第3章 第6話 As an outlier◇
伊藤プロマネの話が続いている。
『自身の能力も構築の目安も分からないなか、ノウハウがなければ構築を進められるわけがありません。ですので、構築士は構築マニュアルが構築士の記憶プログラムの中に抱き合わせてインストールされています。あなたの記憶をアガルタで再生したとき、あなたの記憶に添付されている筈の構築マニュアルが破損してアクセス不可になっていました。また、仮想空間内生理適応プログラムの数十のセクタが破損していると判明しました。あなたがもんじゃ焼きを食べたいと思うのはそのためです』
破損だらけじゃないですか私の記憶!
バグチェックぐらいやっといて下さいよ。
しょっぱなバグとか見つかってこの先千年も大丈夫なんですか?
まあリアルな私の記憶のバックアップは取ってあるみたいだから生脳に戻るときにバグが持ち込まれることはないって話ですけど。
よく考えたら西園さん、何で伊藤プロマネがモンジャの件を知ってるの……?
『赤井構築士がモンジャ食べたがってます』って上層部に言っちゃったんすか、やめて下さいよ赤っ恥かいたじゃないですか。
何でいい感じに報告してくれなかったんですか。
『ですから、マニュアルを参照している白椋、蒼雲の構築があなたより効率的なのは当然です』
一瞬でも二人のことを凄いと思ってしまった気持ちをどこへ。
てか何で私だけ構築マニュアルが破損してるの。
西園さん、私がマニュアル見れてないって絶対気づいてたでしょうに、報告してよそういうバグは。
西園さんのツンデレのツンの部分かよ。
鬼畜伊達メガネキャラはお腹いっぱいですよ。
『そのバグは直していただけるのですよね。構築マニュアルも参照させてもらえれば私も仕事がはかどりますし』
上司の前では下手に出つつも、要望はしっかり出しとかないと。
『そこは敢えて、直さずにこのままいきたいと思います』
敢えて直さないとか鬼畜すぎですよプロマネ!
バグは面倒くさがらずに直して下さいよ!
困りますよ構築マニュアルがないとどんどん後れを取るじゃないですか。
『問題はありません。バグというと壊れていると思われがちですが、あなたの記憶は壊れてなどいません。実際のところ、あなたの記憶は殆どモディファイのない状態でアガルタ内に入ったのです』
つまり、私こと桔平の地の性格に近い状態でアガルタに入ったってことみたいだ。
おかしいな。感情的に安定していると思っていたんだけど。
ほとんど人格調整を行わない状態で(自分的には結構人格調整されてると思ってたけど)神様を演じるのって、普通は相当なストレスになるらしい。
でも私は元々ストレス耐性があったっていうか、神様キャラとして適応できてたみたいだ。
信じられないけど、「そうなんです!」と伊藤さんに断言されれば、「そうなんですか!」と言うしかない。
私の脳波とか脳の使い方って、世界一の維持士、キリスト先輩やブッダ先輩にパターンが似てるってことで採用時には鳴り物入りだったらしい。
同列に並べられるとか名誉なことだけど、褒められてんのかもわかんねーな。
それで私だけ凡才なのに構築士になれたのな。
脳波一点買いとかだったら嫌だ。
マニュアルを参照できなかったと発覚してから、現実世界側では緊急検討会議が行われたようだ。
構築士委員会で丁々発止、数か月やりあった結果。
赤井構築士にはマニュアルを見せない方がいいという結論に落ち着いたんだそうだ。
落ち着かないでよそこに!
苦労するのは私ですし、遅れるのは二十七管区ですよ!
いいんですか伊藤さん、構築が進まなくて責任とるのもトップのあなたでしょ!?
国民の! 税金! そこんとこわかってるんですか!?
『その不具合も勝因の一つだったとの見解です』
私何かに勝ちましたっけ?
