「ところで聡美さん、辛い食べ物は大丈夫?」
「大好きでーす」と手を挙げながら聡美は言った。
「そりゃ良かった。辛いものがダメだと、韓国の食事は苦痛かも知れないからね」
そう言うと義男は韓国語で店員を呼び、注文を始めた。僕には一言も理解できない言葉をあやつる横顔には深い皺が刻まれていた。
「ふつう焼き肉って訳してるけど、このプルゴギは日本のいわゆる焼き肉とはかなり違いますよ。むしろ日本のスキ焼きに近いんじゃないかな」
「そうなんですか?」
「ほら、あそこでやってるでしょう? ああいう風に、鍋の上の肉汁やタレで野菜も一緒に煮込んでいくの」
店員が二人でやって来てその焼き肉用具一式を僕らの目の前に置いた。
「聡美さんは、韓国は初めてだよね?」
「はい」
「十年前かな、健児と最後に会ったのもソウルだったんだ」
「話は少しだけ聞いてます」
「あ、そうか、すまん」
義男は気付き、申し訳なさそうに謝ってみせた。
「いいよ。知った上でつき合ってるんだから。気を遣われるとこっちが困る」
義男を庇い、庇いながら、こいつがこういう気遣いの出来る男になったのか、と、僕は少し驚いていた。人の上に流れた十年という歳月への驚きだった。
生ビールで乾杯すると、義男は中ジョッキの半分ほどを一気に飲んだ。
「いけますねぇ」と聡美は義男に、若い女性がオジサンをからかう口調で言った。
「もちろん! 今日飲まずにどうします?」と、義男はそのからかいをも喜んでいるような口調で返した。
「普段から飲んでるんだろ?」
「普段の酒とは違いますよ。日本から十年ぶりに旧友が来て、奢ってくれるとおっしゃる。その酒を飲まずにいられますか?」
義男はビールの残りを一気に飲み干した。
そして空のジョッキを、コトリ、と小さな音を立ててテーブルに置き、韓国語で店員に何か言った。ビールを追加したらしかった。
「日本は、どう?」とビールを待ちながら義男は言った。
「相変わらず、かな」
「相変わらず、ですか。相変わらず、お前は何を言ってるのかわからんよ……おお、肉はもういいぞ、こうやって……」
義男は「チシャの葉」「エゴマの葉」と名前を挙げながらテーブルに置かれた生野菜の葉を取り、葉の上に煮えた肉切れを乗せ、その上に調味料をさらに乗せ、丸めて口に放り込んだ。聡美も僕も同じようにした。
「美味しいでしょ?」
聡美は大きく頷き、口を隠しながら「すごく美味しいです、本当に」
その素直な表情と屈託のない雰囲気に、改めて優香との違いを感じたのだろう、義男は新しいジョッキを軽く差し上げて乾杯を真似、目で僕を祝福してくれた。優香と別れて三年、歳月は義男の上にも僕の上にも平等に流れていた。
*
「明日の案内、石川さんにお願いしてるの?」
焼き肉屋を出て義男と別れ、帰ってきたホテルの部屋で聡美は言った。
「うん。義男ってちょっと癖があるけど、いい奴だろ?」
「そう思う。すごくいい人だと思う。けど……」
「けど?」
「私はちょっと」
と聡美は言い、
「シャワー浴びる」
と、クルリとバスルームへ消えた。
*
優香と別れて三人目の女だった。他の二人と違って、聡美には、僕との年齢差を感じさせない大人びた部分があり、しかも希有なことに、その大人びた部分を隠しておく聡明さも持ち合わせていた。
そして僕はその聡明さを恐れていた。聡美がどんな気持ちで十三も年上の男とつき合っているのかわからなかったし、前の結婚のことをあまり聞かないのも、逆に気持ちの上での負担になっていたのだった。再婚するとしたら聡美しかいない、と思いながら、まあ焦ることもない、なるようになるだろう、と、中年の分別で、聡美の気持ちに対して受け身でいるよう心がけていた。そして心がけていたら、聡美が、ソウル旅行を懸賞で当て、一緒に行こうと言い出した。聡美は親に友人らとの団体旅行だと嘘をつき、こうして初めて僕らは二人で旅行に出たのだった。
実は優香との新婚旅行もソウルだった。そのことは旅行の計画の時に話したのだが、聡美は、前の結婚の話を聞くときいつもするように、それは情報として聞いてはおくけれど基本的に自分とは何の関係もない、というようなことを言った。そう、確かに、基本的に、聡美とは何の関係もないことなのだ。
けれど、前の結婚の新婚旅行の案内人だった男に、今回もまた案内を頼んだことは聡美の心を若干ざらつかせたに違いなかった。
*
「あなたのお友達なのに悪いけど、ごめんなさい、私、あの人、怖い」と聡美は電気を消したあとの枕語りで言った。
「怖い?」
「うん」
「怖くはないよ。政治だって、もうとっくに辞めてるんだし、俺と同じ、ただの、いい歳した独身のオッサンだよ」
「政治だとか、そういうんじゃないの。もっと気持ちの問題って言うか、そう、心理的な、内面的な問題だと思うの」
「屈折してるってことか?」
「屈折だけなら、怖くないと思う。それより、あの人、私と同じような人なのかもしれない」
「立場はまるで違うと思うけど、気質は、確かにね、近いかもしれないよ」
「でしょう? だから怖いの」
「困ったな。明日の案内、どうする?」
「別に断るほどじゃないから、いい。あの人のこと、あなたに聞かれたから、ちょっと正直に言っただけだから。誤解しないで欲しいんだけど、別に嫌いじゃないのよ。あなたが言うように、いい人だとは思うから」
「いい人よ、だけど……か」
「そういうのとも違う。何か、違うのよね。なんだろう」
「いいよ、無理に考えなくても。ただのガイドだと思えばいいんだし」
「思えないよ。言ったでしょ、私に似てるのよ。だから、うん、なんて言ったらいいのか」
「心を見透かされそうか?」
「もう見透かされてるとは思うの」
「そこまでの男じゃないよ」
「あの人、昔から、あんな雰囲気だったの?」
「だいぶ変わったね。昔はもっとまっすぐな政治青年だった。挫折もあったんだろうな。あれじゃ、昔なら転向って言われただろうね」
「あなたも昔、政治青年だったんでしょ?」
「俺は」と僕は軽く笑った。「昔から醒めてたと思うよ。どっちつかずさ。だからいつも責められてた。いったいどっちにつくんだって。コウモリみたいな奴だって。スパイかってね」
「あなたも昔は色々あったのね」
「若い人にはわからんだろうな」
「あ、何、その言い方? ナマイキィ」
「オジサンってのはナマイキなんだよ」
「開き直ったなぁ!」
聡美が抱きついてきていつものように僕の首筋を激しく舐め、二人の心に空いた隙間を体で埋め合わせようと合図してきた。聡美との間では、和解の儀式がまだ儀式としての力を十分持っていた。
*
十年前、店の韓国人たちとケンカしながら『俺は日本帝国主義打倒のためにここにいるんだ、日帝打倒の日まで、石にかじりついてもここにいる』などと酔っぱらってわめき、優香の顰蹙を買った義男と、今回同じソウルで再会した義男とはまるで別人だった。
「変わったか? 確かにね。否定はしないよ」
「変われるだけましだよ。俺の親父のような人生もあるからな」
「そうだったな」と義男は言い、「親父さん、気の毒だったな」と付け加えた。
「気の毒も何も」と僕は言った。「変われないってのはどうしようもないから。でも最期はさすがに哀れだったよ。ボケが進んで来て、自分が何年も前に除名されてることも忘れて、今も党の地区委員長でいるような口調で指令のことを話すようになったんだ。もともと脳梗塞で倒れたのも除名事件のストレスだろうし、親父は、政治に関わって、政治に捨てられて、何もいいことはなかったんじゃないか」
「本当にそう思うのか?」
「適当な次期に辞めていればまだ、よかったんだ。辞める時期を逸したのはまずかった、とは思うよ」
「俺は」と義男は静かに言った。「お前の親父さんを尊敬してたよ。戦前からの非転向だろう? 四十五年の十月まで治安維持法でぶち込まれてたってのは、勲章だと思ってたよ」
「親父にはその勲章は重すぎて、もう首を上げることもできなかったのさ。回りも、前も、何も見えなくなってしまってたんだ。知ってるか? 年金も無かったんだよ。自分が六十になるころには社会の生産力が上がって社会主義革命は成就しているはずだから、年金も何も必要ないって、若い頃から払ってなかったんだ。……ところで義男は親父さんには会えた?」
「五年前に会ったよ。死ぬ直前に」
「よかったな、それは」
「うん。神社の禰宜って言ったって、最期は普通の人間さ。気弱になって、交通費を送ってきたよ。もう良いだろう親父を許してやってくれって、お袋が電話してきてね。帰ってみたら、親父、小さくなってて、手なんかもう、ミイラだよ。親父とケンカして大学やめてから十五年ぶりの再会で、お袋も、親父も、俺も、泣いた。結局、死に目には会えなかったけど、最期に会えて良かった……ごめんごめん、湿っぽくなりましたね」と義男は聡美に気を使って言った。
「いいえ、気にしないでくださいね。お二人とも十年ぶりなんですから、積もる話もあるんでしょう?」
「まあ、あると言えばある、ないと言えばないな」と僕は言った。
「変なの」
「聡美さん、男同士なんて、こんなもんですよ。話題も無いのに、会わなきゃならない、会ってしまえば話題を探さなきゃならない、いちばん無難なのは互いの肉親の消息ですよ。死んでしまった人間は、もう直接には人を傷つけることはないですからね」
「直接には、ですか?」
「まあそうですね。死人が起きてきて人をぶん殴る訳じゃない」
「でも、死人の名を借りて、生きてる人が、生きてる人を、ぶん殴ったりしますよね」
「うーん、聡美さんは聡明ですね。いつもこうなんですか?」
「えぇ?」と聡美は首を傾げ、子供のような仕草でとぼけて見せた。自分の鋭さを見破られそうになったとき、聡美がいつもとる戦術だった。
十年前の義男なら、ここできっと『バカの振りはやめろよ』などと、聡美を追い込んだに違いなかった。ところが今回の義男は軽く笑むだけで何も言わず、ただ焼酎の杯を干すのだった。
「石川さん、おつぎしましょうか」
「とんでもない。ここは、女性がお酌しちゃだめな国なんです」
「儒教ですか?」
「儒教? 聡美さん、やはりあなたは賢い人だと見た」
「いいえ、そんな。本にそう書いてたんで、言ってみただけです」
