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ノブ、ちゃんと考えてよ 作者:奈備 光

6章

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30 血痕

 七月末の月曜日、暑くなりそうな朝だった。
 若槻の事件からひと月ほどたち、工事が再開された。

 大矢は誰よりも早く現場に来て、閉鎖されていた現場のゲートを開けた。
 事務所のセキュリティを解除し、若槻の机を見た。
 几帳面な若槻は普段から机の上をいつも整頓していた。今朝も、見事になにものっていなかった。
 大矢は自分が拍子抜けしたことを感じて、まさか花でも生けてあると思っていたわけではないだろうと自嘲した。
 事務所の窓を順番に開けて回って風を通し、コピー機の電源を入れ、コーヒーメーカーのスイッチを入れてから外に出た。

 若槻が殺された現場は、警察が現場検証を終えたときのままになっていた。
 ロビーの穴の周りに張り巡らされた単管の落下防止柵。赤い一斗缶の吸い殻入れ。
 目に入ったそういったものが、いやがうえにも、あのときの情景を思い出させた。

 穴の横に置かれた鉄製の廃棄物用の箱。
 埋め立て処分する雑多なごみを入れる横幅一メートルあまり縦二メートルほどの大きな鉄箱。
 大矢はあえて穴の中を覗き込もうとはせず、箱の裏側に回った。
 トイレの入り口に近い辺り。

 大矢はぎょっとして立ち止まった。
 血痕。
 床にしぶきのような血の痕が十数箇所、三メートルほどの範囲に散らばっていた。
 人頭大のものがひとつ。
 流れ出した血が溜まったような、いびつな楕円形。

 血を踏んだ靴跡も。
 犯人の靴跡、という考えが浮かんだ。
 それらはいずれも白いチョークでマークされていた。

 目の前の螺旋階段を登り始めた。
 半分くらいまで登ったとき、鉄のゴミ箱の中がすっかり空っぽになっていることに気がついた。
 特別に大量のゴミが出たとき以外、金曜日にはゴミの収集はない。
 あの日はどうだったか?
 空ではなかったはずだ……。
 収集業者が来た覚えはない。伝票を確かめればわかる。
 もし、業者が収集したのでなければ、警察が持ち帰ったのだ。

 二階でも、白いチョークで描かれた印が目に入った。
 吹き抜けの周りに張り巡らされた手すりの足元。
 丸いマークは二階の床の端部によって切り取られた半円状。
 その中心に向かう矢印。

 大矢はしゃがみこんだ。
 直径三十センチほどの半円のマーク。
 辺り一面に工事現場特有のセメントっぽい埃がうっすらと積もっていた。
 そのマークの中も、周りと変わった様子はなかった。
 血が付いているということでもない。警察がなにかを持ち去った後なのだろうか。

 目を上げると、もうひとつ、小さな矢印を見つけた。
 単管の手すりの下の段。
 パイプに上向きの小さな矢印が描かれていた。その矢印の先にも、大矢はなにも発見することはできなかった。

 立ち上がり、手すりに触れないようにして首を伸ばし、真下を覗き込んだ。
 一階には空っぽの鉄箱と吸い殻入れ。そして大きさ五メートル四方の穴。
 穴の縁には、コンクリートが打ち込まれて床が作られるときのために、多くの鉄筋が突き出ている。
 その穴の下、地下駐車場の床にチョークで描かれた白いヒトガタ。

 顔を上げて周りを見まわした。
 いったい俺はなにをしてるんだ、と心の中で毒づいた。
 事件は解決していない。少なくとも警察の捜査の進捗についてはなにも聞かされていない。
 当然、気にはなっている。
 だからといって、犯行現場をうろつくことはない。

 きちんと積み重ねられた内装下地用ボードや造作用の細い角材などを眺めた。
 大矢は自問した。
 若槻が死んで、自分が若槻を尊敬していたことを改めて知った。

 現場は今日から、何事もなかったかのように再び進んでいくだろう。
 工事の遅れを取り戻すために、ゼネコンは金を積んででも、より多くの職人を動員するよう各業者に要請するだろうし、できることはなんでもやるとばかりに、施工上の数々の工夫が実行されるだろう。
 大矢たちゼネコンの職員も、残業が続くことになるだろう。

