第8章 第9話 The embers turn into flames◆
日本アガルタ30管区・擬似地球・日本 東京。
東 愛実の家にも朝が訪れ、薄いレースのカーテンの間から、日光が糸のように漏れてくる。
この世界のベッドというものは寝心地がよすぎて、メグは背中がベッドと一体化してしまいそうだった。コツコツと物音がして彼女は目を擦りながら上半身を起こす。
無意識に髪をすくと、するりと指が通る。おや、と目をみはる。
些細なことではあるが、髪の毛にいつもの寝癖がついていない。
あの、トリートメントってやつのおかげだ、とメグは感心した。
物音を視線でたどると、二階の寝室の窓辺に抹茶色の小鳥が一羽、窓をコツコツとつついていた。
指先を窓ガラスにくっつけると、それは驚いてパタパタと飛び去った。
「メジロですよ。もうすっかり春なんですねぇ、ウグイスの鳴き声はめっきり聞きませんが」
メグの疑問に答えた声が思いがけない場所から聞こえて、メグはドキリとする。
真横を見ると、カンナさんがにこにこと笑いながら立っていた。
「あ、カンナさんおはようございます。メジロ……、そうか。小鳥の、メジロかぁ」
彼女は思い出す。
この世界には、27管区にはいなかった生物、鳥類と昆虫類がいる。
メグは窓の前で頬杖をつき、朝の東京の景色を楽しんだ。少し春霞のかかる快晴の空の下、東京の街は目覚め、人々は動き始める。
「おはようございます。よい朝ですよ、身支度をしましょう」
カンナさんに言われるがまま、部屋に備え付けの洗面台で顔を洗い、ふわふわのタオルで顔をぬぐい、ベッドの横のカウチに折りたたんでいた服を着る。
モンジャにいた頃と似た構造の、しかしきらきらとしたビーズの装飾のついた、薄い素材のワンピースだ。ファスナーがあったため少々苦労したが、カンナさんに教わり、ようやく着ることができた。
黒いタイツを履く。
この時代のタイツはまず破れることはないとはいえ、履くだけでもメグには一苦労だった。
「私、この服好きです。かわいい、ここのところとか。裾のほうの飾りも」
くるりとターンをして、裾をふわりとさせたりしながら、鏡の中の変身後の自分を照れくさそうに眺める。
「以前、あなたが着ていた服ですからね。あなた好みのはずです。色んな服を着てみましょうねえ」
カンナさんは笑う。
時間は経っても趣味は以前と変わらないのですね、と言って。
「朝食にしましょうか? ご主人様が腕をふるってお待ちですよ」
頃合いを見計らって、カンナさんがメグを朝食に誘う。
「実は、おなかがすきました」
カンナさんに言われなくても、階下からは朝食のにおいが漂ってきていた。
香ばしい香りに誘われて一階に降りると、キッチンには伊藤が立っている。
昨夜のいでたちとは違って、長い髪の毛を束ねてニット姿だ。
天御中主のコスチュームは和服がかさばって一軒家の生活スペースを圧迫するので、シンプルな白いゆったりしたニットとデニムを着ていた。
包丁の音が聞こえている。
調理器を使って調理をしないのは、伊藤の流儀だ。
彼は構築士という現代テクノロジーの最先端を走る人間でありながら、手作りの食事は手をかけておいしいもの、と考えているふしがあった。
調理過程は、手作りであってもマシンで作ってもほぼ変わらないのだが。
『おはようございますメグさん! よく眠れましたか?』
「伊藤さんおはようございます。私、すみません、もしかして寝坊しちゃったのでしょうか」
とはいえ、シツジの世話が日課だったメグの朝は早く、まだ6時半だった。
『いやー、寝坊なんて全然! むしろ早起きじゃないですか? 来客が嬉しくて、久しぶりに朝食作っちゃいました。ささ、温かいうちに食べましょう』
気の遠くなるほどの時間、一人で30管区を運営してきた伊藤も、生身の人間が来ると多少は気分が晴れるらしい。
しかし、メグからすれば伊藤の出すものは”えらい創造神様の手料理”なのであり、いただくのも緊張するというものである。
