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短編の部屋

沙羅双樹の庭

作者:樹里
 何日ぶりに見る青い空だろうか。

 立てつけの悪い窓枠がガタガタと大きな音を立てる。無理やり開ければ割れてしまいそうに薄いガラスのゆがんだ窓を開けて、僕は風を入れた。
 湿気を含んではいるが、久しぶりの風は心地よい。陽を受けた屋根の上の物干し台には、洗濯物が白さを誇るようにはためいている。タオルでさえ、締め切った部屋から解放されて嬉しいようだ。
 照り返しのまぶしさに僕は目を細めた。

 通りの水たまりは向かいの塀越しに咲く紫陽花を映し、水たまりをのぞき込むように子供がふたりしゃがんでいる。
 あめんぼでもいるのだろうか。
 間借りしている古い小さな家の二階。焼けて色褪せた畳の上に寝転んで僕は空を見つめた。


 あの日もこんな空だった。

 父に連れられ、生まれて初めて汽車に乗り訪れたH市。そして向かったあの家。
 庭の池に泳ぐ鯉の餌を与えられ、ここで大人しくしているように父に言われたけれど、言う通りにできるほどには僕は賢く成長していなかったし、大人しくしているには勿体ないくらい魅力的に広い庭だった。池のほとりには、枝ぶりの良い大きな樹が、登ってくれと言わんばかりに僕を見下ろしていた。
 僕は母親の着せてくれたおろしたての真っ白なシャツが汚れるのも気にせずにその樹に登った。
 太い枝に座り、足をぶらぶらさせながら屋敷の瓦屋根を見下ろしていると、母屋の裏の方からそれは聞えてきた。

 僕は急いで樹から降りると、裏庭へと通じる母屋と塀の間を覗いた。
 小学校に上がっていなかった僕の背よりも高い塀が陽を遮り、降り続いた雨に地面はぬかるんでいて、土の匂いが鼻をついた。塀沿いには薄く色づいた紫陽花が花をつけている。音は先ほどより大きくなった。僕はその薄暗い通り道に迷わず入っていった。
 明るい裏庭が視界に入ると、先ほどから鳴り続けていたその音も大きくなってきた。

 そして見つけたのだ。あの裏庭の小さな部屋を。
 大きな窓を開け放し、部屋には洋風のテーブルとソファが置かれてるのが見えた。
 窓に木漏れ日を揺らす沙羅双樹が、可憐な白い花を咲かせていた。木の根元には花びらを散らせることなく、青い芝生の上に咲いているかのようにその花は落ちていた。

 今でも鮮明に覚えている。
 いや、もしかしたら何度も思い出すうちに少しずつ記憶は自分にとって都合の良いものに変わっていったのかもしれない。それほどに、あの日のことは、現実味のない一枚の絵画のように思い出される。
 そして、あの曲は、月日がたつほどに僕の耳から失われていった。
 あれから幾度となくあの曲を耳にすることはあった。けれど、どれもあの女性(ひと)の奏でるピアノとは違っていた。他の演奏を耳にするたびにあのピアノを思い出せなくなっていた。
 流れるようなアルペジオを繰り返す白い指。それだけは覚えている。

 僕は沙羅双樹の影からそっとのぞいて見ていた。
 その楽器がピアノというものだと知ったのはその後のことだ。僕がその日見たものは、初めて見るものばかりだった。
 父と乗った汽車。路面電車の走る街。そしてピアノ。初めて聴く曲なのにどこか懐かしいメロディ。
 ピアノを弾いている人の髪の色。亜麻色の髪。
 そして、その日の空と同じ。
 青い瞳。

 ピアノを弾き終えるとその女性は窓辺へ向かって歩いてきた。僕は慌てて隠れた。でも沙羅双樹の細い幹は僕を隠してはくれなかった。窓から見下ろすその女性と目が合って僕は声も出なかった。怖かった。僕の瞳を通り越して心の中まで見つめているような、ガラスのような瞳。

 その時のことはよく覚えていない。僕は何も言えずに考えることも出来ずにいたのだろう。その女性が庭に降りてきて僕の汗を拭いてくれたのは覚えている。僕の額と頬に触れた真っ白なハンカチの柔らかな感触を今でも覚えている。
 女性は僕の前にしゃがんで何か声をかけてくれたように思う。僕は女性の瞳を見ることが出来ずにぼんやりと口元を見ていた。通り道に咲いていた露に濡れた紫陽花のような薄桃色の唇。白い肩にかかる亜麻色の髪とその女性(ひと)の首筋に滲んでいた汗。そして汗とハンカチの匂い……。


 家へ帰ってからもそのピアノが頭から離れなかった。暫くして僕は母親に頼んでピアノを習わせてもらった。あの女性(ひと)のように弾きたくて。だけど、僕は数年で止めてしまった。いつまでも解読できない暗号に負けた……。五線からはみ出した音符を必死に追ったし、退屈な指の練習も毎日繰り返し弾いた。だけどシャープが一つ、二つならいいが、三つも四つもとなると指が痙攣を起こしたように拒否反応を起こした。
 僕はピアノを弾くことを諦めた。諦めたけれどピアノは変わらず好きだった。演奏会に足を運び、調律師という仕事を知ったのは、大学を卒業する一年前のことだった。父親の跡を弟に譲り、半ば勘当されるように僕は家を出た。


