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第3章 円卓の魔導士

 センルが王立図書館の二階にある通路から、魔導院生の寮にまで歩いていくと、通りすがった何人もの魔導生たちが蒼の魔導士である彼のことを振り返って見た。

 それもそのはずで、魔導学院の最高府である大学院を卒業したあとでも、授与される魔導士の階級というのは、大抵の場合せいぜいがリディルかナディーン止まりくらいなものである。国にひとりしかいないブリンクは別としても、王立図書館の最上階にある知識の殿堂――蒼の図書室の書架を自由に出入りできる魔導士は、実際数が少ないというだけでなく、彼らの姿を図書館内で見かけることさえ稀であった。

 というのも、蒼の魔導士というのは、間者として他国に放たれるか、王府で役人として働くか、あるいは闇の魔導士を狩るといった職務に就いていることが多く、王立魔術院で教職に就く者はほとんどいないといっていいのである。

 センルは魔導教員たちの宿直室まで来ると、そこにある空間転移魔法陣の上で両の手をひらを合わせ、ワープのための呪文を唱えた、途端、六芒星魔法陣が青く光り輝きはじめ、センルは次の瞬間にはまったく別の場所にいた……すなわち、カルディナル王国のブリンク、エリメレクの公邸にある<魔導会議室>に、である。

 このエリメレクが普段公務を行っているとされる魔導邸もまた、王立図書館と同じく外の見た目と中とがまるで違う空間の広がりを持っていた。というより、まさかこれが国の最高魔導機関府ではありえまい……といったような、公邸はそのような蔦の絡まった木造の外観をしている。そして、とても小さくもあるのだが、一歩玄関口から足を踏み入れるなり――そこは床にも壁にも白い聖石のみが使われた、無限のようにも思われる広い空間が存在しているのだった。

 エリメレクはセンルの到着を予期していたのか、空間転移魔法陣のある脇部屋前で彼のことを待っていた。そして挨拶もそこそこに「まあ、色々と言われなさるだろうが、その点はぐっと堪えて我慢してくだされよ」と、苦笑しながらセンルに微笑んだのであった。

「その点は、十分承知の上です」

 センルは軽く溜息を着きながら、エリメレクに短くそう答えた。

<魔導会議室>では、センルと同じロダールの位を持つ、円卓の魔導士と呼ばれる十人の魔導士たちが顔を揃えていた。この十人の蒼の魔導士のうち、マキラという名の四十代の女性以外、全員が男性だった。七十を過ぎているエリメレクに年齢の近い魔導士ふたりが、ゼファルとカドミエル、六十代くらいに見える魔導士ふたりがエレドとセヴァルダ、五十代半ばほどに見える魔導士ふたりがガリューンとスクナ、四十代ほどに見える魔導士ふたりがナシールとオレグ、そして一番年が若く見える最後のひとりがセリュオンという名の男であった。

 みな、それぞれ思い思いの顔をして入室してきたセンルのことをちらと眺めやっていた――だが、そこはやはりくだんの魔導士というべきか、彼らの顔の表情を順に追っていっても、センルには彼らが内心思い計っているであろうことが、さっぱり読めないままだった。

「これだけの顔ぶれを十分以上も待たせるとは、ロンディーガの宮廷魔導士殿はよほど礼儀をわきまえたお方と見える」

「そうよのう。流石、その昔破門にされただけのことはあるわ」

 ゼファルとカドミエルが、まるで呼吸を合わせたようにそう言い、互いに笑いあった。そして年長者の彼らの笑いが伝達したように、他の象牙の丸いテーブルを囲っている面々も声にだして笑った。

 けれども唯一、マキラという名の女魔導士だけが変わらずに厳しい顔の表情を保っていた。彼女は魔導士界というのは上にいけばいくほど嫉妬の情が強まる社会であるというのを、嫌というほど思い知っていたからである。

「なんにしても、すっぽかされなくて結構であった」と、マキラは感情を窺わせない鉄のような冷たい声音で言った。どうでもいいことかもしれないが、彼女は陰で<鋼鉄の魔女>と仲間から渾名されていた。「ロンディーガの宮廷魔導士よ。例の禁術の件に関してだが――我らの間で討議した結果、そなたの思うつぼということになったぞ。喜ぶがいい」

 マキラは他の円卓の魔導士たちの機先を制するように、先にそう結論部分を述べた。というのも、彼女には他の蒼の魔導士たちが焦らしに焦らしてから最後にその結論部分を述べるであろうことが、よくわかっていたからである。

 これには、ゼファルとカドミエルだけでなく、セリュオン以外の円卓の魔導士たちも流石に面白くない顔をしたが、マキラはまったく素知らぬふうであった。

 唯一、エリメレクだけが内心(マキラが面倒な手間を省いてくれて助かったわい)と思っていたような具合である。

「しかし、ですな」と、疑い深そうな緑の瞳に、茶色の薄い頭髪をしたエレドという男が言った。彼の役職は王府の魔導管理官である。「あなたの知恵とエリメレクさまの知識を合わせて<隕石落としの術>(メテオフォール)が完成したのは結構なことですが……やはりこの術は危険すぎるとわたしは思っています。大体、目標に必ず当たるかもわからず、一歩間違えば甚大な被害が市民に及ぶのですぞ」

