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第1章 大神官エルヤサフ  

 光の女神ルシアと、聖竜ルシアスを祀った神殿の敷地は、それぞれ縦の長さが4.4エリオン(1エリオンは約1km)、横の長さもまた4.4エリオンあり、ちょっとした町か村がひとつおさまるくらいの広さがあったと言えるだろう。

 ルシア神殿の裏手には、巫女や女神官たちの住まう建物が並び、ルシアス神殿の後ろには神官たちの住居と牛や羊などを飼う放牧地がなだらかに広がっていた――そこには野生の鹿なども住まっていたが、この<聖地>では当然のことながら狩りは禁止されている。

 そしてルシア神殿とルシアス神殿のちょうど中央あたりに、将来巫女や神官となることを希望する子女の集う「聖契学院」があるのだが、この学院の院長は代々、ルシアス神殿最高位の地位にある大神官が務める慣わしとなっていた。

 第六十一代聖契学院の学院長にして、大神官であるエルヤサフ卿は、第十三の月に神殿前に捨てられていた孤児であり、学院時代は成績のあまりパッとしない、実に目立たぬ聖徒であった。そんな彼がいわゆる神の御意志――神意により、一神官にすぎぬ身から大神官へと権力の最高位にのぼりつめたことは、ただ運命の悪戯としか呼びようのないことだったかもしれない。

 ルシアス神殿の神官の位は、大神官(大僧正)、司教、司祭、僧正、僧侶、神官、神官見習いの六段階である。聖契学院を卒業し、神官見習いとなった者がまず就く仕事は、十二州に分かれているルシアス王国をそれぞれ治める、十二大公が毎月献上する神殿税を規律正しく区分するというものであった。

 すなわち、第一の月であるハゼルには、ルクセリア州の大公が牛や羊や山羊、その他革製品や布製品や染料といった細かく規定された奉献物の他に、その州の人口に従って納めなければならぬ神殿税を上納するために、大公自身が長い家臣の行列を率いて聖都までのぼって来るのである。そして第二の月のアゼルには、同じように今度はルクシェント州の大公が、第三の月のマゼルには、ルムナディール州の大公が、第四の月のカゼルには、ルキンエネム州の大公が、第五の月のニガルには、ルネルヴァ州の大公が……といった具合に、必ず月のはじめに、ルシアス神殿にはたくさんの家畜や物品や金貨などが納められ、それを記録・保管するのが神官や神官見習いの主な仕事ということになっていた。

 エルヤサフは聖契学院の聖徒であった頃から、あまり信仰熱心なほうではなく、自分はたまたま「神意により」第十三の月に神殿前に捨てられていたから、いわば成りゆきのようなもので神官職に就いているにすぎないと考えていた。出世といったものにもまるで興味はなく、自分は一生このまま、毎月牛や羊や山羊の数を数え、家畜の世話をして終わるのだろうと思っていた……そんな彼の人生が変わったのは、先代の大神官に夜な夜な可愛がられるようになったからに他ならない。

 エルヤサフは紅顔の美少年で、大神官は他のどの少年よりも彼をもっとも贔屓にし、愛していた。以来、彼は僧侶、僧正、司祭、司教へと、特にこれといった功績もなしに出世の階段を順調に上っていき――最後には、彼に性的虐待を長きに渡って施した男の指名により、大神官の位を継ぐということになったのであった。

 エルヤサフは六十五歳という年齢に達した今、自分の人生を振り返ってみて(まったく奇妙なことだ)と感じている。彼は先代の大神官のシャドミエルが、自分のことを屈服させた夜以来、もともと中途半端にしか持っていなかった信仰を完全に捨てていた。そしてどこまでも神に挑戦するという道を選び取ったのであるが、自分の計略がうまくいけばいくほど、彼は神に対する深い畏敬の念を感じずにはおれなかったからである。

 聖都ルシアスが陥落した夜、王城から竜が火を吹くあり様を眺めながら、エルヤサフは(燃えろ、燃えろ、もっと燃えろ!!こんな腐った土壌に建つ都など、灰になってしまえ!!)と、一種の狂気じみた歓喜とともに心の中で叫んでいた。

 彼がいたのは王城にある、南に面した塔の一室で、そこにはレグナ大公とユージェニー女王とが、エルヤサフが見ているのと同じ光景を、彼とは違い、恐怖を持って見つめているところであった。

「わたしは、こんなことは聞いていないっ!奴ら<地の崖ての民>とやらは、姫巫女の御身のみをさらい、都には手出しはせぬと誓約していたのだぞっ!!」

「まあ、これはこれでよいわ」

 ユージェニー女王は、姫巫女の非業の死がよほど嬉しかったのであろうか、目の前で自分の治める国の民草が逃げ惑おうと家をなくそうと、あるいは命を落とそうとも――眉ひとつ動かさぬ素振りであった。

「もしあのまま、ルシア神殿とルシアス神殿がそのまま残っておったらば、民たちが姫巫女の再臨を是非にとわらわに望んでおったろうからの。じゃがまあ、姫巫女は死に、十二人いる巫女も、レイヴァン、そなたの娘サフィをのぞいて命を絶つか神官どもに殺されるかしたろう。これぞ、わらわが多年に渡って望んでいたことじゃ。あの目障りな巫女どもさえいなくなれば……ルシアス王国はこれからもっと栄えることであろうぞ」

