寒い。
重い観音開きの扉を押し開けると、途端に冷たい風に全身を包まれる。私はかじかむ両手の指を擦り合わせると白く色づいた息を吐きかけた。
東の空を仰ぎ見れば、濃い緑の葉を茂らせた木々の頂上から朝の光が滲み出てはじわじわと夜の闇を侵食していくところだった。
ここシルヴァンティエの朝は早い。人々は夜明けと共に起き出し、日の入りと共に家路に着く。それは夜に明かりをとるのが困難な為だった。城やエイノの屋敷を照らす光玉は一部の術師としての資質のある者(その多くは神官職につくらしい)にしか作り出せぬものらしく、一般庶民は火に頼るしかない。当然、燃料が必要だし管理にも手間がかかるし、火災などのリスクも生じる。人々が太陽と共に生活を送るのは当然の成り行きだろう。
夜は遅く朝はそこそこの生活をしていた私には、シルヴァンティエにやって来た当初、健康的すぎる生活サイクルは何かと辛かった。しかし、ここに来て一年がたとうかという現在となっては、すっかり体が馴染んでしまっていた。
私は指を頭上で組んで、大きく伸びをし、清々しい朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
今日もいい天気になりそうだ。
ぽきぽきと音を鳴らして首をほぐすと、今、出たばかりの扉をくぐる。
黒い色合いの石床の上に、ばかでかい長靴が散乱していた。
たくさんの長靴の中から、金の金具も眩い、特に質の良い皮を用いた靴を2、3足ばかりつまみあげると外に出る。
きょろきょろと辺りを見回して、大きな木の根元に残る雪をみつけると、とても芳しいとはいえない匂いを発しているそれらを、並べていく。
さて、数分時間をつぶさねばならない。
私は懐かしいリズミカルなメロディを口ずさみ、大きく腕を回し始めた。
寒さに縮こまっていた手足も、ラジオ体操第二を終える頃にはすっかり温まり、靄がかかったようにぼんやりとしていた寝起きの頭もすっきりと冴えていた。
「うっし」
25歳のうら………若くもない女があげるにしては、些か野太い声を出して気合を入れると、先ほど放置した靴の回収に向かう。
手にした革靴はせっかく温まった指先から再び熱を奪う程度には、よく冷えていた。
よしよし、今日もいい冷え具合だ。私は冷たい靴を前に一人ほくそ笑んだ。
―――――さあ、忙しい朝の始まりである。
靴を抱えて、再び建物の中へ戻ると、散らばった重たい長靴を手早く整えていく。先ほど冷やした靴を中央に配置して一つ目の仕事の終了だ。
ぱんぱんと手についた汚れを掃っていると、タイミング良く、どかどかという騒がしい足音が聞こえてきた。
廊下の角を曲がる一団を目にすると、さっと身を壁際へと寄せて頭をたれる。姿を現したのはいずれも筋骨たくましい武張った男達だった。
「ご苦労」
私の方をちらとも見ず、しかし私にかけたのだと分かる言葉を発したのは、短い金の髪をきっちりと後ろに撫で付けた銀縁眼鏡の男で、名をレオニードという。
だらしなく衣服を着崩したこの集団の中にあって、ただの一度も乱れた格好をしている所を見たことがない。
今朝も、ぴんと糊の効いた薄いグレーのシャツをきっちりと襟までとめて、清潔な匂いがする暖かそうな厚手の上着を羽織っている。
いかにも神経質そうなこの男を私は密かに会長と呼んでいた。企業的な意味ではなく、生徒会的な意味で。一度、年齢を尋ねてみたところ32歳との答えが返ってきたから、生徒会はないかと思ったけど、そうなると神経性胃炎ぐらいしか呼び名が思い浮かばなかったので、会長でよしとした。
私がそっと目だけをあげて会長を見ると、彼はちらりと眼鏡ごしに視線を寄越す。鋭く冷たい目つきをした酷薄そうな男であったが、この会長が、私が今、唯一信じられる人間なのである。