「その点については、これまで何度も話しあってきたではないか」

 再びマキラが声にだして意見した。センルはこの時彼女の顔にうんざりとした表情が浮かぶのを見て――同じ問いが何十度となく繰り返されたのだろうと察していた。

「<地の崖ての民>とかいうふざけた連中に、カルディナル王国を滅ぼされてしまったのでは、元も子もない。それよりは、一部に被害は出たとしても竜を撃退できるチャンスに賭けたほうがまだしも得策というものだ……というのが、我々が出した結論だったではないか」

「ふん。マキラよ、随分ロンディーガの宮廷魔導士殿の肩をお持ちになるな。もしやエルフの色香に惑わされたのではないか?」

「なっ……貴様、何をいうか。今の侮辱的な言葉、すぐに取り消せ。わたしは母国の将来のことを思えばこそ、こうして呼び出しに応じ、わざわざイツファロ王国から戻ってきたのだぞ」

 ナシールはマキラと同窓生であったが、その頃から常にライバル関係にあり、彼は彼女にすべての魔導教科において勝ったということがなかった。つまり、いつも二番手だったのである。センルはそうした細かい事情のことなど、露ほども知りはしなかったが――このふたりがもともと馬の合わぬ仲であるらしいというのは見てとっていた。

「まあまあ、落ち着きなさい、ふたりとも」

 睨みあうマキラとナシールの間にエリメレクが割って入った。

「<地の崖ての民>とやらが次にもし攻め入るとしたら、どこの国かといえば……我らカルディナル王国よりは、ミッテルレガント王国かロンディーガ王国である可能性が高い。そうでしたな、センル殿?」

「ええ。そう思います」

 センルは自分と同じ位の蒼の魔導士たち十人を見回して答えた。二百年以上もの昔は、円卓の魔導士と呼ばれるこの十人のひとりに選ばれたいと思っていたものだったが、今はそうならなかったことがまったく残念ではなかった。

「カルディナル王国は誰もが知ってのとおり、魔法の防備が非常に強い……また、それだけでなく魔法の力と竜たちの力、また奴らの操る飛空艇とがどういう連鎖反応を示すか、<地の崖ての民>にもわかっていないというのが実情ではないでしょうか。私がエリメレク殿から得た情報を精査して思うに――彼らの間で魔法の力のようなものを使ったという痕跡はないように思われる。では、一体彼らはどんな力を使って飛空艇を空に浮かべて移動しているのか、ということに当然なりますね。おそらく、竜を従わせているのは、魔法の力によってというのではなく、彼らしか知らない特殊な飼育法によってでしょう。また飛空艇には我々にはまだわからない、だが魔法の力に近い動力源があるのだと思われます。その力と魔法の力がどう引きあうかわからない、また竜たちが魔法の磁場の強いこの国で完全に彼らの制御下にいるものかどうか……100%絶対に近い安全ということを考えれば、私が奴らの国の軍師であったとしたら、カルディナル王国のことは少なくとも後回しにすると思いますね」

「だが、奴らはそうした我々の思いの裏の裏をかいて聖都を滅ぼしたんですぞ」

 闇のように黒い瞳をした、オレグという魔導士が言った。しゃちこばったような黒い髭を伸ばしているが、髪の毛が後退しているせいもあってか、それはあまり彼に似合っていない。

「今度もまた裏の裏をかいて我がカルディナル王国の王都を攻め滅ぼさないなどと、一体誰に断言できるものですかな?」

「そうとも」と、オレグの隣の席に座るガリューンが言った。彼は顔に大きな傷痕があり、それは魔鳥ハルピュイアと戦った時に出来たものだと人から噂されている。瞳の色は灰色で、長い髪のほうは白髪だった。「国防といったものは<もしも>と<万が一>ということを考えてこそ、万全の姿勢が整うというもの。ロンディーガの宮廷魔導士よ。この取引はどう考えてもそなたの国のほうに利が大きいように思われてならぬな。何故なら、我らは<隕石落としの術>などという危なっかしい術など使わずとも、十分魔導の力によって飛空艇を操る連中と渡りあうことが可能かもしれぬ。ロンディーガは国土の約三割が砂漠地帯……そこに隕石郡を降らせてそなたが自国を守りたいと考える策は理解できる。その際にカルディナル王国の有能な魔導士を貸しだしてほしいという気持ちもな。だが、メテオフォールというのは実に危険な術だ。また何故この魔法が禁術といわれるのか、当然その理由についてはそなたも知っていよう?」

