第2章 カーディル王立図書館
『おお、姫巫女よ!我は御身に神官としてこの身のすべてを捧げ奉る!!』
そう言って幼き日のルークが自分にヒナギク(デイジー)の白い花冠を授けてくれた時、不意にすぐ横で風が唸りを上げた。
この時本当は風などなく、空もとても良く晴れていたはずなのに――何故か突然、嵐がきそうな空模様となり、どこかで雷の鳴る音まで聴こえてきた。
『あっ、雨だ!!ミュシア、学院の裏庭にある木のうろにでも隠れてようよ!』
『うん、そうね』
ミュシアはせっかくの白い花冠が雨に打たれて痛むのが嫌だったので、それを両手に大切に隠し持つようにして野原を駆けていった。
『ほら、ミュシア、早くはやく!!』
『ルーク、待ってったら。わたしそんなに早く走れないもの!!』
不思議なことに、ルークは遠くにいけばいくほど、その背丈は大きくなり、やがて小さな子供ではなく少年の姿になっていった。そしてミュシアもまた、白いヒナギクの花をいつの間にやら取り落とし、ひとりの少女になっていたのである。
ふたりは、聖契学院の裏庭にある大きな樹の下までいくと、互いの首に手をかけあって、そっと不器用な抱擁をかわした。けれども雨はやむことなく降り続き、やがて何かの不気味な気配があたりを包みこみはじめていた。
そしてミュシアが、不意に枝々の間に目をやると――そこには、ひとつの大きな眼のようなものが、じっとこちらに視線を注いでいたのである……。
ミュシアはベッドからがばりと身を起こすと、「はあっ、はあっ」と荒い息をついた。
「今のは、夢……?」
軟らかい羽毛の詰まった枕や布団に手を伸ばしたあと、ミュシアはぶるっと体に震えを感じ、自分の両肩を抱くように腕を交差させた。
何故かはわからないけれど、最近、よくルークの夢を見る。それは彼の名前を騙っていることに対する罪悪感からかもしれないと、最初ミュシアは思っていた。けれど、夢を見たあとの感触があまりに生々しいことが多いので、最近ではもしかしたら彼が助けを求めているのではないかと、そんなふうに感じることが時々あった。
(あのあと、ルークはどうしたかしら。神官たちの多くは、州境の町で難民たちと貧しさをともにしていると、噂に伝え聞くけれど……彼も生きていたらきっと、そうした生活を選ぶはずだもの。もし彼に会いたいと思ったら、そうした難民たちの天幕を訪れるといいのかもしれない)
そしてミュシアは、絹の敷布の上に手をすべらせて、胸に罪悪感の釘を打ちこまれるような感覚を覚えていた。
(昔は、清潔なシーツやあたたかな布団の中で眠れることが、当たり前だと思っていたけれど、今は違う……わたしは本当はもっと………)
ミュシアが寝起きに色々なことを考えはじめていた時、不意にコンコンと寝室のドアがノックされた。
「ミュっシアちゃ~ん!!朝ごはんの用意が出来ましたけんど、そろそろ起きて来られませんかね?」
「は、はいっ。今いきますっ!!」
シンクノアのどこかおどけたような声にそう答え、ミュシアはひとつくしゃみをしてから、服を着替えはじめた。流石に第十三月ともなると、寒さが身に沁みてくる。ミュシアは鳥肌を立てながら急いで寝間着からチュニックに着替え、暖かい隣の部屋へ足を踏み入れた。
例の薄い桃色のドレスは、実をいうとミュシアはあれからあまり着ていない……シンクノアとセンルの心遣いを無駄にするようで、心苦しくもあったが、今自分は性別を偽って神官となっている身なのだ。そう思うと、男物のチュニックでも着て町の平民を装うくらいがちょうどいいのではないかと、ミュシアにはそう思えてならなかった。
「おはよう、ございます」
ぺこりとお辞儀をして隣のセンルに挨拶し、ミュシアは絹張りのソファにそっと腰かけた。いつものとおりセンルからはなんの返事もなく、かわりにシンクノアが「おっはー!!」と、白い歯を光らせて手を振ってくれる。
「センル先生ったら、朝はいつも不機嫌っスよねえ。たぶん起きてから何か腹に入れてからでないと、重い口が動かないっていうタイプなんじゃないスか?ほら、そんなあなたには、こんなこんがり焼きたてベーコン!!」
そう言ってシンクノアは、暖炉の上の金網で焼いた、ベーコンののったパンを陶磁器の上へ置いた。次に彼はフライパンの上でうまい具合に目玉焼きを作り――それをミュシアの白い皿の上へのせてくれる。
「いつもありがとうございます、シンクノア」
ミュシアが礼儀正しくぺこりとお辞儀をすると、シンクは少し得意そうに笑い、ジャムの瓶をごろごろとテーブルの端から端へ移動させた。
「さて、いちごジャムにブルーベリージャムにマーマレード。どれでも好きなのをパンにつけて食べてくださいな、お嬢さん」
「はい。どうもありがとう」
シンクノアは旅慣れているせいかどうか、女の自分よりも料理をするのが上手いとミュシアは常々感じていた。パンや肉などを軽く炙ってパリッとしたものを毎朝食べさせてくれるし、ポテトパイやミートパイを作ったりするのも上手かった。
「まあ、金さえあってなんでも食材が手に入りさえすりゃあ、うまいものなんかいくらでも作れるぜ、オ・レ」というのは、ミュシアが彼の料理を褒めるたびに言う、決めゼリフのようなものである。
そんな感じでミュシアは、この日の朝も、神さまに食前の祈りを捧げてから、パンとベーコンつきの目玉焼き、それに紅茶という朝食を終えた。そして彼女が「ごちそうさまでした」と言って、食器類の後片付けをしようとした時――不意にセンルが、ミュシアの腕をぐいと引き寄せて、その唇の端にあるものを拭った。
「あ、あの……センルさ………」
「ジャムがついてる。もちろん、これから顔を洗うつもりではあったんだろうがな。陶器の洗面器には、やかんのお湯を入れるといい。おまえはいつも、水瓶の中の水しか使わないようだから」
「はい……」
ミュシアは部屋の片隅にいくと、陶器の洗面器に水瓶の水を入れ、そこに暖炉にかけてあったやかんのお湯を足してぬるめにした。それから顔を洗って、乾いた布で拭くと、使ったぬるま湯をバケツの中へ捨てた。こうした一度使った水は、ある程度溜まったところで、下の水捨て場まで捨てにいくのである(センルはそんなことはメイドを呼んでやらせろと言ったが、ミュシアはこうした生活にまつわる全般に関して、なるべく自分の手でするようにしていた)。
