長く連なるタクシーのテールランプが、歩道に降積もった雪の上に赤い絨毯を作りだす。空から舞い降りる幾億の結晶は、空間を彩る花びらのようにその絨毯の周りを賑やかに飾り立てていた。僕に向かって駆けて来る君は今だけのプリンセス。明日になれば再び魔法は解け、特別ではない普通の女子高生に戻ってしまう。
「待たせてごめんね、先生」
「あぁ」
軽く右手を上げた後、人目から隠すように彼女の肩を寄せ、僕は地味なジャンプ傘を天に広げた。明日からは暫く晴れるらしい。また、二人で会えない日が続く。
銀白の世界とは言えないほどの雪の中、僕たち二人は重ならない手のひらのやり場を探しながら目的無く歩いていた。
「寒くない? 」
僕の声に反応して彼女が目の前のホテルを悪戯に指差す。彼女の名前は早瀬涼香。私立高校の3年生で、僕の……生徒だ。
「早瀬。外で会うのが約束だったよな」
「二人の時だけ名前で呼んでくれる約束は? 」
「……、学校で無意識に呼んでしまったらどうするんだ」
「ふ〜ん、そっかぁ……」
吐き出す白い溜め息が不思議と愛しかった。突き出す唇。いじらしい瞳。くすぐるような笑い声。いつか本気になってしまうことが怖かった。だから僕は、抑え切れない想いに気付かない振りをし続けていたのかもしれない。
「明日テストだぞ」
「関係ないもん。天気予報の雪マークの方が大事」
そう言って彼女は身体を預けてくる。冬の間の限られた約束。駅のボードに〈運転見合わせ〉が表示される雪の日にだけ、僕たちは二人の時間を作ることができた。
「もしもし、美咲?うん、そうなんだ。運転見合わせてるみたい。遅くなるよ。うん、わかってる。気をつけて帰るから。うん、うん。それじゃ、おやすみ」
妻に嘘ではない言い訳ができる日。それが雪の日だ。
街の中は歩けない。僕たちはいつも人通りの少ない場所を探していた。
「ねぇ先生。いつか一緒に星空を眺められる? 」
「さあ、どうかな」
空を仰いだ僕の素っ気無い返事にも彼女は不満を言わなかった。こうして二人の時間を必死になって作っている僕の気持ちを、もしかして僕本人よりも分かっていたのかもしれない。『彼女の為の時間』は、もう『二人の為の時間』になっていた。いつの間にかついてしまった人が通る度に下を向く癖。傘を傾ければ真白な手袋の彼女が僕の腕に増えていく雪を撫でるように落とす。行き交う人影に、僕たちはどう映っているのだろう。
「先生」
「何? 」
「吉原直哉先生」
「……何」
「先生と同じ吉原になった人がいるんだね……。いいなぁ」
寒さは切なさを増す。辛い想いをさせるより、彼女の気持ちに応えないことの方が正解だった。
「好きでいたいだけ」
そんな彼女の見返りを求めない言葉に、甘えてしまった僕の行動が全ての始まり。特別視しないつもりでも、心はそれほど立派にコーティングされているものじゃない。意思とは裏腹に態度は救えないくらいに正直。僕は、彼女を愛していた。
「先生、学校着いちゃったよ」
「うん……そうだな。どうせ誰もいないし、別にいいんじゃないか」
静まり返ったグラウンドに二人の影が映る。月明かりではなさそうだ。これは……雪明かりだろうか。
「ねぇ見て! 」
コートの袖口を引き彼女が来た道を振り返った。
「足跡……。ちゃんと二人分。うれしい」
そんなことで。たったそれだけのことで彼女は表情豊かに喜びを表す。僕が何かしてあげることを待つなんて考えることもなく、彼女は自分でささやかな喜びを見つけてくる。それがどうしようもなくもどかしくて、多分僕は一層惹かれてしまうんだろう。
「早瀬。上に行こう」
「上?屋上に行けるの? 」
輝く瞳。そんなもの見せられたら、また君を喜ばせる為に僕は何をするか分からない。
錆びた鉄階段を滑らないように気をつけながら一歩ずつ進んで行く。手袋の汚れを気にした彼女の手を掴み、また一歩進む。高くなるに連れ彼女の鼓動も確かなものになった。
「よし、着いたぞ。気をつけろよ」
雪で動かせない柵を越え僕たちは屋上の端まで歩く。
「すごーい……」
柔らかい雪と透き通る風。
遮るものがなくなった視界に扇を描くような360度の天体。見上げればそこには結晶散る星空が存在していた。その星空は二人の足元を通り過ぎ、空気を震わせ大地へと流れて行く。僕たちは銀河の中にいた。どんなに気持ちが大きくても、二人の存在は現実に負けそうなくらい小さい。
「ずっと一緒にいられなくてごめん」
宙を舞う傘に音は無かった。
抱き締める腕は唯一できる僕の感情表現。男の涙は武器にはならない。それならせめて寒さで凍ってくれたなら、君に手渡せる僕の気持ちができ上がるのに。
「先生、私『ずっと』はいらない。『今』でいいの。見えないずっとより、確実な今がいい。守れないかもしれない約束なら、きっと作らない方が幸せ」
無邪気にフェンスの向こうへと両手を差し延べた。彼女は天使だった。そして時にはかない妖精だった。ある日突然消えてしまいそうで、僕は心の奥でいつも怯えていた。……失いたくなかった。
「先生。……好き、大好きだよ。困らせてるの分かってるけど、先生が近くにいなかったら私倒れそう……。本当に大好きなんだぁ……」
「……ごめんな」
僕の腕を掴み何も言わずに微笑む。
いつかは消さなければならない記憶のように、雪が僕たちの足跡を埋めて行く。天気予報が当たるなら、明日には二人の隠れた証しさえ融けて無くなってしまうだろう。残しても残しても、悲しい定めのように雪はそれをくり返す。それなら僕たちもくり返せばいい。たとえ冬の間だけだとしても、僕たちが一番欲しいものは『今』だから。
「先生……すごく愛してる」
同じ言葉は返せない。でも多分、この時間に存在する二人はこれからも変わらないだろう。
また待ち合わせよう、雪の日に。たとえ証を消されても、心に刻めるものがきっと僕たち二人にはあるだろうから。
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