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紅玉の縁由
作:暁さくや


 地面をしめやかに濡らすほどの小雨だった。
 秋も深まった夕暮れ時は、すでに日が落ちて薄暗い。自転車のハンドルを握り締める手は、冷たい雨に濡れて感覚を失っていた。全身を駆け巡る緊張と焦りが、藤森の指の温度をさらに下げていく。
 遠くに聞こえるのはパトカーのサイレンだった。予想通り、かなり引き離すことができたらしい。藤森の心臓も全身の筋肉も、一生分の働きをしたわりにはまだ十分動く。
 大丈夫、逃げ切れる。
 自らに言い聞かせて、藤森は自転車のペダルを踏む足に力を込めた。チラリと前カゴにのせたボストンバックに視線が落ちる。チャックが開いてやしないかと不安がよぎったが、それもこれも、逃げ切るまでの単なる杞憂であることを、藤森は分かっていた。
 中身は宝石だった。たった今、強奪してきた。
 一ヶ月前に、競馬場で知り合った見知らぬ男たち二人と共謀して、この計画を立てた。
 三人には接点が全くない。これきり、二度と会わない約束だった。お互い、名前も住所も知らない。競馬場で知り合った時、三人とも黒いサングラスをしていた。誰かがしくじって捕まったとしても、はっきり顔も分からない状態のままだ。
 宝石店で獲物を分配し、各自ボストンバックにつめてそこで別れた。逃走経路は個人に任されていたし、あとの二人がどう逃げたのか藤森は知らない。
 逃げたあとの宝石の処分についてだけ、声をかけてきた男から、あるルートを教わってある。そこへ持って行けば、海外で売りさばく手筈がととのう。
 もうすこしだ。
 はやる心を抑えて、藤森は自転車の速度を落として、住宅街に入った。パトカーのサイレンはどんどん遠ざかっていく。非常線を張られたとしても、裏路地に精通している藤森には逃げ切る自信があった。人目を避けて細い路地に入り、念のためにリバーシブルのパーカーを裏返して色を変えた。黒から白に変わっただけで、藤森の印象はがらりと変わる。サングラスは淵なし眼鏡に変わった。
 再び自転車を漕ぎ出す藤森の口元は、ひとりでに綻んでいた。
 路地を抜けると、高い垣根と緑で覆われた別の住宅街に入る。このあたりは藤森の庭だった。
 電気修理工事の請負をやって、十五年になる。藤森はこの仕事が嫌いだった。修理へ行って聞かされるのは、まず製品の不具合に対するクレームだ。酷い時には「なんでこんな製品を売りつけたんだ」という怒りをあらわにする客もいる。作ったのが自分でなくても、ただ、ひたすら謝るほかない。わざわざ直しに出向いてやっているのに、礼の一言がないことすらある。最近では、サービス向上のためと言って、客に葉書を渡し、藤森の成績表をつけてもらわねばならない。
 宝石を売ったら、すべてを捨てて会社を辞め、しばらく海外に行くつもりだった。
 夕暮れ時の小雨、高級住宅街。歩いている者は誰もいない。
 ちょうど、何年か電気工事に通っていた一軒が空き家になっている。そこで、いつもの作業着に着替え、何食わぬ顔で家へ戻るつもりだった。
 家は裏手が神社で身を隠す茂みが多い。いっさい人目につかずに、勝手口から神社の裏へと抜けることができるのだった。
 ここには一人暮らしの老婆・坂下ヨネが住んでいた。とても気の優しい婦人だった。身形も品があって、修理に出向いた藤森にはいつも茶菓子を出してくれる。いつしか藤森も死んだ祖母を思い出し、つまらないコンセントの修理や電球替えにも付き合うようになっていた。
 詳細は知らないが、デイサービスの人間がヨネの遺体を発見したのは、ちょうど一月半ほど前だった。常々身寄りがない、とぼやいていたヨネの言葉通り、未だに家はそのままだった。噂では、遺言によって土地家屋は市へ寄付されたのだとも聞く。
 藤森は自転車を神社の目立たない茂みにおいて、裏からヨネの家に入った。
 何度も来て、知っていることが一つある。窓の鍵が一つ、壊れている。いや、正確に言うなら、直してやる前にヨネが死んでしまったのだ。
 窓から忍び込むと、藤森はまず、濡れたパーカーを脱いだ。家の中は真っ暗だった。雨が降っているので、月明かりさえ期待できない。
 懐中電灯を用意していなかった自分を、藤森は少しだけ呪った。だが、誰もいないはずの家で、光が動いているとかえって怪しまれてしまう。
 手探りで部屋の奥へ進むうち、目が少し慣れてきた。事前に窓の下に隠しておいた、電気工事用の作業着に着替えて息をつくと、喉が渇いた。異常な喉の渇きだった。
 足は自然と台所に向かった。が、すぐに藤森は苦笑した。
 水が出るはずはない。もう、一月半も前に、電気・ガス・水道は止まっているはずだ。
 台所はすぐ隣だった。入った窓がリビングで、続きに二間の和室がある。各十畳の大きな和室だ。
 藤森は、計画のほとんどが上手くいったことに満足して、リビングのソファに腰を下ろした。ここに座ると、いつもヨネが熱くて美味い緑茶を出してくれた。それを思い出していた。喉が渇いていたからかもしれない。
 また、笑みがこぼれた。俺は一体なにをやっているんだ。早く帰って、風呂にでも入ろう。明日、これを売るんだ。そして、南の島へ行くんだ。
 藤森は足元のボストンバックを抱きかかえて立ち上がった。
 ぎりり──
 隣の和室から、奇妙な音が聞こえた。ガラス窓に爪を立てて、キキッと引いたような不快な音。
 藤森は、全身が凍りついた。水風呂につかったようだった。足元から肌が音をたてて粟立っていく。
 まさか、ヨネさん。俺のことを怒って出てきたんじゃ……
 藤森の脳裏には、ヨネの言葉が甦ってきた。「まっとうに生きてる人間だけが、極楽に行けるんです」そう言って、ヨネは顔のしわを倍に増やして笑っていた。
 ばかばかしい。
 藤森は思い直して、ボストンバックを強く抱きしめてリビングから出ようと窓に手をかけた。
 ぎりり──
 同じ音が、またした。ぎりり、という音が、断続的に続く。
 藤森の足は完全に止まっていた。帰る、ということを忘れてしまっていた。猫か、鼠が何かを引っかいているのかもしれない。本当にヨネがいるのか。
 ふらりと動いた足を、止めることは出来なかった。藤森はバッグを抱えたまま、和室へと向かった。
 真っ暗だった。何も見えない。ただ、ぼんやりと浮かぶ部屋の輪郭を頼りに足を運ぶ。
 ぎりり、という不快な音が、だんだんと近付いてきた。
 何かがいる気配がする。確かな気配を藤森は感じた。重い荷物を背負って、背中に氷塊を入れられたような気分だった。自らの心臓の音だけがバクバクと耳元で鳴り響いた。
「ヨネさんか?」
 和室を怖々覗き込むと、高さ一メートルくらいの古い和ダンスが目に付いた。ヨネが生前、嫁入り道具だと言っていた、年代物だった。
 その上に、光るものが置いてある。
 藤森は息を呑んで目を凝らした。
 人形だった。ガラスのケースに収まっている。髪が肩ほどまである、紅い着物を着た京人形が藤森を見下ろしていた。
 声が出なかった。ボストンバックを投げ出して、藤森は尻餅をついていた。
 ぎりり──
 また、あの音がした。責められているようだった。ヨネを悪事の片棒に担ぎ出したような気がして、酷く後悔した。
 がたん、と、ガラスのケースが動く。それにあわせて、人形が倒れこむようにしてケースの中で転がった。
「許してくれ!」
 藤森は駆け出していた。無我夢中で逃げた。