「僕はね」と義男は手酌で焼酎をつぎながら言った。「何でも儒教にせいにするのはよくないと思うんですよ」
「はい」と聡美は言った。興味ありげな返事を装いながら、実際は『拙いことを言った』と思っていることは明白な表情だった。それに気付いた義男は、僕の方を向いて話を続けた。
「儒教儒教って言うけど、日本だって、中国だって、ベトナムだって、南の方の華僑国家だって、漢字文化圏はみんな多かれ少なかれ儒教の影響を受けてますよ。韓国だけじゃない」
「でも、韓国ほど純化された儒教じゃないだろ」と僕は言った。
「だから、そこが問題なんだ。なぜ韓国ではこれほど純化されてしまったのかってことだ。簡単だよ。儒教が好きだったからさ。空理空論が大好きな国民性、これに尽きるね。自分たちが好んで受け入れて、さらに純化して、自分たちの生活をがんじがらめに縛り上げてしまったくせに、なにかあればなんでも外来の儒教のせいにする。じゃあ儒教が嫌いかっていったら、そんなことはないんだよ。とりあえず儒教っていう外来の宗教のせいにして、自分たちを守ってるんだ」
「何から守るんですか?」と聡美は言った。笑顔だったが、さっきの躊躇を振り切って本気で議論しようとしていることの明白な口調だった。
「何からだろう?」と今度は義男が外した。
「日本から、ですか?」
「おい、健児」と義男は笑いながら僕に言った。「こんな賢い女性をどこで見つけてきたんだ?」
「日本で、だよ」
それを聞くと、義男は手を打ち合わせて笑った。
「聡美さん、あなたの言うとおりさ。日本にいちゃ解らないだろうが、韓国での日本のプレゼンスってのは圧倒的なんだ。ほっとけば韓国は日本になってしまうんじゃないかって、みんな本気で心配してるよ。日本文化の段階的開放だって、なんで段階をつけなきゃならないか、日本にいたら理解不能だと思うよ」
「解らないです」
「日本で、たとえば政治家が、アメリカ映画の規制をするなんて言い出して、それを大衆が一定程度支持するなんて考えられないでしょう?」
「やっぱり植民地だったことが……」
「公式にはそうでしょうね。日本を嫌ってみせることが、この国では政治的に正しい態度なんですよ。無条件で『正しい』んじゃないですよ、政治的に正しいんです」
「政治的?」
「今日、明洞を歩いたでしょう? 日本人いらっしゃいの日本語だらけだったんじゃないですか? 本屋さんに行ってごらんなさいよ、日本論のコーナーがあったりして、いい加減な本が結構な部数売れてますから。だから、本音では憧れてて、でも口に出すときには警戒感をもって話さなきゃならない国なんですよ、この国における日本ってのは」
「それが政治的って意味?」
「そうです。ま、この国の出生の秘密に関わる問題ですからね」
義男は僕の方を見て、こんな硬い話題をすまないな、と目で伝えてきた。けれど聡美の方が続けた。
「日本からの独立が独力では出来なかったってことですね」
「そうです。それがもう、国家としての、民族としてのトラウマになってしまってるんですよ。トラウマを乗り越えるために、自分たちがいかに植民地支配に抵抗したかって国造りのドラマを語り続けなきゃならないんです」
「それが政治的って意味ですか」
「そうです」と、義男は軽く言った。そして、もう聡美の言うことに『驚いた』というような芝居はせず、堰を切ったように韓国と日本のことを話し始めた。この男のこんな話を、聡美はどんな気持ちで聞いているんだろう、と僕は少し気になっていた。
*
在日韓国人と言っても、聡美の場合、立場が極端に微妙だった。母親は日本人で、在日の父親は聡美が二つの頃に事故死した。そして母親が再婚した相手は日本人、当然弟二人も日本人となった。小学生の頃、自分だけが韓国人であることを聞かされたとき、その意味が最初わからなかった。今そこにいる父親が本当の父親だと思いこんでいたし、国籍の話など理解できる歳ではなかった。もちろん、韓国人である意識などかけらもなかった。だから逆に、韓国籍であることをあまり人に言うな、と母親に言われたときもその意味さえ理解できなかった。理解できないなりに、自分は何か違うんだと、それだけは理解していた。
……中学に入ったとき、そこの学校に、いわゆる民族教育に熱心な先生がいてね、私が韓国籍だって知って、本名を名乗る気はないかって聞いてきたの。「本名?」って思った。私の本名は「山本聡美」でしょう。他に何があるのって。外国人登録証に載ってる「呉」ですか? あれは、何か、間違えて掛けられた表札みたいなもので、私とは何の関係もありません、そのうち帰化して取り替えますって、そんな風に言ったと思うの。それで本名宣言はまあ棚上げになって、地域の民族教室に連れて行かれたの。太鼓や踊りなんか教えてる場所で、そこで、みんなが太鼓とか習ってるのを見てたんだけど、応接室みたいなところで先生とそこの人たちが話し合ってるのが聞こえてくるのね。そのうちの一人が、物凄い口調で反対してるのよ。「アイノコ」って聞こえてね。最初、「愛の子」かと思って、何を言ってるんだろうって、それで耳を澄ましたら、純粋な朝鮮人じゃないって意味の「合の子」だって解って、初めて自分の立場が理解できた。先生には悪かったけど、気分が悪くなってそのまま黙って帰っちゃった。朝鮮人から見たら自分は日本人との「合の子」なんだってわかって、家に帰ってからも胸が苦しくて、いろんな感情が湧いてきて、泣きたくて泣けなかった。その日の夜、先生から電話があったけど、出なかった。次の日、どうするって聞かれたけど、「私アイノコですから」って断った。それでもう、その先生とのつきあいも切れたわ。向こうからは何も言ってこなかった。安心したんじゃない? しょせんあの先生もちゃんとした日本人なのよ。そんなものよ。……
*
ソウル二日目の朝、ホテルのエレベーターホールから出て、義男の姿を見つけると、聡美は知り合いに会うときいつもするように、
「おはようございまーす」と透明な明るい声で挨拶した。
義男は早足で歩み寄ってきて、
「夕べはすみませんでした」と聡美に頭を下げた。
「なにがですか?」
「色々と議論をふっかけて、一人でしゃべりまくってしまって」
「そんなぁ、楽しかったですよ。ああいう話、他ではあまり聞けませんから。石川さん、気にしないで下さいね」
「そうだよ。マズくなってきたら俺が止めるから、大丈夫だよ。それに、義男が思ってるような女じゃないよ、こいつは」
「あ、ひどーい」と聡美はふくれてみせた。
「ちょっと安心しました」と義男は言った。「あんな風に議論をふっかけて、これまで何人の友達を無くしたことか。聡美さんは大丈夫だと思ったんだけど、いちおう謝っておこうと思ったんだ」
「その言い方も、なんかヘンです!」
「まあ、オジサンをあまりいじめるなよ」と僕は言った。
「そうだよ。これで結構傷つきやすいんだから」
「そんな、見えなーい!」と聡美は軽薄そうに言った。
「ま、行きましょうか」と義男は聡美のその口調が少し不愉快だったらしく、ややぶっきらぼうに言った。「定番の観光スポットだけど、外せないところだからね」
*
地下鉄から降りて景福宮に入ると、義男は振り返りながら、
「前に来たときより、空が広くなったと感じないか?」
「前は、ほら、ここに博物館があったろ?」と僕は言った。「たしか朝鮮総督府だったとかいう」
「もう何年も前に取り壊されちゃったんですよね」と聡美。
「そうです、こっちの人にとっては、あれこそ植民地支配の象徴ですからね」
「私、一度見てみたかったな」
「なかなか壮観でしたよ。王宮の敷地の中にいきなりあんな近代的な建物を建てたんだから、当時の人は本当にたまげたろうね」
「たまげたどころか、抵抗する気力を無くしたんじゃないですか?」
「基本的にはそうだと思いますよ。この国の公的な歴史観とは違いますけど、あんなものを宮殿の中に建てられちゃ、誰だって、もうお終いだって思いますよ」
「おい」と僕は少し心配になって言った。「そんなこと、大声で言って大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。十年前とは違う」と義男は僕の方を振り返りながら言った。
*
十年前、優香と三人で飲みに行った三夜、すべて無事では済まなかった。最初の夜は屋台で(義男によれば)「日本人がこんなところに何をしに来たのか」と絡まれ、這々の体で逃げ出した。二日目の夜は隣の席で飲んでいた男がいきなりゴミ箱を蹴り飛ばして、(義男によれば)「日本語が聞こえるような店で酒が飲めるか!」と、僕らに向かって叫び散らし、喚き散らし、義男の抗議にも関わらず、店主に追い出されたのはこっちだった。まだ二十四だった優香は、可哀想に、二日続きの事件に恐れをなして、ホテルに戻ってから、もうこんなところ嫌だ、と泣いた。
「これが私たちの新婚旅行なの!」
返す言葉もなかった。
*
「十年前ね、あれで義男とつれとは決定的に決裂しちゃったからね」
「何があったの?」
「筆舌に尽くし難し、だね」
「おい、もういじめないでくれよ。十分反省したんだから」
「で、何があったの? 教えて」
「僕が子供だったんですよ」と義男は言った。いつのまにか義男と聡美が並んで歩き、僕はその後ろからついていくという格好になっていた。「あの時、健児たちは三泊したんですけど、最後の夜に僕が大失敗しましてね」
「最後の夜だけか?」
「前の二夜は向こうから絡まれたんだから、俺のせいじゃないよ」
「そりゃそうだ、すまん」
「じゃあ最後の夜は石川さんが絡んだんですね?」
「ご明察。それもいちばんやっちゃいけない絡み方で絡んだんですよ。わかります?」
「日本人のくせに韓国人に向かって偉そうに説教したとか?」
「聡美さん、ご明察も程が過ぎると嫌みですよ。でも、実はその通りなんです。僕らの隣の席で、若者がタバコを吸ってたんですよ」
「儒教の国なのに?」
「そうですよ! そうでしょう? 黙ってはおれないでしょう。僕らは誰もタバコ吸わないし、あんまり煙いんで、言ってやったんですよ。タバコはやめてくれって」
「やめました?」
「とんでもない。まだスパスパ吸い続けてるんです」