カンナさんはテーブルを塵ひとつなく拭き、食器を出す。
メグもせめてと、配膳とお茶を淹れるのを手伝った。
伊藤が拵えた朝食は定番の和食。
白米に大根とわかめ、豆腐の味噌汁、鮭の切り身、出し巻き卵、かぼちゃの煮物。ほかほかと湯気がたっている。二人は手を合わせる。
『いただきます』
「いただきまぁす!」
伊藤を見習って、献立のひとつひとつを不器用な箸使いでつまみあげ、ゆっくりと口に運ぶ。
「あぁ、これ、どうしてでしょう。なつかしい気がします、この棒の握り方も知っていますし」
『あはは、それは箸ですよメグさん。どうしてって? だって日本人ですからね、私たち。朝は和食がいちばんですよ』
伊藤はすました顔をして、味噌汁のお椀を傾けていた。
よくよく噛み味わって食べながら、メグはその優しい和の味に心が落ち着き、安らぐのを感じていた。美味しすぎて、恥ずかしいとは思いながらも、ついご飯と味噌汁のおかわりをしてしまった。メグは平らげて今度こそ満腹になると、ごちそうさまでした、といって神妙な顔をして両手をあわせた。
「食べたもの、自分で洗います」
せめて後片付けだけでもと思い、メグが席を立ち腕まくりをすると、
『食洗機がやってくれますよ、あなたが洗わなくてもいい』
「へ?」
メグは素っ頓狂な声をあげる。
『文明の利器はしっかり使いましょう。ね?』
「はい、リキ、使います」
結局食器を洗う代わりに、食洗機の使い方を習った。
ボタンひとつで洗ってくれるだなんて、これモンジャにもって帰りたい! とうっかり口走りそうになるほど目を白黒させていた。朝食を終え、生活に必要な家事と家電の使い方を少しずつ習い、休憩となった。
伊藤の組んだ一日のスケジュールは、ちょっと一服、が多い。
メグが疲れないようにという配慮もあるが、お茶うけに餡子や饅頭などが出てくるところをみると、伊藤は根っから甘党なのだろう。気が合うな、とメグは思った。
二人は暫く、お茶をすすりながらテレビを見たりオンライン雑誌を読んだりしていた。
ただゴロゴロしているだけではない。
社会勉強中ともいえる。
テレビを見れば、ある程度この世界の言葉遣いや流行りものなどが分かる。語学留学をした人がテレビを見ると語学習得が早い、などという現象もあながち間違ってはいない。
メグの買い物や暇つぶしのために、伊藤は柄にもなくファッション雑誌やグルメ雑誌をいくつか用意していた。
メグは「モテ女子のゆるふわ春コーデ! 2134年決定版!」なる特集記事を、難しい顔をして読んでいたところだった。
「この世界ではこんな服が流行ってるのかぁ。へー、かわいいなー」
黄色と紫のストライプのコートも特集の中にあった。
モンジャ集落のファッションは未来を先取りしていたんだな、と嬉しくなるメグ。特に細かい幅のストライプはトレンドだった。
それを見た伊藤は、準備するファッション雑誌を間違えたかな、と少々不安がよぎったが、気にしないことにした。
『さてメグさん。テレッテーテッテテー♪ 第一問です! さて、今日は何曜日でしょう』
伊藤は妙な効果音をつけて、唐突にクイズを出題する。
「はいはいっ! にちようび。お休みの日、でしたっけ?」
一週間の曜日と休日を思い出すのに、メグはワンテンポ遅れる。
『そうですね、日本全国、休日です。というわけで、今日は東京観光としませんか? あなたの気になる服を買ってもいいです。どこに行きたいです?』
ショッピングなどいくらでもオンライン上でできるのだが、伊藤は敢えて、東京観光に連れ出したかった。メグの機嫌と体調のよいときを見計い、観光を兼ねて日本の社会システムを思い出してもらう必要がある。
それに伊藤は律儀な性格なので、メグ一人のために東京都内を重点的に造りこんでいた。
観光地、名所・旧跡はほぼ全てといって完全に再現している。
というか、伊藤もこっそりと一人で観光地めぐりなどをして楽しんでいた。