エトワール先輩に勝ったのは勝ったうちにはいりませんよね、八百長試合でしたし。
『あなたはご自身を過小評価しておられるようですが、とんでもない思い違いです』
何を仰る伊藤さん。
今日エイプリルフールとかじゃないですよね。
いやエイプリルフールは確実に過ぎてる、外は九月とか言ってるし。
叩いて伸びる性格じゃないからって褒め倒す作戦に出たとか。
『あなたは世界初の偉業を成し遂げつつあるのです』
その後私が首を捻りながら伊藤さんの話を聞いて分かったことといえば。
厚生労働省は、事故などで重度の高次脳機能障害を患った患者さんの認知機能をアガルタ内で治療、回復させるという”仮想下リハビリテーション”に力を入れてきたとのこと。
治験対象の患者さんは、以下の条件を満たした人が選ばれるらしい。
現実世界での治療が不可能かつ、生存、生命維持が困難なほどの脳機能障害があって、さらに事故前に”献心”の意思を明確に表明している人だ。
献心というのは、献体の心バージョンだと思っていい。
自分が不慮の事故で死んだ、もしくは回復不能なほどの傷害を負った場合に、医学の進歩のためにその人の記憶(心)をアガルタ内や脳科学実験に利用しても構わないという意思表明。
医療の進歩に記憶、あるいはそのコピーを捧げるってことだ。
というのは、人類長寿命化が進んだ現代社会。
肉体の疾患、事故後遺症などの治療法は研究され尽くしても、いかんせん心や記憶などの精神科分野の治療が追いついていない。
人間の記憶は複雑だからその神経ネットワークだって物理的に操作できる代物じゃない。
記憶を少しいじることはできても、壊れた脳領域を人工的に穴埋めできるもんでもない。
最近は精神医科学の発展のために献心のニーズが高まっている。
献心の意思を表明するのは簡単で、コンビニとかに献心意思表示カードってカードがあるから、財布に入れて持ち歩けばいい。
カード所持者の記憶が何らかの事故などで破損してしまったとき、その人の人格をデジタル化し医学的研究対象にしてもいいですって意思表示だ。
献心意思表示カードを持ってる人って珍しい。
持ってる人は意識高めの精神科分野の医療関係者やらじゃないのかな。
相当できた人だ。医学のためとはいえ、心を実験や分析に利用されるなんて誰でも嫌なもんだ。
まだ肉体が生存していて、なおかつ献心の意思のあった高次脳機能障害の患者の破損した意識コピーを治療のためにアガルタに入れ、仮想環境下で認知機能の回復や自我の修復を行い、治療が終わったら脳に記憶を戻すっていう試みは、アガルタの全ての管区内で試験的に行われていたらしい。
もう、何から何まで説明なし! ほんまもー。
治療に失敗してもそこは仕方ない。
一応、記憶が壊れた初期状態のバックアップは取ってあるし、治療せず記憶が破損したまま現実世界で目が覚めない脳機能不全、あるいは停止状態よりずっといい。
でもこれまで仮想下リハビリテーション治療に成功した症例は一例もなく、治療方針の転換が求められていた。
症状の軽い人は現実世界で治療すればいいわけだから、重症の人を仮想下で治療するって本当に難しいことみたいだ。
この治験の内容は、ハイロードの構築士には知らされているものらしいけど、私だけ例の構築マニュアルの破損のおかげで、その事実を知らなかった。
白椋さん、蒼雲さんはそれぞれ精神科、脳外科医。
私だけ毛色が違う一般神。
構築マニュアル持ちの医師二人を尻目に、マニュアルを持たない私だけが、もたもた、のろのろと、それなりに構築を進めながら一人の患者の認知機能を回復させ、仮想下リハビリテーション治療に成功したと。
これは世界に例のない偉業なんだと伊藤プロマネは仰る。
近々、厚生労働省の成果としてプレスリリースをする予定だと鼻息も荒い。
そういう医学的な利用法があると分かれば、厚労省の予算をつけてもらう口実にもなりそうだし。
当の私は、誰かを治療した覚えもありませんけれども。
私が深くかかわってきた素民の中でそれっぽいと言えば……。
メグとロイのことですか? と尋ねると、
メグだそうです。
『彼女の自我も認知機能も事故によって絶望的なまでに損傷していましたが、あなたと関わりを持つ中で自我が回復し、人間性も取り戻されてきました』
私は現実世界の一人の女性の心を救ったらしい。
伊藤さんは脚組していた脚をもとに戻し、立ち上がって私に深々と頭を下げた。
私はというと、情報が処理できず放心状態だ。
『この一例は人類の医療の未来に大きな可能性を開きました。ありがとう、赤井さん』
たっぷりと九年を費やして私が回復させることができたのは、今のところメグ一人だけだそうだ。
何をどうやって治療したのか分からないけど、メグを人間のように愛情かけてかわいがってきたからな、私。
その気持ちに、偽りはなかったよ。
メグは人間。そうだったのか――。
治験対象者は、既に二十七管区内に複数名入っていて、経過は概ね良好とのこと。
メグがたまたま回復が早かっただけで、他にも回復の見込みがありそうな患者は複数いるらしい。
治療中のデリケートな時期に、私が患者と素民との扱いに差をつけてはいけないから、誰が治療中なのかは教えてくれませんでしたけどね。
私、メグロイにだけでなく、つとめて皆に平等に接してきたもんな。
てことは、素民の中にもまだ人間の患者さんがいるってことだ。
今回の成功を受け、早急に治療ガイドラインを作るため、症例数を増やすべく二十七管区には他エリアより多くの患者さんが投入されるかもしれない、とのこと。
私の仕事の何がよかったのかを分析してるらしい。
二十七管区プロマネとしても鼻が高いそうで……あなた何か私にしてくれましたっけ。
『今回の成功を、誇りに思ってください。アガルタを福祉施設として利用するばかりでなく、医療施設として国民生活に役立てられるとあなたが実証したのです。以後、あなたにはマニュアルを渡さないことと引き換えに、このエリアはどれだけ構築が遅れても構いません。全ての責任は私が負います』
文明レベルが一定水準に達しなくてエリア開設できるわけ?