「あの時点で」と僕は口を挟んだ。「話の通じる相手じゃないってわかったんだから、もう店を替えればよかったんだ」
「今ならそうするよ。でもあの時はそうはいかなくてね、『君たち韓国人は礼儀を忘れたのか』って、言っちゃったんだ」
「すごいことを言いましたね」
「それを聞いて」と僕はまた口を挟んだ。義男と聡美がどんどん接近していくのが僕にはあまり面白くなかった。「店中が騒然となったよ。こっちはもう、何を言ってるのか、何が争点になってるのかわからないし、つれは泣き出すし、死ぬ思いだったよ」
「俺はそんな死ぬ思いをこっちでずっと続けてるんだ」
義男はボソリと言った。
もう勤政殿の入り口に着いていた。
*
義男に先導され勤政殿の石段の上に立つと、聡美は両手を広げながら、
「空があおーい」と言った。「天気もいいし、寒くもないし、来てよかったぁ」
「そりゃよかった。韓国、好きになれそうですか?」と義男は言った。
「好きって、どういうことですか?」
聡美は義男の方を見もせずに、張り付けたような笑顔のまま言った。
義男は黙り込んだ。
「石川さんは」と聡美は義男の方を向き直って言った。「日本が好きですか?」
義男はまだ黙っていた。
「私は大好きですよ、日本」と聡美は言った。
「そうですか。幸せなんですね、聡美さんは」
「石川さんは不幸なんですか?」
「それも難しい質問ですよ。まあ、そうですね、一つの国を好きになれそうかなんて、軽々しく聞くんじゃなかった。さっきの質問は撤回します」
「別に撤回しなくてもいいですよ」
「いいえ。断固撤回させてください」
「こわーい」と聡美はふざけて言った。
「次、行きましょうか」と義男は聡美と目を合わさずに言った。
聡美が僕以外の男とふざけながらもここまで真面目に話しているのを初めて見て、僕の漠然とした面白くない気分は、しっかりした嫉妬へと変わった。
見上げれば、勤政殿の屋根の上は、十年前の記憶と同じ、ポスターのような青空だった。あの時も義男が僕らを先導し、新婚だった僕らは何かつまらないことで諍いながらこの石段を登り、そしてその諍いはこの短い石段を登りきっただけで跡形もなく消え去っていた。
『お前ら仲がいいな、本当にうらやましいよ』
若かった義男に言われ、何を当然なことを、と優香と二人顔を見合わせたのが、まるで昨日のことのようだった。
*
優香と結婚する前に友人と始めた小さな会社は滑り出しこそ順調だったものの、数年もしないうちに、いつのまにか、取引先に支払い期限のことで頭を下げてまわるのが社長である僕の仕事となっていた。渦中にいる人間には見えてはいなかったが、バブルはしっかりとはじけていたのだった。養殖した苔を庭付きマンション向けに流していた僕らの会社はバブル崩壊のあおりをもろに受け、資金繰りは悪化し、定期も取り崩し、ひどいときは従業員への給与の支払いも危うくなって僕は金策で一月も家に帰れず会社での仮眠がやっとの状態、という時期もあった。ところが僕がそんな生活に落ち込んでいても優香は決して浪費をやめることはなかったし、ついには、自分の親に頼めば打ち出の小槌のように溢れ出てくる十万二十万の小銭のためにいつも頭を下げている僕のことを露骨に軽蔑し始めた。
もともとお嬢様だった優香が愛していたのは颯爽とした青年実業家であり、求めていたのはその奥様という地位でしかなかったのだろう。娘が出来てからずっと入り浸っていた実家へとついに帰ったきりになり、家内は荒れ、もはや関係は修復不可能と思われ、思われた頃に僕はバイトの女性と関係を持った。その情報は興信所経由で優香の実家へともたらされ、離婚と、娘の養育費はともかく、当時の僕には払えるはずのない莫大な慰謝料を求められた。それから正式に離婚が成立するまでの二年間、単に優香のプライドを満たすためでしかない慰謝料のために、僕は胃潰瘍で二回、急性腎不全で一回入院しながら、社長みずから土をいじって苔を植えつつ死ぬような思いで働いたのだった。
そうやって貯めた金に自宅を売り払った金、そして借金を足して、求められた額を銀行に振り込み、正式に離婚するために喫茶店で会った優香は、いきなり、
『やっぱりハゲたわね、あなた』と言った。
ハゲだけは絶対にイヤ、と若い頃から言っていた女だった。こんな女に振り回されたのか、と自分に対して怒り、そしてアパートに戻って鏡を見れば、ズタボロに疲れ果てたオッサンが悲しさに引きつった笑みを浮かべているのだった。洗っても落ちぬ黒い網のような細かいひび割れに包まれた手で、情けなくも悔し涙を拭いつつ、結婚など二度とゴメンだと思った。
*
「石川さんは、女が嫌いな人なんですか?」
昼食で入った蔘鶏湯屋で聡美はいきなり言った。こういういきなりな質問は聡美が気を本当に許している証拠だった。聡美は気に入った相手にはちょっと反発してみせるところがあり、ゆうべの『私はちょっと』もその入り口だったのだろう。それに気づいてしまうと、昨夜、聡美の言うことを真面目に受け取ってしまった自分が道化じみて感じられ、嫉妬がいや増すのだった。
「はは、どうしてです?」と無理に作った笑いに被せて義男は言った。
「その歳まで独身だなんて」
「聡美さんでもそういうことを聞くんですね」
「はい。聞いちゃいけませんか?」
「いけません」
「なおさら聞きたくなりました」
「で、聞いてどうするんです?」
「健児さんから乗り換えるかどうか、決めるんです」
「おいおい」と僕は堪らず言った。「義男が本気にしたらどうするんだ。聡美の過激な冗談が通じる人間ばっかりじゃないんだからな」
「冗談だと思うの?」と聡美は僕を見た。目は真剣そうだった。僕は絶句するしかなかった。
「冗談よ、もちろん」と聡美は笑って言った。
「残念だな」と義男は言った。「聡美さんみたいな女性となら、僕も結婚できたかもしれない」
「まだ遅くないでしょう」
「遅くはないけど、まだ時期じゃないってところかな」
「上手い言い回しですねえ。私もそれ、これから使おうかなあ」
「こっちでの出会いなんかはなかったのか」と僕は口を挟んだ。
「あったよ。何度も。でも、結婚と恋愛とは違うんだよ。そうだろ、健児」
「バツイチ中年男の経験上、違うと言えるね。恋愛は自由、結婚は束縛、なんて月並みなことを言う訳じゃないが、まるで正反対だと思ってもいい」
「そういうことですよ、聡美さん」
「でも、それは、健児さんは結婚してみてたどり着いた結論ですよね。石川さんは、まだ結婚なさってませんよね?」
「もう、そんなことより蔘鶏湯を食べましょうよ。この店はまだ日本人に汚染されてないから、本当に美味いんですよ」
そういうと義男は小皿に取った鶏肉に粒の荒い塩を振りかけた。
「最近じゃ、日本人観光客が蔘鶏湯屋に入るようになって、どこも味が落ちてね。日本人が面倒がるんだろうけど、最初から塩味をつける店が増えてるんだ。でもそれじゃ蔘鶏湯じゃないよ。ごく薄い味の鶏に、粗塩をこうやって振りかけて……」
「これ美味しい」と義男をさえぎって聡美は言った。「こんなの食べたことない」
「蔘鶏湯は始めてですか?」
「日本でも食べましたけど、スープがこんなに濃くはなかった。これ、あっさりしてるのに、どうしてこんなに美味しいの」
「でしょう? これは鶏が違うんですよ。この鶏は、骨がね、黒いんですよ」
「烏骨鶏、ですか?」
「ご明察。だから、これも正確には蔘鶏湯じゃなくて、蔘烏骨鶏湯って言うんです」
「日本にも、これ、あるのか?」と僕は言った。
「あるだろうけど、めちゃくちゃな値段がすると思うよ。これだって、こっちの物価水準で考えたら結構高いんだから」
「私、これ気に入ったなあ」
「こっちに住めば毎週でも食べられますよ」
「あ、それは御免です」と聡美は笑った。「私は日本が好きなんです」
「あんな国がですか」
「ええ、大好きですよ」
義男は舌打ちこそしなかったが、露骨に嫌な顔をして蔘鶏湯にかえった。
僕らはしばらくの間、黙って蔘鶏湯を食べ続けた。蔘鶏湯は美味かったが骨が多くて面倒で口をきけなかったのと、それ以上に、聡美の何度もの「日本が好き」発言が義男のプライドのようなものを傷つけたらしい雰囲気が伝わってきて、誰にも言葉の接ぎ穂が見つからなかったのだった。
*
「石川さんは」と、蔘鶏湯をあらかた食べ終わり、黒い骨に残った肉をしゃぶり取りながら聡美は言った。「どうして韓国にいるんですか?」
「日本が嫌いだからです」
「でも、だったら、アメリカでも中国でもよかったんじゃないですか?」
「そうですよ。中国でもどこでもよかったんです」
「だったら、なんで韓国にいるんですか?」
「なんでだろうな」と義男は外した。
「女だよ」と僕は言った。「韓国に行けって言った女がいたんだ」
「バラすなよ」と義男は無理な笑いを作った。「女一人の言葉に惑わされて、大陸浪人のまねごとだよ。若かったとしか言いようがないね」
「その人とは別れたんですか?」
「別れてから、こっちに来たんだ」
「どういうことですか?」
「学生時代から一緒のセクトの仲間でね。『日本帝国主義打倒とか言ってるくせに、あなたは日本のことを何も知らない。韓国にでも行って、日本を外から眺めてきなさい』って、これが別れ際の言葉だったんだ。バカだね、韓国に行けば、またあの女が俺のところに戻ってきてくれるような気がしてたんだ」
「で、その人は?」
「すぐに結婚したよ。フツーの男とね」
「さびしすぎる」
「でしょ?」
「でも、それから何年経つんです? 来た理由はわかりましたけど、居続ける理由はわかりません」
「さっき言ったでしょ。日本が嫌いだからです」
「どうして? 日本のどこがそんなに嫌いなんですか?」
「日本は僕の故郷だからですよ。故郷が好きな人がどれほどいるって言うんです?」
「それだけかなあ」とさらに聡美は突っ込むのだった。「さっき、日本帝国主義打倒って言いましたよね。もっと思想的な問題として嫌いなんじゃないですか?」
「それはもうないです。消えました」と義男はあっさりと言い、その口調に僕は驚き、
「じゃあなんで、帰らないんだ」と聞いた。
「帰って何をする? 韓国語を教えるか? 日本に帰った俺には何にもないだろ? ここで、日本語教師として生きていくしかないんだよ、俺には」
「韓国が好きって訳でもないんですね」