「したが、ジニー」

 女王の従姉弟であるレイヴァン卿は、彼女のことをそう愛称で呼んだ。

「ルシア神殿とルシアス神殿は、これからも形式上は必要であるのだぞ。我が娘サフィを姫巫女の位に就け、その後も我々にとって都合のいい巫女を選定していく必要がある。それから、神殿税の横流しについては――」

 ここで、レイヴァン卿は狐に似たずる賢い目つきで、エルヤサフのほうにちらと視線を送った。

 エルヤサフは、竜どもの吐く息にはいくつか種類があることに気づき、その赤や紫といった炎の色に魅入られたような眼差しを注いでいたのだが、レグナ大公の視線に気づくと、瞳から狂気の色を消し、彼のほうを振り向いた。

 室内には精緻な模様の描かれた絨毯が敷かれ、部屋の中央にある螺鈿細工の施されたテーブルには、最上級のワインとグラスが並んでいる。女王は、窓の外の竜の炎から目を離し、象牙の暖炉に燃える赤い炎のほうに視線を転じると――その上に描かれた若き日の自分の肖像画と、白いユニコーンの紋章旗をしばしの間眺めやった。白のユニコーンこそは、ルシアス王国を象徴する紋章だったからである。

「お約束どおり、神殿税については、うまく女王陛下に上納いたしますこと、このエルヤサフ、心からの忠誠にかけて誓いますぞ」

 エルヤサフは自分でも、心にもないことを言っているとわかっていた。それは、神殿税を横流しする気がさらさらないということではなく、単に彼は人間としてユージェニー女王のことも、レグナ大公のことも好きではないのだった。

 何かの運命の間違いにより、今自分は大神官などという地位に就いているが、もともと彼はただの孤児であり、それも第十三月という忌み月に生まれた子なのだ……そんな汚らわしい平民以下の人間と、本来ならば彼らは口を聞くことすら厭ったに違いない。しかしながら、こと金というものが絡むと、そのような些事は、貴族にとってさえあまり心を煩わす原因とならないようだった。

「そうよのう。汝ら、神官たちというのは、毎月毎月十二大公の神殿税の処理に押し潰されて、吐き気を催さんばかりだろうからの」

 ユージェニー女王はその日、灰色がかったラベンダー色のドレスを着ていた。まだ五十代ながら、その髪には白髪が混ざっていたが、その黒と白の髪のコントラストに、ラベンダー・グレイのドレスは実に映えていたと言わねばなるまい。若き頃の美しさは去り、その目許や口許には小じわが目立ったが、それでも彼女が「その気」になりさえすれば――女王は今も、うら若き男どもが何かを勘違いしてしまうほど、妖艶な笑みを浮かべることが出来た。

「さようでございます、女王陛下」

 エルヤサフは恭しくお辞儀をしてから、ユージェニー女王の斜め前の椅子に座った。隣のレグナ大公がワインを注いでくれると、エルヤサフは酒類を禁じられている聖職者であるにも関わらず、良心が痛むでもなく、大公と祝杯を上げていた。

「あの<神殿税>というのはまこと、意味なきものでございますよ。それに、十二大公はおのおの、自分たちの捧げ物こそ全十二州きって最上のものとすべく、毎年凌ぎを削っているようなところがありますからな。かわりに彼らは姫巫女から託宣を受け、州を維持していくに当たっての神の言葉を受けたりするわけですが……レグナ大公、あなたには毎年、さしたるお言葉もないのでしたな?」

 エルヤサフにそう指摘され、レイヴァン卿は暫しの間不機嫌そうに押し黙った。そして内心エルヤサフは、(この茶色い髪の狐めが!)と彼のことを蔑んでいたのであった。

 レイヴァン=レグナは、ワインの名産地を抱えるルクシェント州の貴腐ワインの芳香を楽しみながら――それを一口味わうと、再びワイングラスを落ち着かなげにくゆらせはじめた。

「わたしは毎年、あの姫巫女殿に同じことを言われ続けて来たのですよ。『私はあなたには何も言うことはない。自分の道を進んでいかれるが良いだろう』とね。ですが姫巫女は、ルクセリア州やルネルヴァ州の大公には、流石は姫巫女さまというような、素晴らしい御言葉を多く授けているのです。そんなことまでは神でもなければわからぬだろう、といったような言葉をね。お陰でわたしは彼女の託宣通り、己が道を進んでここまでやって来てしまったというわけだ」

(ふん!何を言うか。このこそ泥の小心者の狐めが。姫巫女の託宣が貴様になんらの益ももたらさなかったのは、貴様の性根がそれだけ腐っているからよ。言っても無駄なもの、意味のないものには、神の恩恵など与えるだけ無駄というもの。その点はユージェニー女王も同じこと……本当はただの女のくせに、自分は女王だ、聖竜の末裔だなどと、その地位の上であぐらをかいているから――そのようなものは結局、神から何も得られはせんのだ)

