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ノブ、ちゃんと考えてよ 作者:奈備 光

3章

21/61

17 噂話

 翌日も香坂からメールが届いた。

生駒先生、こんにちは。
今日の夕方、事務所に伺いたいのですが、よろしいでしょうか。
若槻所長とは個人的なお話をされましたか。昔話とか。
途中で交代した現場所長として、孤軍奮闘でがんばっておられるように感じます。
黒井さんのことで、ちょっとだけニュースがあります。
それはお会いしたときに。
さて、今日の打ち合わせの用件は三点あります。

 生駒は、打ち合わせの後、食事でもどうかと返信した。
 すぐに香坂から返信が来た。喜んで、と。
 福島駅近くのワインバー。時間が経つにつれて生駒と香坂は饒舌になった。店は適度に騒がしく、緊張感をほぐしてくれた。
「へえ、先生、株取引をされるんですか」
「少々は。日本経済に微力ながら貢献しないとね」
「ふうん。株取引って危ないんじゃないですか? 私は、なけなしのお金をなくしてしまいそうで、やったことがありません」
「危ないよ。なにも勉強せずに人の言うなりに取引してたらね。それに、やるという言い方は適切じゃないな。どこそこの企業に投資するって言ってくれないかな。ギャンブルじゃないんだから」

 生駒の事務所で、香坂と二人きりで打ち合わせをするのは三度目だった。
 大矢は生駒と細かい打ち合わせをするのは香坂の担当と決めているようで、事務所に来るのは以前どおり、香坂ひとりだ。
 生駒は自分が軽んじられているのではないかと少々不安には感じながらも、それはそれで楽しんでいた。
 そして初めての夕食。

「香坂さんはどちらにお住まい?」
「市内の平野区です」
「平野区のどこ?」
「加美っていうところです」
「正蓮寺のイチョウは、今年もたくさん銀杏を落とすかな」
「えっ? うちのすぐ近くですよ。なんで?」
「僕は平野区平野」
「あれ、奈良のお生まれじゃなかったんですか?」
「子供の頃に平野に引っ越ししたんだ。加美の生まれ?」
「いえ。五年ほど前から」
「なんだ、接点はないのか。ご家族と一緒?」
「いえ。私、父ひとり子ひとりなんです。ですけど、父との交流はありません」
「そう」
「つい最近まで、顔も知らなかったんです。それがひょんなところで会って。でも、向こうは私とは関わりあいになりたくないみたい」
 ここまで言ってから、香坂の口が重くなった。
 生駒はプライベートなことを聞いてしまったことを後悔したが、香坂は身の上話を続けていた。
 幾分、無理やり説明しているという感じで。

「私がまだ赤ん坊の頃に、親が離婚してしまいまして。母親に引き取られたんですが、母も私が専門学校に入学したらすぐに死に……。それからはひとりで……」
「それは知らなかった。大変だったね」
 月並みな反応しかできなかった。
「でも、祖母とはたまに会いましたし……、まあ、こうして仕事にありつけてますから」

「そうだね。さあて、黒井さんのニュースというのを聞かせてもらおうかな。まず、彼の怪我の具合はどう?」
 生駒は話題を変えた。
「ええ、いいようですよ。大矢さんとお見舞いに行ったら、相変わらず、事故の原因を厳重に調査して欲しいと騒いでました」
「厳重に調査ねぇ」
「足場板がはずれたこと。やはり変だって」
 生駒は頷いた。
「昨日の夜、大矢さんが若槻所長に改めてそのことを言ったそうなんですけど、軽くいなされてしまったんですって」
「ふうん。現場としては、単なる事故ということにしておいた方が好都合ということかな」
「そのようですけど」
「じゃ、黒井さんは不機嫌だろ」
「そうでもないようです。若槻所長がさいさい見舞いに来てくれるって喜んでいました。厳重調査なんていかめしいことを言いながら、実はそんなに真剣に考えてないんでしょうね」

 生駒も、黒井の転落事故をやみくもに事件化する気はもうとうない。先日の続きで、あくまで話題のひとつだ。
 香坂がメールで書いて寄こした黒井のニュースというのも、それほど興味があるわけではなかった。
「こないだはおもしろかったって、黒井さんが言ってました」
「なにが?」
「若槻所長のお見舞いと、ある女性達のお見舞いが重なったんですって。内緒ですよ」
 香坂の小さな顔が近づいてきた。
 三十も歳が離れている初々しい女性の、薄い化粧の下の素顔が少し見えたような気がして、生駒はどきまぎした。

「黒井さんが言うには、若槻所長とその女性たちの中の一人、噂が立ってたくらい親しいはずなのに、お互いに変によそよそしいんですって。女性の方はお見舞いだということで馴れ馴れしくするのはどうかと思ったんでしょうし、若槻所長の方は勘違いされるのは困ると思ったんでしょう。でも二人の関係は有名な話なんです。私でも知っているくらいですから」
 生駒は関心を持った。
 典型的な職場の噂話だったが、若槻のことを知りたいという気持ちが働いた。
「どんな関係?」