「じゃあわたし、食器を一度下まで下げてきますね」
これもまた、センルに言わせれば「メイドにやらせるべき仕事」ということになるらしいのだが、ミュシアは下にあるホテルの調理場まで、一度使った食器を毎回下げることにしている。もっとも彼女はそうすることで、<ロダールの間>に泊まっている客はチップをケチっていると、使用人たちが噂しているのを知らなかったけれど。
「あ~あ。あんたさあ、あの子に対してどーいうつもりで接してるわけ?」
シンクノアは、暖炉の脇にある薪箱から、薪をひとつ取りだして火にくべると、若干呆れたような顔つきで、目の前にいる蒼の魔導士のことを見返した。
「どういうつもりというのは、どういう意味だ?」
「すっとぼけてんじゃねーよ!」と、シンクノアは小指を立てて紅茶を飲みながら言った。「まあ、あの子の口にジャムがついてて、それをぬぐったところまでは許す。けどさあ、なんでそれをあんたが何気にぺろっとなめる必要があるのかって俺は聞いてんの!変態じゃあるまいし、ミュシアのことを自分の所有物みたいに扱うのもやめろよ。見てるこっちのほうが恥かしいから!」
「私のどこが変態で、また何ゆえにおまえが恥かしがる必要がある?」
センルが居直っているというわけでもなく、あくまでケロリとそう言ってのけるのを聞き、シンクはソファの背もたれに手をまわすと、天を仰いだ。
(やだねえ、まったく。こいつもまさか、無自覚の無意識ってやつかよ)
「俺が言いたいのはさ、あんたの態度はあの子に誤解を与えるってこと。センルがもし、あの子のことを巫女じゃなくさせて自分のものにする気持ちがあるっていうんなら、俺も何も言う気はない。けどさ、あんたはそうじゃないだろ?まあ、俺にもセンルの気持ちはわかんなくもないよ。娘とか孫とか妹とか、なんの利害も関係なく、ただ可愛い可愛いって愛せる対象がいるとしたら、俺も似たよーなことするかもしんない。けど、ここで一言はっきり言っておくぞ。あの子は自分で気づいてないながらも、センルのことが好きなわけ。そういう相手がいちいち色んな細かいことまで気づいて優しくしてくれたら――果てはどういうことになるか、あんたもちったあわかるだろ?それじゃなくてももう、三百年も生きてるおじいちゃんなんだし!」
「私がジジイなのは余計な世話といったところだが……シンクノア、おまえの言いたいことは大体わかった。以後、留意することにする。それでいいか?」
「あ、ああ……」
あまりにもあっさり自分の言い分が通ったことで、シンクノアは少し拍子抜けした。てっきりセンルがいつものとおり、理屈っぽい持論のようものを展開しはじめるだろうと思っていたのだ。
だが、センルがまるで「今はそれどころではない」というように、沈思黙考しはじめるのを見て――シンクノアはむしろ自分が余計なことを言ったように感じはじめていた。別の意味では、自分などより彼のほうがよほど、ミュシアのことを考えて行動していることが、シンクにはよくわかっていたから。
「よし、ミュシアが戻ってきたら、今日は三人で王立図書館へいくぞ。私がエリメレク殿と会っている間、おまえはミュシアと図書館の一階にいろ。彼との話が終わったら、他の階にもおまえたちを入れてもいいかどうか、エリメレク殿に聞いておくことにするから」
「マジっスか!?やっりー♪」と、シンクノアはあまり深い意味もなく喜んだ。
もちろん彼もまた、幼馴染みのアイリがさらわれた飛空艇の足跡について、王立図書館で何か掴めればという期待と目的があったのだが、そちらのほうは実はすでに解決済みであった。センルからカルディナル王国のブリンクである、エリメレクとどんなことを話したのかを聞いて――シンクノアにはすでに、調べることなどほとんどなくなっていたとさえ言えるかもしれない。
そのようなわけで、ミュシアが部屋へ戻ってくると、三人は貸し馬車屋で馬を借り、王立図書館へ急ぐことにした。時刻は第十の刻と第十一の刻の中間くらいの頃合であった。
センルは、糸杉に挟まれた小径をディアトレドという名の白い馬に乗っていき、その後ろをシンクノアとミュシアの騎乗した鹿毛が追うような形で道を進んでいった。
「ミュシアのことは、おまえが乗せろ。私は少し、考えることがあるのでな」
貸し馬車屋で証文にサインしながら、センルが何気なく言った言葉に対し、ミュシアが若干傷ついたような顔をしたことに、シンクは気づかないわけにはいかなかった。
もっとも彼女が、自分と一緒に騎乗するのが嫌だとか、センルと同じ白馬に乗りたいと内心思っているのだとは、シンクノアも感じない。ただ、この時のセンルにはどこか――ミュシアに対して突き放すような距離感があったのである。
ある時は、口の端にジャムがついていると言って指でぬぐってくれ、かつそれをぺろりとなめるにも関わらず、ある瞬間には冷たく自分本位に突き放してくる男……(あ~あ。もしかして俺、逆効果なことをセンルに言っちまったのかもしんないなあ)と、シンクノアは溜息とともに後悔した。
センルにしても、考えごとがあるというのはおそらく本当のことなのだろう。というのも、半月ほど前にカルディナル王国のブリンクであるエリメレクと会見して以来――この蒼の魔導士の様子は、自分でも言っていたとおりかなりおかしかったからである。口の中で時々、呪文のような言葉をブツブツ呟いていたかと思えば、突然「よし、わかったぞ!」と胸の前で手を打ち合わせたり……また、シンクノアとミュシアが互いに何かを話している会話をまったく聞いておらず、上の空でぼんやりしているということも多かった。
ミュシアにしてみれば、何故センルがそんな様子なのかというのも、よくわかっていたに違いない。シンクノアにしても、あれから彼がエリメレクとどんなことを引き続き話しあい続けたのか、そのすべてについては聞いていないにせよ――絶対的な信頼感をもって、センルがミュシアに不利になるような取引だけはしないということ、また彼が彼女のことを思えばこそ、こうして色々考えたり行動したりしているのだということが、よくわかっていたのである。
(もし、自分の好きな相手が、恋愛感情からじゃなかったとしても、そこまで色んなことに気を配ってくれたとしたら……俺だったら、どんな気持ちになるもんかな?)
