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第九章 乙女の憂鬱
78 乙女の憂鬱 (12)
 傷口を濯ぐミーツェの手をユーンが黒く濡れた鼻で、2~3度軽くつつく。

「あら、お水を飲みたいの? 大丈夫よ、水はまだあるから、こらこら、急かさないの」

 ナチュラルにユーンと会話を開始するミーツェ。
 一人と一匹の心温まる戯れに、ぼへっと見入っていた私は、はっと我に返った。
 いや、だから、その水は!
 強張る体を察知したのか、レーヴィの拘束が強まる。

「しいー」
 
 耳に吹き込まれる愉しげな声。おまけにかりっと耳朶に歯をあてられて、体が硬まる。どさくさに紛れて何をしやがる、この変態。
 口を塞ぐレーヴィの手に噛み付こうか、足を踏みしだこうか、迷ったのがいけなかった。
 ミーツェの掌に垂らされた水を、ユーンが舌をのばして舐める。
 あーあ。
 2度3度と美味しそうに喉を鳴らすユーンを私は呆然と見ていた。
 飲んじゃったよ。
 鼻面をすりつけて、掌から水をすすることに没頭しているユーンを見つめるミーツェの眼差しはどこまでも優しい。瞬きするたびに大きな青灰色の瞳が、長いまつげに隠れた。
 なんとも心温まる光景だが、あの時、ミーツェを見たレーヴィの目が気にかかる。レーヴィは何のために危険をおかしてまで聖域へきたのか。私を助ける為などとは1ピコも思わない。仮にユーンの血が欲しくて、潜り込んだのだとしても、この危険極まりない迷惑男が、善意で人に助けの手を差し出すはずがないのだ。
 水には何かが混入されている。そう私は確信していた。―――――のだが。
 気を失うことも、四肢を痙攣させて泡を吹くことも、血をはくこともなく、ユーンはご機嫌にミーツェに甘えている。
 杞憂だったのだろうか? よくよく考えれば同盟を望むツィメンが大事な駒であるミーツェを殺害しても何の益もないもんな。
 けれど、なあ。どうにも解せない。私は手を顎にあてて首を捻った。自由に動く両手に、いつの間にやら拘束が解かれていることに気づく。
 振り向けば、そこにいるはずのレーヴィの姿はなく、代わりに数名の神官と、聖域の婆ちゃんが遠巻きに私たちを、というよりミーツェとユーンを見ていた。その顔にはありありと賞賛の色が浮かんでいる。
 ぱんぱんぱんと手を打ち鳴らし、婆ちゃんが私を通り越してミーツェの傍へと歩み寄った。

「素晴らしいわ。ユーンがもう心を開いているなんて。あの騒ぎで極度の緊張状態にあったはずなのに」

 肩に頭を摺り寄せるユーンの首筋をなでながら、ミーツェは頬を僅かに赤らめた。

「恐れ入りますわ」

 ゆっくりと立ち上がったミーツェを婆ちゃんは真っ直ぐに見つめる。平素の穏やかな笑みはなりを潜め、厳しくも真摯な表情がその顔を覆っていた。

「ミーツェ様。私ども聖域の人間はあなた様を歓迎いたします」

 婆ちゃんは、掌を重ねて胸につけ腰を折った。敬意を尽くした乙女の礼だ。
 聖域がミーツェを、シルヴァンティエの王太子―――――イサークの妃として相応しい人物であると、認めた瞬間だった。
 女神の御使いであるユーンを擁する聖域の後押しは、きっとミーツェを優位に導くだろう。彼女は王太子妃の座に一歩近づいたのだ。
 目を見張って息を詰めたミーツェは、そっと目を伏せ、こくりと小さく首を縦に振った。まるで何かを自分に納得させるように。
 ミーツェの心を感じ取ったのか、ユーンがその指先を慰めるようにそっと舐める。
 ユーンの鼻先を撫でながら顔を上げたミーツェは、誇らしげな笑みを浮かべていた。
 大輪の薔薇の花がほころんだようなその笑顔に、婆ちゃんは満足げに頷いて返すと、背後の神官達が嘆声をあげた。
 神官達は我先にとミーツェを取り囲み口々に賛辞を述べる。
 その輪の中心で笑顔を振りまくミーツェを私は複雑な思いを抱いて見ていた。
 彼女は、何を飲み込んだのだろう。
 キスの相手は果たして誰だったのだろうか。
 祖国を出てシルヴァンティエの土を踏んだ時点で、覚悟は出来ていただろう。しかし数刻前に想い人の事を、唇の感触を、思い出したばかりなのだ。頭では分かっていても、感情はそうそう割り切れるものではない。
 ―――――せつないな。
 青灰色の瞳に揺れる、決意と哀愁が入り混じった複雑な光に胸が痛んだ。
 同じ女としてミーツェの気持ちを慮ると、イサークに一言いわずにはおれない。人生の先輩としても、これだけは言っておきたい。

 チャンスだぞ、イサーク! 落とすなら傷心の今だ!
注意:ヒロインは榊です。榊なんです………。


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