 そんな多忙な中でも、若槻亡き後の社内の権力構図がはっきりするまでは、いろいろな人間がさまざまな動きをすることだろう。
 部長級は部長級レベルで、課長級は課長級レベルで。
 平社員は平社員なりの仕掛けをして、少しでも自分にとって都合のいい環境に持っていこうと画策することだろう。
 すでにそういう動きは活発化している。
 大勢がはっきりするまでは殻に閉じこもって、下手に自分をさらけ出すまいとする者もいるだろう。一方で、手の平を返したようなあからさまな行動に移る者も出てくるかもしれない。
 憶測が飛び交い、長い尾ひれがついた噂で、誰かが身に覚えのないことで傷ついたりもするだろう。

 そういったことに、自分だけは関わらずに超然としていられるだろうか。

 若槻は大阪支店のホープだった。
 奈良の小ゼネコンであるハルシカ建設は社業拡大の過程で、まず大阪に支店を出した。ついで東京、名古屋、福岡と新しい拠点を作り始めてはいる。しかし重心はいまだ奈良にある。
 今後、大阪に重心を移すべく、徐々にではあるが大阪の人事を厚くしつつある。
 工事部隊では若槻がその中心人物だった。
 奈良本店に在籍することにこだわった加粉に対して、若槻が大阪で仁王立ちになっているようなものだった。

 その若槻がいなくなった。
 大阪支店の組織はもちろん、社の工事部全体の組織改変は避けられなかった。

 大矢は、社内の不穏な空気に惑わされたくはなかった。
 当然のように嬉々として、組織の今後について思い付きを披露し合う同僚とは一線を画していたかった。
 彼らは自分がどう思おうが、単なる駒だ。支配されているグループに属しているのだ。
 支配する側にいないのに、組織の一員としてというフレーズとともに、あるべき論を語ってみせる。
 大矢は、会社帰りの居酒屋でそういう話をしている自分が情けなかった。だから、こと若槻の事件に関しては、飲み屋での噂話には絶対に加わらないと心に決めていた。
 若槻の亡骸を発見した自分だけは。
 まだ生暖かい血の臭いを嗅いだ自分だけは。

 工事がストップしてから、現場の所員はそれぞれの部所に一時的に帰っていた。
 今朝から久しぶりに現場が動き出す。
 しかし、もはやここで、心躍らされることがあろうとは思えない。むしろ気の滅入ることが多くなるのは目に見えていた。
 なにしろ、現場所長が不在のまま、とりあえずは副所長である鈴木の指揮で動き始めるのだ。
 若槻の部下である田所や川上が、どういう態度で鈴木の下で働くのだろうか。
 そんなことを考えてしまうこと自体にも嫌気がさして、大矢は自分でも驚くほど大きな声でため息をついた。

 いつのまにか、三階への階段の前に来ていた。
 二階ラウンジから続いている廊下の突き当たり。
 廊下の正面は東を向いた大きな開口部になっていて、完成すれば明るい光を一階ロビーまでもたらしてくれるはずだ。現状はサッシもはまっておらず、床から三階の床のコンクリート板まで、すぽんと開いているだけだ。ここにも落下防止の単管の手すりが取り付けられていた。
 大矢はそこに先ほどと同じような白いチョークの跡を見つけた。

 下を覗きこんだ。
 ちょうど白いワンボックスカーが現場に入ってきたところで、真下に停まった。
 下請け業者の誰かの車だ。また車が入ってきて、奥に設けられたゼネコン職員用の駐車場に停まった。白いホンダのシビック。鈴木だった。
 大矢はくるりと向きを変え、三階への階段を登った。
 靴音が響いた。

 三階では北側へ向かった。
 建物の北側はよくあるような開放廊下で、養生用のメッシュで全体を覆われていなければ、どこからでも真下の犬見神社が良く見える。
 大矢は小さな社や目の前にそびえ立っている大きなイチョウの木に眼をやったが、近隣対策として施された神社の植栽は、中断されたままの機械式立体駐車場の資材の山や、仮囲いに邪魔されて見えなかった。

 大矢はふと、自分がヘルメットを被っていないことに気がついて落ち着かなくなった。
 鈴木に皮肉を言われるのはごめんだ。
 急いで二階に戻り、螺旋階段を降り始めた。
 途中まで降りたとき、振り返って警察がつけたマークをもう一度見た。
 思わず足を止めた。

 二階の床の小口、つまり厚み二十数センチのコンクリート板の下端、角の部分、一階の天井。
 ちょうど警察がつけた矢印の下の位置。
 赤黒い染みが目に入った。
「あんなところに血……」
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