セツナ、三十二秒。
Ⅰ
わたしはいつも同じ電車に乗る。
同じ時間、同じ駅、同じ車両、プラットホームの同じ位置――。
階段を下りたところから歩いて十三歩。自販機前のその扉が、通学時のわたしの定位置だ。
午前七時三十分。今日もまた、一分のズレもなくプラットホームに電車が滑り込む。
ドアが開き、数人の乗客が吐き出されると、わたしは右足から車両の中に踏み込んだ。これも毎日のことである。
そのまま向かいの――開かない側のドア横に陣取って、鞄から文庫本を取り出した。通学時間の読書は捗る。立ちながら本を読むというのも、なかなかオツなものだ。
車内は通勤時間とは思えないほど空いていた。座席は埋まっているものの、これといって窮屈さは感じない。都会の方ではどうだか知らないけれど、地方都市ではこんなものだ。
ゆるやかにスピードを上げていく列車に、窓の外を流れゆく馴れ親しんだ街並み。学校のある「御音学園前」駅までは十二駅。全部で三十分ちょっとの道程だ。
Ⅱ
その日がいつもと違ったのは、四つめの駅に着いたときだった。
「あや、泊瀬じゃん」
ドアが開くなり、わたしと同じ御音学園の制服に身を包んだ女の子が車内に入ってきた。
一緒のクラスの野々崎涼子だった。高めに結わったポニーテールが、実に活動的な彼女らしい。
ちなみに泊瀬というのはわたしの名前だ。亜桜泊瀬、十五歳。御音学園高校の一年生である。
「おはよ、涼子」
「おはようおはよう。へえ、泊瀬、いつもこの電車なんだ」
涼子は何とはなしに周囲を見回した。
「うん。そう言う涼子は電車で見るの初めてだね」
「いつもはもうちょい遅い時間なんだけどさー。ちょいとヤボ用で」
「ヤボ用?」
訊き返すと、彼女はうげえ、と暗澹とした唸りを発する。
「一時間目の英語、単語テストの予定でしょ。あたし全然勉強してなかったから、早く行ってちょっとでも詰め込もうと思って」
「そういえば、そんなものもあったような……」
「かーっ、これだからお勉強のできる子は。単語テストはほっ放って、電車の中では古典の勉強だもんねえ」
涼子がわたしの読んでいた文庫本を指し示す。
岩波文庫、黄一二―一。佐伯梅友校注『古今和歌集』。ブックカバーは掛けず、そのまま読んでいた。
「これは勉強じゃなくて趣味。わたしの名前、『泊瀬』っていうでしょ。昔、お母さんに訊いたら奈良県の初瀬の古称が由来なんだって。それで色々調べてるうちに、『万葉集』や『古今和歌集』に辿り着いたの。昔の言葉には、いまでは聞かないような美しい響きがたくさんあるんだよ。一日、春宮、玉櫛笥、梓弓に濃紫。こういう古語を眺めるだけでも面白いんだよね」
「長っ。うーん、前から思ってたけど、やっぱ泊瀬は変わってるわ」
誰に言うでもなく涼子が半目になって呆れ果てる。
「電車のお供に岩波文庫って。女子高生なんだから、せめて可愛らしく恋愛小説とかにしとこうよ」
「それもまたいとをかし」
「意味わからないし!」
なんとなくツッコミが韻を踏んでいた。
実際のところ、わたしは現代小説も結構好きだったりする。恋愛小説は元より、ミステリにSF、ファンタジーとどんなジャンルでも楽しめる雑食派だ。
そんなわけで、目につくところで誰かが本を持っていると、ついつい興味が沸いて何を読んでいるのか確認してしまう。
本好きという人種はたぶん、多かれ少なかれそういうものだろう。
「このままじゃ泊瀬、万年文学少女で高校時代が終わっちゃうよ?」
「良いじゃない、文学少女。素敵な響きだと思うよ」
「ダメダメ。もうちょっと青春を謳歌しないと! 少しぐらいは気になる男子とか、好きな人とかいないの?」
「うええ!?」
いきなりの問い掛けに焦って声を上げてしまった。
「お、そのリアクションは怪しいねえ」
「全然怪しくない! いません、そんな人」
「ほんとかなあ? 顔、赤いよ」
「いきなりそんな質問されたら、顔くらい赤くなるでしょっ」
疑り深くわたしの様子を窺う涼子に反論する。
話をしている間に五つめの駅が過ぎ、電車は六駅めに停車しようとしていた。すぐ隣の線路にも、反対方面行きの列車が扉を開けて止まっている。
これも毎日のことだった。朝のこの時間、ちょうどこの駅では上下の二本が同じタイミングで到着し、 それぞれにお客を乗り降りさせた後、互いにすれ違う。
一瞬の邂逅と交錯。電車が着いてから走り出すまで、たった三十二秒のニアミスだ。
そしてその時間こそ、わたしの通学時のささやかな楽しみでもあった。
「あ」
止まった電車の窓の外。ドアを二枚隔てた向こう側の車内に、今日も彼の姿を見つける。