「大阪支店の工事部の人たちがよく行くお店の子なんです。とてもきれいな人。特に若槻所長がそのお店をひいきにされていて、部下をよく連れて行かれるんです。黒井さんも若槻所長に連れられて行くそうです。ところがですね」
 香坂の顔がますます近づいてきた。
「ある日、黒井さんが用事でエヌピー産業の事務所に行ったら、なんと、その女性がいたんですって。会社の制服を着て」
 タン・シチューが運ばれてきて、食欲をそそる湯気が二人の顔の前に漂った。

「でも、若槻所長とその女性が、その、男と女の関係かといえば、違うと思います」
 生駒は、ねえ、と口を挟んで香坂の言葉を遮った。
 香坂が噂話をたしなめられたかのように首をすくめた。
「その女性、なんという名前?」
 香坂は体を引き、首をすくめたまま、上目遣いに生駒を見ている。
「当ててみようか?」
 きょとんとした。
「セピアのミヤコちゃん」
「えーっ、そうです! なんで?」
「後の二人は、セピアのヨウコママとその他一名だな」
 香坂が体をくねらせて驚いた。

「さ、それで君の話の続きは? 若槻さんとミヤコちゃんとの関係はどうだって?」
 香坂が困った顔をした。
 生駒との関係を図りかねているのだろう。
「気にしなくてもいいよ。僕は会ったこともない人だから」
 香坂は安心したようだ。
「私の想像ですから、怒らないでくださいね。そのお店に連れて行ってもらったことがあるんです。お店の人たちはお金を払う若槻所長を中心に盛り上げますよね。でも、ちょっとした目線の動きとか仕草で、女性がどの男性に興味があるかって、わかるじゃないですか」
 生駒は香坂の話がだれないように、短い相槌を打った。
「つまり?」
 香坂がタンシチューを舐めて、舌を出した。熱い……。

「ミヤコちゃんは黒井さんがお気に入りってことなんです」
「やっぱり」
「やっぱりって?」
「大阪の工事部の中では一番の好男子だそうだし、なにせ、三都興産のオーナーのご子息だしね」
「うーん、そうかもしれませんけど……、あんまり関係ないかな」
「ふふ」

 生駒はオルカでの優との会話をトレースしているようで、おかしかった。
「なにか、おかしいですか? 一生懸命なのは黒井さんの方。実はですね、その黒井さんにもライバルが」
 完全に噂話モードに入ったようだ。
 声のトーンを落として、さらに顔を近づけてきた。
「佐野川さん」
「佐野川さん?」
「この二人が競争して。結果は黒井さんの勝ち。佐野川さんはかわいそうに子会社に転籍。ほら、エヌピー興産の人。ご存知でしょ」
 生駒は、顔を真っ赤にして縮こまっていた佐野川を思い出した。輸入物のカーペットの不手際の一件だ。
「へえ。でも、黒井さんの勝ち? 佐野川さんはミヤコちゃんとエヌピー興産で一緒になれて、よかったじゃないか。転籍の件はともかく、そういう意味では」

「その辺がややこしいところ。ミヤコちゃんがエヌピー興産に入社したのは、佐野川さんが転籍になってしばらくしてから。両方とも、若槻所長の一存ですよね。これってどう考えたらいいのかしら」
「ふうん。佐野川さんはどういうわけで転籍になったのかな?」
 ふっと吐き出した香坂の息が、生駒の喉にかかった。

「はい……。こんなこと、先生にお話ししてはいけないことかもしれませんけど、社内には加粉本部長を中心にした派閥と、若槻所長を中心にした派閥があるんです。今朝、メールで言った若槻所長の孤軍奮闘というのはそういうことなんです」
 相槌を打つ暇もなく、香坂は一気に喋りだした。
「加粉さんというのは、執行役員で奈良本店の本部長。若槻所長は工事部に何人かいる部長の中のひとりですから、加粉さんの方が役職は上なんですけど、お互いに張り合っていましてね。入社当時、同僚だったらしいんですが、今は社内では知らない人はいない犬猿の仲。あの現場の工事担当部所の交替も、そういったことが関係してるって、もっぱらの噂なんです」

 香坂の舌が滑らかなのはいいが、社内の人間関係の噂話が続くのかと、生駒は少し心配になってきた。
 もっと夢のある話や楽しい話をしたい。
 しかし、香坂の口は動きっぱなしだ。
 元々おしゃべりな女性なのかもしれない。毎日のようにメールもくれる。
 話すことがなくて黙り込んでいるだけの人より余程いいと思い直して、グラス片手に香坂の口元や目や頬のラインを眺めることにした。
 そういや、彼女は学生時代、空手を習っているなんて話をしていたなあ。
 けっしておしとやかというタイプではない。酒もそれなりにいけるクチで、時として直情的に行動するタイプでもある。
 そんな印象を彼女に対して持っていたことを思い出しながら、話を聞いた。
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