シンクノアは、ミュシアの腕の横から手綱を持ったままの姿勢で、彼女の頭の上にちょこんと顎をのせた。シンクはセンルほどではないにしても背が高く、小柄なミュシアとは頭一個分以上身長差があったからである。
「どうしたんですか、シンクノア。さっきも溜息を着いたりしていたし……」
センルが湖のほとりに沿った道でなく、途中で枝分かれして森のほうへ続いている小径のほうへ入っていくのを見て――その分かれ道のところに標識があり、『←言霊の森』・『王立魔術院→』と書かれた札が立っていた――シンクノアはミュシアのハーブの香りのする頭から顎を外すと、小首を傾げた。
(王立図書館ってのは、王立魔術院に付属してるって言わなかったっけ?)
「ま、一見ノーテンキそうに見える俺にも、時には色々考えることがあるってことさ。たとえば、俺がいつも背中に背負ってる剣のこととか」
「そういえば、シンクの持ってるのが、もしかしたら本当に聖竜の剣かもしれないって、センルさんが……」
「そ。んで、センルの自説によれば、物事ってのは実はとーってもシンプルで、一番大切なのは聖書に書かれていることをそのまま信じることかもしれないってことなんだよな。つまり、前回の――といっても、今から千年以上も前になるわけだけど――<聖竜の秘宝>探索行では、聖杯を守る姫巫女と聖竜の剣の持ち主とが最初に出会っているわけだ。そんで、それより前の二千年くらい前にも<聖竜の秘宝>は使われていて、この時には空から禍いの星っていうのが落ちてきて、後代に書物として残るような形では歴史がきちんと書き記されなかった。前に行った場所に「滅びの谷レドム」っていうところがあったろ?俺も隕石の遺跡なんかをあそこで見たりしたけど、あちこちの町や村が隕石でやられて、一旦人間の歴史っていうのはあそこで閉ざされたってわけだ」
「でも、それでもやっぱり人間は生き残って……人々にとって最後の希望である<聖竜の秘宝>を使うことにより、僅かながら生き残った人たちが再び土地に鍬や鋤を入れ、種を播き植物を育てていくことで、不毛の大地を復活させたのだと聞いています。それで、今現存している正訳聖書には、最初の創世神話から聖竜ルシアスと暗黒竜の戦い、それから光の神ルシアスの竜としての力が七つの秘宝に分化してのち――それが千年の時を経て、使われた時の過程が描かれているんです。これは一種の<型>のようなもので、次にもし<聖竜の秘宝>が使われる時の参考になるようにとの、先人の教えでもあると言われています」
ミュシアは、聖書であるとか神のことを語る時、一種独特の神聖な顔つきをすることがあり、そういう時シンクノアは、彼女がやはり(姫巫女さまなんだなあ)とぼんやり感じたりする。だが、それ以外の時にはただの十六歳の女の子であり、ハーフエルフの魔導士の一挙手一投足に一喜一憂するのを見るたびに……なんとなく、胸が切なくなるものを感じてしまうのだ。
「んで、その時にもさ、聖竜の剣の持ち主っていうのが、探索行の過程で聖杯の持ち主である姫巫女さまに最初に出会ってるっていうわけだ。けど、今から千年前にあったといわれる探索行と、三千年以上昔にあった探索行を比べてみると――その後の過程っていうのは、全然違っちまってるってことがわかる。姫巫女さまが聖竜の剣の持ち主に出会ったあと、千年前の伝説じゃあ盾の持ち主に会うってことになってるけど、三千年前バージョンでは、鎧の持ち主ってことになってるからな。しかも代々の秘宝の継承者っていうのが、王子のこともあれば、魔法使いであることもあり、ただの鍛冶屋の息子だったりと……まあ、確かに「参考」にはなるにしても、まったく同じ運命が繰り返されるっていうわけじゃない以上、なんとも言えんものがあるわなあ」
「でもわたし――シンクノアの持ってる剣がもし、聖竜の剣だったとしたら、すごく嬉しいんです。そしたら、これからもずっと一緒に旅を続けていけると思うし……センルさんも、聖杯の持ち主である巫女が剣の保持者と最初に出会うのは、彼がその剣によって姫巫女の身を守るためじゃないかって言ってらしたし」
「んー、まあなあ……」
そう言って、シンクノアはぼりぼりと頭をかいた。何故といって、どちらの探索行の過程にも、その剣の保持者がいつまでも鞘から剣を抜けなかったなどという間抜けな記述は出てこないからだ。
「俺もさ、ミュシアやセンルと、いつまでもずっとこうして旅をしていたいよ。いつまでもっていうのは、お互いの旅の目的を果たすまではっていう意味だけどさ。けど、俺は自分が聖竜の剣の継承者だなんていうふうには、あんまり思えないんだなあ。つーより、この世界のどっかにこの剣を扱うのに相応しい戦士さんがいて、そいつにこれを渡すためのただの運び屋なんじゃないかっていう気がする」
「そんなことはありません」ミュシアは妙にきっぱりとした態度で言った。「シンクは素晴らしい剣の使い手なんですから……えっと、その剣を渡してくれたっていうリキエルさんっていう方もおっしゃってたんでしょう?時が来れば必ず抜けるって。だったら、今はまだその<時>ではないっていう、それだけのことなんだと思います」
「そうだといいんだけどなあ」
シンクノアは今度はどこか嬉しげな溜息を着いて、再びミュシアの頭の上に顎をのせた。(この、可愛らしくしていじましいお嬢さんめ!)と、シンクノアはよくそんなふうに感じる。それでいて、自分もミュシアも互いに相手を異性として強く意識するようなことはほとんどない。前回の千年前の探索行でも、三千年以上昔の探索行でも――美しい姫巫女を巡って、聖竜の秘宝の継承者たちが揉める場面というのがあるのだが、もし仮に自分が聖竜の剣の正式な継承者だとしたら、その点はおそらく問題ないだろうと、シンクノアはそう思っていた。
(けどまあ、そのかわり問題になるのが……)
シンクノアは前方をゆくハーフエルフの魔導士のことを眺めやった。彼は昼間であるにも関わらず、樹木が深く枝々を差し交わしているがゆえに――薄暗い通り路となっている場所の前で、白馬のディアトレドを一旦静止させていた。
「途中にある標識でも見たろうが、ここが<言霊の森>だ」
シンクとミュシアが追いつくのを待って、センルはそう口を開いた。