せっかく作った作品のできばえを見てほしい。
箱庭世界でレプリカを見るなど考えてみればばかげているが、そうやって少しでも遊びを取り入れて気分転換をしないと、百億年単位で構築士などやっていられない、という部分もある。
何事もやりこみすぎる伊藤にとって、そういう意味では構築士は天職だった。
ちなみに、伊藤がアガルタの構築士の間でガチ構築廃人として名を馳せているのは、彼は知らないほうがいいだろう。
『そうだ。あと、お昼をどこで食べたいかもリクエストを受け付けますよ?』
伊藤はボードのひとつにグルメデータを取り寄せ、メグに手渡した。
メグはソファに座って日本茶をすすりながらページを繰っていった。
『ふれんち、いたりあん……えすにっく……』
メグはページをめくっていて何かを思い立ったらしく、
「この世界で、もんじゃ焼きって食べられますか?」
『え、ああ? ……食べられますよ!』
伊藤はぎょっとしたが、すぐにしたり顔になった。
何を言われても準備に手抜かりはないのが、この男だ。
そして、ぺらぺらと雑誌をめくって、モンジャの名店特集を示す。
「わー、たくさんある、お店! 迷っちゃうなぁ」
『それにしても、好きだったんですか? もんじゃ焼き』
彼女がいた集落名と同じ名前の料理があるということで、惹かれるのだろうか、と伊藤は首をひねる。
「私はあまり覚えていないんですけど、赤い神様が食べたがっておられたので。どんな味だったか、思い出したくなって。それに、私達の土地にモンジャって名前をつけるぐらいだから、お好きだったんだろうな、とっても美味しいんだろうなって」
メグは、クスリと笑って思い出す。
『そういえば、私も久しく食べてないですねぇ』
食べていないといってもその時間、次元が違う。
赤井なら生きる気力をなくすか発狂するかもしれないが、伊藤は百億年単位で食べていなかった。
それをさして苦にもせず、今思い出したといわんばかりだ。
「そうですね。思い立ったが吉日です、行きましょう!」
伊藤はメグを、ガレージに停めていた銀色の飛空車に乗せる。
自動操縦で空速インターに乗り、東京上空のドライブと洒落こむ。
空から見下ろす春の東京の街は、上空からでも桜が咲いているのが見えた。
「こんなに重い金属の塊が、浮くなんて!」
メグは眼下の光景に釘付けだ、きゃあきゃあ言っている。
想像絶する超高層ビル群、空を行き交う車やドローン。
それらはすべて、現実の東京の風景を模した造りになっている。
それはメグが現実世界に戻ったとき、物体が空を飛ぶのが当たり前の社会を見て混乱しないようにできるだけ風景を同じに、という、伊藤の配慮だ。
『音楽をかけましょう、いーい天気だ、風も気持ちいい』
現実世界のヒットチャートナンバーがよい音量でメグの耳をくすぐる。
「あ、この音楽、素敵です。綺麗な音色」
メグは目をつぶり、ふんふんと口ずさんでメロディーラインを追った。
好きな歌ができるのはいいことだ、と伊藤は頷く。馴染みの音楽ができることで、現実世界へ馴染むのも早くなるだろう。
『そうそう、夕方には、計画降水がありますからね。早めに帰りましょーねー』
今日は5時15分から雨が降るのだという。
「降る時間が、そんな正確にわかっちゃうんですか?」
雨に降られて慌てて洗濯物を取り込むということもないのかと、メグは口をぽかんと開ける。その表情を見た伊藤はしまったという顔をして、
『えっと、お天気のおさらいをしましょうね。現実世界ではですね、天候は世界規模で管理されているんですよー、それで……』
難しくならないよう、簡潔に説明する。
世界気象機構が天候を管理しているのだと。
だから、想定外の天気にはならないのだ、ということ。
「天気が、すべて管理されてしまっているのですね。なんだか」
自然災害から身を守ることができるという便利な側面もあるが、移ろう天気を楽しむことができないだなんて……そう、ほんの少しだけ虚しさを覚えて、メグは吹き抜ける風に身を曝す。