 なぜそんなことを思い出したのだろう。偶然なのか必然だったのか。僕はその日、あのピアノに再会した。


 畳から身を起こし、鴨井にかかったシャツを羽織ると僕は工房へと向かった。
 工房の古びた扉を開けると、気難しい親方が、いつにも増した厳しい顔で腕を組み、ピアノの前に突っ立っていた。「おはようございます」と声を掛けると、初めて僕に気付いたように「ああ、おはよう」と僕に顔を向けた。
 親方がピアノを覆っていた布を外して僕は声を詰まらせた。あのピアノに出会えた驚きと喜びと同時に言葉にならない想いが僕の胸に突き上げた。
 それは日本製のピアノではない。日本製のように黒塗りのものではなく、木目の美しいピアノ。細かな装飾が施され、燭台がついている。僕は震える手でそのピアノに触れた。心臓が波打つ。あのピアノに間違いないと思った。

 だけど、それは記憶の中の美しいピアノではなくなっていた。無数の傷があり、木目に突き刺さったままのガラスの破片。このガラスは僕が覗いていた、あの窓のガラスなのだろうか。
 あまりにも痛々しい姿だった。
 親方は何も言わずにピアノの蓋を開け、鍵盤に指を落とした。
 音は鳴る。
 親方の涙が象牙の鍵盤を濡らした。

 「このピアノ、僕、知っています」

 そう言うと、親方は初めて僕にピアノの修理と調律を任せてくれた。
 こんなに狂ったピアノは初めてだった。丁寧に丁寧に音を合わせていく。時間がかかったけれど親方は何も言わずに僕の仕事を見ていてくれた。

「いいだろう」

 親方は一言だけそう言った。
 僕は満足だった。
 それから数日後。工房への四つ角を曲がったところで、工房から漏れてくるピアノの音に僕は足を止めた。心臓がどくんと音を立てる。
 記憶の底に沈んでいたあの音が甦る。白い指。あの時のアルペジオ。あのメロディ。

 勢いよく開いた扉に驚いて、女性は椅子に座ったまま振り返った。
 黒い髪。黒い瞳の若い女性── 僕より若い。

 「あの……」

 息を上げていた僕の様子にただならぬものを感じたのだろう。女性はそれっきり声を出せずに怯えたように僕を見ていた。

 「あ、ああ……すみません」

 女性を驚かせてしまったことに恥じた僕は、頭の後ろに手をやりながら女性に頭を下げた。

「いえ、こちらこそ、勝手に弾いてしまって……すみませんでした」

 女性は立ち上がると僕に丁寧にお辞儀をした。

「あの、──今の曲」

 唐突に僕が訊ねると、女性の顔から怯えが消え「はっ?」と今度は首を傾げた。

「今の曲は……」

 女性の顔が穏やかに微笑む。

「埴生の宿という曲です」

 女性がはっきりとした口調で答えた。

「あ、いや、その……。曲のタイトルではなく、えっと、演奏法……アレンジ、アルペジオとその間奏、というか、その……」

 僕のしどろもどろの説明に女性の首はますます傾いていく。

「僕、聴いたことがあるんです。その演奏」

 僕の言葉に少し考える風をして女性は口を開いた。

「叔母をご存知なのですか」
「叔母?」

 思いがけない女性の言葉に今度は僕が首を傾けた。女性は僕からピアノに視線を戻すと、鍵盤にそっと触れた。

「今の曲は叔母が好きだった曲で、よく私にも弾いてくれた曲です。このピアノは叔母のピアノなんです」

 僕は頭の中を整理した。ということは、この女性はあの時ピアノを弾いていた女性の姪なのか。

「叔母はイギリス生まれで、戦争が始まる前に叔父と結婚して日本に来ました。このピアノと共に」

 女性はゆっくりと話し始めた。
 その叔母がH市の家で、戦時中は隠れるように生活していたこと。そこで小さかった彼女がピアノを教わったこと。戦争が終わったら一緒にイギリスへ行こうと話していたこと。そして、あの日、良く晴れたあの日、青い空に広がったきのこ雲の下、亡くなったこと──


 あの女性はどんな想いでこの曲を弾いていたのだろうか。
 遠い異国の地で、敵国となった国で、故郷を想いながら弾いたのか。それとも日本のあの、沙羅双樹の咲くわが家を想いながら弾いていたのだろうか……。


「こんなに傷がつくなんて、どれほど痛かったでしょう……」

 女性はいたわる様にピアノに触れた。
 それからハンドバックからハンカチを取り出し「ありがとう。叔母の為に泣いてくれて」と、僕に差し出した。
 いつの間に、僕の頬に涙が伝っていた。
 僕が受け取れずにいると、女性は白いハンカチでそっと僕の頬に触れた。あの時と同じ匂いが鼻腔をかすめた。

「もう一度弾いて頂けますか」

 僕がお願いすると、女性は小さく頷いてピアノを弾いてくれた。女性の白い指をしばらく見つめていた僕はゆっくりと目を閉じた。記憶の中の音と女性の奏でる音が重なっていく。

 ピアノの演奏を終えると女性はまた僕にお辞儀をした。

「ありがとうございます。このピアノを甦らせて下さって。もう処分してしまいなさいと皆に言われておりましたの。それを、叔母をご存知の方に直して頂けるなんて、叔母のお導きかしら」

 女性はそう言って僕に微笑んだ。血は繋がっていないのだろう。面差しは似ていないがどことなく亜麻色の髪の女性を思わせる仕草。

 僕は女性の黒い瞳を真っすぐに見つめながら訊ねていた。


「あの……あなたのお名前を教えて頂けますか」

 




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