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第4章 アスラン・ミッテルレガント

『君が姫巫女だということを、私は知っている』

『ち、違います。わたしは姫巫女なんかじゃありません』

 ここで男は何故か、くすりとおかしそうに笑った。

『まあ、とりあえず一応そういうことにしておこうか。でもね、私は君のために一言忠告しておこうと思うんだ。君が私の妹の二の舞にならないためにも……』

 ミュシアは黙ったままでいた。読んでいたのは、ミッテルレガント王国で使われている異本聖書だった。

『私の妹は、あのハーフエルフの君に恋をして、それから捨てられたんだよ。彼ってさ、ほら、優しいだろ?でもあの男は本当は残酷なんだよ。人をすっかりその気にさせておいて、最後に興味がなくなったら捨てちゃうんだ。たぶんそうやってずっと生きてきたんだろうね……ハーフエルフって千年くらい生きるらしいけど、その間にその時の気分次第で興味を持った人間に一時期引っついては離れるっていう、その繰り返しなんじゃないかな。そして今彼は姫巫女である君に夢中になっているのかもしれない。でも、それもまた彼の熱が冷めるまでの話なんだから……君も注意したほうがいいよ。私の妹のようにならないためにも』

『……………』

 ミュシアはやはり黙ったままでいた。男の言っていることのどこまでが本当で、どこまでが嘘なのかわからないと思った。それに、姫巫女と呼ばれたことで、ひどく動揺してもいた。

『今月は謝肉祭がある月だね。ルシア神殿の巫女たちは、第十三月の十三日には断食するんだろう?それから新年を迎えるまで、特に身を清めて過ごすって聞いてるよ。でも君は今、それどころじゃないっていう感じかな?まあ、私はそう堅苦しい人間ではないから……君さえよかったら、仮面をつけて一緒に町へ出かけないか?一度仮面をつけさえすれば、君が姫巫女だなんて、誰も気づかないだろうしね。もっとも、そんなことは私を含めた極一部の人間しか知らない事実かな』

 この時、前の座席の椅子が引かれ、シンクノアがオッホン、ウォッホンと白々しいくらい咳をつきながら、そこへ座った。

『おや。どうやら君の、赤い瞳の用心棒殿が戻ってきたようだね。それでは、わたしはこれで失敬させていただくが……先ほどの話、よく考えておいてくれたまえ』

 ――そのあとミュシアは、シンクノアにあの男に何を言われたのかと聞かれたけれど、うまく答えることが出来なかった。それに自分が何故泣いているのかもうまく説明することが出来ない。

(あの、名前も知らない人に言われたことが、どうしてわたしはこんなに悲しいんだろう?センルさんが、その時々で興味の持った人とつきあうのは、むしろ当然のことだし、彼の自由でもある。それに、わたしはこれまでの旅の過程で、センルさんの優しさにずっと甘えっぱなしだった。にも関わらず、彼を責める権利なんて……)

 そこまで考えて、ミュシアはハッとしたように顔を赤らめた。汚物はホテルの外にあるゴミ捨て場に捨て、あとは井戸から汲んだ水でそれを綺麗に洗った。けれど、この陶器の洗面器は三人が共同で使っているものなので――もう同じ用途のためには使えないだろうとミュシアは思った。

 ズボンのポケットに手を差しこむと、そこにはクラウン金貨が数枚入っていることがわかる。雑貨店へいって、これで新しい洗面器を買ってこなくちゃとミュシアは思った。

(このお金だって、元はセンルさんのものなのに……わたしはまるで最初から自分のものであるみたいに使ってしまっている。彼が良くしてくれるのをいいことに、いつの間にか思い上がっていたんだわ)

 ミュシアはその場に跪くと、両手を組み合わせ、神に対して懺悔の祈りをした。ホテルの勝手口のところに、白いローブを身にまとった男がいることにも気づかず、彼女は五分以上もそうしていただろうか。

(神聖な空気を乱すようで、申し訳ないけど)と、アスランはそっと気配を消して、ミュシアの背後に近づいていった。(こっちもあまり時間がないのでね)

 相手の意識を奪うための精神魔法の呪文を唱えると、アスランはミュシアの頭の後ろのほうで呪文の完了を示す印を切った。彼女の白い首筋にその印が吸いこまれるようにして消えると、ミュシアはそのまま、井戸の横にガクリと倒れてしまう。