「韓国? ここですか? 反吐が出るほど嫌いですよ」
「やっぱり?」と聡美は軽く笑いながら言った。
「笑いましたね。そうですよ。実際、笑われても仕方ないと思います。日本は故郷だから嫌い。韓国は住んでるところだから嫌い。こんな無茶苦茶な人間、笑われて当然です」
「石川さんって、かなり屈折してませんか?」
「してますよ。ごらんの通りです」
「ごちそうさま、出ようよ。もう一時だ」と僕は聡美と義男を遮って言った。僕には、義男の忍耐力をもう一度試してみる勇気などなかった。
*
十年前も優香と義男との間で同じような議論があった。
『日本が嫌いなんて、そんな人は日本から出ていけばいいんです』と優香は言った。
『だから出てきてるでしょう』
『二度と帰って来ないでください』
『帰りますよ。日帝打倒の日には大手を振って』
『なんですか? そのニッテイって』
『だから日本人は困るっていうんですよ。韓国人に聞いてごらんなさいよ、日帝、こっちでは「イルチェ」って読むんですけどね、日帝って言葉を知らない人はいませんよ。もちろん昔の日帝支配があったからですけど、でも現状を見てごらんなさい、日本帝国主義はもう復活して、アジアを、今度は軍事力じゃなく経済力で支配しようとしているじゃないですか。こっちでは、大日本帝国っていうのは歴史じゃない、現存する脅威なんですよ』
『一生懸命働いて、良いものを作って、外国の人に買ってもらうのが、帝国主義なんですか?』
『そうですよ。他人を踏みつけにして自分らだけが豊かさを享受する。これが帝国主義以外のなんだと言うんですか』
『もうやめろよ』と僕はその時も議論を止めさせた。あまりにも不毛な議論に思えたから。
若干の沈黙の後、義男は腹いせのように、いきなり隣の席の若者のタバコを注意した。そして結果、店全体が騒然とするような騒ぎになり、義男は立ち上がって韓国語で演説し始めて焼酎を頭からぶっかけられ、ぶっかけた男に今度は義男がコップの焼酎を浴びせかけ、今度は日本語で『俺は日帝打倒のために云々』と叫びだして店はいっそう険悪な雰囲気になり、この終わりの見えない喧噪の中で泣き出す優香と僕とをホテルまで連れ帰ってくれたのはそこにいた日本語の出来る韓国人だった。
次の朝ホテルまで迎えに来た義男に優香は挨拶もしなかった。当然だと思った。
*
日本語学校に授業で戻らなければならない義男とは夕食の待ち合わせ場所と時間を決めて別れ、僕らは南大門市場に入った。十年前と人だかりは変わっていなかった。ただ、日本語が増えていた。屋台のおばちゃんまでもが日本語で呼び込みをする。
「石川さんの言ってた、日本のプレゼンスって、やっぱりすごいのね」
「僕らがここにいるって事がすでにプレゼンスなんだろうな」
「石川さん、気づいたのかしら?」と聡美はいきなり言った。
「何を?」と、僕は間抜けなことに聞き返してしまった。
「別に隠す訳じゃないけど、あらためて言う必要もないでしょう?」と聡美は僕の間抜けた返事にかまわず言った。
「もちろん。でも、普通の日本人は、あそこまで日本が好きって言わないかもね」
「右翼って思われたかしら」
「さあね。今時右翼なんているんだろうか」
聡美は立ち止まり、屋台に山と積まれている服の一着を手に取った。すかさず横にいたオジサンが「ヤスイヨ、イチマノン」と声を掛けた。聡美は韓国語で何か言い、驚いたオジサンと何かやりとりをしていた。
結局何も買わず、オジサンとは手を振りあって別れた。
「通じたわ、私の韓国語」
「これが初めてだった?」
「韓国ではね。日本では留学生と何度か話したけど。ああ、嬉しい。これで本当に韓国に来たんだなって、実感した」
「祖国に帰ってきた、じゃないのか?」と僕はふざけていった。
「バカなことを言わないでよ」と聡美は言った。「私の祖国は日本よ」
「そんな言い方も、普通の日本人はしないと思うよ」
「……そうよね。私って、ここにいて、本当は何人なんだろう」
聡美はたまに見せる真面目な顔で言った。
「帰化しようとは思わなかったの?」と、僕は聡美に初めて聞いた。これまで聞く機会がなかったのではなく、あえて聞かなかったのだった。
「もちろん思ったわよ。でも、帰化したら、自分が何人なのか、よけい解らなくなるような気がして、思いとどまったの。アイノコとして生きてきた私の人生って、単に国籍を日本にして、それですっきりっていうようなものじゃない気がするの。帰化して、それで、あ、失敗だった、すみません韓国籍に戻してください、なんて言えないでしょう?」
「そりゃそうだ」
「子供の頃はね、はやく大人になって帰化したいって、そればっかり思ってた。醜いアヒルの子は早く白鳥になりたかったのよ。白鳥になれるってわかってるから、醜いアヒルの子でも耐えていられたの。もちろん、差別された経験なんてないわよ。誰も私が韓国籍だなんて知らないんだから。お父さんも優しかった。でも、自分だけが人と違うっていうのは、これはもう、心の根っ子なのよ。どうしようもないものなの。国籍がどっちとか、もう関係ないのよね。どっちでもないのが私なんだから。どっちでもないことに傷ついたっていうのでもないの。傷つく以前の問題なの。韓国語勉強したのも、そう。勉強してどうにかなるってものでもないのよ。でも、何かをつかみたかったの。アイノコである私の何か、根っ子みたいなものを」
僕らはもう市場の終わり近くまで歩いて来ていた。
「どうする? これから六時まで」
「一度ホテルに帰って、私、ホテルの免税店に行きたい」
「そうしようか」
うん、と返事しながら、聡美は、雑多な雑貨が板の上に積まれた屋台の前で立ち止まった。
「これ」と聡美が手に取ったのは、紙箱に入った白磁の徳利とお猪口のセットだった。
「何?」
「うちにあったのと一緒、昔うちにあったのと一緒よ、これ」
屋台のおばちゃんがなにやら聡美に話しかけた。聡美も応じた。
「これ、買うわ」と聡美は財布をとりだした。
*
ホテルの部屋で、買ってきた徳利とお猪口をテーブルに並べ、聡美は何か神妙な表情で考え込んでいた。僕は同じテーブルの椅子に座ってテレビで日本の衛星放送を見ながら、聡美の様子が気になっていた。つきあい始めて一年近く、これほど真剣な表情で考え込む聡美をこれまで見たことがなかった。
「たった五千ウォンだなんて」と聡美は言った。独り言のように、けれど聞いて欲しそうな口調だった。
「四百円ぐらい?」
「もう少しするかな。でも、そんな値段だなんて」
「どうしたの?」
「昔ね、これと同じものを、弟たちがいたずらして割っちゃったの。お母さん、ものすごく、それまで見たことがないくらい怒って怒って、平手で二人を何度もぶったの。お父さんがとめに入っても、もうおさまらないくらい怒って、仕舞いには自分で泣き出して……そうか、そういうことって、今解ったの。これって私のお父さんの形見だったのよ」
「形見? でも、そういうのって、どこにでもあるようなものだろう?」
「多分、なんでも良かったのよ、安物だろうがなんだろうが、その人の面影が染みついてさえいれば」
「確かに、形見なんて、そういうものかもしれないね」
「うん。きっとそうよ、私のお父さんの形見だったのよ」
「それで、それ、買って帰ってどうするの?」
「あ、そうかぁ、考えたら、お母さんに、『はい、おみやげ』って渡すようなものでもないわよね。どうしよう、意外に扱いの難しいもの買っちゃったなあ。そうだ、あなたはおみやげ買わないの? 娘さんとか」
「可愛いキーホルダーでも買っていくよ。ちゃちなやつでいい」
「お母さんには?」
「石鹸を頼まれてる。重いのに」
「買いに行こうか、上の免税店」と聡美は立ち上がりながら言った。
「免税店は高いよ」
「確かな店で買わないとダメでしょう、おみやげなんだから」
「まあ、そりゃそうだ」
僕が立ち上がると、聡美はいきなり身体を預けてきた。大きく深呼吸しながら、聡美は僕の腰を抱きしめた。僕は聡美の頭を抱き、長い髪を梳くようになぜた。
「怖い」と僕の胸で聡美は言った。
「何が?」
「私の今の気持ちが」
「どう怖いの?」
「ここが故郷かもしれないって、思い始めてるの。ここが祖国かもって、勘違いしそうなの。本当は、私はあの徳利とお猪口を懐かしがってるだけなのよ。民族とか、血だとか、そういうものを、私は信じていないから。エキゾチズムとノスタルジーって、同じものなのよ、きっと。来たことのない国に懐かしさを感じるなんて、そんなのおかしいでしょ。……でもね、理屈じゃなくて、金浦空港に着陸するときの窓の外の風景、あれを見た瞬間、私、泣きそうになったの。こんなに心を揺さぶられたのは初めてなの。それで、この徳利なの。怖い。本当に」
何も言えず、僕はただ愛しさに聡美を抱きしめた。聡美の息づかいと鼓動を服の上から久しぶりに捉えて新鮮に感じつつ、一方では、聡美が本当に心を開くのはやはり俺だけなのだ、と義男に対するちょっとした優越感も同時に抱きしめていた。
*
僕に対して聡美は最初からかなり心を開いていた、と思う。
『あなたは私と同じような気がする』と、聡美は知り合った最初の頃から、まだつきあいを始める前から言っていた。それなのに、僕にはそれがどういう意味なのか、深い関係を幾度か持ち、国籍のことや家族のことを聞くまでわからなかった。もちろん、今でも完全にわかったとは言えない。
『わからなくてもいい』と、知り合った頃、聡美は言った。『私はそう感じたの。そのリアリティは消えないから』
聡美の言ったのは、多分、どこにも属すことの出来ない、どっちつかずの中途半端な雰囲気のことだろうと思う。
*
義男の羨やんでいた僕の父親は、実際には革命党の組織人にはほど遠い夢想家だった。気質としては夢見る文学的アナキストに近く、獄中非転向も、結局は、現実を拒否する青年夢想屋の狂信的な強さに過ぎなかったのではないかと思う。
僕が小学校低学年だったある時、父が年金を払っていないことを聞きつけた当時の党の幹部たちが家にやってきた。
『年金事業は、当然、革命政権にも、引き継がれるだろうから、今払っておかないと、革命が起こったとしても、君は年金を受け取れないかもしれないよ』