 そこまで考えて、エルヤサフはふと、自嘲の笑みを顔に浮かべた。自分もまた、こやつらと同じ穴のムジナ、地獄へ落とされるべき罪人であることを思いだし、もはや取り返しのつかぬ道に大きな一歩を踏みだしたことを、あらためて感じたからである。だが彼は、炎に包まれた聖都を眺めやっていてさえ、そのことを微塵も後悔してはいなかった。

 その後三人は、今後のこと――こうなった以上は、ルクシンドラになるべく早く遷都すべきであるという計画を、どうやって速やかに押し進めていくかを綿密に話し合った。ルシアス王国第三の都と言われるルクシンドラには、もともとルシア神殿・ルシアス神殿の本殿に次ぐと言われるほどの大神殿があり、そこでは生臭な神官と堕落した巫女たちとがうまい具合に神殿運営に当たっているのであった。

 エルヤサフは、ルクシンドラ神殿の大神官の地位にあるシェルミエルと懇意にしていたし、彼もまた自分と同じ男色家であることも知っていた……だが、これらすべてのことを通してもエルヤサフは、(これぞ、神などこの世に存在せぬ証拠よ)などと考えてはいない。といよりも彼は、<滅び>そのものをずっと待ち望み続けていたのだ。どのくらい悪というものが積み上がれば、神とやらはその重い腰を上げて人間世界へ介入してくるのか――彼はそのことを試してみたいと不遜にも考えていたのである。

 盗っ人や簒奪者のような罪人と、心清らかなる会合を終えた後、エルヤサフは妙に清々しい気持ちで王城内にある自分の寝室へ戻ることにした。神殿内の様子を探らせていた側近のひとりを呼び寄せ、彼から聖竜の槍が<地の崖て人>に奪われたこと、また聖なる槍を守ろうとして、その過程で何人もの神官が討ち死にしたこと、また竜騎兵が三十数名もの神官たちを捕虜として捕えていったという報告を受けた。

「して、ルークはどうした」

 聖竜の槍は、出来れば奪われたくなかったというのが、エルヤサフの本音ではある……そして彼は、ルークか、あるいは師範のひとりであるラミアスあたりが、聖竜の槍を手に取って敵を撃退せしめるのではないかと期待していたのだ。

「それが、あと今一歩というところで敵に追いつめられてまして、最後は相手に情けをかけられるという形で、彼自身は傷を負いながらもまだ生きております。ただし、ラミアスさまは、銀の髪に紫色の瞳をした男に討ち取られ、落命されました」

「そうか……」

(あのふたりの力をもってしても、無理であったか)――そう思い、エルヤサフは顎の白い髭を何度もしごいた。ルークというのは、実は彼が肉欲的なことを抜きにして、もっとも目をかけている僧侶の青年であった。

 彼には誠の信仰心なるものがあり、自分の手にかけることで、その信仰心を堕落させてやろうとエルヤサフは邪心を抱いたこともあったが、今はそれよりもさらに良い計画が彼の脳裏に閃いていた。これからのち、おそらく自分はルクシンドラにある神殿で大神官の摂政的地位に就くということになるだろう……そして、次代の大神官には必ずルークのことを指名しようとエルヤサフは考えていたのである。

(あやつの操りにくい潔癖さを、レグナ大公はどうされるかな。そしてルークもまた、穢れきった神殿を粛清するのに、気が狂いそうなほどの思いをすることだろう。だが、もし本当に神がいるのなら、新しい時代といったものは必ず開けていくに違いない……)

 エルヤサフはとりあえず、ルークが生きていたと聞いて満足した。彼の<棒術演舞>はまことに見事で洗練されており、あれが二度と見られぬと思っただけでも、エルヤサフには痛恨の極みであった。師のラミアスを失い、今ごろ悲嘆か復讐心に暮れているであろう彼の純粋な心を想像してみただけで――エルヤサフは手の内が汗ばむほどの興奮を覚えたものである。

(さて、と。とりあえずこれからもわしは、ルークが軽蔑するような汚れきった豚のような生涯へと邁進してゆこう。そしてわしがすべての穢れを引き受けて天寿をまっとうした時――神はわしをどうするであろうな。「底知れぬところへゆけ」と命じられるであろうとは思われるが、この世に<悪>といったものは、かような形でも必要なものなのだ)

 エルヤサフは当然、自分が詭弁を弄するただの老人であることをよく自覚していた。ただ、彼自身は己の過去を振り返ってみて、こうも思うのだ……「一体自分に、他にどんな生き方があったのだ?」と。自分が神殿に生まれたも同然な身ながら、中途半端な信仰心しか持ちえていなかったがゆえに、シャドミエルのような男に犯されることになったのか?それを神は見て、知っていながら、何十年も放置し続けたというのか?そもそも、自分のことを両親が捨てなければ、大神官になることもなく、その場合自分は一体どんな人生を送っていたのか――今よりもずっと若い頃は、エルヤサフもこうしたことを繰り返し自問したものだった。