「まあ、まだ完全に育っていない娘に手をだすのは、私の趣味ではないけれど……」

(この際仕方がない)と思い、ミュシアのことを抱きあげると、アスランは自分がここ一か月ほど居室としている、ヤースヤナ・ホテルの<ブリンクの間>へ上がっていった。モザイク模様のタイルが嵌めこまれた階段を上がる前に、彼は重力魔法を使ってミュシアの体を軽くしていたが、実際のところその必要もないくらい、彼女の体は軽いとアスランは感じていた。

「アスランさま、その女性は一体!?」

 部屋に入るなり、侍従のマトヴェイがそう叫んだ。アスランはただ目線だけで化粧漆喰の施された白い扉を開け、また閉めた。彼はミッテルレガント王国の魔導院をトップで卒業しただけあって、騎士として剣術に通じているだけでなく、魔法のほうもかなり上級な呪文まで唱えることが出来たのである。

 国民は彼が次代の王となることを待ち望んでおり、その期待のことを思えば、こうした他国への隠密行動というのは避けられてしかるべきであったに違いないが――彼は弟のルスランにこの任務を任せることだけはどうしてもしたくなかったのだ。何も、弟に何か手柄を立てさせるのが嫌だったとか、そういうことではない。というよりむしろ、自分の身に何かあっても弟がいるという安心感がアスランの行動を常に支えていたとさえいえるだろう。

 だが、飛空艇の一団が西の方角からやって来て、自分たちミッテルレガント王国の領土を越え、ルシアス王国へ竜が飛んでいく姿を見た時にも……国が誇る魔導騎士の一団は、文字どおり何もすることが出来なかったのだ。

 ロンディーガ王国には、蒼の魔導士のセンルという男が立って以来、攻め入ることが叶わず、ナーガ・ラージャ王国にはヴァルダという名の賢い女王が君臨して以来、別名血塗られ峠とさえ呼ばれるタハリール山脈での戦闘はぴたりとやんだ。つまり、ここ数十年もの間、平和な期間が長く続いたことで――ミッテルレガント王国は国防に関してよりも、享楽的な方面に随分無駄なお金を使うようになっていたのである。

 たとえば、ミッテルレガントの王都だけでなく、ある程度大きな町には意味のない尖塔が随分たくさん聳えていた……これは貴族たちが競ってどちらがより高い塔を築けるかと遊び半分に作っている実用性のあまりない石造りの塔であった。途中で貴族たちが飽きて、意味もなく放置されているそれらの塔があちこちの町で随分見かけることが出来ただろう。また、これもまた一種の王のご機嫌とりとして、数年前に魔導士連中がはじめたことなのだが、高く積み上げた塔の上から魔法の力で気球を飛ばすという遊びが流行しはじめた。

 だが、あの飛空艇の威力に比べたら、そんなものはただの子供だましのお遊戯みたいなものだと、アスランは痛切に感じていた。そして、自分たちはまったく今まで何をしてきたのかと、目を覚まされるような思いがしたのである。

 歴史ある魔導騎士の一団の名にかけて、飛空艇が攻め入ってきたにも関わらず、何も出来ずにそのまま国が滅んだなど、アスランにとっては絶対あってはならないことだった。そこでカルディナル王国へ忍んでやって来、ブリンクのエリメレクに公邸で直接会見したいと申し出たというわけなのである。

「マトヴェイ、少し外へ出ていてくれないか?私はこの女性と、少し込みいった話があるのでね」

「わ、わかりました。ですが、この方は……」

 アスラン王子の侍従であるマトヴェイは、魔導騎士としての将来が嘱望される、才能豊かな若者であったが、性格が一本気で特に女性に対してはまったく奥手であった。もちろん、アスランはそうした彼の気質を愛していたが、マトヴェイが多分に女性というものに幻想を抱いていることに対しては、(あまり感心しないな)と感じてもいる。

「そうだよ。この方が他でもない<姫巫女>殿さ。彼女をミッテルレガントへ連れて帰れば、父上は狂喜して喜ぶだろうな。まあ、母上は面白くない顔をするに違いないが……なんにしても、私にはそのつもりはないよ。例の<蝕>と呼ばれる流行り病いを彼女に鎮めてほしいと思う気持ちはあるが、ミッテルレガントに姫巫女あり、などということになったとしたら――すぐにルシアス王国のレグナ大公率いる軍と衝突することになるだろう。今は聖五王国間でもめている時ではないからな。なに、私は彼女に対して、少しばかり質問があるというそれだけだ。マトヴェイが心配するようなことは何もしない……仮にも相手は<姫巫女>さまだからな。流石の私にも、そのくらいの分別はある」

