逃げようとしたら殺される。では逃げなければ殺されないのだろうか。場合によっては私についてもいいと言っていたけれど、具体的にどんな場合を指すのだろう。私がフォルセルの呪術師ならいいのか?無口を楽しませる事が出来ればいいのか?
どっちも無理です。
呪術って何。頭に蝋燭をさしてわら人形に五寸釘でも打てばいいの?そんな事で相手を苦しめる事が出来るなら、とっくにあの馬鹿賢者で実践してるわ。では無口を楽しませる?あり得ない。あの変態が楽しめちゃう事態イコール常人には耐え難い事態に決まっている。いっその事、違う世界から来ました。存在自体レアです。天然記念物レベルです。殺しちゃうなんて勿体無い!とでも言ってみるか?………ないな。頭がおかしいと思われるだけだろう。
どうして荷物の1つも持ってこなかったのだろう。携帯でもボールペンでも手帳でもこちらにはない技術で作られたものがあれば良かったのに。賢者とお茶を飲んだときに足元に置いた鞄に全て入ったままだ。そういえばあの鞄はどうなったのかな。日本のどこかに放置されていないだろうな。誰かに拾われて悪用されていたりして。なんか帰るのが怖くなってきたぞ。まあ帰れないんだけど。帰れてもろくな事にはならなさそうだ。
それもこれも全てあの馬鹿のせいだ。何を探しているんだか知らないが、誰が探してなどやるものか。もしも見つけたら絶対に見つからぬように海の底に沈めてやる。ああ、シルヴァンティエには海はなかったっけ。燃やして炭にするかそれとも粉々にして埋める方がいいかな。
賢者の顔を思い浮かべ、掛け布を握り締めて力いっぱい絞り上げた。お、結構指先にも力が入るようになってきたな。この分だと今日中にはベッドから降りられそうだ。自由に体が動かせるようになったら、まずは風呂だ。意識の無い時に体を拭ってくれていたようだが髪はばしばしだし、体もほんのり汗臭い気がする。こういう事って、一度気付くともう気になって気になって仕方がなくなってくるな。ああ、頭が痒い。顔を洗いたい。お腹もすいた。あんなスープじゃ全くお腹は満たされないよ。鰻丼が食べたい。ほんの少しの山椒をかけて、奈良漬と肝吸いも忘れずに………いかんいかん、思考が逸れてきたな。
今はそんな事より無口だ。どうやって身を守ろう。エイノ達にばらしてしまえたら楽なのに。偽者なんです!私の命を狙う暗殺者なんです!と。でも、こちらの嘘も無口にばれているわけだし、報復に私のことを話されてはたまらない。
そういえば、標的が途中で変わったと言っていたな。当初は誰を狙うつもりだったのだろうか。イサーク?うん、わざわざ暗殺対象になるのだからイサークやもしくは王等の国の重鎮である可能性が高そうだ。それがどういうわけで私に変わったのかが謎過ぎるけど。何にせよ、暗殺問題は私にとって死活問題だが、シルヴァンティエにとっても、無視出来ぬ重要な案件であるだろう。依頼主の気が変わってまた私意外の人間を狙わないとも限らないわけだからな。
無口から巧みに情報を引き出して依頼主共々突き出せたら、私の信用は鰻上り。黒髪の呪術師との疑いも払拭されて、さらには私の身の上を打ち明け、帰る手段を探す協力を乞うたりして。あら、いい感じ。
―――――なんて、出来るか!
私は警察でも探偵でもスパイでもないんだ。事務員、いや、元事務員にそんな工作活動が出来たら007は用無しだ。………ああ、何故か唐突に思い出したくも無い部長の顔が浮かんだわ。倒産したその日に「俺たちはラ・フランスだ!つまり用無しだ。なんちゃって」と、ただでさえ冷え切っていた皆の心に真冬の寒気を吹き込ませた部長を。あんなのが部長だったから潰れたんだな。
そもそも身元不明の私と、偽者とはいえ男爵の子息を名乗っている無口。どちらに分があるのか。私がこの国の人間の立場なら迷うことなくレーヴィを信じる。
イサークは?イサークなら私を信じてくれるだろうか?イサークが味方についてくれたらもしかしたら………駄目だな。独裁者の王様なんて立場ならまだしも、歳若い王子様ではな。イサーク一人が信じてくれたところで、周りを納得させられるだけの証拠がなければどうにもならないだろう。どうするよ。全く解決策が思い浮かばない。
それにしてもお腹がすいた。腹が減っては何とやら、空腹じゃ頭も働かないわ。アイラ戻ってきてくれないかな。手を打ち鳴らしたら気付いて来てくれたりしないだろうか。
―――――パンパン「お呼びですか?サカキ様」なんて、なんだか屋敷の女主人のようだ。やってみたいが居候の身でそんな偉そうな事は出来ん。よし自分で炊事場まで行ってみるか。早く体も慣らさないとな。ごちゃごちゃと考えるのは後だ。先ずは腹ごしらえ。それから風呂!