『じゃあ、革命の意味ってなんなんですか? 今のブルジョア政権延命のための年金制度に貢献した人間しか革命後の年金を受け取れないなんて、それはおかしいでしょう?』
『言いたいことは、よくわかるよ。でも、革命後、すぐにみんなをね、豊かに出来るだけの、なんていうか、財政能力が、その、すぐにそなわっているか、我々の権力にね、それは、考えないと』
『だったら、革命に貢献した人間から順に、というのが筋じゃないんですか。もちろん、これは冗談ですよ。そんなの腐敗した官僚主義ですからね。でも、社会の発展法則から考えれば、そもそも革命というのは社会の物質的生産諸力の発展の結果として、必然的、不可避的に起こるわけでしょう? そういう、生産力の発展法則という目で見れば、もはや年金なんて制度自体が、革命後は止揚されていると考えるべきじゃないんですか?』
『君の言うとおり、最終的には……』
『最終的ですって? いいですか? 革命というものは、歴史法則から言えば、貨幣自体が揚棄されて、人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取れるだけの生産力を、社会が持つようになるということじゃないんですか? そうなるための物質的諸条件は今のこの社会に充分に備わっているんです。だから、問題は、今のブルジョア政権をいかに倒すかだけなんですよ。もはや桎梏でしかない資本主義生産体制を打破して、生産力を全面的に解放してやりさえすれば、年金なんて、そんなもの問題にもならない豊かで自由で平等な世の中になるんです。僕らが今やるべきはブルジョア政権打倒じゃないんですか? それとも、まさか、僕らが年金を受け取る歳になるまで、この腐敗堕落したブルジョア政権、いいや、この行き詰まった資本主義が続いているとでも言うんですか? そんなのは敗北主義でさえありません。歴史の発展法則への理解不足です。革命は絶対に起こります。年金なんか、今払う必要はありません』
『君の信念は解った。でも……』
『信念? これは信念なんかじゃないですよ』
『考え、ですか?』
『科学的な絶対的真理です。信念なんて言うのは、非合理な非科学的現象に対して、それでも私は信じるってこと、非科学的な心情のことでしょう? 僕の言っているのは、1プラス1が2であるように、資本主義は滅んで共産主義社会が訪れるってことなんですよ。この科学的真理にいったい誰が逆らえるって言うんですか? 真上に石を投げれば自分の頭に落ちてくる、これが科学的真理です。これを否定する人は、みんな自分の頭の上に石を投げてみれば良いんですよ。落ちてきた石が、その人に科学的真理ってものを教えてくれます。同じ事です。共産主義を否定するものは歴史の中に滅んでいくしかないんです。これが絶対的な科学的真理というものなんです』
その時に限らず、いつも父は流麗な雄弁で幹部たちの訥弁を圧倒していた。父は実に颯爽としていた。
ただ、母は年金をしっかりと払い、きちんと貯蓄を積み上げていた。小さな定食屋を維持しながら職業革命家の父を養い、僕と弟二人をほとんど女手一人で育てていた母には、煉瓦を一つづつ積んで築き上げたごとき強固な現実感覚があった。
『お父さんの言う革命なんか、絶対に起こらない。起こるはずがない』と母は僕ら兄弟にいつも言っていた。『あんたたちも騙されちゃだめだからね。お父さんの言うことを本気で聞いちゃダメだからね』
こんな二人がなぜ結婚したのか、どうやって父が死ぬまで結婚生活を維持していたのか、僕には想像することさえ出来ない。夫婦の間のことはその夫婦にしかわからないというのはそれこそ「科学的真理」なのだろう。ただ僕にわかっているのは、この夫婦間の矛盾と相克が僕という人間の性格を優柔不断でどっちつかずにしたということだけだ。
『お父さんはしょせんは地主の坊ちゃんなのよ。資本主義が憎いっていうのも、あれは商売への軽蔑だよ。商売なんかせずに生きていられた時代の、地主の亡霊が共産主義に化けただけなんだ。よく聞いてごらんよ、お父さんには現実なんか何にも見えてないだろ。現実が少しでも見えていれば、全部を資本主義のせいに出来るはずがないよ。革命で何もかも良くなるなんて、あんなのは書生の戯言だ。お父さんの言うことなんか、まじめに聞くんじゃないよ。あんたたちはきちんと大学に行って、きちんと就職して、普通に生きていくんだよ』
母がこういう現実感覚を僕ら兄弟に吹き込んでいることを父は知っていた。知っていて父があえて僕たちに何も直接吹き込まなかったのは、自分の「科学的真理」によほど自信があったからだろう。事実、僕は大学に入り、父の政党よりもさらに過激ないくつかのセクトの周りをうろちょろするようになった。ただ、そこで、日和見主義だの、コウモリだの、スパイだのとさんざんな罵声を浴びせられながらもどこにも属すことがなく、また義男のように活動にのめり込むことがなかったのも、僕のどこかに母のあの現実感覚が巣くっていたからだと思う。同じ大学を義男は三年で辞め、僕はきちんと四年で卒業して就職したのだった。
*
ホテルの免税店で、取引先へのお土産にする酒やお菓子、母への石鹸を買い、全部宅急便で送るよう手配した。持ち帰るのは娘へのキーホルダーだけ。これで自分の買い物はすべて終わり。それからブランドのコーナーを一つづつじっくりと眺めている聡美に少し付き合って疲れ、椅子の置いてある自販機コーナーで待つことにした。
フロア中日本人だらけだった。通路を歩いていても日本語しか聞こえてこなかった。値段表示も、いちおうドルが先になっているものの、レジの中を眺めてみれば円ばかりだった。自販機コーナーも、もちろん回りはすべて日本人で、ただ、北から南までの様々な日本語が話されていた。ここで聞こえてくる日本語に安心してしまうとソファはあまりに心地良く、昨夜の睡眠不足もあって、僕はつい横になって眠り込んでしまった。
気がつくと僕の身体には毛布が掛けられ、隣には聡美が座って雑誌を眺めていた。時計を見るともう五時半だった。
「ごめん、もう行かないと。俺、ものすごい時間寝てたんだな」
「私が来てから三十分くらいかな」
「じゃあ行こうか。何か買った?」
「ブランドフリークの友達に頼まれたのをいくつかね。あと自分用のバッグと、口紅と」
「本当ならオジサンが買ってあげるべき……」
「やめてよ!」と聡美はいきなり遮った。
その口調には何か余裕のない緊張があった。
「どうかしたの?」
「もう行く」
聡美は硬い表情のまま毛布を持って奥に返しに行った。戻ってきた表情も硬かった。
「どうしたの?」
「後で話す」
そう言って足早にエレベーターホールの方へ向かった。ものすごい早足で、僕はついていくのがやっとだった。
部屋に戻り、テーブルに並べてあるままの白磁を眺めると、聡美はいきなりベッドに飛び込み、そのまま伏して枕に顔を埋めて泣き始めた。
「どうした?」
返事はなかった。
*
母が泣いたのを一度だけ見たことがある。
党を除名され、党務から解放されて現実との接点をなくした父は、よりいっそう純粋な共産主義者となり、そして共産主義者らしく、母の定食屋の三人の従業員をオルグして組合を作らせようとした。従業員たちに向かって、父は、「交換価値」や「使用価値」、はては「剰余価値」等々の文句が華麗にちりばめられた演説をぶつのだった。父の姿は実に矍鑠としていて、滑稽だった。
『余り物でも集めて「剰余カツ定食」でも出すか』と従業員たちは陰で言い合い、父のことなど端から相手にしていなかった。母はと言えば、仕事の邪魔をしない限り父の好きにさせていた。そして誰にも相手にされぬまま、父は脳梗塞で倒れた。
一命はなんとかとりとめ、入院でリハビリを受けるようになったのだが、誰彼かまわず共産主義の思想を説く父はしだいに疎まれ始め、母でさえ病院の雰囲気が痛くなり、通いのリハビリに切り替えた。つまり、母の負担が倍増した。しかも間の悪いことにそのころの僕の会社の状況は最低最悪で、優香もまた英会話仲間とのランチパーティや幼稚園の母親仲間とやるチャリティバザーだとかなんだとかで多忙の日々を送っており、おまけに弟二人は遠くに就職していた。誰の手伝いもない中、母は定食屋と父の介護をほとんど不眠不休でやっていた。
ある早朝、父が玄関に座っていた、という。
『何してるの、風邪ひくよ』
『北京から、そろそろ指令が来るだろう』
この日から、父は、戦争直後の非合法活動時代に帰ってしまった。そしてその幸せな青春時代に帰ったまま寝たきりになり、一年で死んだ。死はあまりにも急で、近くに住んでいた僕でさえ死に目に会えなかった。
通夜と葬式、告別式を終えて父の寝ていた床を払った部屋はただ広く、畳に座る母の姿はただ小さかった。そして小さい箱に入った父を優しくなぜながら母は言った。
『お父さんの言うような世の中になればいいって、本当は私も思ってたんだよ。バカなことをって言いながら、本当は願ってたんだ。でもね、そんなこと、私、生きてるお父さんには一言も言えなかったさ。口を開けばお父さんの思想をいつもいつも否定して、生きてる間はそればっかりだった。私は科学なんて信用しないけど、お父さんの信念は信用していたんだ。人間にとっては科学より、信念の方が大事さ。お父さんは信念の人だったよ。立派な人だった』
母は目頭を押さえ、鼻を啜った。零れることのない涙が母の目を潤していた。
*
聡美が泣くのを見るのはこれが初めてだった。
一月前にソウルに行くのが決まってから聡美は何かおかしかった。どこが、というのではない。話しぶりや、はしゃぎ方、そのいちいちに少しずつズレのようなものがあった。ソウルに来てからもそうだった。義男にあれほど構ったり、ふざけたり真面目になったり、感情の起伏がいつもより激しかった。そしていきなり泣く……もしかしたら聡美との再婚には国籍や年齢差よりも、もっと大きい壁があるのではないか。そう思うと暗澹とした気持ちになり、ただ僕は聡美の泣きやむのを待つしかなかった。
だがもう義男と約束した六時まであと五分になっていた。聡美はまだ枕に顔を埋め、泣きやんではいたけれど顔を上げるような気配はなかった。
「どうする? 待ち合わせ」
「すぐは無理。お化粧が無茶苦茶になったから」