 だが、彼はその答えを求めるのが意味のないことであると、とうの昔に知っていた。それに、裏切りの歯車はすでに動きはじめてしまったのだから、その最後がどうなるのかを命ある限り見届けたいというのが、エルヤサフが今もっとも望んでいることであった。その後、己の罪ゆえに地獄へ落ちるであるとか、そこで永遠に消えぬ業火で焼かれるといった情景は、彼の心になんの感銘ももたらすことはない。

 地獄で火の池に溺れながらも、神の実在に感謝することは可能かどうか、そのような観念論によってしか、エルヤサフは聖書で言われる天国や地獄といったものを想像することが出来ない……そして彼のその想像によれば、火の池で焼け爛れ、針の山で串刺しになっている罪人を尻目に、天国で安らぐことの出来る人間などはみな、所詮偽善者でしかなかった。

 天国へいけた者が、そこへ行けなかった者のために執り成しの祈りを祈ってこそ、すべての人間が救われるのではないか?――神がもしそのような存在だというのなら、自分もまた涙にかき暮れながら心から懺悔できるものをと、エルヤサフはそのように感じるのであった。

 なんにしてもこの夜、エルヤサフは王城の贅沢なしつらえの寝室で、大いびきをかいてぐっすり眠った。ユージェニー女王やレグナ大公が怯えていたように、彼は竜がもし王城をも襲ってきたら……などとは、露ほども想像しはしなかった。何故ならそれで自分が死ぬことになったとしても、エルヤサフは少しも後悔などしなかったろうからである。

 ただし、その場合は出来ることなら、ユージェニー女王とレグナ大公の胴体が竜の牙に引きちぎられるところを見てから死にたいものだとは、思っていたにせよ。



 聖ルシアス歴、1189年の第十二の月――聖都では、奇跡が起きたと人々の間で噂されていた。

 通常であれば三月頃、春の先触れを知らせるように咲くユニファの白い花が、ルシア神殿・ルシアス神殿が元あった場所に、一夜にして満開の花びらを咲き誇らせていたからである。

 ユニファというのは、アーモンドの花によく似た、芳香性のある白い花で、長い冬が終わったあと真っ先に咲くことから、ルシアス王国では国花とされており、また姫巫女の純潔を象徴する花としても人々から愛されていた。

 僧侶のルークは今、噂の真偽を確かめるために、かつて自分が寝起きしていた神殿跡地に立ち、竜の炎で焼かれた黒い土地がすべて、ユニファの白い花弁によって埋め尽くされているのを眺め、自然、涙が頬を伝っていくのを止めることが出来ないほどだった。

(姫巫女リリアさま!!ラミアス師匠……!!)

 その他、ともに槍術と神学を学んだ同窓の死んだ友のことを思い、ルークは一夜にして生えたという薄茶色の樹木の間を、夢見るような心地で通り抜けていった。

 ふとした瞬間に、失った友が木陰から姿を現すのではないかとすらルークには思われたが、心の激動が去り、涙が一通り流れ落ちると、彼は再びいつもの深い物思いの中へ捕われていった。

(大神官エルヤサフさまは何故、遷都に賛成なさったのだろう。確かに、竜の放った炎の力により、聖都ルシアスの大地は灰燼と帰した……この黒と灰色の土地の上に再び建物を建てたとて、姫巫女さま亡き今、かつての栄光と繁栄が再び戻ってくるわけではないということも、一応理屈としてわからぬではない。だが、我ら神官がここを離れてどうするというのだ!むしろ我々こそがここに残り、再び大地を再興させ、民の範となる姿勢を示すことでこそ、もう一度多くの民草が故郷へ戻って来ようというものではないのか?)

 ルークは、ユニファの花が狂気の如き白さで咲き誇る樹間を、幻の中を歩く人のように、ぼんやり歩いていった。そして、花芯にほんのりとさす薄桃色の筋に目を留めると、枝のひとつに口接けした。

 ルークの目撃した限りにおいて、竜は数種類の炎を操れるらしく、その中でもっとも高温である紫色の炎――それが石造りの建造物の上に吐かれると、見る間に黒焦げとなっていったおぞましい情景を思いだした。聖都ルシアスには、木造作りの建築物は少なく、ほとんどが耐火性のある石造りである。にも関わらず、竜の炎はそんなことにはお構いなしに、ほんの一瞬にして千年もの歴史ある建物郡を次から次へと破壊していったのである。そして石が崩れずに残ったものに関しては、竜の鋭い爪や荒々しい尾がものを言った。その上、竜の吐く火炎にさらされた大地というのは、土地が幾層にも深く犯され、そこにこれから何か植えたとしても、あと七年は取り入れが不可能であるように思えるほど――毒されて、消し炭のようになってしまうのである。

 ルークは竜が神殿の外で暴れまわっている間、ルシアス神殿の地下最下層にある<聖竜の槍>を守るため、師であるラミアスや他の神官たちとともに、普段手にしている使いこんだ棒ではなしに、先端に鋼の刃の着いた本物の槍を持つということになった。

