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ノブ、ちゃんと考えてよ 作者:奈備 光

4章

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「ふーん、そうなんですか。これ、コピーさせてもらっていいですか。もう一度、読んでみたいので。それからこれも。地図を見ながらだと、もっとリアルでしょ」
「どうぞ」
「地図は拡大コピーしよう」
 香坂は独り言のように言い、コピー機が拡大倍率をセッティングしている間、窓からの光に透かして見るように、地図を眼の高さまで上げて眺めていた。

「ナチュレガーデン大和中央新築工事にあたって」
ハルシカ建設大阪支店工事部部長 若槻利郎

 私が子供時代を過ごした昭和四十年ごろの大和高田市は、奈良盆地南部ののどかな村であった。近年では、JRや近鉄電車で大阪市内まで三十分ほどという地の利を活かして、近郊住宅地としての着実な市勢の拡大をとげている。その市街中心部からほど近い松並町という歴史ある地域に、奈良を発祥の地とするデベロッパー三都興産が手がける分譲マンション「ナチュレガーデン大和中央」の新築工事が進行中である。
 私はこの松並町で生まれ育った者であり、一年前、ハルシカ建設が落札したこのプロジェクトの工事現場所長の選考会議が社内で開催されたとき、私が拝命することができればどれほど光栄なことかと、心密かに願ったものである。私が育った町に、きちんとした仕事をして報いたい、いいものを作って恩返しがしたい、そういう気持ちであった。
 実は、私がこの現場に初めて乗り込んだのは、つい先日のことである。前任所長の転勤に伴う代役としてである。きっと、その日のことは、忘れられない思い出となることだろう。暖かい雨が降っている日であった。
 事前に付近見取り図を見ていた段階では、懐かしい犬見神社の南側に隣接して当敷地があることを了解はしつつも、自分の幼い頃の記憶と、最近の地図で見る町のあまりの変わりように戸惑いを覚えていた。子供の頃遊んだあちらこちらの空き地は跡形もなく消え失せ、村を取り囲むように広がっていた田んぼや畑には大きな道路が敷設され、その沿道も完全に市街化されていたからである。当日、現地に到着したときにも、無秩序にスプロールされたとしかいいようのないなんの変哲もない街並みや、さびれかけた商店街を見て、まちがったところに来たのではないか、という気にさえなった。しかし、現場のすぐ近くに、ひとつの思い出を見つけたのである。それは商店街の入り口に立っていた。右、斑鳩、左、葛城、と刻まれた石の道標を、である。
 私は思わず心の中で叫んだ。あった! ただ私は、この道標を探していたのではない。正直に言うと、存在さえも忘れていた。しかし私は、なにかを探していたのである。小さい頃の思い出を喚起させてくれるなにかを。
 生まれてから中学二年生になるまで、ここ松並町に住んだ。ここを離れてから三十年以上になる計算である。しかし、ここに住んだ人生最初の十数年間が、私の心や人格やものの考え方に、どれほど大きな影響を及ぼしたことか。幼年期や少年期そして思春期と、人は成長する過程を振り返るとき、地域の人たちや周りの自然や環境が及ぼすものの重要さを抜きにして語ることはできない。
 今から申し上げることは思い出話になりがちであろうとは思うが、私がこのプロジェクトに人並み以上の強い情熱を持って取り組んでいる理由の一端であることをお含みいただき、ご容赦を賜りたい。