 それでもマトヴェイは、これまで何人もの女性が彼に夢中になる姿を間近で見ているだけに、見目麗しい自分の主人の言い分を、すぐには信じられなかった。そこでアスランは、深く嘆息した。

「マトヴェイ、おまえの気持ちはわかるが、いいから早く町の酒場にいって、ビールでも一杯引っかけてくるといい。わかったね?」

 やんわりとした口調の中に、若干の厳しい棘のようなものを感じ、マトヴェイは軽く頭を下げてから、<ブリンクの間>より急いで退出していった。

 アスランは続き部屋となっている寝室のベッドにミュシアのことを横たえると、暫くの間彼女の眠る姿をじっと観察していた。美しい娘だとは思うが、特に食指を動かそうと思わないのは、この娘がやはり姫巫女だからだろうかと、アスランはふと考える。

 とはいえ、千年前にあった秘法探索行でも、三千年前にあった探索行でも――秘宝の保持者たちが姫巫女を巡って争ったという記述があるくらいだから、何がしかの性的な魅力を感じさせるものは、おそらくあったに違いないと、アスランはずっと以前より推測していた。

(亡くなられた先代の姫巫女リリア殿は、絶世の美女だったという噂だが……この娘には、そういうところはないな。というより、まだ顔立ちも幼く、成長段階であることが見てとれる。あと五年もすれば、さらに美しくなるやもしれぬが、どうだろうな。私は基本的に自分よりも年下の娘には興味を持てない質だから)

 ここでアスランは、水面下で縁談の進んでいる、ミッテルレガント屈指の名門貴族、レイテハスキル家の令嬢のことを思い浮かべた。

(あの娘は、確かに美しいことには美しいが、ただそれだけだな)というのが、自分の将来の結婚相手に対する、アスランの第一印象であった。そして、自分は王家に生まれた者の務めとして、それなりの家の出の娘と結婚せねばならないし、まあまあ悪くなく国を治め、国民からも慕われた賢王としてその生涯を終えるであろうと、そのようにアスランはよく想像していたものだった。

 ところが、例の飛空艇と竜の中央世界への襲撃があって以来……アスランは眠られぬ日々が続いた。何故よりにもよって自分が王を継ぐという御代にこんなことが起きたのかと思った。心の中で神を呪いさえした。だが、ルシアス王国の聖都が滅んで以来、随分長く敵からの攻撃が行われないのを見て――むしろこれは神が与えた好機ではないかと、考え直すことにしたのである。

 逆に考えたとすれば、ある意味ミッテルレガント王国の歴史にもっとも偉大な王として名を残すことになるかもわからないからだ。それに、姫巫女……アスランがミュシアのことを姫巫女かもしれぬと知ったのは、ほんの偶然のある出来事からだった。

 アスランは侍従のマトヴェイに、暖炉の火をもっと燃すようにいつも命じるのだが(というのも、彼は寒がりだったので)、午前中もある程度の時間がやってくると、部屋の中はむしろ蒸し暑いくらいになっている。そこでアスランは、ベランダに通じる窓を開けて、今度は少し涼むのであった。そしてその時、ひとつ下の階にある<ロダールの間>のベランダからは、人声の聞こえてくることがよくあったのである。

「センルさん、今ベランダの柵の上に、セキレイが止まっていたんですよっ!」

 可愛い女の声だと思うのと同時に、(センルだと……!?)という思いが、アスランの心に憎しみとともに燃え上がった。

「あ、でもすぐ飛んでいっちゃったんです。いつも雀ばかりだけれど、時々違う鳥がやってくると、嬉しいものですね」

「そうか。じゃあ少し、おまえのために変わった鳥を呼んでやろう」

 ――その後、どこからともなく数羽の鳥がやって来て、下のほうからは盛んに数種類の鳥の囀る声が聞こえてきた。アスランは、センルという名の蒼の魔導士が、おそらく自分の妹にも似たようなことをしていたのだろうと思い、ここでまたさらに腹立ちが抑えがたくなった。

 アスランが王立図書館でミュシアに話したことは、一部分本当のことである……彼には年の離れた弟の他に、目に入れても痛くないほど可愛がっていたベスランという名の妹がおり、彼女はわずか十六歳で当時即位したばかりのシグムント王の元へ嫁いでいった。