「城下町カーディルの住民であれば、この森の長い通り路の中で言葉は発さぬほうが賢明であると誰もが知っている。とはいえ、何故そうなのかというのは諸説あってな、この場所で神や精霊を汚す言葉を吐いたものは永遠の闇に閉じこめられるとか、出口に辿り着いた時、そこはどことも知れぬ場所であるとか、色々言われている。だがまあ、私が二百年ほど前にこのあたりを何十回となく通ってみた限りにおいては――この森はそう危険でないと言っていいと思う。なんにしても一応、余計な言葉は発さぬようにしたほうがいいということだな」
「ふう~ん。でも、<言霊の森>っていうからには、何かいわくがあるんだろ?」
そうすると、センルが若干イライラするとわかっているので、シンクノアはミュシアの髪の匂いをかぐような仕種をしながら言った。
「……そうだな。魔法使いにとっては多少関係のあることかもしれん。この森の中で魔法の呪文を唱えると、それはそのまま本人に向かって返ってくるという話だ。だが、本当かどうかはわからん。何しろ、魔術院創設以来ずっとそう言われ続けているにも関わらず、誰もそれを試したことなどないのだからな」
(ほ~ら。今、眉のほうがピクっと動きましたぜ、センルの旦那)と、シンクノアは少しだけ意地悪く思った。(本当はミュシアのことを、自分のものだけにしておきたいと思ってるくせに……あらためて聞くと「それはおまえの勘違いだ」とかなんとか言うんだからな。ミュシアはミュシアで、「自分のセンルさんに対する気持ちは恋っていうのとは違うんですっ!」とか大慌てで力説するし。それを焦れったい気持ちで見てなきゃなんない、俺の身にも少しはなれってんだ)
「でも、神さまや精霊を汚す以外の、ごく普通の日常会話なら、しゃべっても何も問題ないんですよね?」
「そうだな。まあ、普通に歩いていけば何も問題はない。薄暗くて長い道だから、一体いつ終わるのかと思うかもしれないが……この<言霊の森>を抜けると、<緑樹園>という場所が左手に見えてくる。ここでは硝子張りの温室で、魔導院の生徒たちが果物や野菜を栽培していてな、色々な作物を魔法の力で年中収穫することが出来るというわけだ」
「ああ、それでか!」と、シンクノアは妙に合点がいったように手を鳴らした。「城下町のホテルとか料亭とかさ、今時期じゃあ普通取れない野菜や果物がよく出てくるな~って思ってたんだ。なーるほど、そういうことか」
腕組みをして、妙にうんうん頷いているシンクノアのことは無視し、センルはディアトレドを道の先へ進めた。<言霊の森>のトンネルのような通り路は、今まで通ってきた小径よりも広く、馬が二頭並んで歩けるくらいの幅があった。
「そして、<緑樹園>の先に、魔術院に通う生徒たちの寮があるんだ。王立図書館があるのは、その手前ということになるな。寮と同じ灰色の石造りで出来ていて、魔術院と同じく見た目と中の広さがまったく違う」
「見た目と中の広さが違うって、ようするに魔法使いの使う幻術か何かによってってことか?」
ほとんど陽が差さないくらい、天井を枝々がアーチのように差しかわしているのを見上げながら、どこか間抜け面をしてシンクが聞いた。
「そうとも言えるだろうし、そうでないとも言えるな。なんにしても、行けばわかるさ」
「……………」
ミュシアは、センルやシンクの声が森のどこか高い場所に吸いとられるように消えるの聴いて、何故だか少し怖くなった。不意に、今朝見た夢のこと――ふと見上げた樹の枝の間に、巨大な眼が見えた光景を思いだし、ぞっと体が震えた。
「どうした、寒いのか?」
ミュシアはチュニックの上から、茶色い革のコートを着ていた。以前、センルがそろそろ寒くなるから毛皮のコートを買ってやろうと言った時、彼女はその値段の高さに驚き、それよりも安い革のコートを選んでいたのだった。
「いえ、寒いわけじゃなくて……ちょっと、今朝見た夢のことを思いだしてしまって。気にしないでください。すみません」
「私やシンクノアにあやまる必要はないと思うが」センルは何故かおかしそうに笑って言った。「どんな夢だったのか、よければ話してみるといい。怖い夢は、誰か人に話してしまうとその効力が薄れるというからな」
「そうなんですけど……」
ミュシアは突然、喉に何かが詰まったように言葉を発するのが難しくなった。<言霊の森>に宿る何かの精霊的な力が働いてそうなったというのではなく――彼女はただ、なんとなく怖かったのだ。あの巨大な眼のことを口にだして話したら、本当にそれが今目の前に現れるのではないかと感じられる、そのことが。
「あの、今この場所で話していいような夢じゃないんです。夢の中に魔物のような存在が現れて……その、だから………」
「そうだなあ。まあ、確かに」ミュシアの後ろでシンクノアが言った。「言葉ってのは大切だ。いつ・どこで・誰に・何を話すか、それで人生の大半が決まるといっても過言じゃないとかって、俺の剣のお師匠さんも言ってたぜ」
「そういえば、その剣の師匠のリキエルという男が、おまえに<不殺の剣アスタリオン>とやらを授けてくれたのだったな。彼が一体何者で、今どこでどうしてるのかは、シンクノアにはまったくわからんのか?」
「わからんなあ。つーか、俺も旅先のどこかでリキエルに会えたらとはずっと思ってるんだ。どうもさ、俺がこうも不幸続きなのって、何も赤い瞳のせいばかりじゃないって気がして仕方なくってさ。どうもこの、抜けもしない剣のほうが禍いを呼んでるんじゃないかっていう気のすることが俺には時々あって……一度なんか、肥溜めにでも捨て置いてやろうかとさえ思ったこともあったけど、やっぱりそれも出来なくってなあ」
「シンク、それですよ!」と、ミュシアが突然後ろのシンクのことを振り返った。「あの、わたしも自分の体の中にあるっていう聖杯を直接目で見たっていうわけじゃないんですけど……感覚としては同じなんです。何かこう、邪な思いというか、良くない思いに自分が傾きそうになると、それを見透かされているような、何か聖杯自体に試されているような気のすることが、時々あるんです」
ここでセンルとシンクノアがほとんど同時に、「あっはっはっ!!」と笑いだすのを見て、ミュシアは一瞬唖然とした。
「聞いたか、センル。邪な思いだって」
「ああ、ミュシアのいう良くない思いなんていうのは、せいぜいが鳥が転んで怪我をしたのを助けなかったとか、その程度のことをいうんだろうよ」
「あるいは、飛び下り自殺したい鳥が、どうしても死ねないと悩んでいるのを助けなかったとかな」