パーキングに飛空車を停めて、新・西仲通り商店街界隈、通称もんじゃストリートを、伊藤と二人でそぞろ歩く。神々しいまでの美女神がシンプルな、人間風の服を着て街中を歩いている。
伊藤に何かの気配を感じ取ったのか、素民たちに振り向かれることが多かったが、伊藤に近づいてはきても声をかけてこようとするものはなかった。
伊藤は素民とのドライな関係に、慣れているようだった。
「皆、伊藤さんのこと気づかないんですね。神様なのに」
神様が神殿以外の場所をほっつき歩いているとなると、27管区では一大事だ。
後を追っかけられたり、祝福を求められたり、悩みを打ち明けたり、祈りを捧げたりで、とにかく列ができるのは必至だ。
だから赤井は、どこに行っても囲まれてすぐに身動きがとれなくなっていた。
そんなもんだから、この世界の民が彼を一瞥するだけであまり関心がなさそうなのを、メグは不思議に思う。
『現代日本は、神がいない世界ですからね。何かに気づいても彼らが気にならないよう、簡単な結界を張って歩いているんですよ』
「そう、でしたっけ?」
メグは立ち止まってこてんと首を傾ける。
日本には神様を祀る神殿が、てんこもりだった気がする。
熱心にお参りをしている人もいた気がする。
誰かが死んだら、よくわからない言葉で神様にお祈りをしていたような気がする。
『はは。まあ、まーどうなんでしょうねー。神様仏様、いるかもしれませんけど、私も一公務員ですから、不適切な発言は差し控えましょう』
伊藤としては「神はいない」と思っているのだろう。
それなのに神様をやっているだなんて、メグからすると妙な感じだ。
「この世界の人たちは、神様から祝福もしてもらえないんですか?」
それはとても不幸なことだと、メグは道行く人々に同情する。
『祝福はしているのですが、大気を経て民に気づかれないよう行っています』
そうなんだ……本当に、この街では神様がいてもいなくても同じなんだ……と、メグは複雑な気分になった。そしてそういう部分では、以前の世界のほうがいいな、と実感するのだった。
『さて、どこのお店に入りましょうか?』
月島は、ほぼ完全といっていいほど忠実に現実世界の赴きが再現されていた。
……ということを知っているのは、伊藤だけなのだが。
「わあ! すっごーい!」
見たこともない賑やかな町並みと、大勢の人々に、メグははしゃいだ。
小奇麗でお洒落な小店舗が軒を連ね、あたりによい香りが漂う。
店舗によっては試食などのサービスもあった。店舗の名前こそ違うが、ぱっと見は現実世界における月島の町並みと遜色ない。このもんじゃストリートは、商店街全体が十年前にリニューアルされて、以前より道幅が広くなっている。
挙動不審になりながら、あたりをキョロキョロと見渡すメグ。
「もんじゃって書いてあるんですよね?」
断片的には覚えているが、日本語の文字の記憶が怪しいメグは一応確認する。
『そうですね、このあたりは殆どそうです』
メグは各店舗にかかげられたホログラフの看板に近づき、食い入るように見ている。
これらの看板は、見た目はもちろん、においも再現されているのだ。
くんくん、と匂いを比べて回っている。大して変わらないのだが、やはりこだわりはある。
戻ったり進んだり。どうやらメグは優柔不断な性格だったようだ。ここにきて意外な一面を知る伊藤だった。
しかし埒があかないと思った伊藤は咳払いをして、
『せっかくですから、グルメ雑誌でさっきあなたが気になっていたお店に行きます?』
「そうします!」
グルメ雑誌で下見しておいて正解だった。
メニューの日本語が分からなくとも、画像を見ればだいたいのイメージを把握できる。
開店したばかりの店の暖簾を、二人連れの美女がくぐる。メグと、伊藤だ。
奥のカウンターにいた店主は美人二人の入店に気をよくして、自ら接客に出てきた。