 彼女が実際の年齢以上に幼かったためだろうか、王は結婚してもすぐには可愛いべスに手をださず、彼女が精神的に大人になるのを待っていたようなところがあったらしい。具体的なことは手紙に何も書かれていなかったが、アスランはなんとなくそうなのではないかと感じとっていた。そして敵国にも近い他国に嫁いでいった妹の手紙は、次第に狂乱の様相を呈するようになってきたのである……つまり、彼女が愛しの兄に送る手紙の内容の約八割が、宮廷で時折見かけるハーフエルフの君のことで占められるようになっていったのだ。

 ベスランは、自分にはリエラ王妃の気持ちが痛いほどよくわかると繰り返し手紙に書いていたが、そのような妹の文章を読まねばならぬ兄としての自分のほうが、よほど痛いと彼はよく感じていたものだ。

 リエラ王妃といえば、二百年も昔に生きた女性ながら、音に聞こえし美姫として、ミッテルレガントの宮廷内に、肖像画の傑作を幾枚も残しているほどの女性であった。アスランは幼い頃より、その絵を見るたびに激しい憧れの気持ちをかき立てられたものである。そして彼女のような女性になら、たとえ世間に愚か者とそしられようとも、自分のすべてを与えてしまうだろうと、そのように夢想することもしばしばであった。

 アスランの妹のベスランのことに話を戻すとすれば、ハーフエルフの君はその後ふらりと旅へ出ていってしまい、いつ戻ってくるかもわからず、そんな寂しいべスのことをシグムント王が慰めたということらしい……なんにしても今、ふたりの間には跡継ぎの子も誕生し、ベスランはハーフエルフの君からは卒業したようだとアスランにはわかっていたが――それでも妹のべスから気の狂ったような手紙が送られてくる間、アスランは兄としてまったく気が気ではなかった。

 蒼の魔導士のセンルとやらが、二百年も昔の愚行(かどうかはわからないが、ある世間的な尺度をもってすればそうであろう)をまた繰り返すつもりではないかと思い、シグムント王に直接、この由々しき事態をあなたはどうお考えになっておられるのかと、問いただそうと思ったことさえあったほどである。

 そうした複雑な事情とともに、アスランにはミュシアともルークとも呼ばれる女性が、どうやら本当に姫巫女らしいと彼らのベランダでの会話を盗み聞くことにより、はっきり確信した瞬間があった。

 蒼の魔導士が何かとても怒った口調で、「仮にもおまえは姫巫女なのだから、もっと自分のことを大切にしろ!」といったようなことを言ったのである。そのあとに続いた会話で、アスランはセンルという名の魔導士とミュシアという姫巫女らしき女性の力関係のようなものが、はっきりわかった気がした。

 それまでにも時々、彼らの話すことを聞いていて、それとなくわかっていたことが、はっきりとした確信に変わったと言ったほうがいいだろうか。姫巫女はおそらく、自分の妹のベスランのように、恋に恋する初心な乙女心をもってハーフエルフの君のことが好きなのだろうし、彼のほうでは姫巫女のことを妹か何かのように可愛いと思ってはいるが、それ以上の感情は持っていないのだろうと……。

 三千年ほど前、国が滅亡しかけた時も、千年前、為政者により国を追われた時にも、姫巫女は秘宝探索行が終わったあと、国を再興するため、聖都ルシアスへ戻ってきているのだ。ということは、ふたりの間でこれからどのような形で愛情のようなものが形成されようとも、彼らが結ばれる結末というのはないのだろうと、アスランは漠然とながら想像した。

 アスランにしてみれば、自分の祖先が騎士道精神を掲げつつ、二度とも姫巫女に振られるような形になっていることから、子孫の王子である自分が今度こそは姫巫女の愛を勝ち得てみたいという強い欲求があった。レイテハスキル家の令嬢と、今ベッドの上に横たわっている、幼な顔の姫巫女の五年後を天秤にかけるとしたら、ミュシアのほうが彼にとっては目方が重くもある……それに、二百年にも渡ってミッテルレガント王国の領土を封じこめている、センルという名の魔導士に横から姫巫女を奪うことで復讐してやりたいという気持ちもあった。

(だが、どうも駄目だな)と、アスランは溜息を着いた。(私としたことが、どうしてもそういう気持ちになれない……この娘がもしかしたら、少し神聖すぎるそのせいなのかもしれないが)