せっかく千年もかけて構築するのに開設されなくてお蔵入りとか嫌だよ、頑張ったのに。
内心そんなことを思っていると、伊藤さんはにこっと微笑んだ。
『それは構いません。電気、ガス、水道もないゆったりした環境で自給自足のスローライフを楽しみたいという入居者も、きっといると思いますよ。欲張り過ぎてはいけない、他にも代わりがきく一般的なエリア構築は蒼雲、白椋に任せて、あなたはあなたにしかできない仕事をしてください。そちらの方がよほど価値があります』
そういわれればそうか……。
だって千年王国なんて二千年もかけてあの文明レベルなんだもんな。
そのぶん美しい世界だけど文明進めりゃいいってもんでもないのか。
目的に応じたエリア運営をしろってことなのか。
それで私は今後どうすればいいんだろう?
他の患者の治療に邁進すればいいってこと?
でも私、皆との絆を大切にしてきただけで、何か治療らしいことをした覚えもないんだけどな。
何がなんだか、もうわけがわからない。
『それに、千年といっても、実際には千年ではありません』
カウントダウンクロックは確実に千年+アルファ時間になってますよ?
気休めやめてくださいよ!
『ある程度構築が進み民の生活が安定してきて、祝福も大気を介して自然にできるようになったら、あなたは数十年~数百年の長い眠りにつけばよいのです。トラブルがあれば民の祈りにこたえて随時目覚めて対処すればよいだけです。だいたい、神様というのはいつも起きているものではないでしょう』
もしかして構築って、マニュアルに沿ってやれば本当はそれほど辛いものじゃないのかな……主観時間千年だと思ってたけど、眠ってる時間が長いなら楽ちんじゃん。
ちなみに、蒼雲さんは大気を介しての祝福方法を習得し、一回目の眠りに入ったとのこと。
そっか、九月だもんな。
外の人に時間を長い間止められなければもう数十年は経ってる頃だよ。
『話は戻りますが、メグの心はもう十分に安定しています。彼女の実年齢は二十二歳なので、アガルタ内で二十二歳になったら現実世界の肉体に戻そうと考えています。その後は保存されている現実世界での記憶と自我を統合し、現実世界でのリハビリを開始します。あなたのおかげで社会復帰できそうですよ。彼女のご家族も、あなたに大変感謝しておられます』
『肉体に記憶を戻すということは、それはアガルタ内での死を意味しますか? 彼女は二十二歳で亡くなるということですか?』
伊藤さんは直接の答えを避けた代わりに、ふわりと髪をかきあげて視線を伏せた。
『大丈夫、眠るように息をひきとってもらうつもりです。苦痛はありません』
メグは死ぬのか、それとも生まれ変わるのか――。
メグは現実世界の人間だから、死ぬと言うよりは長い夢から元の生活に戻るんだ。
そして彼女の新たな人生が始まる。
でも、どうしてだろう。
それを今生のお別れのように感じるのは。
『メグとしての記憶はどうなります』
『自我の安定化のために必要であったプログラムですので、肉体に戻る際にも一緒にインストールします。しかし、現実世界での彼女の自我が安定化するとともに、メグの人格は自然と消えてゆくでしょう。現実に戻れば彼女はアガルタ内でのことを、夢であるかのように認識しています。メグとしての記憶も少しはあるかと思いますが、夢の中の出来事をいつまでも憶えておく人間は、あまりいないでしょう』
ひとりぼっちで異世界に投げ出されたメグに、恐怖はあるだろう。
メグの意識が段々と薄くなって、やがて消えてゆく心細さはあるだろう。
しかしメグを基本人格とし添え木として力強く蘇る、治療を受け回復した彼女本来の人格。帰還が待ち望まれているのは、メグではなく、彼女だ。
メグは死に、別の誰かが助かる。
メグの死と引き換えに現実世界で誰かが目覚め、現実の社会で明るい未来へと歩み始める。