聡美はようやく口を開いた。けれど顔は上げなかった。枕の中からの声だった。化粧の崩れた顔を見せたくなかったのかもしれない。
「どうしよう? どうしたらいい?」
「あなた、先に行って。私、三十分以内に合流するから。店はわかってる」
「……大丈夫?」
「大丈夫」
「義男にはなんて言ったらいい?」
「用事ですって」
「じゃあ、用事で遅れるってだけ、言うよ」
「ありがとう。じゃあ、行って。見送らないわよ。鍵は置いていってね」
僕は重い不安を抱えて部屋を出た。
*
約束の店についたときはもう六時を十分も過ぎていた。
「すまん、聡美はもう少し遅れる」
「そうか」とだけ義男は言った。
義男が注文すると生ビールはすぐに来た。僕らはジョッキを合わせた。
「二泊三日なんてあっと言う間だな」と僕は言った。本当にあっと言う間だった。
「明日の朝は早いのか?」
「早い。朝八時にお迎えが来る」
「実質、韓国にいたのは今日一日か。前来たときはたしか三泊四日だったよな」
「ああ。それも、最後の日は夕方発だったから、結構余裕があった」
「聡美さん、何かあったのか?」
義男はいきなり言った。
「うん、ちょっと用事」
「俺に会いたくないってこと、じゃないよな」
「それはない、絶対に」
「よかった。またこうして友達をなくしていくんじゃないかって、最近、怖いんだ」
「友達、ね」
「もうこの歳になって、新しい友達なんてできっこないだろう?」
「そりゃそうだろうな」
「俺たちは、もう、若い頃に培った友情を、残り惜しみつつ、舐めるように、味わうしかない歳なのさ」
「えらく文学的だな」
義男は答えず、テーブルに並べられたつまみのいくつかを少しづつ食べ、ビールを舐めた。昨夜のような飲み方はしなかった。
「カルビ焼くのは聡美さんが来てからにするか?」と義男は言った。
「別にかまわんだろう。聡美が来たら追加注文すればいい」
義男は店員に大声で何か言い、
「聡美さん、いい人じゃないか」とこちらに向き直った。
「ああ。でも、義男もわかったと思うけど、かなり屈折してるんだ。結婚できるかどうかは、まだわからんさ」
義男を前にしながら、気持ちはベッドに伏した聡美の方へ行ってしまっていた。本当に、結婚できるかどうかわからないと思った。
「結婚なんてしなくてもいいだろう」と義男は言った。
「それもそうなんだがね。でも今度は結婚してもうまくいくような気がするんだ。優香のときは最初から何か危うかったからな」
「俺は最初から、あの人はダメだろうと思ってたよ」
「義男にさえにわかるんだもんな、破綻して当然だな」
「今度の聡美さんはいいと思う」
「そうか?」
「ああ。あの人はいい」
「もしかして、義男、聡美に惚れた?」
「惚れたよ。でもお前のカノジョを奪おうとは思わん。さっきも言ったけど、もう、女より友達の方が大事な歳だ」
「また歳か、結構気にしてるんだな」
義男は目で返事しながら軽く笑い、店員が焼いてハサミで切ったカルビの切れを野菜にのせて口に運んだ。
「まだ当分ソウルにいるのか?」と僕は言った。言いながら僕もカルビを食べた。肉汁の甘さとチシャの軽い苦さが程良く、美味かった。
「半分は意地だよ。何をするでもなく、ただいるだけかも知れんがね」
「さすがに義男は、日本が恋しくはならないんだな」
「誰がそんなこと言った? 恋しいさ。死ぬほど」
「聡美に言ったことと違うじゃないか」
「もう、俺たち、発言の一貫性にこだわるような歳じゃないだろう?」
「また歳か?」
「そう、歳だ。それに、俺は日本が嫌いだとは言ったが、恋しくないなんて言ってないぞ」
「嫌いだが恋しいって?」
「愛なんて、そんなものだろう?」
「愛?」
「ああ。仏教で言うような愛だよ。受苦としての愛だ」
「よくわからんが、文字通り、愛国者ってわけだ」
義男はまたカルビを口に運んだ。
「……親父がね、俺が二十歳の頃、ウチの神社の初詣の時、参詣客に請われて万歳の音頭をとったことがあるんだ。親父、なんて音頭とったと思う? 直立不動のまま『大日本帝国……』だよ。みんなびっくりして息をのんだ。親父、雰囲気に気づいて、自分でも驚いたんだろうな、『すみません、古い人間だもんで、すみません』って、次は『日本の若者のために』って言い直したんだがね。見ていて、顔から火が出そうなくらい恥かしかった。あれは俺が活動にのめり込むきっかけの一つになったな」
「その話、初めて聞いたよ」
「そうか?」
「うん、なんで義男が大学辞めてまで活動に専念するかと思ってたけど、今わかった。エディプス的な動機だったんだ」
「そういう言われ方も実は引っかかるんだがね」
「引っかかるってことは、それなりの真実を含んでいるってことじゃないのか? まあ、あの時代の活動家なんて、みんなそれなりにエディプス的な動機を抱えていたと思うしな」
「そういうくくり方もまた、むかつくんだよな」と義男は笑った。
「で、愛国心はどうなったんだ」と僕は言った。
「そうか、愛国心ね。俺は一度でいい、親父の音頭で大日本帝国に万歳を捧げたいよ」
「大日本帝国?」
「ああ」
「ド右翼だな」
「ド右翼だろうと何だろうと、かまわんさ。俺にとって、大日本帝国ってのは結局、俺が生きていくための物語の源なのさ。故郷なんだ。この故郷を否定して否定して生きるってことが、すでに帝国の物語なんだよ。最近わかったんだ。俺の祖国は大日本帝国だよ。日本国じゃない。だからこそ俺はソウルにいるんだ。日帝打倒をソウルでやろうなんて、こんな発想そのものが大日本帝国じゃないか? 違うか?」
「俺にはわからんよ」と言うしかなかった。実際、よくわからなかった。
「初めて韓国に来たとき、本当に、生き別れた双子のきょうだいに再会したようなショックを受けたよ。俺はここに住むべきだって思った。今思えば、俺は大日本帝国の幻影を追い求めていたのさ。実際、ここは戦前は大日本帝国の領土だったんだからな。考えて見ろよ、日本国と大日本帝国との差はどこにある?」
「憲法か?」と僕は上の空で言った。もう六時半を過ぎ、聡美のことが気になっていた。
「そんな抽象的な問題じゃない」と少しいらついた口調で義男は言った。「台湾と朝鮮だろ。大日本帝国にあって日本国にないもの、それは台湾と朝鮮さ。だから、日本国が嫌で大日本帝国を求めるなら、台湾か朝鮮に行く他はない。だから、俺もそうしたのさ。自分では全く意識しないままね。そして見つけたんだ。今も生きている、日帝という名の大日本帝国をね。否定し、打倒し、うち砕き、そして我が殉ずべき大日本帝国をね」
僕は義男が何を言っているのか真意を測りかね、黙っていた。
「狂ったんじゃないかと思ってるだろう?」
「ああ、少しね」と僕は正直に言った。
「本当に、大日本帝国に殉じたいなんて、人にはあまり言えないんだがね。また友達をなくすから」と義男は静かに言った。
「日本の友達は?」と僕は心配になって聞いてみた。
「ほぼ全滅だよ。こっちに遊びに来て、俺に会って呆れて切れたり、噂を聞いて切れたり、誰も俺のような転向者とは付き合いたくはないのさ」
「いったいいつ頃の話してるんだよ。学生時代の仲間だって、みんなそれぞれ転向してるに決まってるだろ。今時、まだ左翼でいるってことのほうが変だよ」
「転向って意味が違うよ。左翼やめるだけなら転向なんて言わないだろ。左翼から右翼になることさ、転向ってのは」
「お前は右翼じゃないよ」
「お前は昔から振幅の小さい人間だったから、極端から極端への無距離が理解できないだけじゃないのか」
「それはあるだろうが、俺の親父は典型的な狂信的左翼だったからな。非転向がどういうものか、よくわかるんだ。お前はまだ現実との折り合いがついているよ。極端から極端じゃないと思う」
「お前の親父さんか。俺も非転向で生きたかったよ」
「やめろよ。そんな綺麗なもんじゃない」
「綺麗だろ、主義に殉じるってのは」
「たしかにな。でも、その発想こそ大日本帝国だよ。主義を捨てて実利につくっていう戦後日本国の国是とは違う」
「そう来るか」
「うちの親父も」と僕は少しイライラしてきて、早口で言った。「結局は最後まで大日本帝国の臣民だったってことさ。もしかしたら義男と似てるかも知れないよ。打倒すべき大日本帝国がなくなった後も、財閥を大企業に置き換えて、ファシズム政権をブルジョア政権に置き換えて、大日本帝国を探し、探して、死ぬまで闘ってたんだから。きっと親父は、戦後日本が、親父が倒すべき大日本帝国をなし崩し的に打倒していくのに耐えられなかったんだと思う。はっきり言って、大日本帝国を打倒したのは親父じゃないものな。ウチのお袋のような合理的実利主義だよ。親父は大日本帝国に負けたんじゃない、お袋に負けたんだ。勝てる訳のない闘いだよ。年金もなくてお袋に養われてるなんて、こんなの特攻崩れ、玉砕の生き残り以外の何だって言うんだ。親父は死ぬまで大日本帝国の立派な臣民だった。もし非転向っていうなら、一生大日本帝国の臣民でしたって、そういう意味で言って欲しいな」
「……俺、親父さんに悪いこと言ったか?」
「いや」と僕は少し落ち着いて言った。「そんなことない。それに、お前は昔はもっと辛辣なことを言ってた」
「バカだったのさ」
「今は?」
「もっとバカさ、もう死ぬしかないほどのね」
*
「ヌヂョソミヤネヨォ」
店に入ってきて僕らを見つけるなり、聡美は手を振りながら韓国語で言った。さっきまで泣いていたとは思えぬ明るい笑顔だった。
そしてそれを見た義男の表情も一気に華やいだ。さっきまで大日本帝国がなんだのと訳の分からない愚痴を垂れていたのと同じ人間の表情とはとても思えなかった。
それから聡美と義男は韓国語で二言三言言葉を交わした。
「聡美さんの発音は完璧に近いですよ」と義男は日本語で言った。
「そうでしょ? 実はさっき、韓国人に間違われたんです」
「ほう、どこで?」
「ホテルの免税店の休憩所で、健児さん、ソファに寝込んじゃってるんですよ。それで店員さんに毛布持ってきてくれって言ったんです」
「韓国語でですか?」
「はい。で、持ってきてくれたんだけど、どうしたと思います? その店員」
「わからない」
「私の目も見ないで、遠くからぼろ雑巾みたいに毛布を投げてよこしたんですよ」