 神官たちが常時体を鍛え、棒術に打ちこんでいるのは当然、神殿にこうした危険が訪れた時、姫巫女をはじめとした巫女たちや女神官、またさらには<聖竜の槍>を守るためではあったのだが――あまりに長く平和が続いたためであろう、神官の中には敵とはいえ、人を殺すという行為にためらいを持つものが続出、地下の第一階層、第二階層もすぐ突破され、早くも第三階層の扉を残すのみとなってしまったのである。

 その石造りの堅牢な扉の前で、じりじりと後退しつつも、ルークは何人かの竜騎兵を打ちしとめた。打ちしとめた、などといっても、殺したということではなく、うまく隙を窺って、鎧で補強されていない頸部などを槍の柄で殴打したということだった。

「手ぬるいな」

 蒼の冑から白銀の髪を流し、紫の深い色の瞳をした男は、自分の脇に部下がひとり倒れたのを見て、そう呟いた。

 通路は狭く、常に一対一でしか渡りあえないよう工夫して設計がされている。もし外敵が侵入して来た場合は、棒術師範たちが<聖竜の槍>を守るべく、ここで敵とうまく渡りあって倒せるようにという意図があるのだろう。

「どうやら彼には、並大抵の者では拉致があかないようだ。このままではただ徒に時間を浪費するだけ……一応先に忠告しておくが、俺には峰打ちなどという甘い技は通じないものと思って、本気でかかってきたほうがいい。それが、部下たちの命を奪わなかったことに対する、俺のせめてもの気遣いだ」

 そう言うと男は、蒼い冑をとってさえ寄こした。廊下にかかる松明の光に、銀の髪に縁取られた若い男の顔が浮かび上がる。

(……出来る!!)

 ルークは相手の槍の力量を瞬時にして推し量り、少しでも自分の側が隙を見せれば、打ち取られるものと覚悟した。しかも、竜騎兵たちの持つ槍はみなそうなのだが、彼が持つ青緑に光る槍もまた、神官たちの使うものより柄がかなり長いのだ。

 おそらく彼ら竜騎兵は、竜に乗って槍で獲物を仕留めるせいもあって、そのような長槍を使っているのだろうとルークは推測していたが、自分も数十名もの竜騎兵と渡りあうことで――切っ先に鋼の刃のついた槍の感触に、今では大分慣れてきつつあった。

(聖竜ルシアスよ!我に加護を与えたまえ!!)

 ルークが心の中でそう呟き、槍を真っ直ぐに立て、そこに右手を十字にするよう交差した時のことだった(これが神官たちの、試合開始前の作法なのである)。ルークと交互に敵と渡りあってきたラミアスが、ぐいと弟子の肩を後ろへ引いて寄こしたのである。

「ルークよ、彼のことはわたしに任せろ」

 ラミアスは四十代半ばの、司教の地位にある神官であり、神学に通じているのは当然のことながら、その温厚な性格とは似合わぬ、神業とさえいわれる槍の使い手であった。

「ですが、ラミアスさま。あなたがもしお倒れになったとあっては、もはや後がありません」

「ははは。言うてくれるな、ルークよ。まるでわたしが最初から負けるものと決めてかかっておるようではないか。わたしは、もしかしたら待っていたのかもしれない……彼のように強い槍の使い手が、自分の前に現れる瞬間をな。もし、わたしがこの男に敗れたとしても、こやつを恨むでないぞ、ルーク。これはわたし自身の望んだ、わたし自身の戦いなのだ」

「師匠……」

 普段は開いているのかいないのかわからぬ、ラミアスの細い目から闘気のような凄まじい力が放たれているのを感じると、ルークは彼の後ろに身を引くしかなかった。

 もちろんルークは自分の尊敬する槍術の師の勝利を疑ってはいなかった。ただ、敵が数において勝っていることを考えれば――自分がひとりでも多くの竜騎兵を倒すのが望ましいであろうと、そのように計算していたのである。

 銀髪に紫の瞳の男と、ラミアスの打ち合いは熾烈を極めた。おそらく、ほんの数分の間に、両者は五十数戟は槍の柄や穂を打ち戦わせたことだろう。

 今では、後ろのほうにいた竜騎兵たちも、このふたりの打ち合いを何かに魅入られでもしたかのように、息を殺して見守っていた……さらに二十数分が過ぎ、ふたりが一旦距離を取って、呼吸を整えた次の瞬間に――すべては決まった。

 ラミアスの鋼の穂が、銀髪の男の胸当てに届いたのである。だが、無常にもその瞬間、ラミアスの槍の切っ先は砕け散っていた。

「なんだと!?」

 驚愕に目を見開いたまま、ラミアスは絶命した。紫の瞳の男の槍が、彼の腹部を刺し貫いたからである。

「ラミアスさまっ!!」

 自分の師匠が勝ったとばかり思っていただけに、ルークの絶望はより深いものとなった。ラミアスの体を抱え起こした時、ルークの白の神官服は赤く血で汚れた……彼はラミアスが生前好んでいた聖句のひとつを呟くと、頬の涙をぬぐい、闘神の如き眼差しによって、銀髪の男のほうを睨みつけた。

