傷口を濯ぐミーツェの手をユーンが黒く濡れた鼻で、2~3度軽くつつく。
「あら、お水を飲みたいの? 大丈夫よ、水はまだあるから、こらこら、急かさないの」
ナチュラルにユーンと会話を開始するミーツェ。
一人と一匹の心温まる戯れに、ぼへっと見入っていた私は、はっと我に返った。
いや、だから、その水は!
強張る体を察知したのか、レーヴィの拘束が強まる。
「しいー」
耳に吹き込まれる愉しげな声。おまけにかりっと耳朶に歯をあてられて、体が硬まる。どさくさに紛れて何をしやがる、この変態。
口を塞ぐレーヴィの手に噛み付こうか、足を踏みしだこうか、迷ったのがいけなかった。
ミーツェの掌に垂らされた水を、ユーンが舌をのばして舐める。
あーあ。
2度3度と美味しそうに喉を鳴らすユーンを私は呆然と見ていた。
飲んじゃったよ。
鼻面をすりつけて、掌から水をすすることに没頭しているユーンを見つめるミーツェの眼差しはどこまでも優しい。瞬きするたびに大きな青灰色の瞳が、長いまつげに隠れた。
なんとも心温まる光景だが、あの時、ミーツェを見たレーヴィの目が気にかかる。レーヴィは何のために危険をおかしてまで聖域へきたのか。私を助ける為などとは1ピコも思わない。仮にユーンの血が欲しくて、潜り込んだのだとしても、この危険極まりない迷惑男が、善意で人に助けの手を差し出すはずがないのだ。
水には何かが混入されている。そう私は確信していた。―――――のだが。
気を失うことも、四肢を痙攣させて泡を吹くことも、血をはくこともなく、ユーンはご機嫌にミーツェに甘えている。
杞憂だったのだろうか? よくよく考えれば同盟を望むツィメンが大事な駒であるミーツェを殺害しても何の益もないもんな。
けれど、なあ。どうにも解せない。私は手を顎にあてて首を捻った。自由に動く両手に、いつの間にやら拘束が解かれていることに気づく。
振り向けば、そこにいるはずのレーヴィの姿はなく、代わりに数名の神官と、聖域の婆ちゃんが遠巻きに私たちを、というよりミーツェとユーンを見ていた。その顔にはありありと賞賛の色が浮かんでいる。
ぱんぱんぱんと手を打ち鳴らし、婆ちゃんが私を通り越してミーツェの傍へと歩み寄った。
「素晴らしいわ。ユーンがもう心を開いているなんて。あの騒ぎで極度の緊張状態にあったはずなのに」
肩に頭を摺り寄せるユーンの首筋をなでながら、ミーツェは頬を僅かに赤らめた。
「恐れ入りますわ」
ゆっくりと立ち上がったミーツェを婆ちゃんは真っ直ぐに見つめる。平素の穏やかな笑みはなりを潜め、厳しくも真摯な表情がその顔を覆っていた。
「ミーツェ様。私ども聖域の人間はあなた様を歓迎いたします」
婆ちゃんは、掌を重ねて胸につけ腰を折った。敬意を尽くした乙女の礼だ。
聖域がミーツェを、シルヴァンティエの王太子―――――イサークの妃として相応しい人物であると、認めた瞬間だった。
女神の御使いであるユーンを擁する聖域の後押しは、きっとミーツェを優位に導くだろう。彼女は王太子妃の座に一歩近づいたのだ。
目を見張って息を詰めたミーツェは、そっと目を伏せ、こくりと小さく首を縦に振った。まるで何かを自分に納得させるように。
ミーツェの心を感じ取ったのか、ユーンがその指先を慰めるようにそっと舐める。
ユーンの鼻先を撫でながら顔を上げたミーツェは、誇らしげな笑みを浮かべていた。
大輪の薔薇の花がほころんだようなその笑顔に、婆ちゃんは満足げに頷いて返すと、背後の神官達が嘆声をあげた。
神官達は我先にとミーツェを取り囲み口々に賛辞を述べる。
その輪の中心で笑顔を振りまくミーツェを私は複雑な思いを抱いて見ていた。
彼女は、何を飲み込んだのだろう。
キスの相手は果たして誰だったのだろうか。
祖国を出てシルヴァンティエの土を踏んだ時点で、覚悟は出来ていただろう。しかし数刻前に想い人の事を、唇の感触を、思い出したばかりなのだ。頭では分かっていても、感情はそうそう割り切れるものではない。
―――――せつないな。
青灰色の瞳に揺れる、決意と哀愁が入り混じった複雑な光に胸が痛んだ。
同じ女としてミーツェの気持ちを慮ると、イサークに一言いわずにはおれない。人生の先輩としても、これだけは言っておきたい。
チャンスだぞ、イサーク! 落とすなら傷心の今だ!
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