義男の表情が曇った。
「私、一瞬、何のことかわからなくて、こういう礼儀なのかなって思って、この人に毛布掛けてあげてたら、すぐに、前に座ってた日本人のオジサンたちが教えてくれたんです。オジサンたち、なんて言ったと思います?」
義男はただ悲しそうに首を振った。僕は何のことかわからず聡美を見た。
聡美は僕を見ながら言った。
「『あんな可愛い子、昼間も買えるのか』って」
僕は絶句し、猛烈な怒りが湧いてきた。聡美は続けた。
「そうしたらもう一人が、『高いだろうが』って。『でも韓国の女は情が深いから値段分のことはある、見ろよ、ちゃんと毛布も掛けてやってる。日本人じゃ、商売であそこまではしてくれない』って。『やっぱり韓国の女は情が深い』って」
それを聞いたときの聡美の哀しみを思い、僕の怒りも哀しみに変わった。そしてさっきまでベッドに伏して泣いていながら今明るく振る舞い、その事件を淡々と話している聡美の哀しみに僕は胸がつかえ、やはり哀しみに何も言えなかった。禿げた日本人中年と韓国語を話す若い女性、その取り合わせがこの国でどう見えるかなど何も考えていなかった自分、ただ自分の都合を悩んだだけで一緒に泣いてやれなかった自分が本当に悔しかった。
「俺がその場にいたら」と義男は言った。「確実にその連中を殴ってるね」
「でも、屈強な人たち四人ですよ。石川さんじゃ負けますよ、絶対に」
「勝ち負けの問題じゃない」
「でも負けちゃったら、何にもならないでしょう」
「これは気持ちの問題なんですよ」
「もういいよ」と、僕は堪らず言った。けれど聡美は続けた。
「その人たち、夕べ行った店のこととか、みんなで買った女性のことをもう、こっちがわからないと思って、大声で喋ってましたよ。そうか、あの人たちに買われると、よってたかってあんなことされるんだなって。すごく勉強になった」
「最低だ」と僕は自分に向かっても言った。
「石川さん、私、韓国人に見えます?」
義男は黙っていた。
「私って、情が深そうですか?」と聡美は偽悪的な笑顔で言った。
「やめてください、そんなこと言うのは」
「いいじゃないですか。毛布くらいで情が深いって褒めてもらえたんだから」
「あなたはそんなこと言っちゃいけない」
「そんなことより、私すごくお腹すいた。石川さん、ビールとカルビ注文してください」
義男は店員に向かって韓国語で叫んだ。
*
「どうしたんですか、乾杯しましょうよ」と、黙り込む男二人に聡美は言った。
僕らはジョッキを合わせた。
「私が来る前、何を話してたんですか?」
「つまらないことですよ」
「どれくらい?」
「カルビと比べた時のこの漬け物くらい」と義男は細く切ったネギの漬け物を箸で指した。
「わかりやすーい」と聡美は笑いながら言った。「でも、じゃあ、カルビは何ですか?」
「さっきの、あなたが間違われた件です」
「そうですかぁ」
「そうです」
「ああいうとき、どんな態度を取ったらいいんでしょうね、私」
「失礼なことを言うなって、はっきり言ってやったらいいんですよ」
「何語でですか?」
「日本語で、ですよ、もちろん」
「でも私、在日韓国人なんですけど」
義男の表情が一瞬凍りつき、そして、そんなことに驚いちゃいけないと自らを励ましたのがありありとわかる笑顔を作り、言った。
「だったら、なおさら……」
「なんて言えばいいんです?」と聡美も作った笑顔で言った。「私は日本人だって、嘘をつくんですか? それとも、私は売春婦じゃない、って言うんですか?」
義男は黙り込んだ。
「お二人、もうかなり食べましたよね」と、義男を無視するでもない自然な口調で聡美は言った。「私、この焼けたの、もらいますよ」
聡美は肉を野菜でくるんで口に入れ、昨日や今日の昼と同じように「美味しい」と言って笑った。
*
「在日って言っても、私の場合、母は日本人なんですよ。父も小さい頃に亡くなって、母の再婚相手は日本人だったんで、弟二人も日本人なんです。家族の中に私だけ韓国人っていうの、なんか変でしょう? だから、韓国人だなんて意識、私、全然ないんです。大人になったらすぐに日本に帰化するつもりだったんで、韓国名なんか使ったこともなかったし」
「でも、すばらしい発音の韓国語を話すじゃないですか? かなり習ったんでしょう?」
「カルチャースクールですよ。日本じゃちょっとしたブームだから」
「それでもたいしたものですよ」
「そんなことより、ねえ、私、私が来る前に話してた、このネギの漬け物の話が聞きたいなあ」
「義男の愛国心の話だよ」と僕は言った。義男を困らせてやろうという意図も少しあった。
「本当?」と聡美は言った。「石川さんに愛国心ってあるんですか?」
「ありますよ。でも、日本国に対しての愛国心じゃない」
「よくわからないんですけど」
「僕にとっての祖国は大日本帝国なんです」
「え?」と聡美は僕と義男の顔を交互に見た。
「僕は屈折してるって、言ったでしょう」と義男は苦々しげに言った。
「私は」と聡美は言った。「日本が好きです。愛してます。これは愛国心なんでしょうか?」
「もし聡美さんが日本人だったら、そんなに簡単に『日本が好きです』なんて言えないと思いますよ」
「あ、それは思います。やっぱり、どこかで、日本は自分の国じゃないんだって意識があるんでしょうね」
「いや、それより、日本と韓国とどっちが、っていう感じじゃないんですか? 韓国に比べて……」
「でも」と聡美は義男を遮った。「私、韓国は今回が初めてなんですよ。比べようがない」
「いえ、きっと、聡美さんは、比べようもないものどうしを、無理に比べさせられてきたんですよ。よく知らないけど祖国だとされている韓国と、よく知っているけど祖国ではない、生まれ育った土地としての日本と」
「そっかー」と聡美は考え込んだ。
「考えて考えて出したその答えだから、何かあったらすぐに口をついて出るんですよ、日本が好きです、なんて言葉が」
「うんうん、そっかー」と聡美はまた言った。説得力を認めはするが納得はしない、とでも言うような言い方だった。
「このテの話、続けていいんですか?」と義男は言った。一応聞いてはみるが拒否されることはないだろう、という自信のある口調だった。
「もちろんですよ」と聡美は真剣な口調で返した。「私、こんな話するの初めてなんですよ。嬉しいんです。だって、日本では、誰も私が韓国籍だって知らないし、私から言う必要もないし、言ったからといって私の特殊な立場が理解してもらえるとは思えないし、だから、健児さん以外では、昨日と今日が初めてですよ、私や韓国のこと、こんなに話するの」
「そりゃ光栄です」
「だから、石川さんも、もっとご自分のこと話してくださいよ。きっと私と石川さんは似てると思うんです。健児さんとは違った意味で、でもどっかで似てると思うんです」
「似てるよ」と僕は昼間の嫉妬がぶり返してきて言った。「屈折の具合が微妙に似てる」
「聡美さんと僕と、共通点が一つありますよ」と義男は言った。
「なんです?」
「どちらも祖国に拒まれてる」
「私は、私の祖国は日本だって思ってるんですけど」
「日本はあなたを受け入れてますか?」
「完全に受け入れているってことはないですよ。参政権の問題もありますからね。でも、参政権があったとしても、私、政治になんか関心ないから、棄権したと思うんです。だから、私の想いとしては、拒まれてる、とまでは言えないんです」
「なるほど」
「ところで、石川さんはどうなんですか? 日本に拒まれてます?」
「僕の故郷は日本国じゃないんです、大日本帝国なんですよ」
「それ、詳しく説明してもらえませんか?」
「昨日、日本帝国主義がどうとかって少し話題になりましたよね。僕が韓国に来たのは、日本帝国主義を探すためだったんです。探して打倒するために。だって、日本にいたら、帝国主義なんて見えなかったから。でもここにはあったんですよ」
「日帝時代ですね」
「いいえ。歴史の事じゃない。今も生きつづける大日本帝国が。いいですか、大日本帝国は一九四五年に滅んで、それで台湾と、韓国と、北朝鮮と、そして日本国が出来たんです。みんなそれぞれ大日本帝国の血を受け継いでいるんですよ。それぞれ違ったやり方で親を全否定していますがね。たとえば日本が平和憲法で明治憲法を全否定しているように、同じく韓国は抗日神話で日帝時代を全否定している。でもみんな間違いなく大日本帝国の子どもたちなんです。それぞれ個性があって違ったように見えていても、みんな実際にはきょうだいなんですよ。その中でもね、韓国は、俺が来た頃はまだ軍人大統領が統治してたんです。もう独裁政権ではありませんでしたけど。でも、街のそこいら中、カービン銃を持った兵士が立ってましてね、まるで青年将校に占拠された東京さ。俺は身震いするほど嬉しかった。ここから日本が見える、と本気で思った。だけど、俺の見ていたのはただの大日本帝国の残映だったのさ。でも韓国もあっという間に民主化されて、その残映もあっという間に消えていった。残ったのは何か? 残映を見たという俺の心のリアリティだけさ。こうなってしまったら、俺はもはや俺の心のリアリティを舐めるように愛おしむしかないじゃないか。俺が感じたリアリティ、それが俺にとっての大日本帝国さ。それこそが、さっきも健児には言ったが、俺にとっての日本、美しの我が祖国なんだ。……わかってる。そんなもの幻影だよ。幻さ。けれど、俺にとっての祖国、否定し、拒否し、闘うべき祖国と言えるものはそれしかないんだ。あらかじめ拒まれていながら、それでも求めずにいられない故郷、まさに祖国そのものじゃないか」
聡美は義男の言うことを勘どころできちんと頷きながら聞いていた。それが義男を能弁にしたに違いなかった。
「まあ飲めよ」と僕は義男を遮り、焼酎用の小さなグラスに焼酎を注いだ。義男はそれを一口で干した。
「まあまあ」と今度は聡美が注ごうとした。
「ダメですよ、女性がそんなことしちゃ」と義男は言った。
「いいんです。注ぎたいんだから注がせてください」
「じゃあ」と義男はグラスを差し出し、聡美に注がれると、こんどは舐めるだけで一気には飲まなかった。
「すみません、僕の言うこと、訳がわからなかったでしょう?」
「はい」と聡美は言った。