「それとも、蟻が捻挫してるのに、包帯も当てなかったとか」
「そうそう。蜘蛛が腸捻転を起こしてるのに、自分は気づきもしなかったとか」
センルとシンクノアが他にも色々な事例を一通り引くと、ふたりはほとんど同時に、またも大笑いしていた。
「ひどいです、センルさんもシンクノアもっ!!」
ミュシアは珍しく、顔を真っ赤にして、怒ったように言った。
「わたしは真剣に悩んでるのに……あの、さっきの夢の話なんですけど、最近、よく夢の中でわたしがその名前を騙っている、ルークが出てくるものですから、最初は彼の名前を騙っている罪悪感が、そういう夢を見せるのかなって思ってたんです。でも、最近ではなんだか彼に、夢の中で呼ばれてるような気がして仕方なくて……もし彼がどこかで困っているのだとしたら、何を置いても助けなくちゃって、そう思うんですけど……」
長いトンネルのような、緑と灰色の世界が終わり、三人は再び、初冬の明るい陽射しの元へ出た。正確には、ヤースヤナ・ホテルを出た時には空は薄曇りで、雪でも降りそうに感じられていたのだが、今は雲間から明るい太陽が燦然と輝く顔を出している。
ミュシアは振り返って、不思議な森の暗がりを間違いなく後にしたことを確かめると、センルに促されたとおり、夢の内容を語りだすことにした。
「えっと、その……ルークっていうのは、七歳になるまで一緒に育った仲のいい子なんです。七歳を過ぎると、女子と男子は寮が別々になってしまうので、そのあとはほんの時々どこかで姿を見かけるくらいで、言葉を交わしたこともありません。でも、彼が聖契学院をトップの成績で卒業したことは聞いていましたし、そのあとも――わたしが巫女見習いになってから、ルークが<棒術演舞>で槍の腕前を披露する姿などは見ていました。だから、もし彼が生き延びているなら、今ごろ州境にある難民の天幕にでもいるんじゃないかなって思うんです。それに、彼に会えばもしかしたら……あの時聖都で何があったのかを、より詳しく知ることも出来るんじゃないかって思ってて……」
ミュシアは、自分が本当に話したいのはそういうことではないと、内心で感じていた。そうではなくて、樹の枝の間から見えていたひとつ眼の化物について、彼女はセンルに聞いてほしくて仕方なかった。けれど、その前にルークと抱擁を交わしていたということが――彼女の喉を詰まらせていた。
「確かに、おまえの言うことは一度よく考えてみる必要があるな。ルシアス王国の音に聞こえし聖都がルクシンドラへ移るのだとしたら……これから神殿制度はどう変わっていくのか。ユージェニー女王とレグナ大公の目的は十二大公のそれぞれから神殿税を怠りなく徴収することだろうから、それぞれの州より大公殿は今度はルクシンドラに向けて都上りをするということになるだろう。だが、彼らは姫巫女の御託宣あればこそ、今までずっと王家に忠誠を尽くしてきたのだろうから、姫巫女なき今、形式的にでも税を納めようとするものかどうか……」
まるで独り言を呟くようにセンルがそうした政治的な話をするのを、これまでミュシアとシンクノアは何度となく聞いていた。
ユージェニー女王と以前姫巫女であられたルルドさまは仲がお悪いというように、ミュシアは一度耳にしたことがある。それというのも、ルルドさまが誰も知らない女王陛下の隠された秘密を暴いたのが原因なのだという。もちろん、噂にすぎないことなので、事の真偽についてはミュシアもはっきりとはわからないのだが。
「そういえばミュシア」
センルは自分がまた深い物思いの世界に入りかけているのに気づき、ハッとしたように彼女のほうを振り返った。
「おまえ、夢の中に魔物が出てきたとか言っていたろう。まさかとは思うが、おまえが名を騙っているルークが、突然魔物に変わって襲いかかってきたというわけではあるまい?」
(センル先生……)シンクノアはここで、笑いたくなるのを必死に堪えねばならなかった。(それじゃあまるで、娘に恋人の存在を聞かされた父親とまったく同じ態度ですぜ)
「えっと、その魔物っていうのは、大きなひとつ眼の気味の悪いのなんです。これまでにも何度か似たような夢を見たことがある気がするんですけど、何故かそのたびに夢の内容を忘れてしまってて……」
ここまで聞くと、センルもシンクノアも流石に、表情から笑いを消し、互いに顔を見合わせるということになった。
「もしかしてそれって、センルが言ってたヴァーリなんとかってやつか?」
「確かにミュシア、そいつのことは<言霊の森>では言わなくて正解だったな」
道の左手には、まるで鏡を嵌めたような硝子の温室がずらりと並び、遠くの王立図書館の近くまで続いていた。右手には、魔術院の敷地とそこを囲む高い塀が聳え、そちらから鐘楼の音が響いてきた――第十一の刻を知らせる鐘の音である。
「ヴァリアントのことは、一応以前エリメレク殿に話しておいた。それらしきものに襲われたと思うが、次に奴と出会った時にどうすればよいかとお聞きしたら、『何もせぬがよい』と言われたよ。奴と戦って勝てる者はこの世に存在しないと言われているそうだ。つまり、対峙して私が奴に何か魔法を唱えたとするな。そうすると、それと同等の力が常に跳ね返ってくるということになるらしい……ヴァリアントというのは、そういう存在なのだそうだ。もっとも、エリメレク殿も、彼の信頼する<円卓の魔導士>と呼ばれる方々も――これまで、ヴァリアントという存在と直接会ったことはないという。問題はまあ、何故そのようなものがミュシアのことをつけ狙っているのかということだが……」
「あの、わたし、センルさんの言われていることがよく……」
シンクノアはあの時、狸寝入りをしていたのであったが、相手から凄まじいまでの妖力を感じとっていた。だが、今のセンルの理屈でいうとしたら、その妖力というのは、センルが同等の魔力を持っているということではないのかと理解した。それであればこそ、彼はおちおち眠れもせずに、一晩中起きているというはめになったのだろう。