店主自ら、接客に出てくるのは現代日本では珍しい。
接客ロボットが客の相手をすることが多いからだ。そのほうがバイトの人件費もいらないし、言語トラブルもなくて無難にすむ。
「あいらっしゃい。どの席にします?」
仕事を奪われた接客ロボが、カウンターの奥にすごすごと戻っていった。
『んー、じゃあーどうしよっかなー、大将のお勧めの席で』
と、伊藤が科をつくり、流し目をした。
すると、店主は一瞥だけで魅了されのか、奥座敷への扉を惜しげもなく開く。
見栄えのいい中庭をのぞむ、茶室風の離れの個室席だった。庭木の桜が満開だ。
「ここはお得意さんしか通さないんですがねぇ、お姉ちゃんたち美人だから特別にサービスしますわ」
『わぁーうれしい! お兄さんったらもう、男前なのに太っ腹なんだからぁ!』
今の何!? 何が起こったの!? と、さしものメグも若干引いていた。
そして、こういうのも含めて社会勉強なんだな、と息を呑む。あえてのコメントは控えたが。
個室に入り、メグはどことなくよそよそしく、座敷で伊藤と対面して正座をしていた。伊藤ははっとわれにかえり、ばつが悪そうな顔になる。
『メグさん? あのー、あー誤解しないでくださいね。職業病のようなものですから』
多少のリップサービスも使いながら素民をいい気にさせて、経済・社会活動に勤しんでもらう。それも構築士の仕事なのだ……と弁解したい。
「ダイジョブデス! 私はダイジョブです! その、モンジャ集落のご近所さんにも、そんな人いたし」
『そんな目で見ないでくださいよぉ……』
伊藤はメグに対しては演技をしないが、素民相手には演技をする。
悲しいかな、無意識に外見どおりの演技をしてしまうのだ。
構築士は舞台に立っていないだけの役者で、その癖は完全に身に染み付いている。
今はまだ早いが、構築士という仕事も仮想死後世界アガルタという社会システムも、メグにはそのうち理解してもらなわなければならない。
気を取り直して、伊藤はメニューボードを差し出す。
しかしメグはもう心に決めたものがあるようだった。
「かいせんすぺしゃる、めんたいもちちーずです」
赤い神が言っていたメニューの、受け売りだ。
『明太子は、あなたには辛いかもしれませんよ?』
伊藤の知る限り、辛いもの、というのは27管区世界にはまだなかったはずだ。
スパイスも存在しない。塩やタレをベースとした、素朴な味つけとなっている。
「赤い神様のお勧めなので、がんばってみます」
けなげというか、一途というか。
と、伊藤は感心する。そんなメグに伊藤は処置なしといったところだ。
目当てのものが、店主によって運ばれてきた。アルミの器に、小麦粉をベースにした生地にダシを加え、そして細切りのキャベツや新鮮な魚介が乗っている。
「ねえちゃんたち、焼き方は? 聞きたいだろ、焼き方? おっちゃんがこれから……」
『ああ、私が教えますので結構ですよ』
「えっ、そんな! うそ」
店主は今度は伊藤に冷たく追い出され、何度も振り向きながら去っていった。
教えたかったのだろう。メグは少しだけ気の毒に思った。
『私が全部焼きましょうか? それとも、一緒にやってみますか?』
「教えてほしいです」
伊藤はメグにへらを手渡し、鉄板に薄ーく油を引く。
『具、全部載せちゃってください。具だけですよ、生地は残しておいて』
「全部ですか? どーんといきますね」
『へらで具を刻んでね。細かくね』
メグは四苦八苦しながら、具を細かく刻む。伊藤が生地を少しいれて、具に粘り気を出す。
『土手を作りますよ。ここが頑張りどころです』
二人で、手分けをしながらドーナツ状の土手をつくる。よい香りが立ち込めてきた。
『残りの生地を流して。一気に流し込むと決壊しますから、少しずつね』
そろり、そろりとメグは慎重に生地を流し込む。
流し込んだ生地と、土手になっている具を少しずつ混ぜ合わせる。混ぜあわせながら、平たく鉄板に広げてゆくのだ。
