【豊臣政権編其の十七】慶長の役~蔚山城籠城戦
さて陸の日本軍は、二手に別れ作戦を実行に移していた。右軍は毛利秀元を総大将とし、加藤、黒田、浅野等の諸将により構成され、およそ五万余。全羅道の首府たる全州を攻略を目指していた。左軍は宇喜多秀家を総大将とし、小西軍、蜂須賀軍等約五万。目的は南原城を陥落させることだった。ともに北進への最大の関門ともいえる全羅道湖南地方の要所である。
慶長二年八月十二日、小西行長の部隊は南原城を一万の大軍をもって包囲した。城内には明の楊元率いる援軍およそ三千七百と、朝鮮兵わずかに七百が籠もっていた。城内からたちこめる炊煙から、およその敵の数を察した行長は、再三に渡って降伏勧告を行うが、敵将楊元は応じる気配を見せない。小西行長は、すでに精神を病んでいた。講和交渉の行き詰まりで秀吉の怒号を浴びた以来、この人物の精神もまた、出口の見えない闇をさすらうかのような有様と化していた。戦を止めることのできない自らに対する絶望感は、日をおうごとに深くなりつつある。幾度かの降伏勧告に対し、楊元はついに敵陣に矢文をうちこんだ。
『男子一言如黄鉄』
「恐れながら、このままでは戦機を失うことになりまするぞ、いかがなさるご所存か?」
宗義智の言葉に対し行長は、
「やむをえぬ、攻撃の命をくだせ」
と背を向けていった。
かくして城攻めが開始された。行長は包囲の一角だけを手薄とし、わざと敵兵に逃げ道をつくっていた。だがその方角から逃走をはかる兵はほどんどおらず、半ば玉砕に近い形で、城兵のことごとくが討ち死にする。そしてその後、さらなる凄惨な地獄が展開されることとなる。秀吉の命により、鼻そぎが開始されたのである。奪われた鼻は木樽十五桶にも達し、塩漬けにされ釜山経由で大坂に送られた。
行長はこの蛮行を、むろん止める術をもたない。後には鼻のない死骸が大量に転がった。
「主よ! 何故我にかような苦しみをお与えになるか!」
地獄絵図の中に呆然と一人膝をついた行長は、砂を噛み、無念の叫びをあげた。
その頃右軍の加藤清正は、慶尚南道感陽から、その北方居昌の西黄石山城に迫っていた。この城は全羅北道全州へ通じる軍事・交通の要衝である。
城攻めに先立ち、清正は朝鮮人介山を城内に赴かせ無血開城を試みた。この介山なる朝鮮人は、文禄の役の初期から清正の陣におり、今まで幾度か清正の城攻めに貢献してきたという。だが城の将白士霖は介山を一刀のもとに斬り捨て、死体を城外に投げ捨て気勢をしめした。
ちょうど左軍が南原城を陥落させた翌十七日、右軍の総攻撃が開始された。この時介山を斬って戦意を見せつけた白士霖は、清正率いる兵の勢いに恐れをなし、妻子とともに最初に城を脱出してしまう。間もなく城は陥落し、右軍は重要な一戦に勝利をおさめた。
かくして日本の左右両軍は、全州において一同に会し軍議を開くこととなった。一気に漢城を突くべしという意見もあったが、冬が近いため、前役の失敗を繰り返さないため軍事作戦は中止。各諸将は沿岸部に倭城を築いて、防衛に徹することとなった。すなわち小西行長は全羅南道の順天城に、島津義弘は晋州の南に新たに築いた泗川城に、そして加藤清正も蔚山に城を築き長期駐屯の構えをしめすのである。
慶尚道蔚山は、釜山から慶州に向かうルートに位置し、現在は韓国第一の工業都市と化している。かってこの地に加藤清正が築いた蔚山城があった。今となっては公園と化してはいるが、慶長二年十一月ここで凄惨な籠城戦が行われた。
蔚山城の規模については『浅野幸長高麗陣雑事覚書』詳しい。
合石垣 七六四間二尺 本丸・二・三の丸
合居矢蔵 大小十二 但、門矢蔵共
合塀 三五一間二尺 本丸・二・三の丸
合惣構堀 一四三〇間 同間二土手有リ
合柵 一八六四間半 本丸・惣溝共二
合冠木門 四ッ 二・三の丸
合惣構木戸 七ッ
合仮小屋 大小四ッ城中二有リ
すなわち、本丸・二の丸・三の丸の石垣全長が約一・四キロ、櫓が大小合わせて十二、塀が約六三二メートル、惣構塀が約二・六キロにも及んだというのである。