「そっか、あの時ミュシアちゃんはぐっすり眠ってたもんな。けど、考えようによっちゃあ、その時もひとつ眼の大目玉さんは、もしかしたらこっそりミュシアの夢の中に現れていたのかもしれないぜ?こいつは俺の勝手な想像なんだが、奴は聖杯とは逆の、何か邪悪な力を持つ存在なんじゃないかな。千年前の探索行も、三千年以上昔の秘宝探索行も――そうやって何かの闇の力、邪悪な力に妨害されたと聖書に書いてあるからな。たとえば、あいつらはそれぞれの秘宝の継承者たちが心を堕落するような隙を常に狙ってるっていうし、千年前の探索行じゃあ鎧の継承者が仲間を裏切って向こうに寝返っている。俺はこうした話を、ただの大昔にあった物語的なもんだと思って聞いてたんだが、案外本当にそのとおりなのかもしれないな……そのヴァーリなんとかってのは、おそらくミュシアの心になんの汚れも落ち度も見出せないもんで、今はまだ手出しが出来ないのかもしれない。けど、じっと見張って自分の出番がどこかにありはしないかと、隙を窺ってるんじゃないのか?」
「シンクノア、そんな怖いこというの、やめてくださいっ!!」
ミュシアが再びぞっと怖気立ったように、自分の体を抱くのを見て――「悪い、悪い」とシンクノアは素直にあやまった。もしシンクノア自身がそのヴァリアントという存在と向きあった場合、相手を斬った剣のダメージはすべて自分に跳ね返ってくるのだろうかと、シンクは一瞬想像してみた。そしてそれと同時に、一縷の望みを背中のアスタリオンという剣に感じてもいたのである。
(もしこれが本当に聖竜の剣で、俺にこの剣を鞘から抜くことさえ出来たら……ミュシアのことを守ってやれるのにな)
シンクノアはふと、隣の馬上の魔導士が近づいてくるのに気がついた。彼が時々見せる真剣な眼差しを見て、シンクはセンルが自分とまったく同じことを考えているのだと感じとった。
「おまえのことは、必ず私が守ってやる。仮に世界中のすべてを敵にまわしたとしてもな。ヴァリアントというのは、神ではないにしても、神に似たような存在で、自分では直接手をださずにただ<見ている>だけの邪悪な生命体なのだとも聞く。奴はおそらく、今回千年ぶりになる聖竜の秘宝探索行がはじまったのを知って――その行く末がどうなるのかを見てみたいというだけなのかもしれん。まあ、もしまたおかしな夢を見たら私に知らせろ。それがもしかしたら何かの前触れを知らせる予知夢である可能性もあるからな」
「はい、センルさん……」
ミュシアがそう一言呟くように言ってから、顔を俯ける様子を見て、シンクノアは(やれやれ)と再び溜息を着きたくなった。
(『世界中のすべてを敵にまわしても、おまえのことは私が守ってやる』か。もしこれで俺にミュシアに対して仄かな恋心なんつーのがあったら、この時点で確かに喧嘩になってるわなあ。残りの盾とか鎧なんかの継承者がどんな奴なのかはわからないにしても……そいつがどっかの国の騎士さまで、姫巫女に我が身のすべてを捧げ奉る!!なんて言いだしたら、センル先生、顔が青紫どころか青黒くなるんじゃねーの)
シンクノアは自分でも少し不謹慎だとは思ったが、ヴァリアントという存在が秘宝探索行の行程のすべてを見張っていたい気持ちが、なんとなくわかるような気もしていた。何しろ、千年ぶりに人間世界の歴史が大きく変わろうとしているのだ――これほど面白い見物は、おそろしく長命であろう魔物にとって、見逃すことの出来ない一種のショーのようなものなのではないだろうか?
(俺にしたところで、センルが最後ミュシアのことをどーすんのかとか、気になるもんなあ。三千年前の探索行の終わりじゃあ、竜使いの冑の継承者が、姫巫女と愛しあっていながらも別れたってことになってるし……彼は引き続き<地の崖て国>を治め、姫巫女殿はルシア神殿へ戻って国を再興したというわけだ)
少し手前をゆくセンルの乗る白馬のあとを追いながら、シンクノアはミュシアが今何を思っているだろうと想像してみた。自分の好きな異性に『すべてを敵にまわしても、おまえのことを守ってやる』だなんて言われたら、年頃の乙女としてこれ以上嬉しいことはないような気がする……けれど、シンクノアの位置からでは、ミュシアの顔の表情ははっきりと窺うことが出来なかった。ゆえに、彼にはミュシアの本心がわからぬまま終わってしまった。
王立図書館の前に二頭の馬が到着した時、ミュシアはもう顔を俯けてはおらず、ルークとして神官を演じている時と同じ、どこか凛とした真っ直ぐな表情が、そこには浮かんでいるだけだったからである。
カーディル王立図書館は、センルが先に言っていたとおり、見た目と中の広さがまるで違っていた。図書館も、その先にある魔導生たちの寄宿舎だという塔のついた城も――どっしりとした石造りで出来ているのだが、中に入るとがらりと印象が変わった。
図書館の内部は全十階層からなる吹き抜けで、オレンジとも茶色ともつかない、美しい木材によってそれぞれの階段や書架などが構成されている。にも関わらず、外から見る限りにおいて、この図書館は二階建てのまったく不思議なところのない建物であるようにしか見えなかった。
センルは、一階にある広いエントランスの脇、アカシヤ材で出来たカウンターのところにいる、魔導司書のひとりに声をかけた。彼女は第9級の位を持つ魔術院の卒業生である。
「蒼の魔導士のセンルさまですね。ブリンクのエリメレクさまより、お話のほうは窺っております。お連れの方に館内を案内して差し上げればよろしかったでしょうか?」
「ああ、頼む」と、センルは魔導司書のアリッサがどこか媚びた視線を送ってきても、まったく気づかなげに彼女に返事をした。「私はこれから公邸のほうで、エリメレク殿と少し話すことがあるので……その後、彼の許可を受けてから、二階から上へは私が直接案内したいと思う」
「そうですね。わたしはクワイル(黄緑)の魔導司書ですので、閲覧できる図書は当然、三階にある書物までですから。四階にはリディル(第8級・橙)の魔導司書が、五階にはナディーン(第7級・紫)の魔導司書がそれぞれいますけど、彼らというのは、なんといいますか、こう……」
「いや、わかっている」
センルは微笑を堪えきれずに笑った。
「昔も彼らは、非常に気難しい顔をしておったよ。もちろん今では司書も変わっていようが、図書館内は吹き抜けになっているから、一階に騒々しい市民でも現れようものなら、彼らは沈黙魔法をよく使っていたものだ。それに魔導司書というのは、魔法の心得のない者を一階に入れることさえ反対していたからな。本を開けることの出来る魔石がなければ、閲覧は不可能であるにも関わらずそうだったのだ。そんな魔導士連中に一般市民を案内しろなどとは、とても頼めたことではない」