 アスランは、ミュシアが井戸端で膝をついて祈っていた姿を思いだし、なんとなく胸の痛むものを感じていた。千年前の秘宝探索行の記述にも、三千年前の探索行の聖書の記録にも――姫巫女はただ、姫巫女としか書かれておらず、特に名前すら後世に残ってはいないのだ。歴史に名前すら残らぬことのために、彼女がこれからどれほど労し、長い旅を続けていかなければならないかを思うと……<聖竜の盾>などただでくれてやろうというのが、アスランの本心ではあった。

 だが、アスランは仮にも一国の王子でもあったため、それは彼ひとりの独断によっては決定できないことでもあった。また、蒼の魔導士センルに対する複雑な感情もあり、アスランは今、たったひとつの自分にとって「気の済むこと」を行うことにより、センルに対する自分の意志決定をそれに委ねることにしたのである。

 つまり、<ブリンクの間>のドアに閉錠呪文をかけ(ただ普通に鍵をかけていただけでは、危機感をあおることは難しいと思ったので)、アスランはミュシアの男物の服を、少しだけ脱がせておくことにした……その過程で、彼は少しだけ(惜しいな)と思いもしたが、蒼の魔導士センルがこの部屋へ入ってくるなり血相を変えるところを想像し、アスランはその気持ちを抑えることにしたのである。



(精神魔法のひとつに、自分の言った言葉をひとつひとつ落としこんで、それをすっかり相手に信じこませるというのがあるが)と、ミュシアが部屋から出ていってから、センルはソファの上で考えていた。(もしかしたらミュシアは、アスラン王子に何か暗示をかけられたのかもしれない。精神魔法に抗しようとすると、熱がでたり吐き気を催したりするのが普通だからな。まあ、あの王子がおそらく私に関することでミュシアに何か言っただろうことは、間違いないと見ていい……リエラ王妃のことか?それとも……)

 リエラ王妃のことに関していえば、ロンディーガ王国の歴史の中でもあまりに有名すぎることなので、センルとしても特に隠す気持ちはなかった。というより、いまだに歌にも歌われているくらいなので、そのうちミュシアの耳に入ったとしてもまったく不思議のない話でもある。

 ただ、ミュシアには人の内面を理想・美化して見たがる傾向が強いので、その分幻滅した時の反動も落下速度が速いのかもしれないとは、センルも思っていた。

(まあ、あの娘の頭には、私が通常の恋愛くらいはしたことはあったとしても、まさか自分の主君の妃と長く不倫関係を続けるなどというシナリオは、思いつきもしないだろうからな)

 その上、その相手のことをいつまでも忘れられず愛しているかといえば、二百年も経てばそのようなこともなく――かつて過去にそのようなこともあったと、割り切った目で見られる男の気持ちなどというものは、まだ十六歳の娘には、まるで想像も出来ないことだろうとセンルは思う。

(なんだろうな。果たして、汚らわしいとでも思われたのかどうか……)

 ミュシアに「優しくしないでくださいっ!」と言われた時、自分で思っていた以上に、深いショックを受けたことにセンルはショックを受けた。というか、そうした新鮮な感情を胸に覚えたこと自体、ここ数十年絶えて久しいことだったのである。あれも経験すればこれも経験したし、自分にとって少しでも興味があると思われることは、どんなことでも徹底的に追求してきた。また魔導士として世界中のあの場所・この場所へ旅もしてきたし、これ以上自分が知りえることなど、もはやそう多くはないとさえ、センルは思っていたものだった。

(だが、やはり人間の心というものは、何百年生きようとわかるものではないということか。まあ、若い娘の心理についてなど、今よりずっと若かった頃から研究しようなどと思ったことはないのだから、当然かもしれないが)

「ミュシアちゃん、なんかおっそくねえか?いつもいつもベタベタ張りついてるってわけにもいかないから、時にはひとりになる時間ってのも必要かなって思ってたけど……俺、ちょっと下の井戸のあたりとか見てくるわ」

 そう言ってシンクノアがソファから腰を浮かせかけた時のことだった。コンコン、と部屋のドアがノックされたのである。

「あの、すみません」と、紺地に銀ボタンの制服を着た、ボーイの少年がそこには立っていた。「僕、ずっと何かにつけてチップをもらっていたのに、今ごろこんなことを言うのはどうかっていう気もしたんですけど……なんかやっぱり心苦しいっていうか、良心が痛んじまって」

 センルにとっては、彼にチップを多めに与え続けたことは、自分に対する保険のようなものであった。そうしておけば、彼は他の誰にも余計なことを話さずにおいてくれるだろうと計算していたのである。その彼が心苦しくなるということは――(まさか!)とセンルは思った。

