も悪く、高地だから気圧も低い。島津を闇に叩き落とすには最適の状態だ。油断はできない。

その変化を見抜いたようで白瀬がごめんと言ったので、大丈夫と答え、それから島津のことを話した。

家が向かいだから昔からよく遊んでいたこと、どちらからともなくフットボールを始めたこと。三学の頃は地域のクラブにいてその頃から上手かったこと。私立の二学に誘われたりもしたのだけれど、公立で続けて選抜に入ったこと。事故の後、チームメイトが尋常じゃない顔つきで決勝に臨んで格上相手に走り勝ったこと……。

「優理絵は、いい監督を連れてきてくれたね」

その純粋な感想と屈託のない笑みに優理絵は心臓を握られる痛みを感じた。そんな穢れのない言葉で肯定されて良いものではない。ただ、自分のためにやったことで、ここでこの戦う天使と二人で話しているのも、その計略の帰結だからだ。

「そんなんじゃないよ。ただ…」

「ただ?」

「なくしてしまったものがあるから、取り返せたらいいなって」

リフトが山頂に辿り着き、滑ろうとするとT組の鮎川が「それで午前中は上がりな」というので、二人で流して中腹まで行き、島津を迎えに行った。そしたら、ちょうど小屋から出てくるところだった。大量の本とコピィを持っていたので、白瀬がそれはなに?と聞くと「岩崎のノートのコピィ。多すぎ」とぼやいた。岩崎の名を聞いた白瀬が露骨に嫌な顔をしたので思わず笑ってしまったが、本人にバレなくてよかったと思う。

白瀬の曇った表情に気づいたらしい島津が「スキーはどうだ?楽しかったか?」と話題を振ると、白瀬は満面の笑みで肯定し「午後は先生が上級コースも解禁してくれるから楽しみ」と言った。

島津はそれをまるで兄のような目線で見ていて、なんだかそれはとても羨ましく思えた。



ナイタに参加する者は夕食後ロビーに集合せよとのお達しがあったので、その通りにした。結構しっかり食べてしまったが、夜中に空きっ腹というのも嫌なので、まあ仕方がない。

「やっぱり美波はナイタ行くのか」

振り向くと、真奈美がいた。

「ウェア自前なんだね」

「うん」

「いいじゃん」

「ありがと」

注意事項が一通り伝えられて、それから外に出た。コースはかなり制限されるけど、ナイタスキーは雰囲気が好きなので構わない。

流れでリフトに今度は真奈美と乗ったので、ちょっとからかってみることにした。

「この前堀場くん連れ込んだんだって?」

「なにそれ」

「男子が堀場くんおもちゃにしてたよ」

「メイド服作るのに時間なかったからね。手伝いに来てもらったの」

「ごめんね、手伝えなくて。知らなかった」

「気にしない」

「すごい可愛かったよ」

「美波も着ればよかったのに」

「腕が入らないよ」

「ああ……」

なんかすごい哀れそうに笑われたからちょっとムカついたので、追撃した。

「なんか、男子が仁科すっごいエロい格好とか言ってたけど、どゆこと?」

そしたら、また真奈美はクスクスと笑った。この無垢な笑顔でまた来年も後輩が騙されるのだ、と思う。

真奈美と一旦分かれて滑り出すと、それは素敵な時間だった。照明に照らされた真っ白な雪と夜の闇が流れていくのは本当に良い。体重をコントロールして雪を切っていくのが楽しくて、暫しその感覚に溺れた。

何度か繰り返すうちに昼間のことを思い出して胸が痛むようになり、ぼーっとリフトに進んでいるとまた真奈美が心配して声をかけて来たので、リフトの上で昼間島津と話したことを伝えた。

「そりゃわたしは楽しいけどさ…せっかく修学旅行来てもずっと座っているだけで、楽しいはずなんか、ないよね」

「ちょっと意外だったな」

「え?」

「美波って自分の心のうち、見せはするけど説明するタイプではないと思ってたから」

「そうかな?」

「汐音は説明されているのかもしれないけどさ、わたしからすると美波はゆりーと似てて、でもゆりーより見えないイメージがあった。ゆりーはほら、何か背負ってる感じ、するから」

「優理絵ちゃんは、そうだね」

覚悟を決めている、という様子がある。

「美波、その件に関して、私は気にしすぎだと思う。でもね、美波は思っていることをもっと説明したほうがいいと思うよ」

真奈美の本当に可愛いと美人の中間の完璧に近い顔を向けてそれを言われるととても胸に来るものがあった。

「それは決してカッコ悪いことではないし、もしそうだとしても美波は私みたいにカッコ悪くはないから」

こんなことを言える仁科がなぜカッコ悪いのか全然わからなかったが、ありがとうと受け止めて残りの時間を滑った。

腹筋を触りたがる連中が大勢いる騒がしい風呂場で入浴して、部屋に戻ると案の定みんなは別の部屋に出払った後だった。仕方ないので自分も出て、どうせ男子のいる下の階だろうと階段を降りる。