「アホなヤツだな」
 和ダンスの奥で含むような笑い声がもれてきた。窓が開いた音を聞いてから、男が和ダンスの陰から出てくる。
「もうちょっと、脅かしてやろうと思ってたのによ。根性のねぇヤツ」
 懐に手を入れると、男は小さな懐中電灯を出して、足元に転がっているボストンバッグを照らした。
「あぁ、あ。せっかくのお宝を。気がちいせぇんだよな、だいたいよ。これくらいで逃げ出すなんてよ。ま、いいか」
 電燈を口に咥えると、ボストンバッグを開いて中身を確認した。
 中には宝石が詰まっている。電燈の光を吸収して、ここぞとばかりに輝きを増している。ひときわ光を吸収しているのが、ダイヤモンドだ。バッグに手を差し入れ、ジャラリと音をたてて宝石を掴み取る。男は満足げに下卑た笑みを口元に貼り付けた。
二人分の取り分を、独り占めしたことになる。
 もう一人は用意周到で、男がどんなに探りを入れても逃走経路が分からなかった。だがいま逃げた男は違った。完全な素人で、二日ほど尾行しただけで、おおよその行動が予測できた。
 掴み取った宝石を元に戻そうとした時、バッグの中で紅く輝くものが目の中に飛び込んできた。男は目を眇めた。
 大きなルビーだった。
 多くの血を啜ったかのように、鈍く紅い。カットは精密で巧緻、男が見ただけでも億の値打ちがありそうだった。
「あの野郎、いつの間に……」
 片方の口角が鋭角に持ち上がった。これでもう一人のヤツのことは、水に流せそうだった。これだけあれば、いい金になる。
 そう思って、手に握り締めていた宝石をバッグに戻そうとした時だった。
 くっと、喉が絞まった。全身が痙攣したように硬直した。目が零れ落ちそうなほど見開かれる。息を吸おうと、口を動かすが、打ち揚げられた魚のように口を動かすだけでどうしようもない。
 身体は指一本動かせなかった。苦しくてのた打ち回りたいのに、瞬間冷凍されたように体が強張っている。
 唇の色が紫色に変わってきた。男は必死で目を動かして自分の手元を見た。
 白い手が、伸びてきていた。
 シワだらけの、白い手だった。輪郭がぼんやりと光を帯びている。まるで雪原で眩い光が転がるようだった。
「ぐえっ」
 白い手は真っ直ぐにボストンバッグへ忍び込んだ。コインをかき回すようにジャラジャラと音がしたあと、一呼吸おいて、次にルビーを握り締めた男の手をつかんできた。
 体温のない手が、男の握る紅いルビーを奪い去った。
 ──悪いことをすると、極楽に行けないよ。
 背後で薄く笑う声がする。
 ──これは私のものだ。私が、質に入れたもんだ。これだけ、返してもらおう。何もかも思い通りになったよ……藤森さん、ありがとうよ。
 男は前のめりに倒れた。
 息をしていなかった。


 赤いルビーだけが、白い手とともに消えた。














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