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ノブ、ちゃんと考えてよ 作者:奈備 光

8章

55/61

49 食用蛙が鳴きだす


 生駒は辺りを確かめるように見回しながら、散歩するようなゆっくりとした足取りで神社を抜けていった。
 祭礼の日だというのに、すでにご神燈のちょうちんに明かりは灯っていなかった。
 墓地に入る。
 午後十時過ぎ。
 もちろん人の気配はない。
 真っ黒な壁のようにマンションが天空を切り取り、実際の暗さより陰気な雰囲気が漂っている。
 粘りつくような蒸し暑さ。微風さえ吹いてはいない。
 ケラが鳴いている。
 幾分、金属的な音に聞こえるのは、墓地の妖気に反応してのことだろうか。

 墓地の中央に一本の防犯灯
 生駒は辺りを確かめるように見回しながら、散歩するようなゆっくりとした足取りで神社を抜けていった。
 祭礼の日だというのに、すでにご神燈のちょうちんに明かりは灯っていなかった。
 墓地に入る。
 午後十時過ぎ。
 もちろん人の気配はない。
 真っ黒な壁のようにマンションが天空を切り取り、実際の暗さより陰気な雰囲気が漂っている。
 粘りつくような蒸し暑さ。微風さえ吹いてはいない。
 ケラが鳴いている。
 幾分、金属的な音に聞こえるのは、墓地の妖気に反応してのことだろうか。

 墓地の中央に一本の防犯灯が立っている。
 それを覆うようなヤナギの大木。
 白い細いポールがヤナギの葉の茂りを背景にして、やけにくっきり見える。

 申し訳程度に辺りを照らしている小さな光。
 虫が集まっている。
 一匹の大きな虫がこつんと音をたててアクリルの照明カバーにあたり、生駒の足元に落ちた。

 カナブン。
 てかりのある緑色の厚い前羽の下からはみ出た薄い茶色の後ろ羽を、あわててしまいこもうとしている。


 防犯灯の光に浮かび上がる、幾多の墓石の輪郭。
 生駒は物置の横を左に折れ、光を背にして歩いていく。
 自分の影が目の前の砂利道にうっすらと伸びているが、やがて暗がりに入るとともに薄れ、判別できなくなった。

 前方には黒々とした寺院の木々。
 両脇に立ち並ぶ墓石の列。
 空にも月や星はない。
 ケラが、生駒の気配を感じてぴたりと鳴き止んだ。
 後は静寂。
 表通りの車の騒音が、時おり耳に届くだけだ。

 一歩一歩砂利を踏む自分の足音が、こんな時間に墓地の奥に向かって歩いているという行為を、リアルなものとして感じさせた。
 もちろん生駒は、非現実的な感覚に囚われていたわけではない。
 汗ばんだ手の平は単に蒸し暑いからということではなかったし、入っていこうとしている暗がりの中に、なにかを見つけ出そうと目を凝らしていた。
 意識的にゆっくりとしたペースの歩みで。


 寺院との塀際で、再び左に折れる。
 墓地の最奥部に向かって。
 墓石を頭の中で数えていく。
 一つ、二つ……。
 ふっ、と夜の臭いがした。
 昼間の暑さから開放された草木が、ほっと一息ついたようだ。
 植物の体中から流れ出た息が匂う、濃厚な夜の香。

 四つめ……。

 前方の暗がりを透かしてみると、織田家のひときわ大きな幅の広い自然石の墓石が、待ち構えているように威圧している。
 その墓地の裏には、まだ小さな沼の名残が残っている。
 わずかに窪地になった地面に、湿地性の背の高い草が生えているのを昼間に確かめてあった。

 沼のほとりには大きなカシの木。
 いわゆるいじめっ子だった子供の頃の織田が、ひとりのおとなしい少年をその幹に縛り付けて、夜半までほったらかした大木。
 浮かんできたそんなどうでもいい記憶を頭から追い出して、生駒は注意深く歩みを進めた。
 織田家の墓を回りこむ。
 この列はまた小さな墓が並んでいる。

 最初の墓石……。
 若槻家の墓と刻まれている。

 その隣……。

 薄暗がりの中で、身を乗り出すようにして墓石の表面に刻まれた文字を確認する。
 そして墓石の頂部に手をかけ、前かがみになって裏面の文字を読もうとした。


 ジャリ。

 背後で小石を踏む音がした。

 生駒は飛び退きざまに振り向き、手に持っていた懐中電灯をつけた。
 流れ出た光が、鉄筋を振り上げている男の体をとらえた。


「待て!」

 カキーン。
 鋭い金属音。

 男が振り下ろそうとした鉄筋があらぬ方に飛び、背後の墓石にあたって、再び大きな音をたてて転がる。

 男の手から鉄筋を叩き落した大矢が墓石の陰から飛び出して、手に持った鉄パイプを男の眼前に振りかざす。
 男がたじろぐ。
 直後、横から行武に飛び掛かられて、どーんと地面に倒れれこむ。

