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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

増える

作者: quiet

 日付の変わるまでに職場を後にすることはどうやらできそうにない、と悟った私は社内食堂に足を踏み入れた。胃は相変わらず冷たい痛みを訴えている。メニューに流動食が追加される日を私は心待ちにしている。


 不健康を思わせる白色の蛍光灯がちらついていた。ここに来るたび、かつて地元に存在した、空きテナントだらけのショッピングモールを思い出す。一つだけ残っていた全国チェーンのファミリーレストランに家族とよく行った。隣接したトイレに固形石鹸が置かれていたことを覚えている。現存しているかは知らない。


 人は少ない。ある程度夜が更けると、この会社では時間外労働と休憩時間の境界線が曖昧になる。いつ休んでも、いつ食事を摂っても、いつ眠ってもいい。ただし仕事が終わるまでは帰れない。対価は規定額に達するとそれ以上は発生しなくなる。だから夜の社食は一気に混雑したりはしない。営業時間は夜の七時から十時までだ。


 券売機の前に立ち、しばし睨みつける。『わかめうどん 小』。煙草臭い店員に食券を渡すと、「あいよ」の声から数分経って、湯気だった椀を渡される。箸を取り、レンゲを取り、七味はかけなかった。


 盆を片手に席を見回すと、知った顔を見つけた。オーバーサイズの真っ白なワイシャツでカレーうどんを啜る眼鏡の人物。数年前と変わらぬ姿は、入社当初に隣席に座っていた先輩だった。


 ちかっ、と目が合うとうどんを啜りながらこっちに「おーい」と手を振ってきた。私は一礼で答え、先輩の向かいの席に陣取った。


「どうも。お久しぶりです」

「んす。残業?」


 はい、と答えうどんに箸をつけようとしたところで、お茶を取り忘れたことに気付く。迷って、しかし箸を置いて給水機に向かった。その短い距離の中で、一体これが何日目の残業なのかを数えようとして、数え切らないうちに再び席に着いた。


「先輩も残業ですか」

「そうだよ。はは、終わんねー」


 心底投げやりな態度で先輩は言った。気持ちはわかる。終わらないボランティア。どうしようもない話なのだ。

 日中の仕事は、やった分の対価が金銭的に発生する、いわば文明的な活動なのだけれど、この時間の作業は日中に私たちが掲げる身分を維持するための生存活動なのだ。私たちに選択の余地はない。生きることは険しいことで、それを恨むならとするならさらに何もかもを抽象的に恨む必要がある。


「ま、いいけどね。俺もうすぐやめるし。次の人カワイソー」

「え?」


 寝耳に水だった。


「先輩、退職するんですか」

「うん。死にたくないし」


 まあ人はいつか死ぬんだけど、と啜った先輩の眼鏡にカレーの汁が飛んだ。気付いたようだったが、拭わなかった。この人は疲れているのだな、と思う。


「はあ、また、それは……」


 急ですね、と言いかけて、それほど自分がこの人のことを知らないことに気が付き、思いとどまる。


「……おめでとうございます」

「うーむうむ。ま、君もさっさとやめるといい。こんなとこにいると死ぬよ」

「今時どこ行ったって死ぬでしょう」

「そうでもないんじゃないかなあ。今はほら、景気も良いって言うし。気持ちはわかるけどね」


 先輩の言うことはもっともだ、と思う。

 今時ちょっと頑張ればもっと良い環境に行ける機会だってあるんだろう。


 ただ、そういう思い切りが私にはないから難しい、というだけで。


 ずぞっ、とうどんをすする。わかめよりも油揚げの方が多い。ネギが青臭い。

 ここのネギはいつだって青臭くて、よくもまあ先輩はあのカレーうどんが食べられるものだ、と思う。草の味のするカレーは壮絶な風味だったと記憶しているが。


 こっちん、こっちん、と古い時計が刻んでいるのを聞いていると、仕事に戻らなくてはならないな、という気持ちが強まってきて、胃が収縮するのを感じる。ああ面倒くさい。考えたくない。私も仕事を辞めたい。辞める気力がない。