「卑怯者めっ!!貴様の胸にラミアスさまの槍が届いた時点で勝負はついていたとは思わぬのか!?それを、それを、よくもこんな……っ!!」

「すまなかった、とは思う」

 紫の不思議な色の瞳をした男は、弔いの言葉でも述べるように、静かに言った。

「だが俺も、卑怯者とならずにすむよう、これでも一応気は遣ったのだ。このことを俺はとても恥かしく思うし、自分の勝利であるとも決して思わない。一対一の同条件の勝負であったなら、もう一度手合わせしても俺は負けることになっただろう。ルークとやら、貴公の師匠は本当に素晴らしい槍の使い手だった。それをむざむざ殺すことになり、俺も残念に思うが……これが戦争というものだと思い、諦めてもらう他はない」

「なんだとっ!?よくも貴様、そんなことが言えたものだなっ!!戦士の風上にもおけぬ、卑怯者のくせにっ!!」

 ビュッと風を切って、ルークの槍が唸った。そしてその次の瞬間――何故この銀の髪の男が、「気を遣った」と言ったのか、その言葉の意味がルークにもわかったのである。何故といって、ほんの数戟槍の柄を打ち戦わせただけなのに、鉄の槍がなんの前触れもなしに真っ二つに折れたからだ。

「なに!?」

「だから、すまないと言ったんだ」

 紫の瞳の男は、相も変わらず落ち着き払った顔の表情と声音で続けた。

「俺たちの使っている鎧冑は、竜の皮膚を何層にも厚くして作ったものだし、この槍は鉄や鋼よりも強い鉱物によって出来ている。俺も噂として伝え聞くだけだが、このジルコンドという名の青緑石は、中央世界のどこでも取れぬらしいな。俺も無用な殺生はこれ以上避けたい……神官のルークよ、どうか黙って我々に目の前を通り過ぎさせ、聖竜の槍を戴かせてほしい」

「……………っ!!」

(無用な殺生は避けたいと言いながら、何故ラミアスさまのことは殺したっ!!)

 そう叫びたい衝動にかられ、ルークは下唇を血が滲みそうなくらい、ギリと噛みしめた。そしてそのままの姿勢で後ろへ下がり、重い石の扉を後ろ手に開ける。

 聖竜の槍は、持つ者を選ぶと言われていた。ゆえにこの時もルークは、憎しみに心を燃え立たせている今の自分が、その槍の使い手に選ばれるとは露ほども思いはしなかった。ただ、この目の前にいる銀の髪に紫の瞳をした男と、ほんの少しの間でいいから、同等の力が欲しいと願ったのだ。勝負がつくまでの間だけでいい――涼しげな顔の表情の男に手傷を負わせることさえ出来れば、次の瞬間槍が重くなり、持ち上げられなくなっても構わないと思っていた。

「やはり、そう来るか」

 壁にかかる松明の光の下、透明な水晶のケースに収められている槍を、ルークが手にする姿をファルークは見守った。浄めの水晶によって守られた聖竜の槍は、聖職にある者以外が触れようとすると、死の呪いがかかるという話であった。

 ゆえに、このこともファルークの中ではある意味、計算の内にあったことなのである……師匠のラミアスを殺されれば、その怒りと復讐心から、ルークが聖竜の槍に手をだすであろう、ということは。

「聖竜の怒り、今こそ思い知れ!!この蛮族どもめっ!!」

 ルークが聖竜の槍を両手に握りしめると、その黒い柄の部分に銀の神聖文字が一瞬浮かび上がった。

(これが、聖竜の槍……!!)

 石室の中でふたりきりになると、ルークが容赦なく槍を振るってファルークに猛然と襲いかかってきた。先ほどとは比べものにならぬ、手に痺れるような衝撃が走り、ファルークは思わず、ジルコンドで出来た槍を取り落としそうになったほどである。

「うおおおッ!!」

 獣のような唸り声を上げて飛びかかってくる神官を前に、ファルークはらしくもなく気圧された。というより、肝心の聖竜の槍と呼ばれる槍自体から――何か禍々しい力にも似たオーラが発散されており、ルークはまるで槍の持つ邪悪な力に操られてでもいるかのようだったのだ。

 そのような相手に流石のファルークも長くは持ちこたええず、二十数戟打ち合った末、今度は聖竜の黒い槍によって、ジルコンドの槍を真っ二つに折られていた。

「ファルーク、加勢するぞっ!!」

 その時、仲間の竜騎兵であるアレクとラウル、それにカイルとシグマが助けに入ってくれなかったとしたら、おそらく自分は心臓か胴、あるいは頸部か頭部を刺し貫かれて死んでいたろうとファルークは思った。

 だが、彼らから再びジルコンドで出来た槍を受けとると、手強い相手ながらもなんとかルークの手から聖竜の槍を引き離すことが出来たのである。

「やめろ、殺すなっ!!」

 後の禍いを絶つためとわかっていたが、ルークの頸部にアレクが槍の穂を立てようとするのを、ファルークはすんでのところでやめさせた。

「彼はまだ幼い……おそらく、十六か七といったところだろう。それでいて我々とここまで渡りあったのだ。そのことと彼の聖竜の槍を守りたいという想いに敬意を表し、この宝物倉では血を流すべきではないと、俺は思う」