「ち、き、しょおぉぉ!」

 取り押さえられた男は、砂利道に顔を打ちつけられ、うめくように叫ぶ。
 懐中電灯が男の顔を照らし出す。
 切れたまぶた。
 流れ出た血で汚れた眼が、生駒を見据えている。


 と、想像していた。
 しかし、実際に起きたことは違っていた。

「生駒先生、何をされておられるんです?」
 振り返ると、作業服のままの石上が歩み寄ってくるところだった。
「心配になって、追いかけてきたんですけど」

 生駒は何も言わなかった。
 石上は、鉄筋はおろか棒切れさえ、握ってはいない。
 手ぶらだ。
 いつものくたびれた紙袋も持っていない。

「あの、それ」
 そういって、近づいてくる。
「わしが死んだら入る墓なんですけど」

 一歩進むごとに、白髪が防犯等の光にシルエットとなって、光っていた。
 顔の表情が見えてきた。
 怪訝な気持ちが、眉間の皺となって現れている。

「埋葬してくれるものがおればの話ですがね」

 生駒は身構えた。
 しかし、石上は後五メートル程のところで足を止めた。
 間には墓石がある。
 じっとこちらを伺うように、ますます眉間の皺を深め、墓石と生駒をかわるがわるに見た。


 固い表情だった石上が、急に脱力し、墓を仕切る低い石柵に腰をおろした。
 生駒の心の中にあるアラームの針は振り切れていたが、ゆっくりと下がり始める。
 なおも石上は生駒から目を放さなかったが、やがて目を閉じ、ぼそりと言った。
「なんだって、また……」

 石上が尻のポケットからタオルを引っ張り出して、顔の汗を拭い、襟元を広げて胸元を拭いた。
 薄緑色の作業服の下から、黒い下着が覗いた。
「私の子供時分の苗字。確かめたかったんですな」
「そうだ」
 生駒はからからに渇いた喉から、声を絞り出した。

「そこに書いてあるように、住田ですよ」
 そう。
 実際は昼間に確かめてある。

「一緒にここら辺で遊んだ頃、わしは住田ということになっていた。実際、住田の家で生まれたんです」
 石上は、一旦目を上げたが、再び砂利道に目を落とす。
「しかし、本当の苗字は石上だったんですよ。養子にやられたんですが、向こうに馴染めなくてね。名前だけ継いでくれたらいいってことになって、実家におったんですわ。石上の方も死に絶え、もう石上である必要もないんですが、まあ、義理ってもんです。わしのこと、覚えておられます?」
「ああ。髪の毛の色が茶色っぽかったんで、あんたはスズメと呼ばれていた」
「ハハ、そうです」
 石上が力なく笑った。

「先生も、ひとぎきが悪いな」
 しきりに瞬きをして、生駒を見上げると、黙り込んだ。


 生駒は待った。
 シナリオどおりに石上が話してくれることを。
 石上は、石柵に座ったまま相変わらず生駒を見つめ続け、ピクリとも動かない。

 ケラがまたすぐ近くで鳴き出した。
 抑揚のないその大きな音が、波動として感じられるほど、耳も目も、体のありとあらゆる皮膚の感覚が研ぎ澄まされているようだった。


 数分は待っただろうか。
 石上が目を落とした。
 そして、呟くように言った。
「お嬢ちゃん、さぞかわいいでしょうな」が立っている。
 それを覆うようなヤナギの大木。
 白い細いポールがヤナギの葉の茂りを背景にして、やけにくっきり見える。

 申し訳程度に辺りを照らしている小さな光。
 虫が集まっている。
 一匹の大きな虫がこつんと音をたててアクリルの照明カバーにあたり、生駒の足元に落ちた。

 カナブン。
 てかりのある緑色の厚い前羽の下からはみ出た薄い茶色の後ろ羽を、あわててしまいこもうとしている。


 防犯灯の光に浮かび上がる、幾多の墓石の輪郭。
 生駒は物置の横を左に折れ、光を背にして歩いていく。
 自分の影が目の前の砂利道にうっすらと伸びているが、やがて暗がりに入るとともに薄れ、判別できなくなった。

 前方には黒々とした寺院の木々。
 両脇に立ち並ぶ墓石の列。
 空にも月や星はない。
 ケラが、生駒の気配を感じてぴたりと鳴き止んだ。
 後は静寂。
 表通りの車の騒音が、時おり耳に届くだけだ。

 一歩一歩砂利を踏む自分の足音が、こんな時間に墓地の奥に向かって歩いているという行為を、リアルなものとして感じさせた。
 もちろん生駒は、非現実的な感覚に囚われていたわけではない。
 汗ばんだ手の平は単に蒸し暑いからということではなかったし、入っていこうとしている暗がりの中に、なにかを見つけ出そうと目を凝らしていた。
 意識的にゆっくりとしたペースの歩みで。


 寺院との塀際で、再び左に折れる。
 墓地の最奥部に向かって。
 墓石を頭の中で数えていく。
 一つ、二つ……。
 ふっ、と夜の臭いがした。
 昼間の暑さから開放された草木が、ほっと一息ついたようだ。
 植物の体中から流れ出た息が匂う、濃厚な夜の香。