とりあえずふらふらと歩いていると、完全に開け放たれた部屋の中で一人島津が佇んでいた。テレビからは実況の声が聞こえた。

「プレミア?」

「うん」

しばらく二人で見ていたが、今がチャンスなんだろうなと思い、お伺いを立ててみる。

「話してもいい?」

「いいよ。消す?」

「別に構わない」

島津が自分を見て、なんだかとても心臓の鼓動が早くなるのを感じたので、視線を逸らして話し始めた。

「昼間はごめん。無神経だった」

「どうした」

そう訊き返されるともっと言いづらくなるのだが、仕方ない。

「監督はずっと待ってるのに、楽しいはずなんかないのに」

「楽しかったか?って聞いたのは俺じゃんか」

「そうだけど」

それでも、悪いことをしたと思ったのだ。

「俺は自分が楽しめなくても、みんなが楽しんでいるのなら、修学旅行に来た甲斐もあったと思うよ」

それはとても本心のように思えて、疑いの余地がないような口調で、逆になんだかそれが寂しかった。

「そりゃ大西の野郎がカチコミなんかしなけりゃ今頃みんなでサンショウウオでも見てたかもしれないけどさ、俺もそんなに気が長い方じゃないから、責める気にはなれないよ」

そうなのだろうか、と思う。何も言えなくて、ただ時間が流れた。試合は続いていたけれど、まったく頭に入ってこなかった。

「白瀬は最初俺に勝ちたいって言ったの覚えてるか?」

唐突な話題の切り替えに驚いたが、優しさを感じて、少し嬉しい。

「うん」

「どうして、勝ちたいと思ったんだ?」

皆勝ちたいものではないのだろうか。

「いやほら、白瀬は上手いから、勝ったことだってあるだろうし、勝てるチームに行けただろうって」

「勝ったことないの」

全部話してしまおう、そう思った。

「わたし一人なら勝てるのに、フットボールだから勝てない」

告白だったと思う。

でもそれは愛でも罪でもなく、嘘偽りのない純粋無垢な白瀬美波そのものだった。

「でもフットボールじゃなきゃわたしは勝てないから」

傲りにもほどがあると思ったから、ずっと隠して来た。秘密にしていた。

でも、なぜか言えてしまって、言ってしまって、やはり後悔した。

「ほかの学校じゃ就職もできないし、勝ったことないからフットボールに人生をかける勇気もないし」

そりゃ自分だってプロになれたらいいなと思う。フットボールしかない自分が、それで金を稼いで、栄誉を手にすることができたらどんなにいいか。海外にわたり、代表選手になって、世界を制したい、そう思ったことは何度もある。

でも、もし失敗したら?

若いんだから挑戦してみろとか、やって後悔した方がいいとか、いろんな後押しはある。自分の強さにだって自信はある。でも、今まで何人の強力な武器を持った期待の星が潰れて消えていったか、知らないわけでなあるまい。

それに人が言うそれは所詮他人事だ。成功した人間の何百倍もの数の人間が、自分を信じて挑戦し、やったあとに後悔していることを無視している。やれたから満足というのは、満足だと思わなければ自分を救えないからでてきた台詞だとは思わないのか。

そんな惨めな未来の可能性があるのに、所詮井の中の蛙にすぎない自分が勝負に挑むというのは愚かな話だ。だから二種に進学して部活でフットボールして普通に就職し、着実に手に職をつけて行く。それは他人からしたら小さな勝利かもしれないが、自分の人生を確実に勝つやり方だ。

大勝ちした人間の話は歴史に残るし、地味な勝ち方は見栄えが良くないだろう。だが他人から見た見栄えの良さで人生を選びたいとは思わない。どんなことでも他人からどうかではなく、大切なのは自分が幸せであるかどうかだ。

でも、だからといって、未練がないというわけではない。何が悪い。身長172センチメートル、体重70キログラム、100メートルを12秒で走り時速100キロメートルのシュートを両脚で放てる怪物であっても、17歳の少女なのだ。自分の決断を不安に思って、何が悪い。

だからかわからないけれど、目頭が熱くなり、視界が滲んで、止まらなくなった。

「こんなこと人に言えないから、ときどき、どうしようもなく泣けるときがある。ごめん」

そう言ってから何も言えなくなり、気まずいのだけど立ち上がるのもめんどくさくて、スウェットの袖で涙を拭い続ける時間が続いた。

監督だってこんなの困るだろうとは想像できたが、どうしようもなかった。

「俺もどうしようもなく泣けるときがある。誰にだってある」

慰めだと感じられてしまった。

「でも白瀬はそのことでもう泣かなくていい」

後から振り返れば、この時が自分にとっての始まりだったのだ。自分ですら速度で止めてみせる最も敵に回したくない女、椛沢優理絵がこの監督に完全にヤラれている理由がなんとなくわかる気がした。

「俺は明石二種を勝たせるために監督になった」

それはヒーローの台詞だった。

その言葉を聞いた途端、なにか物音がして振り向くと、知らない男子生徒が呆然とこちらをみていた。

これ絶対誤解されているよな、と妙に冷静に思った時、そいつが「ごめんなさい」と言ったので、なんだかおかしくて、笑った。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