 普段、あまり感情を表にださないファルークが、声を荒げてそう叫んだためであろう、アレクは「おまえがそう言うのなら」と言って、ルークの体から静かに手を離した。

 ファルークは床に転がる聖竜の槍を拾いあげ、意外にも軽いことに驚いていた。アシュランスから聞いた話によれば、相応しくない者が触れると、十トンもの鉛でもあるかのように、到底持ち上げられない代物だと聞いていたのだが……。

 そう思いつつ、ファルークが何気なくシグマに聖竜の槍を手渡すと、彼はその途端に床へ倒れ伏していた。

「ファルーク、悪ふざけはよせよっ!!」

「ああ、すまん」

 怒ったように赤い顔をしたシグマにあやまり、ファルークは再び聖竜の槍を手中に収めた。

(そうか。槍が自分の主に足ると認めた人間でなければ、おそらくこの槍は持ち上げることすら叶わんということか)

 石室を出る時、ファルークは神官の少年が蹲って涙を流し、体を震わせている姿を最後に見た。冷たい石の床に両膝をつき、彼はまるで神に対して懺悔するように、何度も壁に額を打ちつけていた。

「ラミアスさま、許してくださいっ!!僕ではなく、最初からあなたが聖竜の槍の使い手になっていれば……っ!!」 

 その痛ましいすすり泣きと叫び声は、いつまでもファルークの胸の内にしこりのように残り続けた。神官などといっても、心正しい者ばかりというわけではないと、彼はそのようにアシュランスから聞いていたが――中にはルークのような<本物の神官>もおり、そのような神聖な者から宝とされるものを奪ったということが、ファルークの中では許されぬ罪のように思え、魂に消えない烙印を押されたようにさえ感じられていたのである。



 ファルークと槍の打ち合いで負かされて以来、ルークはより一層槍の鍛錬に励むようになっていたが、ラミアスをはじめとする、自分より強い槍の師範がいない今……こんなことをして何になろうという虚しい思いが、彼のことを包みはじめていた。

 自分よりもより強い相手と手合わせ出来なければ、あのファルークという男には絶対に勝てない――そう思うと、腸が煮えくり返るほどの悔しい気持ちがルークの身を焦がした。そのような相手を求めるために、正式な手続きを取って諸国行脚の旅に出るという許可が欲しいと思いもしたが、何分自分はまだ十七歳であり、旅僧となるためにはあと一年待たねばならぬ身でもあった。

 もっとも、聖都のルシアス神殿が崩壊した今、そのようなことに拘る必要はもしかしたらないのかもしれない、とルークは思いもした。そう遠くない日、ルシアス神殿の本殿はルクシンドラへ移ることになるのだ……あの都では、姫巫女のいないルシア神殿と、聖竜の槍が眠っていないルシアス神殿とが、ただ形式ばかりの、魂のこもらない儀式を続けていくのだろう。そのくらいならいっそのこと、神官という職から身を辞し、ただの平民として生きていってもいいのではないかとさえ、ルークは時々思うのだった。

 そうして復讐の鬼と化し、あのファルークという男を、それこそ<地の崖て>までも追いかけ、討ちとってやろうと……だが、そのように憎しみが己の心の内で増す時、ルークの心の中にはいつも、師匠ラミアスの優しげな微笑が思いだされるのであった。

『わたしは、もしかしたら待っていたのかもしれない……彼のように強い槍の使い手が自分の前に現れる瞬間を。もし、わたしがこの男に敗れたとしても、こやつを恨むでないぞ、ルーク。これはわたし自身の望んだ、わたし自身の戦いなのだ』

 だが、自分の故郷を汚されただけでなく、恩師や友が何人も死んだことを思うと、ルークはやはり、憎しみというものが持つ強い力に負けそうになることがしばしばだった。

 そして、思う。自分はあのファルークという男を仮に討ち果たせたとして、それだけで気が済むだろうか、と。おそらくは、その次にはアシュランスという<地の崖て国>の王の首が自分は欲しくなるだろう……それから、聖竜の槍が眠る石室で、自分のことを追いつめたアレクやラウルやカイル、シグマといった男たちも、全員打ち殺してやりたい……。

 ルークは、そのように自分が神官らしくない思いに満たされている時間が長いことに、愕然としていた。彼は僧侶として告解室の当番に当たると、平民たちが神殿の告解室へやって来て、色々な罪を懺悔する言葉を多く聞いていた。たとえば、今週自分は心の中で姦淫の罪を犯したであるとか、誰それの財布から少しばかりお金を盗んだとか、嫁や姑を憎む気持ちがどうしても心から離れないであるとか……ルークはそれらの悩みに対し、ある部分超然として事に当たっていたといっていい。

 何故なら彼には、卑しい動機で乙女のことを盗み見たことなどなかったし、金銭的な欠乏を経験したこともなければ、誰かを憎しみの限りを尽くして憎むといった感情も、一度として経験したことはなかったからだ。