 四つめ……。

 前方の暗がりを透かしてみると、織田家のひときわ大きな幅の広い自然石の墓石が、待ち構えているように威圧している。
 その墓地の裏には、まだ小さな沼の名残が残っている。
 わずかに窪地になった地面に、湿地性の背の高い草が生えているのを昼間に確かめてあった。

 沼のほとりには大きなカシの木。
 いわゆるいじめっ子だった子供の頃の織田が、ひとりのおとなしい少年をその幹に縛り付けて、夜半までほったらかした大木。
 浮かんできたそんなどうでもいい記憶を頭から追い出して、生駒は注意深く歩みを進めた。
 織田家の墓を回りこむ。
 この列はまた小さな墓が並んでいる。

 最初の墓石……。
 若槻家の墓と刻まれている。

 その隣……。

 薄暗がりの中で、身を乗り出すようにして墓石の表面に刻まれた文字を確認する。
 そして墓石の頂部に手をかけ、前かがみになって裏面の文字を読もうとした。


 ジャリ。

 背後で小石を踏む音がした。

 生駒は飛び退きざまに振り向き、手に持っていた懐中電灯をつけた。
 流れ出た光が、鉄筋を振り上げている男の体をとらえた。


「待て!」

 カキーン。
 鋭い金属音。

 男が振り下ろそうとした鉄筋があらぬ方に飛び、背後の墓石にあたって、再び大きな音をたてて転がる。

 男の手から鉄筋を叩き落した大矢が墓石の陰から飛び出して、手に持った鉄パイプを男の眼前に振りかざす。
 男がたじろぐ。
 直後、横から行武に飛び掛かられて、どーんと地面に倒れれこむ。

「ち、き、しょおぉぉ!」

 取り押さえられた男は、砂利道に顔を打ちつけられ、うめくように叫ぶ。
 懐中電灯が男の顔を照らし出す。
 切れたまぶた。
 流れ出た血で汚れた眼が、生駒を見据えている。


 と、想像していた。
 しかし、実際に起きたことは違っていた。

「生駒先生、何をされておられるんです?」
 振り返ると、作業服のままの石上が歩み寄ってくるところだった。
「心配になって、追いかけてきたんですけど」

 生駒は何も言わなかった。
 石上は、鉄筋はおろか棒切れさえ、握ってはいない。
 手ぶらだ。
 いつものくたびれた紙袋も持っていない。

「あの、それ」
 そういって、近づいてくる。
「わしが死んだら入る墓なんですけど」

 一歩進むごとに、白髪が防犯等の光にシルエットとなって、光っていた。
 顔の表情が見えてきた。
 怪訝な気持ちが、眉間の皺となって現れている。

「埋葬してくれるものがおればの話ですがね」

 生駒は身構えた。
 しかし、石上は後五メートル程のところで足を止めた。
 間には墓石がある。
 じっとこちらを伺うように、ますます眉間の皺を深め、墓石と生駒をかわるがわるに見た。


 固い表情だった石上が、急に脱力し、墓を仕切る低い石柵に腰をおろした。
 生駒の心の中にあるアラームの針は振り切れていたが、ゆっくりと下がり始める。
 なおも石上は生駒から目を放さなかったが、やがて目を閉じ、ぼそりと言った。
「なんだって、また……」

 石上が尻のポケットからタオルを引っ張り出して、顔の汗を拭い、襟元を広げて胸元を拭いた。
 薄緑色の作業服の下から、黒い下着が覗いた。
「私の子供時分の苗字。確かめたかったんですな」
「そうだ」
 生駒はからからに渇いた喉から、声を絞り出した。

「そこに書いてあるように、住田ですよ」
 そう。
 実際は昼間に確かめてある。

「一緒にここら辺で遊んだ頃、わしは住田ということになっていた。実際、住田の家で生まれたんです」
 石上は、一旦目を上げたが、再び砂利道に目を落とす。
「しかし、本当の苗字は石上だったんですよ。養子にやられたんですが、向こうに馴染めなくてね。名前だけ継いでくれたらいいってことになって、実家におったんですわ。石上の方も死に絶え、もう石上である必要もないんですが、まあ、義理ってもんです。わしのこと、覚えておられます?」
「ああ。髪の毛の色が茶色っぽかったんで、あんたはスズメと呼ばれていた」
「ハハ、そうです」
 石上が力なく笑った。

「先生も、ひとぎきが悪いな」
 しきりに瞬きをして、生駒を見上げると、黙り込んだ。


 生駒は待った。
 シナリオどおりに石上が話してくれることを。
 石上は、石柵に座ったまま相変わらず生駒を見つめ続け、ピクリとも動かない。

 ケラがまたすぐ近くで鳴き出した。
 抑揚のないその大きな音が、波動として感じられるほど、耳も目も、体のありとあらゆる皮膚の感覚が研ぎ澄まされているようだった。


 数分は待っただろうか。
 石上が目を落とした。
 そして、呟くように言った。
「お嬢ちゃん、さぞかわいいでしょうな」
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