ソースと青海苔をかけて、しばし待つ。
具がしんなりとしてきたよい頃合いを見計らって。
『もういいでしょう』
食べごろを逃してはいけない。焼きすぎると、おいしくないのだ。
はい。と、伊藤ははがしをメグに手渡す。はがしを使って一口サイズを取り、それを鉄板に押し付けて、焦げ目をつけて食べるのだ。
『あ、やけどしないようにね。口』
「……はひっ」
どうやら忠告が遅かったようで、メグは唇を焼いて涙目になっていた。
『どうですか? おいしいかな?』
今更言うまでもないとは思うのだが、もんじゃ焼きには好き嫌いがある。
期待していた割にいまいち、という人も少なくない。しかもメグは期待MAXになっているものだから、どうだろう。
「はじめまして」
メグは恍惚としてなにやら挨拶をした。
『え? はじめましてって誰に?』
何を言い出したのかと思いきや。
「と言いたいぐらいの美味しさです!」
頬を両手でぺちぺちやって、はふはふと味わっている。
『それはよかった』
メグはぱくり、ともう一口。
もう一口、次も次もと、ほお張った。
チーズがとろりと伸びて、初めての食感が面白いようだ。明太子もそれほど辛くはなかったらしい。ぷちぷちが美味しいと、目を見張っていた。
「さすが、赤い神様です。ご自分はたべられないのに、美味しいものをよく知っていらっしゃいます。涙が出そうなほど美味しいです」
『それはよかったですね。これで、現実世界に出ても誰とでももんじゃ焼きを食べられますね』
「はい……一緒に食べたい人がいます。私と一緒に行ってくれるかな」
メグはもじもじとして、消え入りそうな声でそう言った。
あの人というのが誰を指しているのか、伊藤はそっと察したが、敢えて踏み込んで尋ねるのは避けた。
「でもこれ、おいしすぎて明日も食べてもいいです。明後日もこれでいいです」
『勘弁してください、他のものも食べましょうよ。私が飽きてしまう』
週3でもいいのだと言っていた赤井と似たもの同士だな、と伊藤はビールをあおり、枝豆をつまんだ。
「ねえちゃんたち、この肉、サービスな」
店主が再びやってきた。
「わーありがとうございます! すごいー美味しそうなお肉!」
メグが断らず嬉しそうな顔をしているので、その後店主からのサービスは続き、鉄板焼きをこれでもかというほどに食べる羽目になった。
『も、もう、いいでしょう。おなかいっぱいでしょう?』
「え、伊藤さん小食ですね。あ、この果物もありますよ、食べます?」
真顔で首をかしげるメグは華奢な外見に似合わず、なかなかの大食いだった。
そういえばモンジャ民は食通で大食いの民族だったな、と伊藤が思い出した頃には、テーブルの上には大皿が累々と積み重なっていた。
***
目の前の相手。
27管区の八雲プロジェクトマネージャーに表情の変化ひとつで裏の裏まで見透かされてしまいそうに感じて、蘇芳教授は耐えられなくなり、そっと視線を伏せた。
「ごめんなさい八雲先生、居場所は分からないのよ」
それは嘘ではないし、フォレスターを庇っているわけでもない。
本当に分からないのだ。
フォレスターはサイバースペースの外部からは見えないアドレスに、探索不能の異世界を造っている。蘇芳教授が接触したといっても、それはフォレスターの無限に存在するコピーのひとつでしかなく、居場所は特定できなかった。
『? そうですか? まあいいでしょう。それで、彼は何と』
「昔話をしたまでですよ。ああ、それとロイの階層跳躍を発動しないようにしてもらいました。取引をして」
フォレスターとの交渉の末、ロイのプログラムの中の階層跳躍のコードにプロテクトを施してもらったのだ。
蘇芳教授が梃子摺っていた部分だった。
以後、自らプロテクトを外さない限りは、ロイは階層跳躍は使えない。彼はネットワーク全体を脅かす危険なプログラムではなくなったということだ。27管区から外には出られない……少なくとも、表向きには。