加藤清正は野戦に非凡な才を発揮しただけでない。同時に熊本城築城に見られるように、築城技術にも優れていた。余談だが清正は臨終の際『わしが植えた、あの銀杏が天守閣と同じ高さになった年に、何やら異変が起こるやもしれぬ』と予言。果たして銀杏が天守閣と同じ高さになった明治十年、西南戦争が勃発し、熊本城は西郷隆盛率いる薩摩隼人に包囲されるのである。清正が何故、西南戦争を予期できたかはわからない。ただ確かにいえることは、戦国のこの時代に、はるかな後の世、近代兵器で武装した薩摩隼人の侵攻をも妨げるほどの城塞を築いた、清正の異能ぶりである。
蔚山城の築城は時間との戦いであった。日本から徴発された鍛冶・番匠が突貫工事にあたるが、資材探しには鉄砲衆・幟衆・船子までもが動員された。むろん朝鮮側に見つかれば死は免れない、命がけの作業だった。
人夫達の決死の作業も空しく、明・朝鮮連合軍はすでに反撃の体勢を整えていた。明軍約四万、これに朝鮮兵が加わり、左軍、中軍、右軍に別れ、そのうち騎馬兵千五百が、全羅南道順天の小西行長の動きに備え、遊撃董正誼は南原で、これも救援の日本軍の動きに備えた。また蔚山沖には、慶尚左水使李雲龍率いる朝鮮水軍が配置され、まさに水陸から蔚山城を包囲する構えができあがったのである。
十二月二十三日、明軍は得意の人海戦術を開始した。卯の刻(午前六時)、宍戸元続等中国衆が守りを固める城外北方二十五町(約二・七キロ)の地点に押し寄せたのである。中国衆と応援の清正家臣加藤清兵衛の軍は、約二刻(四時間)の激戦の末これを退けるも、城内に退去しようとする兵でドミノ倒し状態になるなどして混乱を極めた。
清正はこの時西生浦にいた。急を聞き、ただちに小船で城に戻るも、翌二十四日未明、連合軍は普請半ばの蔚山城二の丸に攻撃を集中した。ここを守るのは浅野幸長の僅かな手勢で、支えきれず巳の下刻(午前十一時)撤退する。勢いをえた連合軍は、さらに本丸・三の丸をも包囲した。
連合軍の攻撃は翌日も続いた。だが蔚山城の石垣は、ちょうど垂直に削ったような形をし、足をかける場所もない。さらに櫓は城外に露出し、ここから見下ろす格好の清正の部隊は鉄砲を嵐のように浴びせ、ついには遊撃陳寅までもが負傷した。結局連合軍の第一次総攻撃は失敗に終わり、翌日から兵糧攻めに切り替えられることとなったのである。
やがて明側は間者の報告により、蔚山城の致命的な弱点を知ることになる。この城塞には井戸がなかったのである。渇水に苦しむ城内では、敵陣近くまで兵卒が水をくみに赴くが、明側は待ち伏せし、ことごとくこれを狙撃した。城内の水不足は限界に達し、やがて敵に投じる者が出始めた。明将楊鎬は一計を案じ、ある日投降兵に賞銀を与え、立派な馬に乗せ、城内に向かって大声で降伏を呼びかけるようしむけた。果たして城内では脱走兵が相次いだ。
「城門を固く閉じよ、これ以上脱走兵を出すな。それでも城を脱出しようとする者がいたらかまわぬ、見つけ次第斬り捨てよ!」
清正は厳命するも、城内の士気は下がる一方だった。
清正は一人の兵士を偽って敵に降伏させ、自らが西生浦にいるという偽情報を敵方に流した。連合軍の兵力を分散させる陽動作戦を実行しようとしたのである。だが事は露見し、これも成功をみなかった。
十二月二十九日この日は風が強かった。明将楊鎬は大量の柴木を用意し、火攻めの用意を整えた。清正の一隊は敵の動きに気付き、船で大和江を上り明軍との間で砲撃戦を交えた。
かろうじて火の海は免れたものの、城内では水と食料、さらには鉄砲の玉薬までもが底をつく。兵士達は馬を殺して食べるほどならまだしも、焼けた米をすする者、衣服を雨で濡らして口にする者までおり、戦闘の最中指を落とす者、銃を手にしたまま凍死する者までいたといわれる。やがて不穏な空気の中年が暮れ、慶長三年が訪れようとしていた。
