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第七章 無口
37 無口 (6)
 眠い。昨晩の騒動のおかげで寝不足だ。エイノとユハに見切りをつけて早々に引き上げたものの、イサークの事が気になって寝付けなかった。目を閉じるとあの苦しげなそれでいて艶やかな掠れた声が延々と耳の奥でループして、なけなしの良心を苛んだ。友人のように弟のように思っていたいのにイサークはそれを許してはくれないようだ。
 この先どうなるのだろうか。悶々と一晩を過ごし僅かな睡眠の後に重い頭を引きずって目覚めた。 レーヴィに会いたい。会って人畜無害な笑顔が見たい。胸を締め付けられるような激情をぶつけられる事のない穏やかな時間の中に身をおきたかった。
 冷たい水で顔を洗うと、ほんの少し気分が上向いた気がするが、膝丈の衣服に袖を通し朝食の席に着く頃にはまた滅入り始める。1時間もすればレーヴィに会える。気の抜ける優しい声が聞ける。だけど………。

「よお、サカキ」
「おはようございます。イサーク」

 もれなく悩みの種であるイサークもついてくるんだよな。元々がイサークの為の教師なのだから当たり前だが。

「今日もいい天気だな。暑くなりそうだ。窓を開けておくか」

 窓を開けると、鬱陶しそうに首の詰まった服の襟元のボタンを外し、整えられた髪を手櫛で乱す。イサークはいつもと変わりなく見えた。人懐こいワンコのような明るい笑顔に飾りのない態度。どうやら杞憂だったようだ。含みのないその様子に私は大いにほっとして身構えることなく普段通り接する事にした。
 きっと昨日は周りの人間にお嫁さんの事で責められて煮詰まってしまっていたんだな。大人びた立派ななりをしていてもやはり中身は15歳、不安定な時期なのだろう。よしよしお姉さんは若気の至りをいつまでも気にするほど尻の穴の小さい人間じゃないぞ。
 胸のつかえが下りると、途端に前向きになるのだから人とは現金なものだ。私は清々しい気分でイサークとたわいない会話をしつつ、レーヴィを待った。
 早く来ないかな。いつも時間ぎりぎりに賑やかな足音を立てて駆け込んでくるレーヴィが待ち遠しい。

 今日もレーヴィは息を切らしてかけて来た。ずり落ちた眼鏡を左手でなおし乱れた服装を整えると教材を広げ始める。その様子を緩みそうになる口元を引き締めつつ見守っていると、ふいに頬に触れるものがあった。硬い皮膚を持つ大きな手が頬をなで、導かれるように顔をあげた先には目を細めたイサークの顔。

「昨晩は悪かったな。風邪をひかなくてよかった」

 ―――――へ?

「髪はちゃんと乾かして寝たか?」

 頬の手が耳の横を通り髪をすく。

 ―――――は?

 甘い花の香りのする風が窓を超えてイサークの指に絡んだ髪をほどいた。

「濡れた髪も美しかったが、風になびくさまもまた美しいな」

 ―――――ええ!?

 なになになになに?誰?誰これ?イサークだよね?ワンコだよね?そりゃたまに狼になるが、こんな事をさらっとしかも人前で言ってしまうタイプじゃなかっただろ。
 清々しく晴れた青空に雷の音を聞いた気がする。いや、もちろん空耳なのだけど。晴天の霹靂ってこういうこと?
 愕然として身動き一つ出来ない私に向かって、イサークは追い討ちをかけるように口の端をあげて薄く笑む。
 その笑顔に含まれた毒に総毛だった。
 言葉は甘いし表情も艶っぽいのだけど、目が、なんというか怒ってる?うん、怒ってるね。何に………ってやっぱり昨晩の事を流そうとした私の態度に怒っているのだろうか。しかしどこでこんな責め方を覚えたんだ。ちょっとユハに似てきたんじゃないのか?勘弁してよ。
 それにレーヴィがね、見てますよ。教材の準備に忙しいふりをして、懸命に存在を消す努力をしながらちらちらと。ああ、そうか。レーヴィに対する牽制もきっちり入っているのか。
 やられた。
 何も知らない他人から―――レーヴィから見れば幼い恋人同士の甘い語らいに見える事だろう。
 弁解する?いや、まだ始まってもいないレーヴィに対して何を弁解するのか。いっその事正直に気持ちを話して、って13歳じゃそれも無理だな。せいぜい恋に恋する女の子が身近な大人の男性に理想を映して微笑ましい勘違いをしていると取られるのが関の山だ。もし、25歳だと打ち明けたら………どこからどうみても性悪の尻軽じゃないか。打つ手なしだ。
 それからの時間はいたたまれないものがあった。
 まるで普段通りだといわんばかりに屈託のない笑顔をみせるイサークの青い瞳が私を見る時には微かに陰りを帯び、その度に身がすくむ思いを味わわされた。
 朗らかな大型犬は怒らせると怖い。いや、もうワンコではないか。刻一刻と少年から青年へと変貌を遂げるイサークの貴重な瞬間に立ち会っていることを喜ぶべきなのだろうか………。
 虎の尾ならぬ狼の尾を踏んでしまったのかもしれない。


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