「今から一週間以上前のことになるんですけど、上の<ブリンクの間>に宿泊中の方から、<ロダールの間>には今どんな人間が宿泊しているのかと聞かれまして……あんまりお金を弾まれたもんで、俺、ついうっかり喋っちまって」

 センルはそれ以上少年の話をすでに聞いていなかった。扉が壊れるのではないかというくらい、バタンとそこを開き、廊下を通り抜けるとモザイク模様の階段を足早に上っていった。

<ブリンクの間>の扉に閉錠呪文がかかっているとわかり、センルの気持ちはさらに急いた。かけられている魔法の効果よりも強い呪文を唱え、そこを押し開くと――暖かい毛織物の敷かれた床の上には、ミュシアが普段はいている靴が、少し離れたところに不自然な形で落ちている。

 当然、これをアスランの演出と知らないセンルは、続き部屋となっている寝室のドアを、ほとんど蹴破らんばかりにして押し開けていた。

「貴様……っ!!」

 寝室の窓が開き、そこから風とともに雪が舞いこんできた。アスランは長く母国の仇と教えこまれてきた男の姿を前にして、思わずたじろいでいた。

(こいつが、蒼の魔導士……!!)

 この時アスランは、効果を上げるためにミュシアの服を少しばかりはだけさせておいたことを、すぐに後悔した。この魔導士にとっては、姫巫女が見知らぬ男の寝室で寝ているというだけでも、すでに十分だったのだ。

 だが、物々しい音の響きに、ミュシアが目を覚ましてくれて助かったとアスランは思った。魔力の差からして、自分が到底叶う相手ではないと彼はすぐ悟っていたが、それでも無様に床へ打ち据えられるような場面だけは避けられたことに、感謝せずにはいられない。

「ミュシア、おまえ……」

 それ以上のことはどうやら、蒼の魔導士の中で言葉にならないようだった。彼はどこか愛しそうな仕種で、姫巫女の髪を整えてやり、何気なく服のボタンを留めてやったりしている。

 姫巫女のほうはといえば、まだどこかぼんやりしており、意識が半分しか戻っていないような状態だった。おそらく、何かおかしな飲み薬でも含まされたと誤解したのだろう――センルがアスランのほうをギロリと冷たい眼差しで睨んでくる。

「違う、違う!」

 アスランは自分でも若干情けなく聞こえる声で弁明した。

「私は本当に何もしていない……というより、正確にはあんたを試したかったっていう、それだけなんだ。蒼の魔導士センル、あんたがその子のことをどのくらい深く思っているのか、それがただの一時的なものなのかどうか、それを知りたかった」

「くだらんことを……」

 センルは唾を吐き捨てるようにそう言い、ミュシアの額に手をあてると、熱冷ましと吐き気止めの呪文を唱えていた。途端、姫巫女ははっきりと覚醒し、ベッドの上に体を起き上がらせると、なんのためらいもなくセンルの首に両手をまわして抱きついた。

 アスランにしては珍しいことだが、この時のミュシアの様子があまりに艶めかしいように感じられて――彼は一瞬ドキリとしたほどである。

「ごめんなさい、センルさんっ。わたし、さっきひどいことを言ってしまって……」

「いや、そんなことはどうでもいい」

 そう言ってセンルは、そのままミュシアのことを抱き上げると、アスランの前から去っていった。ふたりとも彼には一瞥もくれなかったが、アスランは特にそのことを屈辱的とは感じない。というより、彼らは自分たちでは気づいていないのだろう――お互いの間に絆という名の糸がしっかり結ばれており、それを他人が無理にほどこうとすればするほど、それは強く結びつく性質を持っているということに。

「やれやれ。ご先祖さまに引き続き、これで計三連敗ということになるな」

 アスランは自分の完敗を認めつつ、それでいて妙に清々しい気持ちでもあった。最初はただ「考えさせてください」とブリンクのエリメレクには答えていたが――<聖竜の盾>と引き換えに、例の飛空艇を追い散らす策というのをあの魔導士に伝授してもらうのも悪くないと、初めてそう思った。

(そのかわり、元はしっかり絞り取らせてもらわないとな)

 アスランは寝室の窓を閉めると、そこから白い花びらのような牡丹雪が舞うのを眺め、マトヴェイが戻ってくるまでの間、どうやったら最大公約数の好条件を相手から引きだせるかと、何度も頭の中で組み立て直した……そう、ミッテルレガント王国の次期国王は、実に外交手腕に優れた王として、これから諸国にその名を響き渡らせていくことになるのであった。




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