 前置きが長くなったが、この現場の近くで最初に見つけた道標にちなんだ話をしたい。
 かつてこの道標は、水路に架かる橋の北側のたもとに立っていた。水路の名は樋口水路。橋の名は犬見橋。そこは三叉路になっていて、水路に沿って中心市街地から来た里道が、この橋のところで突き当たる。右に折れると松並町を通り抜け、ずっと北にある斑鳩の里に繋がっていく。左に折れると水路を渡り、小学校や、中学校のある隣村、五郷町を通り抜けて葛城山の麓の御所市に至る。
 この斑鳩から御所に至る道、子供の目線でいえば、松並町と五郷町を繋ぐ道は、単に大道と呼ばれていた。大きな道というだけのことであるが、村のメインロードでありながら、昭和四十年ごろはまだ舗装もされておらず、でこぼこは大きな雨が降ると水溜りになった。私達、松並の子供達は、毎日この道を小学校まで通った。犬見橋を渡ってからはほんの数件ではあるが民家があった。しかし、たちまち村のはずれとなり、一面の田んぼや畑となる。ちょうど民家が途絶えるところに、アキニレの大きな木が立っていて、その下に白いヤギが飼われていた。短い木杭に繋がれて、いつもぽつねんと立ち尽くしていたヤギ。ヤギはおとなしかったが、自由に辺りを走り回る気の強い雄鶏が、小学校一年生くらいの子供達に攻撃的に飛びかかっては威嚇していた。
 今では見かけることはなくなった肥溜めがそこここにあり、中に放り込まれたものの表面はたいていは乾いていて、怖いもの見たさの子供が棒でつついたりしないかぎり、不快な臭いを周りにまき散らしているわけではなかった。大道からそれて畦道を行くと、小さな空地に出たり、池があったり水路を渡ったり、祠のある竹林を抜けたりして、軽い冒険を楽しむことができた。水路には亀やエビガニやドジョウがいたし、もちろんメダカやドンコなどの小魚や沼エビなども泳いでいた。そんな畦道や小径は、くねくねと曲がりながら繋がったり分かれたりして、どこまでも続いているかのようであった。子供達は、小学校に行くときは大道を一列になって抜きつ抜かれつしながら通っていったが、帰りには好き好きにそれらの小径を巡りながら家路についた。学校の三階の窓から見ると、緑の広大な野原の中に、黄色い帽子に紺色の制服が転々と散らばって見えたものである。
 さて、先ほど述べたように、樋口水路の北側が松並町の中心部であったが、大道は犬見神社の鳥居の前を通ってしばらく北に行くと、二股に分かれる。西側の広い方の道を進むと、町の中心にゆくにしたがって道の両側に並んだ民家の中にポツリポツリと店舗が現れる。八百屋、果物屋、荒物屋、たばこ屋、燃料屋、食料品屋、酒屋、米屋、駄菓子屋、パン屋などである。そのいわゆる商店街の中ほどに、大道が広がって小さな広場となっているところがあり、交番と集会所と郵便局があった。村の中心である。また二股から東側の細い道を進むと、ますます細くなってところどころで折れ曲がる。やがては古い大きな家の塀や立派な生け垣に囲まれた迷路のような路地になり、郵便局のある広場で元の道と合流する。
 私はその広場のまだずっと北側、つまり松並町の北のはずれに住んでいたのである。風呂屋の裏であった。周りはほとんどの家が借家で、一戸建ては数えるほどしかなく、連棟形式の住宅、つまりは長屋であった。

 ここまで読んでいただいた人なら、松並町の構造がわかっていただけたと思う。つまり私の家は松並町の中心部にはなく、あの当時より少し以前に、村のはずれに大量に建てられた借家街に住んでいたということである。そこから町の中心部にあるいくつかの店の前を通り過ぎ、お宮さんの脇に立っている道標の前を通り、水路を渡り、田んぼを抜けて学校に通っていたということである。
 さて、次に樋口水路について話そう。この水路はいうまでもなく、地域の田畑を潤す生命線であった。水路の幅は、私の記憶では、三、四メートル。実際はもう少し狭かったかもしれない。道から水面までの深さは二メートルくらい。もちろん水位は季節や日によって違っていた。満水状態のときもあったが、底にチョロチョロと流れているだけのこともあった。底には泥が溜まっていて、ところどころにゴミが放置されていた。大きな乳母車の残骸が捨てられていたことが記憶に残っている。
 時にはこの水路に落ちる子供がいた。大道から次の橋までは相当の距離があり、子供達は近道と称して、水路に掛け渡された水道管の上を、バランスをとりながら渡っていたからである。水道管の太さは直径五十センチほど。慣れると両手を広げてさっと渡ってしまうことができる。この「近道」は年上の子供達が年下の子供達に「勇気を確かめる」場として、挑戦させていたものでもあった。
 正直に話そう。私もおもしろがって、幾人かの小さい子供達に水道管を渡ることを強いたことがあるし、何人かはバランスを失って水路に落ちたこともあったように記憶している。すべてが懐かしく、どことなく甘い思い出である。