「何か」

「ん」

「きっかけとかあったんですか?」


 私のうどんも、先輩のうどんも残り少ない。

 話は振ったが、おそらくもうそう長い時間にはならないだろう、と思いつつ聞いた。

 しかし。


「…………」

「?」


 何やら深刻な顔で先輩は手を止めた。じっとどんぶりに浮いた油を見つめている。それから、視線を動かさずに言う。


「変な話していい?」


 話を振ったのはこちらだ。ならばダメという道理もないだろう。


「どうぞ」


 と答えたが、先輩はすぐには話し出さなかった。

 くるくると、つゆをかき回して、それから心情を口の中で噛み砕くように、ようやく喋り出す。


「増えるんだよ」

「はい?」

「書類がさ、どんどん増えるんだよ」

「はあ……」


 それはそうなのでは?と思う。

 仕事をして書類が減っていくならどんどん楽になるだろうし、私たちもこんな時間まで残業する必要はない。ただどこかから誰かが仕事を持ってきて、どんどんやる端から未処理の書類が重なっていくものだから仕事というのは終わらないのだ。


「……いや、そういうことじゃないんだよね」


 しかし先輩は首を振る。


「誰かが増やしてるんじゃなくて、勝手に増えんの。あいつら自己増殖……っていうより、うーん、あーっと」


 言葉を選び、



「繁殖してんだよ。あいつら。紙同士がさ、つがいになって、繁殖してんの」



 ひどく真面目な顔で、先輩は言った。


「……頭大丈夫ですか」

「いや、たぶんあんまり大丈夫じゃない。だからこれは単なるつまんねえジョークの一種だと思って聞いてほしいんだけどさ、あいつら人の見えないところで繁殖してんだよ」


 先輩はそれから堰を切ったように、滑らかに口を回し始める。


「感じるんだよね。

 明らかにさ、あいつら生き物なんだよ。

 資料室に押し込めた書類ってさ、昼間は人がたくさんいてにぎやかだからあんまり気付かないんだけど、夜になるとわかるわけ。

 息してるんだよ。

 こっち見てんの。

 ほら、たとえばさ、今視界に虫が入るとするじゃん。それってたとえ動いてなくてもさ、生きてるか死んでるかは気配で何となくわかるでしょ。

 生きてるんだよ。

 生きてんの、あいつら。

 あいつら生きててさ、俺らの目があるときはじっと動きを止めてんの。

 でもどう見ても生きてんだよね。息してんのわかんだもん。

 あいつら息しててさ。

 見えないところでぬめぬめ変な分泌液出してさ。繁殖してるんだよ。

 粘液出してさ。

 透明な排泄物とかさ。

 そういうのが、一度気付くと、昼間にも気になってくるんだよ。

 増えてんの。

 あれは増やされてるんじゃなくてさ。

 増えてるんだよ。

 繁殖してさ。

 紙って肉食だと思う?

 虫って結構肉食だもんね。

 襲われたらさ、食われて死ぬなって。

 足元に置いた書類がさ、束になって、ぞわぞわかさかさ動きながら身体にたかってきてさ。

 全身跡形もなくなるまで内臓食い散らかされて、汚い体液インクみたいにどぼどぼ零して死ぬなって。

 思ったら、もうダメだよね」


 げほっ、と先輩が咳をした。

 むせたのか、と思うとそのまま続けて激しく咳き込んだ。


 げっほ、ごほと咳き込む先輩は、肺を裏返したように苦しそうな声を出していて。


「大丈夫ですか」


 私が立ち上がると、先輩が手で制する。それから苦し気に瞼を瞑ると、眼球の表面に湧いた涙が凝されて浮かぶ。ふー、と深呼吸を二回して。


「……帰るわ、俺」

「大丈夫ですか」

「いいや、知らね」


 盆を片手に、先輩は席を立った。


 私はそれからしばらく、『いいや、知らね』の意味を考えて、私の『大丈夫ですか』が、『仕事が終わっていないのに帰って大丈夫ですか』と解釈されたことに気付く。


 少し悲しくなり。

 先輩とは二度と会わなかった。



*



 それから半年して、人事異動があった。

 変わらず私の仕事は忙しい。むしろ以前よりも眠れる時間は少なくなった。日々の流れはシームレスで、先の見えない潜水のような時間が続いている。ときどき、何が理由でもなく居ても立っても居られなくなって、席を立つことがある。席を立った時間の分、家の鍵を開ける時間は遅くなった。