「もちろんです、ガリューン殿」

 センルは実際には彼のほうが二百数十歳年下でも、年長者を遇するかのように恭しい態度で言った。

「我がロンディーガとミッテルレガント王国は、西境にある移動する砂漠のオアシスを巡って長く国境を争ってきました。このオアシスはある時にはミッテルレガント王国のものとなり、またある時にはロンディーガ王国のものとなり……まあ、歴史に弄ばれるような形で、数奇な運命を辿ってきたのですね。そこで私は、常々こう考え続けていたのですよ。オアシスの町々に防御魔法を張り、そうした上で<隕石落としの術>を使ったとすれば――ミッテルレガント王国は二度とオアシスの町を自分たちのものにしようなどとは考えまい、と。ですが、やはりメテオフォールというのは禁術と呼ばれるだけあって危険な業です。私が砂漠の上に隕石を落とすつもりでいたとしても、途中でコントロールが怪しくなり、極端な話、ロンディーガの王都の真上にそれを直撃させてしまうかもしれないわけですから。ですが、もしこの術を完璧に制御できたとすればと考え、魔導物理学に関して書かれた本などは、ほとんど片っぱしから読んだものでした。ここで、魔導物理学及び魔導力量学、魔導重力学及び魔導エネルギー学の権威として名高い、セリュオン殿にお聞きしたい。隕石の軌道計算については、どのくらいの正確性をもって算出できるものでしょうか?」

 セリュオンはじっと黙ってセンルや他の蒼の魔導士たちの話を聞いていたが、腕組みしていた手をとくと、自分の斜め向かいにいる先輩格の魔導士セヴァルダに、気遣わしげな視線を送った。何故といってセリュオンとセヴァルダは得意とする専攻魔法がほとんど同じだったからである。にも関わらず、自分のほうに先に話を振られたことに対して――彼は若干、戸惑いを覚えていた。

「センル殿もご存知のとおり、魔術の論理と実践というのは、まったくの別物ですからね。たとえば、みなさんはわたしがこんなことを言うと、きっとお笑いになることだろうが……初等部の試験にこんな問題がありますね。『直径10センチの火球を作りだし、それをあなたは7メートル先の地面に直撃させました。その時に生じたエネルギー量と被害の規模を数式と図によって書き記しなさい』……まあ、この答えがわかったところで、それと同じ魔法が使えるかどうかというのは、まったくの別問題です。隕石の軌道計算にしてみたところで、月や星の運行を含め、すべてのことを考慮に入れた上、数値を算出したところで……せいぜいが92.4%程度の確実性しか得られません。しかもわたしは、これを少し高めの数値として今申し上げました。実際にはこの数値が絶対に100となることはないことから、<隕石落としの術>は危険な業とされ、使う魔導士は今も誰もいないんですよ」

 魔導物理学の教えを手ほどきしてくれた、セヴァルダのことを慮り、セリュオンはあえて彼のほうをじっと見つめ、「そうですね、先生?」といったように相手からの返事を待った。

「そうじゃ。メテオフォールは敵国を滅ぼすかわりに、また己が国をも滅びへ追いやりかねない危険な業じゃ」と、セヴァルダはしきりに黒いローブの前を流れる滝のような髭に触れながら言った。「それに、宇宙の均衡を人間の手で破ろうとする業でもある……ゆえに、わしはいくらカルディナル王国そのものを守るためとはいえ、この禁術に手を出すことには最後まで反対した。じゃがまあ、良い後継者もいることだし、わしはそろそろ引退しようかと考えておるのでな。多数決で決まったことに対し、今さらあれこれ言う気はない……が、宇宙の神を怒らせぬよう、おまえさんらはよくよく注意することじゃ」

「<隕石落としの術>に関しては」と、ここでエリメレクが座上の総責任者として、ようやく口を開いた。「わたしが最後まで責任をもってよく監督しようと思うておる、セヴァルダよ。わたしはむしろおまえさんの反対を内心嬉しく思うておった。だが、我らの話しあいの席でも言うたとおり――メテオフォールは我々にとって最後の切り札のようなものだと考えておる。奴ら<地の崖ての民>とやらがカルディナル王国へ竜とともに攻め入ってきた時に、隕石が降ってくることで奴らの度肝を抜いたとするな。したらば、奴らはただそれだけで退却するだろうと思うのだ……また、ロンディーガ王国だけでなくイツファロ王国やミッテルレガント王国にも内々にそうした通知をだせるという点も大きい。今はどこの国でも飛空艇が次にどの国へ攻めこむかということで、怯えきっておるのでな。また、イツファロ王国には飢饉があり、ミッテルレガント王国では謎の奇病が流行っておるという話だ。これもまた、姫巫女さまがルシア神殿に不在であることの影響だと、民草はみな思うでおる……騒ぐ人心を落ち着かせるためにも、最後に奴らを撃退できる手があると国の国防に関わる魔導士に通達するのは、それを使う・使わない以前に大切なことかもしれぬのだよ」