 なぜ私が、長々とこんなことを書いてきたのかというと、今回の現場「ナチュレガーデン大和中央」が、この水路や昔の里道の上に建つマンションだからである。私にとって懐かしく楽しかった思い出の場所である以上に、古い昔を知る人にとって、あるいは地域にとって、水路はかけがえのないものであったと思う。もちろん、私がこの地から引っ越してから、いつごろ、どのような経緯があって水路が埋め立てられ、その土地がどのように利用されて、そして今回のプロジェクトに至ったのかは私の知るところではない。しかし、経緯はともかく、どんな地にもあるその地ならではの歴史、そして思い出を、最終的に封印してしまうもののひとつが大規模マンションの計画なのである。
 私達は単に市場の論理だけで、計画を進めてはいないだろうか。私は建設業界にあって、作るものが大規模であればあるほど、地域に根ざした風土に十分に配慮したものを供給する、という意識を持っていなくてはならないと考えている。幸いにも今回のプロジェクトは、デベロッパーの深い人間味あふれるご判断によって、マンション内のランドスケープの中に、かつての水路をほうふつとさせるせせらぎが取り入れられた。子供がおぼれるなどということがないように、水深は十五セントほどと浅い。きっと、このマンションに暮らす子供達が遊んでくれることだろう。そのことだけで、すべての免罪符になると考えるほど厚かましくはないが、私がこのプロジェクトに熱意を持って取り組もうとしている理由のひとつであることには違いない。
 最後に、来年の竣工時には、地元の方々にいいものができたと喜んでいただけるような、質の高い建物をお披露目させていただくことをお約束して、拙文の締めくくりとさせていただく。


 パーティの間中、綾が近くにいたわけではない。
 五十人ばかりの男、しかもそれなりに年のいったものたちの中で、女性は数人。打田と香坂とハルシカ建設の事務員、行武の奥さんを初めとするコンパニオン役のデリバリーサービスの女性達。
 おじさん達に囲まれて綾は引っ張りだこだった。
 物怖じすることを知らない綾は、あっちのテーブル、こっちのテーブルでおじさんたちに世話を焼かれ、上機嫌だった。

 予想通り、綾を呼んだことを若槻も喜んでくれた。パーティが賑やかになっていい、というのだった。
 生駒は、綾が娘だという嘘をつくことはやめた。正直に、京都北部の山村からたまたま訪ねてきてくれたので、追い返すわけにもいかないので、と説明した。
 そのことがおじさん連中を夢中にさせた面もある。
「そんな遠くからひとりで、偉いねえ」
「しっかりしてるねえ」
「うちの娘にゃ、できないなあ」
 というわけだ。
 山奥の村の娘ということでも、話題はたっぷりあった。
 どんなに山奥なのか、ということから始まって、綾の暮らしぶりを根掘り葉掘り、というわけだ。
 ちょうど蛍が飛んでいる頃だね、と遠い目をする者もいた。綾の話に郷愁を誘われたのだろう。

 綾がたまたま近くにいるとき、大事な話って、と聞いてみたものの、綾は帰ってからゆっくりするといって、また違うテーブルに飛んでいくのだった。
 食べて飲んで、話して笑って、綾は大忙しだった。

 パーティがお開きになって、生駒は綾の手を取って、帰ろうとした。
 と、綾が手を引っ張った。駅とは反対の方へ。
「ね、おじさん。あそこの大きな木が見えてるところ、行ってみたい」
 綾の言いたいことはすぐにわかった。
「いつもの練習?」
「うん、そう」

 聞き耳頭巾。
 鳥や木々の声を聞くことができる、不思議な道具。
 綾は山奥の村で出会った老婆から手ほどきを受け、聞き耳頭巾の使い手としての訓練を積んでいたのである。
 その老婆が死んだ今となっては、聞き耳頭巾は綾のものとなり、彼女は毎晩、その訓練のために木の話を聞くのだ。

「マンションの木でもいいんだけど、どれも小さくて、何も聞こえないから」
 生駒が住んでいる大阪福嶋のマンションにも植栽があり、それなりの木々が植えられていた。しかしどれも小さく、意味のある声を発するほどには成熟していないのだそうだ。支柱に縛り付けられているような木は、生きてはいるけれども、生きているだけで心を持ってはいないというのだ。
 綾が指差した大きな木々は、工事現場の裏にある神社の木々だった。
「よし」
「やった!」
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