忙しい一日とその翌日の朝
04 一日目 夜、とその次の日の朝
「演習………ですか」
私は強烈な既視感を覚えながら、青い瞳を見つめ返した。
倒錯者を相手に命の危険に怯え、緑の目をした鬼の念仏に直面し、疲弊し、困惑したその日の夜、彼は訪れた。
風呂に入り、寝巻きで就寝前のくつろぎのひと時を過ごしていると、ノックの音が部屋に響く。手近にあった上着を羽織って扉をあけると、白い詰襟の服に身を包んだイサークが立っていた。
てっきりエイノだとばかり思っていた私は、驚き、ぽかんと口を開けて固まってしまう。
王太子たる彼が訪れるには少々夜も更けすぎた時間だった。また脱走かと思いきや、苦りきった様子の近衛が、背後に控えているのが目に入る。明日からの予定にそなえてユハは外されているらしく、今日のお供は、お馴染みの金魚の糞1号と、セルミレ公の謀反平定後にユハ同様、新しく近衛に取り立てられた3号の二人だった。
「こんばんは………。えーと、どうぞお入りください」
手で部屋の中を示して見せると、足を踏み出しかけたイサークは、ふと背後を振り返った。
「ここで待て」
簡潔な命令に近衛達が不服そうな顔をしたが、イサークはそんな二人をぎろりと睨み付けて有無を言わせない。
随分と貫禄が出て来たものだ。草葉の陰から見守るご先祖様達もこれで安心だろう。約一名余計なのが地上をうろちょろしているけれど。
「すみません、すぐにお茶を………」
アイラもセバスチャンもとっくに帰っている。イサークを部屋に入れて反対に出て行こうとした私の手首を、大きな手が掴んで引き止めた。
「いらん。話がある。長く時間はとらせん」
さようでございますか。
近衛の二人から中が見えるように扉を開けたまま、その場を離れようとすると、イサークが空いている手でそれを閉める。
扉に隠れていく近衛達の何とも情けない顔といったら………。何かあれば責任を問われるし、王子の命令には逆らえないし、辛いところだな。
「どうぞ、お座りください」
手首をつかまれたまま、部屋の中央までやって来て、私は困惑交じりに声をかけた。ぐるりと手首に回して、まだ余裕がある大きな手には、妙に力がこもっている。
「あの? イサーク? どうかしたんですか?」
ソファを勧めてもぴくりともしないイサークに、私は戦々恐々として尋ねた。
イサークは、はあ、と大きくため息をつくと、天を仰いで掌で顔を覆った。
肩にかかっていた柔らかな髪がさらりと後ろに流れて、太く逞しい首筋があらわになる。何かを考え込んでいるのか、眉がぎゅっと寄せられたその姿は、ひどく苦しげだ。
今度はなんだ。何があったんだ。
どうしよう。手を払う事も、声をかける事もはばかられて、私はただ、立ち尽くすしかなかった。
時間の流れが遅くなったような気がする。
まだ若いのに苦労ばかりで大変そうだとか、何だかんだでお世話になった身だ、帰る前に力になれることがあるならなりたいとか、そろそろ手が痛いなとか、すぐに済むんじゃなかったのかとか、ぼうっと考えていると、ようやくイサークが動いた。
ゆっくりとした動作で目にあてていた手をおろし、私に向き直る。
その顔を見て、ぎくりとした。苦悩の滲む青い瞳が、いやに艶っぽい。
これは、あれか? 性懲りもなく私のことで悩んでいるのか?―――――手を放してもらえないだろうか。いや、信用していないわけじゃないこともないんだけど、閉められた扉が無性に気になる。
冷や汗を流す私を、王子様はひたと見据えた。
「演習にいく」
張り詰めた硬い声でイサークはそう告げた。
「演習………ですか」
私は強烈な既視感を覚えながら、青い瞳を見つめ返した。
「ツィメンとの合同軍事演習だ。ルードヴィーグはああ言っていたが、奴の言葉を鵜呑みにするわけにもいかんしな。バジェへの牽制になればと前々から話があがっていたんだ」
そうか。ツィメンとか。ミーツェのこともあったし、二国間の関係が悪化しているんじゃないかと思っていたのだが良好のようで何よりだ。
しかし、バジェドールの前に、ジャスラが心臓発作を起こしそうだな。
「いつ出発するんですか?」
ふともらした質問に、青い瞳が翳る。
「明日の朝には………」
それはまた急な話で。
誰かさんと同じ日程なのは、偶然ではないのだろう。
真っ直ぐで真っ白だったワンコは、今や灰色に染まりつつある。
「お帰りは、いつに?」
何となく聞かなくても分かっているけれど、聞いておきたかった。
ぎゅっと、握られた手に力がこもる。そろそろ痕になりそうだ。
「予定通りにいけば二十日後には」
「ちょっと、微妙な日数ですね」
私はイサークを見て笑う。とびきりの笑顔で送り出したかった。けれど、浮かべたものは果たして私の望む通りのものであったのか自信がない。
ぎりぎりになって挨拶に訪れたのは、今まで迷っていたからなのだろうか。迷って、迷って、けれど最後は、私より王太子として責務をとったのだろう。それでいいと思う。ここで私をとるような男など願い下げだ。
「ああ」
低く擦れた声が、耳に入り込む。