彼女の回復を待っている家族もいるだろう、現に治療の成果を喜んでいるという家族はいるみたいだ。アガルタでの出来事も、私と彼女の間の絆も、長い夢の中でのことでしかない。
それでいいんだ。
きっとそれが正しい。
メグは泣きながら、もっと後に生まれたかった、私の築き上げる世界の完成形が見たかったと言ったけれど、このエリアが開設されれば現実世界で生を終えた、メグ入りの誰かさんが再びこのエリアに戻ってくることもできるじゃないか。
そしたらメグの願いも叶えられる。
私の築く世界の姿を見せてあげられるよ、万々歳だ。
メグとしての記憶は、殆どなくなった上でのことだけれど――。
私が落ち込みまくっていると、伊藤さんは私の肩にぽんと手を置いて優しく声をかけた。
頼れる上司って感じだな、伊藤さん。信頼できそうだけど……。
『情がうつったのはよく分かります、あなたは彼女に本気で愛情を注いできたのですから。ですが彼女は現実世界の人間であって仮想世界の人間ではなく、現実世界に戻るのが最善の方法です。わかりますね。だから、治療の成果と彼女の回復を喜んでください』
私は現実世界側の人間だから、仮想空間の彼女の命よりも現実世界の誰かさんを助ける方が大切だ。
何故ならメグは、現実には存在しない命なんだから。
二十二歳のメグに現実世界からお迎えが来たとき。
私はいってらっしゃいと言って、笑顔で送り出してあげよう。
『……はい』
『これは私からの心づけです』
伊藤さんは彼のインフォメーションボードからある画像を選択。
すると、私の座る石の机にアツアツの鉄板が現れ、伊藤さんは出来上がったモンジャ焼きを私の前に差し出し、箸とはがしをコトリと石の机に置いた。
もんじゃスペシャルだ。
エビ、イカ、天かすに明太子、そば、もちも入ってる。
すぐ食べられるように、もう焼けた状態のものだ。
鉄板の上で焼けたソースの匂いが香ばしい、湯気がほかほかと充満し、懐かしすぎて涙が出てくる。
でもこみ上げてくるこの感情は、もんじゃ恋しさのためじゃないような気がする。
『召し上がってください。ご希望通り、食べられるようにしておきました。楽しみにしていたのでしょう』
『……胸がいっぱいで』
あんなに待望していたもんじゃ焼きなのに、手を付ける気になれない。
極端に言えばメグを伊藤さんに売るような気がして……。
手をつけないでいると、伊藤さんが”はがし”を私の手に手渡し、中ジョッキに入った生ビールを添えてくれた。
しゅわしゅわと炭酸が弾ける音がする。これには堪えられない。
『誰でも別れは辛いものです。しかしそれを乗り越えてこそ、構築士は一人前になるのですよ』
結局、伊藤さんに強くすすめられてもんじゃ焼きをごちそうになった。
情けないことに、私は仮想世界でも変わらぬもんじゃのおいしさに完敗したんだ。
いそいそともんじゃ焼きをはがし、口に詰め込み味わって噛みしめる。
一口噛むごとに旨みが口中にふわっと広がり、食感もリアリティ満点に再現してもらって、とろっとしたモンジャ焼きのタネ、キャベツのしゃきしゃきとした感じも、エビのプリプリした歯ごたえ、ソースの焦げ目など、全てが懐かしい。
伊藤さんの粋な計らいで、一時的に食べ物を飲み込めるようにしてもらった。
伊藤さんは終始私に生体構築をかけていた。
さすがはプロマネ。
神である私の体も彼のボードの中で手玉に取ってる。
温かいそれが胃袋に落ちてゆく幸福。
伊藤さんは私が食事をする姿を興味深そうに見ていて、生ビールのおかわりをそそいでくれた。
ビールを飲むと、忘れかけていたのどごし、ぷはーっと息を吐く。
普段は食べられないが、これからは伊藤さんがアガルタを来訪した際には内緒で食べさせてあげようと約束してくれた。
伊藤さんの私に対する期待がちょっぴり重い。
私の実績(?)を評価して、私の自主性を尊重してくれてるんだって。
そんなに期待されたって、メグ一例ぽっきりかもしれませんよ?