「確かにな」

 セヴァルダは、実際の年齢よりも年のいった皺だらけの顔で微笑んだ。

「それにエリメレク殿、そなたも騒ぐ国王にとりあえず何か<地の崖て国>に対抗できる術策があるということを、なるべく早く奏上せねばならんのじゃろう?わしは政治的なことにはまるで興味なくこの年までやって来たが、そなたのブリンクとしての苦労は多年に渡って見てきたつもりじゃ。そのそなたが禁術と知った上で使用の許可を我ら円卓の魔導士に求めた以上は――禁術許可の書類に、わしも快くサインせねばなるまいて」

 ここで、エリメレクが一番の年長者であるゼファルに禁術許可の書類を手渡した。彼はそこに書かれたことに特に目を通すでもなく、羽根ペンでさらさらと自分の名を書き、嵌めていた指輪で認証の印を押した。そして書類は連署となっているので、次にそれはカドミエルの手に渡り、彼もまたゼファルと同じようにしたあと、隣のガリューンに書類を渡した……そして、十名全員の署名が集まると、エリメレクは「ご苦労であった。それではみな、再びおのおのの職務へ戻られよ」と解散の言葉を述べたのである。

 エリメレクはまた、円卓の魔導士たちが空間転移魔法陣の中へ消える前に、ねぎらいの言葉をひとりひとりにかけるのを、当然忘れはしなかった。

「一国のブリンクといったものは、まったく大変なものですね」

 円卓の魔導士たち十人が全員いなくなったあと、<魔導会議室>に残されたセンルは、隣のエリメレクに向かって溜息を着いてみせた。

「センル殿もご存知のとおり、円卓の魔導士たちも、そもそもの発祥の時にはこうではなかったのだよ。ほれ、最近何かとわたしとセンル殿との間で話題になる聖書の話によれば……三千年前の秘宝探索行の折には、円卓の魔導士たちは八面六臂の活躍を裏でしたものだった。その時の頭がのちのブリンクであり、彼の親友がロダール、また彼の腹心の部下がマキルやセリクであったというように、円卓の魔導士というのは本来は、堅い結束と絆で結ばれていたのだよ。ところが一度魔導士制度なるものが整い、国に平穏な時代が続くと――どうしてもそうしたものというのは、形骸化が進んでしまう。わたしは思うのだがな、センル殿。我が国の魔導士制度だけでなく、ルシアス王国の巫女・神官制度含め、中央世界は曲がり角に差しかかる次期に来ておったのではなかろうか。もちろん、<地の崖て国>などという国が本当に存在するかどうかも、我々にはまだはっきりとはわからん。だが、中央世界に再び竜が現れたということは、神からの大きな警告のように思えて、わたしにはならんのだよ」

「『おのおの悔い改めの道に入り、己が道を悟れ』ですか」と、センルは聖書の一説を口にした。ルシアス王国の聖都にあるルシア神殿に姫巫女がいなくなると、方々に飢饉や病いが起きるというのは、昔からよく言われていることだった。だがセンルは、実際にそのようなことが世界に起きつつあるということをエリメレクから聞いてはじめて――聖竜の秘宝探索行の重要性に、初めて気づいたのである。

「聖竜の秘宝には世界のすべてを癒す力が秘められているそうですね。けれども、邪悪なる者たちはそれを使われると非常に都合が悪い……ゆえに、あらゆる力を持ってしても探索行を妨害してくると聞いています。そこで、どう思いますか、エリメレク殿?<地の崖て国>の連中の目的は、おそらくこの秘宝集めなんですよ。そして以前にもお話したとおり、ルシアス神殿の地下の宝物倉に眠っていたであろう聖槍は、奴らの手に渡ってしまった可能性が高い。もし我々がこうしている間にも、向こうが残りの鎧や盾といったものを集めてしまった場合……どうされました、エリメレク殿?」

 不意に、特にこれといった脈絡もなく、エリメレクがふぉっふぉっと笑いだしたのを見て、センルは奇異な思いに包まれた。

「いやいや、お互いに持っている情報は小出しにしませんとな、センル殿」

 エリメレクはそう言って、<魔導会議室>にある石造りの椅子に腰かけた。室内にある象牙の暖炉には魔法の炎が焚かれ、暖炉の上方にはずらりと、代々のカルディナル王国ブリンクの肖像画が並んでいる。

「もちろん、わたしにもわかってはおるのですよ、センル殿。賢いあなたは、円卓の魔導士の面々に直に会い、彼らのことを信頼しかねると判断された……ゆえに、わたしに話したことは彼らにも伝わってしまうかもしれないと危惧されたのでしょうな。ですが、わたしはセンル殿とは違い、これ以上遠慮はしませぬぞ。さあ、これを見てくだされ」