御音学園のものとは違う詰め襟の学生服、薄く茶色掛かった短めの髪――。座席脇の銀の手すりに寄り掛かり、鹿爪らしい表情でハードカバーに視線を落としている。
――今日は文庫本じゃないんだ。普段は文庫を読んでいるのに。
タイトルはわからない。本屋さんで付けてくれる紙のカバーをしている。これも彼にしては珍しい。大抵はわたしと同様、カバーを掛けないのが常なのだ。
駅の本屋さんで買ったばかりだったのかな。
いつも同じドアの前に立っている、名前も行き先も知らない彼。彼が今日はどんな本を読んでいるのか、何気なくそれを眺めるのが、わたしの密かな日課だった。
「泊瀬、あの男の子に興味あるの?」
「ぬわっ!!」
ごつこんっ、と鈍い音が響く。
びっくりした拍子にドアガラスに頭を思いっきりぶつけてしまったのだ。
「っ痛ぁ」
『古今和歌集』を持ったまま、ズキズキと痛む頭を両手で押さえる。
大丈夫。こぶはできていないようだ。
「なんか、ごめん。図星だったみたいで」
「図星じゃないから! 大いなる誤解だから!」
言って、目の前にある涼子の肩を揺する。驚いたといえば、彼女の方も一緒だったらしい。
自分の言葉にまさか、友人がここまで反応するとは予想外だったに違いない。
別に好きとか、そういうんじゃない。そこまではっきりしたものではないのだ。
ただ、わたしが毎日プラットホームの同じ場所から電車に乗って本を読んでいるように、彼もまた反対の電車でまったく同じことをしている――。その線対称みたいな光景がなんだか奇妙で面白くて。ほんの少しだけ胸が暖かくなる気がする。それだけのことである。
醜態を晒したことに頬を染め、再び隣の電車に視線をやると、彼が不思議そうな顔をしてこちらに目を向けていた。
見られた! そこまで大きな音がしていただろうか。或いは、身振り手振りが大きかったのか。兎にも角にも大失態だ。
しかし、弁解の余地もそうする手段もなく、電車が再び動き出す。
ああ、これからわたしはどんな顔をしてこの列車に乗れば良いのだろう。
Ⅲ
翌日の通学時間は憂鬱のひと言だった。名も知らぬ彼は、隣の電車で騒ぐおバカな女子高生をどう感じただろうか。究極的には見知らぬ他人だ。どう思われても構わない。
けれど、わたしが彼を見ていたことに気付かれてしまったのではという一抹の不安を覚えてならない。
誰かと比べて特別好きな人というわけでもないんだし、フラれるだとか、そういう不安は抱いていない。ただ、変ちくりんなストーカー女と捉えられるのは心外だった。
今日も今日とて、六つめの駅が迫る。車両や時間をズラせば問題ないのだが、一度体に染みついたリズムを変えるのは、そうそう容易なことではない。
ホームに入り、ドアが開く。車内はいつもよりも混雑しており、新たに乗り込んでくる人の数も多かった。
わたしはいつもの立ち位置を確保しながらも、ぎゅうぎゅうと押し付けられる満員電車に耐えた。さすがにこんな状況では、本を読む余裕すらない。
対面のドア向こうに見える反対路線の車両内も、ぎちぎちと人で埋まっている。毎日通学に使っていると、ときたま、こういう日もあるのだ。
窓を通して目に入る隣の電車には、彼の姿は見当たらない。これだけ混んでいればそれも仕方ない。きっと、人の波に埋もれているに違いない。
と、押しくらまんじゅうの様な状態を掻き分けて、反対電車のドア越しに、彼の姿が現れた。どうにか扉近くのいつもの場所を確保しようと懸命だった。
その一部始終をわたしは黙って見守っていた。何もそこまで必死にならなくても――。
そう思った矢先、彼の目線がわたしと合った。
ぱちくり、と大きく瞬く。
彼はふと目を細め、それから手に持っていた一冊の文庫本をわたしに見せる。
「え」
次の刹那、ぐんと勢いをつけてそれぞれの電車が発車する。
たった三十二秒。わたしたちが互いの姿をその目に留められる時間はそれだけだ。
――しかし。
「佐伯梅友校注『古今和歌集』」
わたしはひとり、彼の持っていた本の題名を呟いた。
昨日、わたしが読んでいた文庫本だ。
わたしと同じように、彼も前々からわたしのことを気に掛けていたということなのか。それとも、たまたま昨日の件で、初めてわたしの存在を知ったのか。
彼が何を考え、何を想っていたのかは謎だった。彼の名前も性格も、行き先も、乗車駅も、声すらも、わたしはまだ知らないままだ。これからも知らないままかもしれない。
それでもわたしはいま、どこかわくわくしていた。
わたしはいつも同じ電車に乗る。
同じ時間、同じ駅、同じ車両、プラットホームの同じ位置――。
階段を下りたところから歩いて十三歩。自販機前のその扉が、通学時のわたしの定位置だ。
まずは明日。彼と三十二秒、また逢うために。
〈fin.〉