食事をしながら、ぶっちゃけロイも人間なのかって聞いたら、ロイはA.I.だそうだ。
彼はまた別の目的で稼働しているプログラム。
非常に重要な別のプロジェクトに携わっています、ってさ……。
フォレスター教授のことも聞きたかったけど、こちらはまだ話してくれないみたい。
そのプロジェクトの全貌、教えてくれるのはいつだろう。
今回、プロマネが私に治験の件を白状したのだってエトワール先輩がうっかり口滑らせたからだしな。私がエトワール先輩から余計なことを聞いたり気が散らないように、直接説明してしまおうってことみたい。
エトワール先輩には感謝だ。
そっかー。ロイ、ありえないほど優秀だもんな。
彼も何か、無意識に現実世界の人の役に立つようなプロジェクトに携わってるのかな。
そういえば、メグの兄のナズはどうなったんだろう。
私の不始末で、ナズの心は助からなかったんだろうか。
メグの兄さまの設定だから、メグと関わりの深い人なのかな。
食事を終えて、満腹感こそないけれど私は満足してごちそうさまと手を合わせ、伊藤さんに訊いてみた。
『ナズも人間でした。メグとどのような間柄かは分かりません。ただ、彼らは同じ日に事故に遭って脳機能を著しく損傷し、彼もまた献心カードを持っていたので治験患者に選ばれました。私が聞いている情報はそれだけです』
何故か、胸が締め付けられたように感じた。
親子、兄弟、友人、恋人、夫婦……どんな関係だったんだろう。
そうか、メグの意識の入った誰かさんが現実世界で目覚めても、ナズの現実の体は目覚めないままなんだ。
メグと縁の深い大切な人が目覚めない……悲しむだろうな。
『ナズの記憶は相変わらず破損したままです。彼の新たな自我のコピーは来年度の構築士の元で治療の為にもう一度再生されるでしょう』
来年……、それに失敗する可能性もあるってことだ。
むしろ失敗する可能性の方が高い。
どうやってメグを治療したのかさっぱりわからないけど、なにせ私しか治療実績がないんだ。
日本で唯一、世界でも一例のみ。
責任は重い……でもこの仕事は、絶対に私がやらなければいけないような気がする。
『ナズの自我は、もう一度私の管区で迎えさせて下さい。お願いします!』
メグを一人で現実世界に送り出したくないという親心ですか。
と伊藤さんは微笑む。
どうなのかな。そうなのかもしれない。
私はアガルタから十年間外に出られない囚神だ。
現実世界で目覚めたメグの記憶が孤独ではないように。
メグの大切な人と一緒に目覚めるように。
そう願うのは、親心というより、私のわがままだ。
本当は現実世界にまで付き添って見送ってあげたいけれど、私の職務上許されない。
ナズとメグ、二人を現実世界に無事に送り届けること。
そのために私は全力を尽くそうと思った。
『では、ナズを頼みますよ。赤井さん。ナズの実年齢は二十四歳です』
ということは、ナズは中学生ぐらいの姿だったから、うまく治療ができれば十年とちょっとで亡くなって現実世界に戻れるということだ。
アガルタ内での十年間なんて、現実世界の数か月程度。
治療を始めるなら今すぐがいい、まだ間に合う。
メグの記憶が消える前に、現実世界に出たナズに会わせてあげられる!
伊藤さんに後ろを指を差されて振り返ると、先ほどまで私と先輩の寝ていたベッドに横たわり、すやすやと寝息をたてる、十二歳のナズの姿があった。
苦しんでいる様子はない。それがせめてもの救いだった。
『おかえりなさい、ナズさん』
私はナズに、私の衣を着せかけてあげた。
もう一度、振り出しに戻って全てをやり直そう。
今度は明確な意思と目的を持って、私なりのペースで構築を進めながら、ナズの心としっかりと向かい合うんだ。