 エリメレクはそう言うと、首にかけた金鎖を引き抜き、そこにかかった金と銀の二連の指輪をセンルに見せた。

「エリメレク殿、一体それは……?」

 見た目のほうは、特にどうということもない、なんの変哲もないただの指輪だった。だが、そこにエルフ特有の力にも似た、神聖な強い何かが宿っているのを、センルは深く感じとっていた。

「これこそは、カルディナル王国代々のブリンクに伝わる、<聖竜の指輪>ですよ。まあ、聖竜ルシアスがのちに妻となったルーシュに贈ったことから、ルーシュの指輪とも呼ばれておりますが……どうですか、センル殿?姫巫女さまにこの品を献上される前に、あなたが一度これを指に嵌めてみなさるというのは?」

「いえ、結構ですよ」

(エリメレク殿はもしや自分をからかっているのだろうか?)と一瞬センルは思ったが、彼が基本的に無駄なことや余計なことを言わぬ人物であるということは、短いつきあいながらもよくわかっていた。

 つまり、エリメレクが首から金鎖を取り、またその鎖から二連の金銀の指輪を外そうとしているということは――嘘でも冗談でもなく、<本当にこれが聖竜の指輪である>ということに他ならないのだろう。

「いやいや、わかりますよ、今のセンル殿のお気持ちは」と、エリメレクはさも愉快そうに目を細めて笑った。「正直なところを言って、我々は出会ってすぐに意気投合したも同じ仲とわたしのほうでは思うておりました……ですから、センル殿が二度目に来られる際には、おそらく他の旅のお仲間を連れて来られるだろうと思っておったのです。ですがあなたは再びおひとりで来られ、<隕石落としの術>について、自分が解析したことのすべてをわたしに明かされたというわけですな。まあ、この問題が解決したからには、次の段階へ進むのがよろしかろうとわたしは思うのですよ。さあ、センル殿。この指輪を嵌めてごらんなされ」

 センルはエリメレクに言われるがまま、金銀の二連の指輪を左手の薬指に嵌めた(というのも、そこにぴたりと収まりそうな気がしたからであるが、この魔法の指輪は、実はどんな指にもぴったり収まるように出来ている)。指輪を嵌めたからといって、センルには何か特別な強い変化が現れたようにはまったく感じられなかった……そこで指輪を外すと、エリメレクにそれを返したのである。

「ふぉっふぉっふぉっ。拍子抜けしましたでしょうな?」

 エリメレクは歌うような心地好い響きで、大笑いした。

「これが、カルディナル王国のブリンクに代々伝わる秘宝というわけですよ。聖竜の秘宝の一部などというから、てっきり絶大な魔力でも宿っているのかと思いきや……この指輪に宿っておりますのは、人類すべての言語を理解する力、また動物や植物などと話す力なんですよ。指輪の持ち主は、聖五王国すべての言語を操る力と、辺境王国の様々な言語のすべてを理解し、かつ自分でも話すことが出来るようになり、さらには動植物とも会話することが出来るようになるというわけです。ところでセンル殿、わたしは大学院時代は魔法言語学をおもに専攻しておりましてな、これでも各国の言葉にはかなり精通しておるつもりです。また、エルフ語も若い頃から堪能に話すことが出来ましたし――このことが意味すること、あなたにはおわかりになりますかな?」

「つまり、せっかくの指輪もエリメレク殿にとっては無用の長物だったと?」

「流石にそこまでは申しませんがな」

 エリメレクは再びふぉっふぉっと小気味よく笑った。

「ですから、この指輪はあなたの旅のお仲間のひとりにお譲り致そうと思うのですよ。秘宝探索行が終わったあと、集められた秘法が一体どうなるのか、それは誰にもわかりません。聖書に書かれているのは、それが使われた時に世界が癒され救われたという<結果>についてだけですからな。出来ることならば、この指輪があなた方の旅に役立つよう、この老体にできることといえば、ただ神に祈ることくらいかもしれません。しかしながら……」

 魔導邸内は、魔法の防御機能が強く働いているので、他人に秘密が洩れる心配はほとんどないのだが――ここでエリメレクは、ふと小声になると、センルに耳を貸すよう合図した。そしてセンルは、エリメレクからある重大な事実を打ち明けられたのである。

「……それはつまり、秘宝の盾の継承者が今王都カーディルへやって来ているということですか!?」

「まあ、一応そういうことになりますかな」

 若干顔の表情を曇らせて、エリメレクは言った。

「して、その彼がですな。わたしにこう言うのですよ。センル殿、あなたが実に腹の黒い魔術師で、大人しい姫巫女をいいように扱い、全世界の覇権を握ろうとしているのではないか、と。ああ、もちろんわたしにはわかっております」

 エリメレクはそこで、センルが弁明の言葉を述べようとするのを、両手で押し留めた。というより、センルは自分が姫巫女と聖竜の剣の保持者かもしれない男を連れているなどとは、まだ彼に話していなかったのである。にも関わらず、何故エリメレクにはそこまでのことがわかったのか、また<聖竜の盾>の保持者にしても、何故カルディナル王国のブリンクにそんな忠告をしたのか、センルはまるで見当もつかなかった。もしや自分は、長く間者に見張られていたにも関わらず、そのことにまったく気づかずにいたのだろうか?