すぐに視線を戻すと、会長は並べられた靴に足を入れる。微かに眉を寄せるが、何も言わずに黙々と紐を縛り始めた。
その隣で、この寒い中、艶かしい臍を含む腹部を、乱れたシャツの隙間から惜しげもなく晒している男が、むくつけき男達のボス、イヴァンだった。
広い肩に長い手足、殴ればこちらの手が捻挫してしまうがちがちの筋肉に覆われた厚い胸板。その鍛えられた肢体はユハにも引けをとらないだろう。
イヴァンは大きく口を開けて欠伸をしながら、靴をはこうとし、足先が触れるや否や、あからさまに顔を歪めて舌打ちをした。
「つめてえなあ」
イヴァンは少々垂れ気味の目を私に向けた。
「お前が来てから、随分と朝の冷え込みがきつくなったようだ」
「寒の戻りですかね」
威圧感のある横柄な声音に内心でびくつきながら、私はしれっと答えた。
「ほおう、俺はとんだ女狐を拾ったらしいな」
イヴァンの垂れ目に剣呑な光が宿る。と、すいと第三者の影が私とイヴァンの間を遮った。
「イヴァン、バフィト達がお待ちかねですよ」
流石に私が見込んだだけはある。会長は正しく弱者の見方だ。
「ふん、レオニード、お前はこれに甘い」
分かりにくい窘めをうけて、イヴァンは面白くなさそうにレオニードを見る。しかし、レオニードは紐を縛り終えるとイヴァンに目もくれず、さっさと出て行ってしまった。(ちなみにバフィトとは馬のことだ。彼らは朝起きると身支度もそこそこに、馬の世話をするのを日課としていた)
「あれも変わらんな」
イヴァンはぼさぼさの髪をかき上げて、どっかとその場に腰をおろして紐をきつく引き始めた。
「お前も、いつまで意地をはるつもりだ。従順にしていろ。根城に帰ったらそれなりの生活をさせてやると言っているだろう」
連れて帰られたら困るから、こうやって地味に逆らっているんだろうが!
私は目の前で揺れる、白い頭をねめつけた。寝癖のついた髪が朝日を浴びて新雪のように光っている。その頭を見ると、私の中にいつも微妙な感情が生まれる。レオニードよりかなり若そうなのに、一体彼に何があったのか、イヴァンの髪の毛は真っ白だった。
これがレオニードなら、相当苦労したんだろうな。と同情することしきりなのだが、イヴァンだし………俺様だし………。
「俺の機嫌をとれ、餓鬼でも女だろうが、ちったあ媚びてみせろ」
やっぱり同情出来ない。
けっ、と悪態をつきたいところをぐっとこらえてそっぽを向いた。
「おーおー、イヴァンがふられてるぞ」
「いい気味だぜ、郷で何度お前に女を取られたか」
男達の殆どは、少々大げさに映るほどイヴァンに服従しているが、幾人かはこうして軽口を叩く者がいた。言葉遣いこそ丁寧だが、レオニードはその最たると言えるだろう。
「黙れ」
そう吐き捨てて、腰をあげるイヴァンに続いて、次々と靴を履いた男達が出て行くと、ようやく元の静けさが訪れた。
朝から疲れた。
私は足を踏ん張って、無駄に重い扉を閉めると、朝食の支度をしに厨房へと向かった。
今、私は三度………あれ? 四度目だったかな? まあ、どちらでも大した違いはないか。とにかく日本から、ここシルヴァンティエに来て数度目の軟禁生活を送っていた。
神官見習いとして、何より王子の想い人として、堅く守られた城で生活していたはずの私が、なぜこんな目に合っているかというと、そう長くもない話になるのだが、これだけは言える。
全部ロニのせい。
戻ったら、………戻れたら、絶対にただではすまさんぞ。あのエロ餓鬼め。
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