「御理解、痛み入ります」
若い魔導司書の女性が、センルの微笑みに顔を赤らめるのを見て、ミュシアは何故か胸の奥がちくりと痛むものを感じた。
(何かしら、これ……)
生まれてから一度も、色恋に関することで嫉妬を覚えたことのないミュシアは、その感情がどこからくるものなのかを知らなかった。ただ、それがあまり良くない負の感情であることはわかっていたので――エントランスの縁を飾るようにして並ぶ、薬草や香草などを見てまわることにした。
「その白いのは、ユーニップの花だな。根を煎じると、熱冷ましによく効くんだ。んで、向こうのがアルミラ草。こいつにはよく世話になったぜ。俺の剣のお師匠さんってのがまあ、血も涙もない鬼でさあ。俺の目がなまじいいもんで、目隠しさせた上、気配だけを探って自分にかかってこいとか無茶をいうわけ。当然こってんぱんにのされちまって、このアルミラ草で作った湿布薬をアイリによく貼ってもらったもんだったよ」
「それで、なんですね」ミュシアは微笑みながら、毒がありそうにさえ見える、赤紫のアルミラ草を見て言った。「わたしには武術の心得なんてありませんけど、シンクの剣の腕前が相当なものだというのはわかりますから……わたし、シンクやセンルさんに出会った翌日、自分の身は自分で守れるから、用心棒なんて必要ないみたいに言ったことがあったでしょう?もちろん、あれは嘘なんです。わたしが名前を騙ってるルークって、槍術の師範代だったものですから、つい彼になりきったつもりで、そんなことを言ってしまって……あの、シンクノア。もし良かったらこれから、時間のある時にでも、わたしに剣術を教えてはくれませんか?」
「ええっ!?」
驚いたシンクノアの声が、あまりに大きかったためだろう、入口に近い書架にいた数名の平民と、階段の踊り場にいた魔導士などが、一瞬こちらを振り返った。三階のほうでも、階段近くの座席で本を読んでいた魔導士が、沈黙魔法の呪文を唱え、最後に印を切っている姿が見える……センルは、シンクノアの驚きの声を合図とするようにこちらへ戻って来、彼らに「どうした?」と声をかけた。
「いやまあ、こっちの話」
センルには気づかれぬよう、シンクノアはミュシアに左目でウィンクしてみせた。
「それより、知的美人司書との密談は終わったんスか、センル先生?」
「……何やら、意味ありげな言い方だな。まあ、そんなくだらんことはどうでもいいとして、おまえとミュシアは彼女に案内してもらって、図書館の一階で『ある魔法使いの偉大な一生』といった伝記でも読んでいろ。あるいは、世界中の民話を集めた本とか、神話関係の本などだな。私はエリメレク殿との会見を終えたら、再びこちらへ戻ってくる。昼ごはんのほうは、図書館の二階に寮へ通じる通路があるから、そこにある食堂まで案内してもらって、何か食べてくるといい」
「あの、センルさんは……?」
ミュシアがいつものように気遣わしげな眼差しで見上げるのを見て、センルは微かに笑った。
「魔法使いというのは、昼飯くらい抜いても、どうということもないものだ。まあ、私のことは気にせず、魔法寮の名物である孔雀料理でも食べてくるといい。魔術の触媒として、孔雀の羽根をよく使うんだが、そのせいもあって孔雀肉をうまく調理する方法を昔、とある魔導調理士が考えだしたというわけだ。あと、孔雀の卵料理なんていうのもあるから、珍味と思って御馳走になってくるといい」
この時ミュシアが、センルにはわからない不思議な影を顔の表情に走らせても――彼にはそれがなんなのかまでは掴めなかった。シンクノアもまったく気づいてなかったが、センルは特に気にするでもなく、そのまま中央にある階段を上っていく。
「あれ、センル先生?エリメレクどんの公邸っていうのは、魔術院の校舎のほうにあるんじゃなかったっけ?」
「ああ。魔導教員たちの宿舎も、向こうにある。だが、やんちゃな魔導生たちを教師たちがそのまま放っておくはずもなかろう?向こうとこっちはきちんと、空間転移魔法陣によって結ばれているのさ。だから私はそれを使ってエリメレク殿の公邸――別名魔導邸へ行こうと思っている」
「な~る。そーゆーこと。そんじゃ、一発がんばってきてくださいや、センル先生!」
そう言ってシンクノアは、階段を上っていくセンルの背中を、手を振りながら見送った。
「さて、と。ミュシアちゃんってばなんで急に、剣なんて振るいたいと思ったわけ?まさかとは思うけど、俺やセンルのお荷物になりたくないとか、そんなことを思ってるんじゃないよな?」
「それも、あります。実際わたしは、これといってなんの取り柄もないですし……たとえば仮に、何かの形で人質にでも取られたらとしたら、シンクやセンルさんに迷惑をかけることになるかもわかりません。だからといって、聖杯の保持者である以上、自ら命を絶つということも出来ないんです」
「そっか。でも俺が思うには――センルってたぶん今は、ミュシアを守ることが生き甲斐みたいになってるとこがあるからなあ。あいつは、「何かが出来る」ミュシアのことを守りたいんじゃなくて、ミュシアが蟻の足一本自分で引き抜けないから、それを自分がかわりにやりたいんだと思うよ。ま、なんともおかしなたとえだけどさ」
「蟻の足くらいなら、どうしてもそうしなくてはいけない場合、わたしにも引っ張ることくらいは出来ると思います」
ミュシアはあくまで真剣な顔つきだった。
「いや、だからそーじゃなくて、なんて言ったらいいのかな……センルは剣なんか持ってるミュシアには興醒めしちゃうって奴なわけよ。ミュシアが自分で「何も出来ない」と思ってるから、逆になんでもしてやりたいっていうのかな。あ~あ、俺はこういうの、センルみたいにうまく説明できねえな。あいつならミュシアに、『世界のすべてを敵にまわしても自分がおまえを守ってやる』みたいに、ビシッとした決め科白を言えるんだろーけど」
「でも、もし本当に……世界のすべてが敵にまわったとしたら、大変なことだもの。わたし、そんなんだったら、センルさんに守ってほしいだなんて思わない」
(ああ、そっか。この子はかなりの真面目ちゃんだから、センルの言葉をまんまそのとーりに受けとめて、そう思い詰めちまったってことか)
シンクノアがどう言ったもんかなと思い、腕組みをしていると、背後からクワイルの魔導士であるアリッサが、ふたりに向かって声をかけてきた。