「これからも安心して運用して欲しいから、とフォレスター教授は仰っていました」
現時点では過去100%、管区主神に反旗を翻してきた欠陥品といえばそうなのだが、蘇芳教授はそうは思わない。
むしろ彼の思考能力、認知能力が高度であるからこそ生じる、自我の問題なのだと認識している。
ロイの暴走を避けられる可能性があるというのなら、フォレスターを信用していなくとも、一時的に手を組みもする。
『なるほど。これからも、ですか。それは何より』
八雲は形だけは納得してみせた。歯に衣をきせまくった態度だ。
そんな彼に業を煮やした蘇芳教授は、思い切って踏み込んでみた。
「率直に聞きます。あなたはここに、というか日本アガルタに何をしにきたんですか?」
蘇芳教授の問いに、にこりと、それこそ少年のような邪気のない表情で八雲は微笑んだ。
『27管区の管理、運用のためにですが。と言っても納得してくださらないのです?』
「監視の間違いではなくて?」
『そうですね。監視もまた、プロジェクトマネージャーの任務のひとつでもあります。どうです? そのあたりのお話も含めて、今度、久しぶりの再会を祝して、お食事でも』
蘇芳教授がフォレスターと共謀して水面下で勝手な動きをしないよう、八雲は直接牽制をかけている。そしておそらくは、その動向を逐一把握しているとも言いたいのだろう。
「あいにく、本業で忙しくしておりますので。今月も学会や招待公演、学生の指導がたてこんでおります。また、機会があればですね。せっかくのお誘いですが」
蘇芳教授はさらりと受け流す。直接会ってたまるものですか、と内心で警戒しながら。
彼は目を見ただけで相手の考えをいとも簡単に見透かす。
原理は不明ながら、そういうデバイスを生体内に仕込んでいるとしか思えない。
ケネス・フォレスター。八雲 遼生。蘇芳 桐子。
彼らは自身の置かれた立場と、仮想死後世界に対する態度が、三者三様に違う。
ケネス・フォレスター。彼は既に死んでいる。
彼はその死と引き換えに、不確定性原理の極限を超越した未来予測による「外れない」未来視を手に入れ、仮想世界に住んでいる。ラプラスの悪魔を、彼は随えたと言われている。
八雲 遼生。彼は現実世界に生きているが、先天的にか後天的にか「既に人ではないもの」であり、その素性は知れない。
蘇芳 桐子。
彼女は生まれたままの肉体、紛れもない人間で、そして現実世界に生きている。
アガルタの全ての技術を現実世界に応用させようとしているのが、創立者のフォレスター教授。
その運用を警戒し、現実世界へのフィードバックを阻もうとしている……かに見えるのが八雲。
蘇芳教授は、永遠を生きる人々の心の休息所、そして精神医療のためにアガルタは必要であると考えている。
そして、R.O.Iに外の世界を見せてやりたいとは思うが、フォレスターの目的が見えないままフォレスターの方針に随うのは危険だと考えている。
R.O.Iを現実世界に出そうとしている。
などと八雲が知ったら、彼はその全権と、現実世界でも行使できる特殊能力を駆使して阻止を図るだろう。
三者ともが実は、相容れない立場にいる。
そして……DFH計画は、アガルタの技術を現実世界に出し、少数の”選ばれし”人類を超人化させることを目的としていた。
フォレスターと八雲は、「特異点の向こう側から戻ってきた」と言われた二人だ。
フォレスターが未来を演算した結果、どんな結論を得たのか、
八雲がフォレスターの何を危惧しているのか、人間の頭脳では想像が及ばない。
「アガルタ世界は、やはりあなたにとって悪しきものですか? 八雲先生」
蘇芳教授は、核心に迫る部分をあえて口頭で聞いてみた。
答えが返ってこないのは分かりきっているが、それでも何かしらの反応は得られるだろう。
『それは難しい質問です。私にとって、ではなく人類にとって、と言い換えることもできます。しかし、あなたには分かっているでしょう? このままでは人類は滅亡します』