「確かに、センル殿にしてみれば不思議なことでしょうな。ですが聖書にもあるとおり、秘宝の保持者というのは、互いに運命に導かれるようにして出会うものなのですよ。千年前にあった秘法探索行にしても、三千年前にあったそれにしても……聖書の記述を読むと、ある箇所においてはあまりに話がうまくゆきすぎていて、本当にそうだったのかと疑いたくなるような箇所がいくつもある。ですがまあ、実際に探索行がはじまってみると、そんなものなのかもしれませんな。今回姫巫女殿は、自分を十分守ってくれる魔力を持ちあわせたハーフエルフのセンル殿と最初に出会い、それから次に聖竜の剣の保持者に出会われた……」

「あの、エリメレク殿は一体何故それを……」

 不意にセンルは喉が渇き、象牙のテーブルの上にのった水差しから、グラスに水を注いで飲むことにした。

「いえ、わたしのはただの簡単な推理のようなものです」

 クリスタルの水差しから、自分もコップに水を注ぎ、エリメレクもゆっくりとそれを飲んだ。

「秘宝の保持者というのは、近くにそれを持つ者がいると自然とわかるのですよ。そこでわたしはこっそり、姿変えの術を使って若者に化け、センル殿が宿泊されているホテルのロビーで、あなた方のうちの誰かが姿を現すのを待っていたのです……そこで、確信したわけですな。ただ、わたしには魔導の心得があるからわかっただけのことで、剣に強い封印がかかっていることから見ても、姫巫女殿にそれが本当に聖竜の剣であると、わからなかったのも無理はありません。それに、彼らはその時、物陰から様子を窺う若い男のことなど視界にも入ってなかったでしょうから、わたしは自分の推理の正しさを裏付ける証拠を得ると、そそくさとこの公邸まで戻ってきたといったような次第ですよ」

「エリメレク殿はまったくお人が悪い……」

 いや、それとも流石一国を背負ってブリンクとして長く立っておられるだけのことはある、と賛辞の言葉を送ったほうが良かっただろうか?センルは降参するように溜息を着き、そして前髪をかき上げた。

「ですが、<聖竜の盾>の継承者殿は、何故私が大人しい姫巫女を自分のいいようにして覇権を握ろうとしている、などと思ったのでしょうか?」

「まあ、そこはそれ、偶然のなんとやらです」

 エリメレクは考え深げな眼差しになると、鉄灰色の髭を何度も撫でながら言った。

「この場合のわたしの立場というのは、あくまで中立的なものだということを、センル殿には何卒御理解いただきたい。また、わたしのほうであの方にセンル殿の秘密のようなものを洩らしたということは一切ないということは、堅くお約束致します。ですがあの方はすでに、センル殿が姫巫女と行動をともにしていると知っているのですよ。ですからわたしに、<ルーシュの指輪>をむざむざ渡してしまうつもりなのかと、激しく詰問されました……して、そのことに対するわたしの答えというのはですな、この指輪はセンル殿か姫巫女が持つのがよろしかろうということでした。姫巫女がセンル殿に出会われたということは、センル殿が本来の指輪の継承者であったからに他ならないと、わたしはそう御説明したのですが、あの方はなんとしても取りあってくださらず……」

「まあ、それはそうだろうな」

 センルは肩を竦め、溜息を着いた。

「なんにしても、わたしもエリメレク殿と同じく、世界の各国語にはかなり精通しているほうだと思うし、エルフ語については言うに及ばずといったところ。アスラン殿がそれで満足なさらぬというのなら、<ルーシュの指輪>はエリメレク殿が直接姫巫女にお渡しになってはいかがですか?しかし、私が姫巫女とともにいる限り、あの方は決して<聖竜の盾>をこちらに渡したりはなさるまい……まさか自分の過去の行状に、こんなところで復讐されようとは思ってもみませんでしたよ」

「そんなに落胆されることもありませぬぞ」

 エリメレクはどこか不敵な顔つきになると、再びふぉっふぉっと愉快そうに笑った。

「こうした先々のことを見越しましてな、わたしはアスラン殿にこう取引を申し出たのですよ。つまり、センル殿には再び飛空艇や竜が襲ってきた時に備えて、<秘策>と呼べる術がある。それと引き換えに<聖竜の盾>を一時的に姫巫女さまに貸して差し上げるのはいかがかと……するとあの方は、苦渋の選択をする時のように唸っておられましたな。何しろ、アスラン殿御自ら国を出てここまでやって来られたのは、わたしに直接<地の崖て国>の連中をどう撃退したら良いかと聞くためだったのですから。長く国が仇としているセンル殿から秘策を乞うなど、誇り高いあの方には屈辱以外の何ものでもなかったかもしれませぬ。なんにしても、わたしがアスラン殿とその話をしたのがおとついのこと……まあ、返答が決まり次第、あの方はもう一度わたしのところへやって来られるでしょうな」