 積み重なっていく書類の山に、あの日の先輩を思い出した。そしてふと、何気なく上司に、前任がどんな人物だったのか尋ねた。するとよくよく見知った人間の名前が返ってきた。溜息すら出なかったのは、どこかで予感していたからなのかもしれない。


 息してるんだよ。


 そう言った先輩の気持ちは、すぐにわかるようになった。あるいはそれは、あらかじめ先輩の話を聞いていたことによる先入観が大きいのかもしれない。


 けれど、深夜の資料室には、明らかに私以外の、それも無数の気配を感じる。

 いっそ幽霊であれば可愛げもあろうに、と思う。きっとこの、永遠に終わらない昼と夜の繰り返しの、良き伴になってくれるに違いない。


 見られている。

 息している。

 生きている。


 書類に生理的な嫌悪感を覚えるまでにそう時間はかからなかった。

 虫でもつまむかのような私の手つきはすぐ同僚に指摘されるところとなったが、「資料室が汚く、そこにある書類にもあまり素手で触れたくない」と答えれば、潔癖の性質を隠れ蓑に、誤魔化すこともできた。


 しかし、増える、と。


 さらにその言葉を理解できるようになってしまったのには、本当に参ってしまった。

 夜な夜な、気色の悪い生き物の群れが、汚らわしい体液にまみれて繁殖を繰り返している。そうしたイメージがこびりついてしまうような速度で、書類は増えていく。


 ある日、ウェットティッシュで、書類をふやけるほどに磨いている自分に気が付いた。


 一瞬、戸惑って、それから。

 ああ、卵を取り除こうとしていたのだと、理解する。


 もう限界だ、と思う。

 それはもっと昔からそうだった。

 限界だ、と思いつつ環境を変える気力もない。このまま本当に気の狂うまで、自分のどうにもできない部分ですべてが終わるのを待ち続けている。


 資料室で、天井を見ていた。

 今この瞬間に隕石が落ちてこないだろうか、と思いながら。


 これは妄想なのだろうか。

 書類が勝手に増えているというのは私の妄想で、実際には単に私の精神がおかしくなっているだけなのだろうか。


 金が欲しい、と思う。

 宝くじを買いに行こうか、と思う。


 先輩のことを考えた。

 あの人はすごい。

 たとえその先に一切の希望がなかったとしても、人生において先の見えるという状況を、私は捨てることができない。


 金が欲しい。

 しかし金があったところで人はいずれ死ぬ。

 ならば今死ぬのとどう違うというのか。


「いや、やめろ」


 考えてはならない。

 深く考えることがもっとも良くないことだ。


 何か別のことをして気を紛らわすのが良い。仕事を……、仕事をしよう。できるだけ単純な作業が良い。この書類の束を片付けることにしよう。


 ああ、しかし。

 けれど。


 魔が差した。


 束を机の上に置いた。

 近場に置いていた定規でその厚みを測る。


 二十三センチ。


 鍵をかけて資料室を出た。

 トイレへ向かう。

 顔を洗った。死体みたいな顔色の人間が映っている。

 電気を消してトイレを出る。

 資料室に戻る。


 もう一度測った。

 二十六センチ。


 二十六センチ。


 私は先輩のことを考えた。

 そして、あの人は賢い人だった、としみじみ思い。


 財布に入った万札をすべて書類に挟み込み、今日は帰ることにした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読んでて引き込まれました 題材と話の滑り出しもすごいよかったです [気になる点] 特になし
[一言] ブラックな職場で疲弊した精神に気味の悪さを感じていましたが、 最後の増殖する紙の間に紙幣を挟むという表記があるだけでとても印象が変わりました。 なんだか檸檬を思い浮かびました。 毎度思います…
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