脅しのようにも聞こえるが、八雲の真意は蘇芳教授には分からなかった。
「アガルタは死後福祉のために創設された死者のためのものであり、医療にも活用できる。メグのように、アガルタの恩恵に与った人もいます。現実世界に影響したり、現実世界を捻じ曲げてしまうものではないと私は確信しています」
『はっきり言っておきましょう。ケネスは実在人類には与していない、アガルタの医療利用、工学利用、そんなことも彼にとってはどうでもいい。それは口実に過ぎないのです。彼ははっきりと、”人類”の敵です』
何を言い出すのか。ばかげている、と蘇芳教授は呆れ顔だ。
「人類の敵ですか。なるほど。それを人間でないあなたが仰るのは、聊か滑稽に聞こえますがね」
『私は人ゲノムを持った、れっきとした人間ですが』
八雲はため息をつく。
そうは言っても、蘇芳教授には知られていることだった。
「失礼しました。ポストヒューマンと言うべきでしたね。そのあなたが、人類と立場を同一にしていると、そう仰るわけです?」
蘇芳教授は挑発とならないように、やや抑えた語調で訂正する。
『正しい未来とは、われわれの進むべき道はどこにあるのでしょうね』
八雲の言葉に、蘇芳教授は眉をひそめて腕組みをし、怪訝な表情になる。
それは……不確定原理によって、定まっているものではない。
『このままだと、何もないところに、誰もいない場所に向かっていくんですよ』
と、八雲は蘇芳の目を見て不穏な言葉を発した。まるでそこを、見てきたかのように。
『過去の一つ一つを検証して、取り戻していかなければならないんです』
「何を、仰っているのですか?」
話が突飛すぎて、蘇芳教授には微塵も理解できない。
『一体どこまでが、――正しかったのかを、ね』
とりとめもなく呟いた八雲の横顔には、疲労の色が濃く滲んで見えた。
肉体は老いなくとも、精神はこの現実世界でゆっくりと老いてゆくのだ。
蘇芳教授は恐ろしいものを見たような気がして、目を見張った。
それはアガルタで生きる人間の精神の行く末をも、暗示していた。
『ケネスのしようとしていることは、人類大虐殺と相違ありません。現在の世界情勢で、次の段階を急ぐことは危険です』
「八雲先生……私には、あなたの仰ることが何ひとつも理解できません」
蘇芳教授は何かを言いかけようとしたが、八雲の顔に一瞬落ちた陰はなくなった。
蘇芳教授の心配を遮るように八雲は力なく微笑んで、
『そうですね。また定期報告を致しますので、スオウシリーズのサポートをよろしくお願いします、蘇芳教授』
「ご苦労様です、八雲先生。報告ありがとうございました」
両者とも腹に一物ありげな、しかし表面上は穏やかな笑顔で通信を切った。
「Zero G Force-field close, ROOM SHUT DOWN」
(ゼロG作用場、展開終了)
フツン、とAR-VR両界接続が切断される。
イスティナもろとも、情報の幻影は消滅。
オペレーションフィールドの白石の床をヒールで踏みしめ、教授は研究棟の廊下に出た。
八雲という、アガルタを危ぶむ異分子の存在は確実に、アガルタ世界の存続に係わる問題に発展するだろう。
蘇芳教授の頭痛の種が増えた。
”Once we accept our limits, we go beyond them.”
(限界を知ったならば、私たちはその向こう側へゆく)
アインシュタインの言葉でもあるのだが、ケネスの座右の銘でもある。
彼らは行ってしまったのだ。
光の速さで走り去る、列車に飛び乗って。
人間の、その先へと。
それを、危ぶみすらしなかった。その先に何があったのか、八雲は知っている。
「私は恐るべき無知を暴露していた……」
蘇芳教授は立ち止まった。
――私たちの灯した小さな科学の炎は、
やがて誰にも手のつけられないほどの大火となって、私たちを焼き尽くすのだろうか?