私は慎重にベッドから床へと足を下ろした。足の裏に冷たい石の感触が伝わる。片足ずつ体重をかけて、なんとか立つ事に成功するとほっと息を吐いた。多少震えがあるが、壁伝いに行けば、何とかもちそうだ。
ゆっくりとすり足で移動しかけた時、ベッド際の窓の外に小さく人陰が見えた。エイノがもう帰って来たのだろうか?もしエイノならベッドから降りた事にまた文句を言われるかもしれない。窓に顔を寄せて外を確認すると、金の髪を揺らした人物が後ろに共を二人引き連れて此方へやって来る姿が見えた。
イサーク?目を凝らしている間にも近づいて来るその人が、確かにイサークだと確認出来た瞬間、ばちりと目が合う。目が合ってしまった以上無視も出来ず、片手を挙げてふって見せると、イサークは駆け出した。一直線に此方にむかって。
え、ちょっと、玄関は向こうだぞ。
慌てて窓を開けようとするが力が入らず重い窓はなかなか開かない。その間に窓のすぐ外までやってきたイサークは、片手で軽々と窓を開け放つと窓枠に手をつき軽快な動作で飛び越えた。いいな、運動神経がいい人は。私がやれば間違いなく足を引っ掛けて顔から落ちるだろう。
窓からの侵入という無作法よりも軽やかな身のこなしに気をとられている私の前に立ったイサークは、食い入るように私の顔を見つめた。
久しぶりにイサークの顔を見たような気がする。ウェーブを描く豊かな金の髪と明るく澄んだ、秋晴れの空を思わせる清々しい青い目を懐かしい気分で眺めて、その若さに似合った艶やかな頬がほんの少しこけて見える事に気がついた。
心配をかけたのだろうか………。そんなに思ってくれなくていいのに。年齢を誤魔化してイサークを利用しようとして、逃げ出そうとした人間なんだぞ。またもや押し寄せる罪悪感にそっと伏せた視界の隅に、ダッシュで駆けて来たイサークの後ろから急ぎついて来た近衛達が戸惑った挙句、同じように窓を乗り越える姿が映る。大変だな、元気のいい主をもつと。
えーと、なんと言おう。「おはようございます」じゃ、また呆れられるかな。少し迷った後、
「ご心配をおかけしてすみませんでした」
そう言おうとして口を開くが、言葉を紡ぐ事は出来なかった。気付けば、おもむろに伸ばされた腕の中に囚われていた。
「サカキ………良かった………本当に良かった」
安堵のため息と共に掠れた声で吐き出された嘘のない言葉に胸に温かいものが広がる。
イサークの柔らかな髪が頬をくすぐり、熱い吐息が耳にかかった。その熱を受け、後ろに控える近衛ズが浮かべているであろう表情を想像してしまう。顔を上げれば殺人光線が飛んでくるに違いない。
恐ろしくて身動きできぬ間にイサークの腕の力は強まり、痛い程に抱きしめられていた。いや、程じゃない。まじで痛いです。鼻がつぶれる。頭の後ろにまわされた掌が力強く私の顔をイサークの肩に押し付け、腰に回された腕が体と体を密着させるだけに止まらず、容赦なく胴を締め上げた。鼻と口と更には肺を同時に圧迫されて、息苦しさに喘ぐがイサークの腕の力は強くなるばかりだ。
待て。回復を喜んでくれるのは嬉しいが、ちょっと待て!このままでは今度こそ本当に死ぬから。本復したわけではないんだぞ。酸素不足からか足から力が抜け、膝が折れると、ようやく気付いたイサークが慌てふためいて両腕を私の腰にまわし支えた。
「わるい」
一言、呟いたイサークはしかしそのままの体勢で動かない。
その謝罪は、命を狙われた事に対してなのか、それともこの姿勢に対してなのか。ベッドにでも置いてくれると助かるのだが。お風呂に入っていないし今の私は清潔とは言いがたいぞ?
「イサーク、あの………」
それに近衛が怖いのでこの辺で。
「ん?」
短く訪ねるイサークの声は、僅かに鼻にかかっていて、甘く切なく耳に響いた。
本当に近衛の顔を見るのが恐ろしい。
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