「一階の閲覧室を御案内致しますわ。わたしは第9級の位を持つ魔導司書のアリッサです。一階の図書は大体、神話・神学・民話・伝記がおもな図書となっていて……あの、あなた、神学を勉強されているとセンルさまよりお聞きしたのですけれど?」
ミュシア自身にはおそらくわからなかったろうが、シンクノアにはアリッサが何故微妙に不思議そうな顔をしたのかがわかった。神学を学んでいるような人間がマゴクと一緒にいるのも不思議なら、そんなふたりを蒼の魔導士センルが連れているのも不思議だったに違いない。それに加えてミュシアは、男物のチュニックを着ているとはいえ、顔がどこか中性的で女とも男とも判別しがたいようなところがある……そうした印象のすべてが、理知によって物事を分析するタイプの魔導士には、不可思議に見えたのかもしれない。
「はい。ぼくは神学関係のことにとても興味があって」先ほどまでシンクノアに見せていた、不安げな表情を捨て去り、ミュシアは神官ルークの顔になっていた。「正訳聖書は自分でも持っていて、何度も繰り返し読んでいます。ですが、正訳聖書というのは、歴史的に間違いのない事実として五王国の聖書認定官が認定したものだけを扱っているので……ぼくは他の国の異本聖書についても調べてみたいと思ってるんです。御承知のとおり、五王国それぞれによって聖書は若干記述が異なるものですから。たとえば、聖竜の秘宝の探索行で、ミッテルレガント王国の騎士が盾の継承者であった箇所など――ミッテルレガント王国では、彼がまるで物語の主人公であるかのような記述を聖書にそのまま載せています。他の国々についても事情は同じで、そのあたりのすべてを読み比べてみることで、何か新しい発見があるんじゃないかと、そんなふうに思ったものですから」
「まあ、そうでしたの」
アリッサはシンクノアの存在はほぼ無視し、ミュシアことルークにそのままべったりつききりとなった。
(やれやれ。またこのパターンか)
シンクノアは赤毛の魔導司書に対して、心の中で肩を竦めた。三人で旅をしていると、人々がまず真っ先に目をやるのはセンルだった。そして次に関心を抱くのがルークに対してであり、シンクノアのことは見なかったことにするか、あるいは存在を認めても奴隷に対するかのように接することが多いのである。
さらにそれにプラスして、アリッサの態度が何故こうも急に変わったのかも、シンクノアにはよくわかっていた。ルークが自分のことを「わたし」でもなければ「あたし」でもなく、「ぼく」と言ったからなのだろう。
彼女はルークが頼みもしないのに、神学の文献的な書物が並んだ書架から次々本を引き抜き、「それであればこれがいいですわ」とか、「こちらが御参考になるかと思います」と言って、閲覧室の机の上に書物をどんどん積み重ねていった。
「あの、あとは大体、自分で調べられますので……」
ルークがそう、やんわり断りの言葉を伝えると、魔導司書のアリッサは、頬を赤く染めていた。そして「わたしったら、ついうっかり」などと呟き、「また何か御用がありましたら、なんなりとお申し付けくださいね」と言い残して、ようやくのことで去っていった。
(さーてっと、そんじゃあまあ、俺も何か調べものをする振りでもしておきますかね)
シンクノアは、手はじめに箱舟民族といわれるゼロラの民のことや船上を己が領土とする航海の民、テガシエルパについて書かれた本がないかと探しはじめた――ただし、視界の隅に神学の本に没頭するミュシアの姿が入る範囲内で、である。カーディル王立魔術院の領土には、強力な守護魔法が張り巡らされているとはいえ、それでもいつなんどき、姫巫女の御身に危険が迫らないとも限らない……というようにセンルに厳しく注意されていたし、シンク自身もミュシアから夢の話を聞いて以来、まったくそのとおりだと思うようになっていたからである。
それでもシンクノアが、テガシエルパの民の祖先は念動力を持っていて、その力によって船を操ったり、また石造りの神殿に石を運んだ――といったような記述に夢中になっていると、もう一度ミュシアのほうを振り返った時、彼はそこに神経の苛立つような光景を見出していた。
この時シンクノアは、センルのイラっとする気持ちや眉毛がピクっと動く気持ちが、初めてわかったような気さえしたものである。
(なんだ、あの野郎!?他にも席はたくさんあるのに、わざわざルークの隣に座りやがって……しかもあの、いかにも女慣れしてるような馴れ馴れしい態度。あっ、ルークの座席の背もたれに手まで回しやがった!もしかしてあっち系の男で、ルークのことを男だと思って口説こうとしてんじゃないだろうな!?)
シンクノアはセンル並みにイライラするあまり、テガシエルパの民のことが書かれた本を手にしたまま、ミュシアの向かいに荒々しく腰を下ろした。さらにはオッホン、ウォッホンと、どこか白々しいような咳までつきはじめる。
「おや。どうやら君の、赤い瞳の用心棒殿が戻ってきたようだね。それでは、わたしはこれで失敬させていただくが――先ほどの話、よく考えておいてくれたまえ」
「あの、わたしはそういうことは……」
だが、ミュシアが言葉のすべてを言い終える前に、金髪碧眼の若い男は、どこかへ去っていってしまった。銀糸を施した白の高価なローブを身に纏いつかせているあたり、どこかの貴族の息子かとシンクノアは思ったが、彼の中でなんといっても神経の障る特徴は、今の男のもったいぶったような、人を見下した目つきと話し方だったかもしれない。
「おい、ルーク。一体なんだよ、あいつ!?」
シンクノアは小声ながらも、苛立つ感情を抑えきれずに言った。
「赤い瞳の用心棒って、俺が用心棒みたいなもんだってわかってるってことは、おまえが女だってこともわかってるってことじゃないのか!?」
先ほどまで金髪の男が座っていた席まで移動しながら、シンクノアは「女」という言葉を特に小さめに発音して、ミュシアの隣に腰を下ろした。
「あの人、わたしが姫巫女だって、知って……」
ミュシアは震える声でそこまで言うと、ポタリ、と異本聖書の本の上に、涙をこぼした。シンクノアが彼女から目を離したのは、たったの五分かそこいらの話である。にも関わらず、ミュシアが両手で顔を覆って泣きはじめたのを見て――シンクノアはますます、先ほどの男に敵愾心と苛立つ気持ちを募らせるということになった。