「困りましたね」

 センルはまたも溜息を着き、象牙のテーブルの上で両手を組むと、どうしたものかと思案しはじめた。千年前の秘宝探索行では、盾の保持者と剣の保持者との間で、美しい姫巫女を巡り争いが起きたと聖書には書かれている……ふたりは結局最後まで和解はしなかったようだが、それでも姫巫女の御ためを思い、旅に随行し続けたということらしい。

 その家柄からいって、アスラン殿が探索行へ加わるとはセンルには想像できなかったが、それでも自分が最初の大きな躓きをミュシアに与えてしまった気がして、彼にはそのことが心に重くのしかかっていた。

「まあ、なんにしても」

 エリメレクは隅の柱時計が第一ハゼルの刻を刻むのを合図とするように、椅子から立ち上がった。

「一度我々は会見の場を持つ必要がありそうですな。わたしとアスラン殿と、センル殿の三人でか、あるいはそこに姫巫女殿や聖竜の剣の保持者も加えて……この指輪につきましては、わたしの姫巫女殿に対する忠誠の証しと考え、是非お受けとりくだされ」

「いえ、今はまだその時ではないと思います」

 センルは内心では、自分にそんなことを決める権限はないと思いつつも、やはりそう答えざるをえなかった。

「アスラン殿と話し合いの場を持った時に、すでにその指輪が姫巫女の指にあったりしたら、彼も面白くないものを感じるでしょう。指輪のほうを戴くのは、アスラン殿がよく納得されてから、あくまでエリメレク殿が姫巫女に直接渡されるのがよろしいかと思います。おそらくは、それも彼の目の前で……」

「そうかもしれませんな」

 エリメレクはセンルの意志を確認すると、今一度金鎖に二連の指輪を通し、それを再び首にかけた。

「ではセンル殿、これにてわたしは失礼致しますぞ。王府のほうに出向いて、片付けねばならない少々厄介な仕事がありますのでな」

「はい。何から何までお気遣いいただき、まことに痛み入ります」

 センルが真心のこもった面差しでエリメレクのほうを見つめ、それから頭を下げると、彼はセンルがよく理解できない種類の微笑みを浮かべて、空間転移魔法陣の光の輪の中へ消えた。

「さて、と。もう昼の一時過ぎ、か。あいつらは昼飯を食ったあとだろうから、私も魔導生の食堂で軽く何か食べることにするか。そのあとでミュシアとシンクノアを図書館の二階から上へ案内してやろう」

 ――だがこの日、センルは妙に元気のないミュシアと、理由を聞いても答えないシンクノアとともに、すぐヤースヤナ・ホテルのほうへ引き上げてくるということになった。

 シンクノア曰く、「孔雀肉を食べたらミュシアの具合が悪くなった」ということだったが、どうもそうではない気がして、帰り道ではセンルが彼女とともに馬へ乗ることにした。その時、センルはあくまで遠回しにではあるが、ミュシアにそれとなく探りを入れてもみた……だが、やはり彼女は重い口を閉ざしたままだったのである。

「それで、一体何があった?」

 シンクノアが寝室の側の暖炉に火を入れ、ベッドに横になっているミュシアのことを確認すると、「寝ている」という合図を彼はセンルに送った。

「なんかさー、いっけ好かない男がミュシアにほんの五分くらいかな。話しかけてきたってわけ。そのあとなんでかわかんないけど、あの子ぼっろぼろ泣きだしちゃって……どう思うよ、センル。たったの五分で初対面の女子を速攻泣かせちゃう男って」

「そいつは、どんな奴だった?」

 センルは、嫌な予感がした。何より、エリメレクが「大人しい姫巫女」と言った言葉が今さらながら気にかかっていた。とはいえ、アスラン殿についてはセンルも、噂に伝え聞いているというだけで、容貌などについて詳しいことを知っているわけではない。

「たぶん歳は二十五くらいかな。んで、金髪に蒼い瞳のちょっとカッコいいイケてる兄ちゃんみたいな?あと、着てるものから察して、すごく裕福な商人の息子か貴族のぼんぼんっていうような、そんな感じ」

「そうか。確信は持てないが、そいつがたぶん<聖竜の盾>の継承者だ」

「いぃっ!?じょーだんだろーッ!!」と、シンクノアはミュシアが寝ているのも忘れ、大声で叫んだ。「俺、あんな高慢ちきな匂いをぷんぷんさせてる男と、うまくやってく自信ないぜ。俺がセンルとうまくいってんのはさあ、単にあんたが金蔓ってだけじゃなく、いい奴だからだもんな。けど、あいつはなんかちょっと違うんだよ。一目見た瞬間に絶対馬が合わねえって速攻思ったもん」