「正直だ。あなたはそれでなくっちゃ」
「石川さん、日本も韓国も嫌いだっていいましたよね」
「そうですよ。嫌いです」
「大日本帝国を全否定してるから嫌いなんですね」
「そうです。よくわかりましたね。本来なら僕が打倒すべき大日本帝国を、なし崩し的に、いつの間にか滅ぼしちゃった日本と韓国は嫌いです」
「私はどうなんだろう……」と言って聡美は焼酎を舐めた。「私は、もし大日本帝国がなかったら生まれていなかったと思うんですよ。私、日本人と朝鮮人とのアイノコですからね」
「うん」と義男は言って焼酎を干した。
聡美が注ぐと、今度は義男が聡美に注ぎ返した。
「聡美さんも、かなりいけるんでしょう?」
「多分、石川さんには負けるでしょうけど」
そう言って聡美は注がれた分を一気に干した。
「すごいな」と義男は言った。
僕は二人の会話に一言も口を挟むことが出来なかった。
*
「ところで」と義男は僕の不機嫌な様子に気づいて言った。「お二人の関係について聞きたいんですが。実は健児からは何も聞いていないに等しいんですよ。失礼じゃなかったら、聡美さんの口から聞きたいなあ。ねえ、健児って、あなたにとって何なんですか」
「健児さんですか? 私にとって、今いちばん大事な人です」と聡美は言った。
「結婚を考えてるんですか?」
「おいおい、俺も聞けないことを聞くなよ」と僕は堪らず言った。
「結婚ねえ、考えないでもないですよ」
それを聞き、僕は喜びと不安に固まってしまった。
「やっぱり結婚してしまうのか」
義男は焼酎を舐め、つまみをつまんだ。
「でも、まだわからないです」と聡美は言い訳のように言い、義男に焼酎を注いだ。
「ありがとう」と義男は言いながら僕の方に向き直りつつ、
「お前は結婚したいんじゃないのか?」
義男の目を見れば、これが酔って絡んでいるのではなく、さっき聡美と二人で勝手に盛り上がってしまったことへの埋め合わせだということがわかった。
「一度結婚に失敗した男だからな、俺は」
「俺は失敗さえしてない」
「そうそう、その話も聞きたい」と聡美は言った。「石川さんは結婚しないんですか? それとも機会がなかっただけなんですか?」
「きついなあ。もちろん機会がなかったんですよ。恋愛はしました。でも、こんな屈折した男は、恋愛の対象ではあっても、結婚相手としてはダメなんですよ。生活も不安定ですしね」
「そうかもしれませんね」
「はっきり言うなあ」
「でも、石川さんは、もっと積極的な独身主義者かと思ってました」
「独身主義? ですか。はは、実はそうなんですよ。仕事にしてもなんにしても、縛られるのがいやなんです。それを独身主義って言うんなら、そうかもしれません」
「私も、ちょっと前までは石川さんのような独身主義だったんですよ」
「ほう、それはまたなんで」
「だって、結婚っていろいろ面倒くさそうだし、私もいろいろ屈折してますからね」
「で、健児に会って結婚主義に転向した、と?」
「そうですね。はっきり言って、昨日石川さんに会うまでは、健児さんほど屈折した人に会ったことがなかったんです。健児さんに会って思ったんです、このくらい屈折した人がこの世にいるんなら、私なんかまだ可愛いもんだって。もしかしたら私にも結婚くらい出来るかも知れないって自信がついたんです」
「どういう意味だよ」と僕は笑いながら言った。
「だって、健児さん、まだプロポーズしてくれない」
「それは……」と僕は聡美のいきなりの言葉に言葉をなくした。
「ほら、屈折してる」と聡美はちょっと拗ねた口調で言った。
「もう、ここでプロポーズしろよ」と義男は笑いながら言った。
「ほんとにこんなバツイチのオッサンでいいのか?」
「あ、ひどーい。私がこれから人にプロポーズの言葉聞かれたとき、『ほんとにこんなバツイチのオッサンでいいのか?』って言えって言うの」
「ごめん。じゃあきちんと言うよ。僕と結婚してください」
「イヤ!」
「え?」
「嘘よ。本当はずっと待ってたのよ、いつ言ってくれるかって。私の事情はぜんぶ話したんだから、ボールはあなたが持ってたのよ」
「婚約成立か?」と義男は言い「じゃあ、焼酎で三三九度をやろう」などと僕らの返事を待たずに言った。
「そんなこと」と僕は形だけの抗議をした。
「いいじゃないか、やってみろよ。俺が写真撮ってやるから」
「三三九度はともかく、婚約成立の証拠ツーショットはお願いしようかなあ」
聡美はカメラを義男に渡した。
*
聡美に請われて次に行ったのは、十年前、義男が若者に絡んで大騒ぎになった店だった。入り口も内装も綺麗になり、義男に言われなければとても同じ店だとは思えなかった。
「明日は早いんだったな」と義男は焼酎を注文した後で言った。
「そうなんです。もっとゆっくり出来たらいいんですけど」
「ツアーだからなあ、融通が利かなくて」
「でもタダなんだから、仕方ないでしょう」と義男は言い、僕らのグラスに焼酎を注いだ。つまみの豚足が来た。
「あ、チョッパリだ」と聡美は言った。
「そうです」
「何?」と僕は聞いた。
「チョッパリって、日本人の蔑称なの。豚足っていう意味なのよ」
僕はその豚足をつまみ、半透明の皮のついた肉を囓った。ハムよりももっと噛み答えがあり、薄い塩味がついていた。上品とは言えなかったが美味かった。
「私は半チョッパリね、文字通りの」
そう言って聡美も豚足をつまみ、これも野菜にくるんで食べた。
「結構美味い店だろ」と義男は言った。
「うん、でもここ、前も豚足屋だったっけ」
「違うよ。このあたり入れ替わりが激しいんだ。それに、もし同じ経営者なら、俺はここには絶対に来られないよ」
「確かに」と僕は笑い、義男に焼酎を注いだ。
「ねえ、石川さん」と今度は聡美が義男に注ごうとした。義男は僕の注いだ焼酎を一気で飲み、そして聡美の杯を受けた。
「石川さん、洗骨ってご存じですか?」
「聞いたことはありますけど、韓国の南の方でやってた埋葬法ですよね」
「何だ、それは」と僕は言った。
「埋葬して、それで白骨化した骨を掘り出して、洗って、もう一度埋葬するんだ」
「すごいな」
「私、実は今日、父親の骨を持ってきてるんです」
僕と義男は絶句して顔を見合わせた。
「これなんです」と言って聡美がバッグから取り出したのは、昼間に買ったあの白磁の徳利セットだった。
「その徳利の中に、まさか」と義男は言った。
「まさか! これ、今日、市場で買ったんですけど、これと同じものがずっと前、家にあったんですよ。弟二人が壊しちゃいましたけど。多分、母にとっては、これが私の父親の形見だったんだと思うんです。これ、私にとっては、私の父親のお骨みたいなものなんで、お二人ともバカバカしいとは思うでしょうけど、これ、韓国の土に埋めてやりたいんです。バカバカしいとはお思いでしょうが、半チョッパリの洗骨なんです。歴史も伝統も、なんにもない、どっちつかずのアイノコの、胡散臭ぁい洗骨なんですけど」
「わかりました」と、少しの沈黙の後、義男は言った。「どこに埋めましょう」
「漢江って遠いですか」
「遠くはないです。じゃ、ここを出たら、漢江にタクシーで行きましょうか」
「私、漢江の水でお骨を洗って、河原に埋めまーす」
「そのあと、僕がお二人をタクシーでホテルまで送りまーす」
僕はやっと、僕らがひどく酔い始めていることに気づいた。
*
漢江の岸の道路にタクシーを待たせると、いちばん足許の危うくなった聡美を挟んで支えながら、僕らは堤防の階段を降りていった。漢江の水面には対岸の明かりが映り煌めき、まるで地獄のように美しかった。
聡美は河原に降り立つと、そのままペタリと座りこみ、乱暴な手つきでバッグから徳利セットを取り出した。そしてその箱を持って立ち上がり、徳利を右手に握ると、いきなり堤防のコンクリートに投げつけた。中学時代にソフトボールをやっていたという聡美のフォームは確かで、パチリ、という何か情けない音で徳利は砕け、破片が月光に白い軌跡を描いて飛び散った。
「おいおい」と僕は聡美を止めようと歩み寄った。
「わたしわぁー!」と聡美は僕を振りきって叫んだ。「日本人だぁ!」
僕は身体が硬直して動けなかった。
「日本人だぁ!」
絶叫に少し遅れて今度はお猪口が砕け、白い破片がお骨のように散った。
「韓国も日本も、嫌いだぁ! みんな死ね! 死んでしまえぇ」
絶叫と共にいくつものお猪口が次々と砕けた。
「私はアイノコだぁ、私には、国なんて、ないんだぁ!」
最後に聡美は紙箱を地面に叩きつけ、踏みつけた。僕はたまらず聡美を後ろから抱きしめ、そして泣いた。聡美は僕の腕の中で泣きながら崩れ落ちた。僕らは河原にしゃがみこみ抱き合って泣いた。見れば義男も一人、河原に伏して地面を叩きながら号泣していた。
日本の男が二人、アイノコの女が一人、漢江の河原に泥酔して、月夜に白く照らされた骨片の土に座りこんで泣いているのだった。洗骨どころか、大日本帝国の鬼哭啾々だった。
冷でしこたま飲んだ焼酎が効いてきたのだろう。記憶はここで切れる。気づいたら朝のホテルだった。
*
朝は、一年ほど前に聡美と初めて迎えた朝よりもなお気まずかった。僕らはほとんど口をきかずに食堂へ行き、胃に優しそうだからとアワビのお粥を注文した。
一匙目は信じられないほど美味かった。思ったような生臭さは全くなかった。
「美味いね」と僕は言った。
「うん」と、聡美は言って笑った。「石川さん、大丈夫だったかしら」
「憶えてない」
「私も」
「でも、僕らが無事にホテルにいるってことは、あいつも無事なんじゃないかな」
「何かあってもらっちゃ困るわ」
「どうして?」
「だって、結婚式には外せない人でしょう?」
「そうだな」と出来るだけ自然に答えながら、僕の頬は弛んだ。「日本に帰ったら、日取りとか決めないとね」
「あなたは二度目だから、段取りきちんとやってね」
「ひどい言い方だな」と僕は言って笑った。
聡美は匙の向こうから幸福そうな視線を寄越していた。僕もまたそんな目をしていたのだろう。
「本当に美味しいわ、これ」と聡美は照れたように言い、初めて見るような屈託のない笑顔で笑ったのだった。(了)
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