 けれど今、人々が何故そんなにも浮世の<罪>といったものから逃れられぬのかを、ルークはよくよく思い知っていた。聖都が焼け落ちてのち、州境にあるいくつかの町には難民のための集会所が設けられていたが、そこに集まった人々は実に肩身の狭い思いをしなくてはならなかったからである。それは生き逃れた神官たちも例外ではなく、「何故命を賭けても姫巫女さまや巫女さまたちを守らなかった」と声を限りに叫ばれ、天幕に石を投げられるということもしばしばであった。

 そんな中、自分たちも極貧の最中にあるというのに、神官たちの食糧をまず真っ先に確保しようとする、美しい心根の婦人たちが何人もいて……聖職にある身ながら、神官たちの幾人かが彼女たちに心惹かれているのを、ルークは知っていた。そしてそのことを<罪>とするのが果たして正しいことなのかどうかすら、今の彼にはわからなくなっていたのである。

 彼自身に関していえば、若い娘が自分に意味ありげな眼差しを投げてきても、今のところ心が動くということは特にない。ただし、これまでの有り余る食糧や物品に囲まれた生活から、一転して貧しさの底を知ってみて初めて――窮乏のために一片のパンを盗む罪人の気持ちというのは、痛いほどわかる気がしていた。それに、この世に存在する誰かのことを、憎しみの限りを尽くして憎むという気持ちのことも……。

 ルークの心は今、迷いの最中にあった。自分はそうした難民となった聖都の生き残った人々とともに、再び聖都を復興することを夢見ているが、大神官のエルヤサフさまより直接お声がかかり、ルクシンドラで司祭の職につくよう言われてしまったからである。

 もしそれを断ったらどうなるのか、ルークにはわからなかった。しかも、大神官であるエルヤサフより直々に、「ルクシンドラにある神殿の土台と屋台骨は腐っているが、そこをおまえのように真の信仰を持つ僧侶に変えてほしいのだよ」とまで言われてしまっては……ルークはいわゆる出世といったことにはまるで興味がなかったが、ただ、人々の信仰をただすためだというのなら――辺境の国々へ奉公に出されたとしても、黙って従うくらいの気持ちがあったからである。

 ルークはユニファの花の甘い香りと、夢のような白い花びらに囲まれながら、この時、ただひとりの少女のことだけを想っていた。七歳になるまでよく一緒に遊び、彼女にヒナギクの冠を被せて、忠誠を誓った日のことをルークは今もよく覚えている。

(まさか、それがいつか本当に実現するとはな)

 ルークはエルヤサフの口から、姫巫女がご存命中であると聞き、魂を貫かれるほどの喜びに打ち震えた。神官たちの間でも噂にはなっていたが――それが絶対に本当であるという確信が、ルークにははっきりと持てないままだったのである。

「これはここだけの話として聞くのだぞ、ルーク」

 エルヤサフは、王城の自分の居室で、小さな囁くような声で言った。

「どうやら第四の巫女であったミュシアが、姫巫女リリアより聖杯を受け継いだらしいのじゃ。もしも伝説が本当であるならば、姫巫女は再びこの地に立たれよう。じゃが、我らはその間ただ手をこまねいて待っているのではなく、再び姫巫女がこの地に降り立った時のため、その聖なる下地とも言うべきものを形作っておかねばならぬ。わしの言うてることの意味、当然わかっておろうの、ルークよ?」

 ミュシアが生きているだけでなく、その上姫巫女として聖杯まで継承したと聞き……魂が喜びに溢れ返るあまり、エルヤサフがその後自分に何を言ったのかを、ルークはあまり覚えていないほどであった。

(ミュシアが生きている!!しかも、我々が守るべき聖杯とともに……!!)

 今ではそのことが、ルークの生きる糧であり希望であり、喜びのすべてであった。彼は敬虔な神官であったから、聖書に書かれていることとそこに記された伝説について、一言一句違わずすべて信じていた。そして何より、ルークにとってもっとも重要だったのが――ミュシアのことを想えば、憎しみを退けることの出来る自分がいることに、気づいたという点であったかもしれない。

(憎しみに身を焦がす者が、姫巫女の御身を守るのは相応しくない)

 もちろん、そう思いはしても、ファルークという名の、銀髪に紫の瞳をした男に対する憎しみは消えなかったし、もし偶然にでももう一度出会えば、彼に槍の穂先を向けることにためらいを感じる理由はまるでない……だが、それと同時に憎しみの暗い沼のような場所でもがいていた自分に、ミュシアは何より一筋の光を与えてくれたのだ。

 ルークはこの時、ユニファの甘い芳香に包まれながら、白い花咲く枝々の間に、宵の明星が瞬いているのを見た。そして、そこに何かの神からの啓示を見るような思いがしたものである。

(あれこそは、僕にとって唯一の希望の星。ミュシア、君が姫巫女としてこの地に戻ってくるその日まで、僕はその間一体何があろうとも、どんな恥辱をこの身に受けようとも、神官として生きることを今ここに誓おう)

 そして、本当に<その日>がやって来るまで――ルークは幾多もの苦しみや悩みを受け、魂を極限まですり減らすような辛酸をなめることになるのであったが、そんな彼の苦労もまた、最後には報われることになるのである。




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