翳りを帯びて大人びた面差し。ますます鍛えられた肉体に、硬さを増した掌の胼胝。真っ直ぐな瞳は強靭な意志を秘め、発する声は何者をも従わせる。
ああ、イサークは王太子の正装が本当に似合うようになった。
私がミーツェであったなら確実にイサークを選んだだろう。そう確信出来るほどに彼はいい男になった。………ミーツェの馬鹿たれめ。
「今までありがとうございました。帰ってもイサークのことは忘れません。色々ありましたけど、お会いできて良かったです。それから―――」
『ごめんなさい』
そう動かしかけた唇を、イサークの掌がおおう。
「その言葉を聞く気はない」
硬く柔らかく、ざらりとした掌が、頬を、唇を、くすぐった。
「俺はこれを今生の別れとは思っていないからな」
―――――でも、私は待ちません。
この暖かいイサークの手から逃れて、伝えなくてはならない言葉を、私は伝えることが出来なかった。
イサークは眉を寄せて、怒ったような険しい顔をして私を見ていたけれど、今にも泣き出しそうに見えたから。私の答えなど、とうに分かっているのだと、知ったから。
イサークは、私の口元を手で覆ったまま、穏やかな動きで顔を近づける。
金の糸が視界を多い、額に柔らかなものが押し当てられた。
大きな影が、近づいた時よりも、さらに時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと離れていく。
口を覆うものがなくなり、手首のいましめが解かれ、見上げたイサークの顔には、高く青い空を思わせるような透き通った笑みが浮かんでいた。
窓から眩い朝の光がさしている。
テーブルの上で跳ね返って顔を射る白い光に目をすぼめて私は長い息を吐いた。
昨日は怒涛の一日だった。
一晩中ベッドの上にいたのに、眠ったような、眠っていないような、何とも不確かな睡眠しかとれず、頭が重くて敵わない。
何度も寝返りをうったせいか、体もだるく、食欲もわかなかった。
「そのぐらいにしてはどうだ。こちらの気まで滅入る」
食卓について、お茶を飲みながら、何度もため息をつく私に、エイノが冷ややかな目を向ける。
すみませんね、朝から陰鬱で。
「今日は随分とゆっくりなんですね」
食べなければ体がもたないと、食欲を奮い起こして、卵に塩をふりながら、書類を片手にお茶に口をつけていたエイノを見た。とうに朝食を食べ終えているのに席をたつ気配がない。ジャパニーズビジネスマンも真っ青な仕事人間、エイノ神官長は、いつになく優雅にお茶を楽しんでいた。いつもならばとっくに家を出ている時間であるのにだ。
「ああ、今日からしばらく王都を留守にする。昼には発つのでそのつもりでいよ」
今しがた思い出したというようにエイノは書類に目を落としたまま口を開いた。
へえ、お留守に…………って、え? ええ!? お前もか!?
思わず、卵を口に含んだまま、行儀悪く口をあけて固まってしまった。
いや、ていうか、いくらなんでも情緒がなさ過ぎやしませんか!?
エイノさん、真意はどうあれ、一応私に求婚中の身ですよね? それが何ですか、その態度は。こちらを見もせずにそれはないでしょうよ。
それにしても、エイノまで。なんてタイミングなんだ。これもイサークの根回しによるものなのだろうか。
首をかしげつつ、「どちらに行かれるんですか?」と、とげとげとした声で問えば、「ハカラだ」と素っ気無い答えが返ってきた。
聞いといてなんですが、ハカラってどこですか? 仕事に関係のない地名はさっぱり知らないのですが。
無言でエイノをねめつけていると、ようやく麗しのご尊顔がこちらを向く。
「ラハテラ山の麓にある北の地だ。女神に雨を乞いに行く」
「雨乞い………ですか」
そういや、元々少ない雨が、冬の終わりからさらに少なくなったとは思っていたが、雨乞いとは原始的。まさか本気で行うのだろうか?
「ああ、ラハテラ山の雪解け水を溜めている湖の堰を開けにいく」
わあ、毎度素晴らしい神の奇跡ですね。なんて、確実。なんて、ペテン。
「遠方への出張、お疲れ様です。道中お気をつけて」
「人事のような言いざまだな」
いや、だって人事ですから。
興味をなくしたように卵の残りを食べだした私を見て、エイノは軽く眉をあげてから、自身も書類へと目を戻した。
これで、この話は終わると思った。
「お前もいくのだ。昼までに用意せよ」
思ったら、とんでもない爆弾が落とされた。危うく黄身をふくところだった。
「なんですか、それは!? 聞いてませんよ、そんな話」
「そうであろうな。言っておらぬのだから」
わなわなと震える私を横目に見て、エイノは唇の端を僅かにつりあげる。
……………わざとか。わざとなんだな!
ユハもイサークも今日の朝に発つ。いや、多分もう発っている。
だから昼に出発なのか。
だから今告げたのか。
何事もなかったように、書類にペンを走らせ始めたエイノに、私は脱力して、最早何も言えなかった。
亀の甲より年の功とはよく言ったものだ。
―――――――おやじは狡い。
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