「まあ、貴族といったらいいのか、なんと言ったらいいのか……」

 シンクノアにどこまで話したものかと迷い、それと同時に彼は一体ミュシアに何を話したのだろうと、センルはそのことが気になっていた。あの蒼の魔導士のことを信頼するなと言われたのか、それとも君のような者が本当に姫巫女なのかどうかと、疑いの言葉でも投げかけられたのか……いや、その程度のことでミュシアがあんなにも精神的に参るだろうかとセンルは思いもした。

(アスラン殿にはわからんだろうが)センルはシンクノアが淹れた紅茶を飲みながら考えた。(あの娘はああ見えて意外に強いからな。下手にちょっかいを出せば、むしろ火傷をするのはあの方のほうだろう。だが、話をしていたのはたったの五分かそこらだという。確かあの方は魔導騎士として、かなり優秀な成績で国の魔導院を卒業されたと聞くが……ということは、何か精神に暗示をかける魔法でも唱えられたのだろうか?)

「それで、センルのほうはどーだったわけ?」

 センルはミュシアには、例の禁術について何も話していなかったが、シンクノアにはエリメレクと長くそのことを協議していると、詳しく話してあった。

「円卓の魔導士たちはみな、禁術許可の書類にサインしてくれたよ。まあそれというのも何もかも、エリメレク殿のお膳立てのお陰といったところだな。あの方はまた、<聖竜の指輪>の保持者でもあられて、それをミュシアに譲りたいと言っておられた。これでまあ、聖杯・剣・指輪・盾の消息まではわかったということになる。残りは聖槍と鎧と冑か。聖なる槍は敵方に奪われたものと思われるが、鎧と冑というのが一体どこにあるものなのか、私にはさっぱりわからん」

「……センルってさ、時々すげえことを何気にさらっと言ってくれちゃうよな」

 貸し馬車屋に馬を返した帰り道、町の大通りで買ったパンを、鉄串に差して軽く焼きながら、シンクノアは呆れたように言った。他に食糧雑貨店では、柘榴シロップのかかったケーキや、若鶏の蒸し焼きやチーズなども買ってきた。こうしたものは店のおかみに前もって注文がしてある品だった。

「そのかわり、私はとんでもないヘマも同時にやらかしたぞ。先ほど言った<聖なる盾>の継承者であるアスラン殿な。彼はある理由から私を激しく憎んでいるはずだ。ゆえに、私がその背後についている姫巫女にむざむざ<盾>を渡してなるものかと頑強に拘っているらしい……だが、例の禁術と引き換えに、もしかしたら向こうが折れてくるかもしれん。ミッテルレガント王国でも、例の飛空艇と竜の襲来事件は、重大な国防問題だろうからな」

「ミッテルレガントのお貴族さまか~。そんじゃあ無理ないかもしんないなあ。だってセンルがロンディーガの宮廷魔導士になって以来、ロクセリアっていう有名なオアシスは向こうの手に渡ってないんだろ?」

「ああ。砂漠のパラダイスだかなんだか知らんが、ああいうのが本当にロンディーガの国民は好きだからな。もっともこのオアシスの町の名は、ミッテルレガントではミグラレント、レガント語で麗しの都を意味する言葉で呼ばれているらしいが……私が死んだという噂でも聞かない限りは、ミッテルレガントは再びロンディーガの領土を侵犯することはないだろう」

 この時、不意にキィとドアの開く音がし、蒼白な顔をしたミュシアが口許を押えながらよろめいて寝室から出てきた。

「おい、大丈夫か!?」

 ミュシアは首を横に振り、センルの手も振りほどくと、洗面器の置かれた台の前まで走っていった。そこでうぇっと一度吐き、暫くののちに吐き気がおさまると、水差しからコップに水を注いで、口の中をゆすいだ。

「少しは、楽になったか」

 センルがずっと背中をさすってくれていたのはわかっていたが、ミュシアはこの時、そうした彼の親切心を素直にありがたいとは思えなかった。というより、相手にみっともない姿を見られたことが恥かしく、このまま消え入りたいようにさえ感じられて仕方なかった。

「これは、私が片付けておこう。だからおまえは向こうで休……」

「わたしに優しくしないでくださいっ!!」

 自分でも思ってもみない大声でそう叫んでしまい、ミュシアは自分でも体温が一気に上がるのがわかった。まともに、センルの顔を真っ直ぐに見ることさえ出来ない。涙が目の奥でじんと滲んだ。

「す、すみません……わたし、なんだか今、混乱してて………とにかくこれは、わたしが自分で片付けたいんです」

「そうか」

 ミュシアは服の袖で口許をぬぐうと、洗面器の吐瀉物の上に洗面用のタオルをかけ、下の洗い場まで走っていった。そして彼女は次から次へと涙が溢れてくるのが止まるまで、ずっとその場所にいたのだった。




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