釜山浦では、日本側の諸将が連日のように蔚山城救援のため軍議を重ねていた。この軍議をしきるのは、遠征軍の事実上の総大将小早川金吾中納言秀俊(後の秀秋)である。この人物は秀吉の正室ねねの兄の子として生まれ、一時は秀吉の養子として将来を約束されたが、秀吉に拾丸(後年の豊臣秀頼)という実子が誕生したため、小早川家に養子にだされた。秀吉に代わって新たに父となった小早川隆景は、すでに先年みまかり世にない。資質に問題があり、時代に翻弄されなければならない宿命のもとに生まれたといっていいだろう。空ろな目で集った諸将を見渡すこの十六歳の青年に、問題を解決する能力はない。
一方小西行長は、蔚山城救援の難しさを説くだけで、事態打開のための突破口を開こうとはしなかった。時はいたずらに流れるだけで、この間も蔚山城では餓死者等があいつぎ、地獄変さながらの様相をていし始めていた。
「恐れながら、ここで幾日軍議を続けても無駄ではござりますまいか」
我慢も限界に達し、ついに口を開いたのは立花宗茂だった。
「では左近そなたに何か策があるとでもいうのか?」
甲高い声で、今は亡き小早川隆景の義理の息子にもあたる人物が聞き返すのに対し、
「されば、それがしに三千の手勢がござれば、後詰をお許し願いたい。このまま清正殿の兵が城と運命を共にするを、拙者見て見ぬふりすることできませぬ」
と宗茂が懇願する。
「おお左様か、こなたの高々三千の手勢失うくらいなら、我等にとって痛くもかゆくもない左近よろしゅう頼むぞ」
この言葉に、さすがにその場に集った将の誰しもが唖然とした。むろんこの金吾中納言秀俊なる怪人物は、自らが犯した過ちに気付いていない……。
宗茂は三千の手勢を率いただけで、蔚山城の南八里(約三十二キロ)の地点まで進軍した。やがて明け方明将梅伯の一隊五千余が、三里(約十二キロ)先にあるという、物見の報せが入った。この時梅伯は油断していたのか斥候を出していなかった。兵を二手に分け突如として出現した立花勢に、ちょうど食事時だった明軍は崩れ立ち、にわかに逃走を始める。
「和泉はおるか」
乱戦の中、馬上宗茂が呼びかけるの対し、腹心小野和泉が片膝をつき、ただちにいざり寄る。
「敵に我等小勢であること知られてはならぬ。このまま兵を進めると全軍に下知せよ」
和泉は素早く各隊に伝令を出す。立花隊は五里の道を行き、やがて日が暮れようとする頃、敵方の様子を探っていた物見が戻ってきた。
「申し上げます。明軍とおぼしき兵約二万、この街道の先に待ち構えておりまする」
宗茂はかすかに表情を険しくした。物見の報せによると、明軍は細い街道筋に延々長蛇の列をなし、先陣と後陣の間にはかなりの距離があるという。
「和泉、敵は大軍といえど、この細長い道なら存分にその力発揮できまい。我等兵を左右に分け草わらに潜み、敵来たらば先陣はやり過ごし、後陣が現われた時一気に勝負をかける。わしがよしと言うまで、決してみだりに兵を動かしてはならぬ。そう皆に伝えよ」
日付が変わろうとする頃、ついに明兵は姿を現わした。各将は、はやる心を抑えながら主の攻撃命令を待つ。
「今ぞ! 放てぃ!」
金冑の宗茂の大音声とともに、鉄砲の轟音が一斉に火を吹いた。突然の立花隊の出現に、横一列に伸びきった明軍はたちまち混乱する。体勢を立て直そうにも時すでに遅い。先陣と後陣に分断された明兵に、闇の中精強をもって知られた立花隊は、白刃をもって決死の覚悟で挑みかかった。明兵もまた、旗指物から敵が碧蹄館で大戦果をあげた立花隊であることを知る。戦慄がゆっくりと各隊を襲った……。
清正が蔚山城で、敵陣の乱れを知ったのは翌未明になってのことだった。かって清正は碧蹄館での日本軍の大勝利の報に接した際、
「必ずや一番の手柄をあげた者は、あの立花左近なる若武者であろう」
と側近に語ったといわれる。むろん清正は宗茂の人並み外れた器量を知っていたし、その率いる部隊の精強も知っていた。
「よし戦できる者はわしに続け、今より討ってでる」
清正はわずかな手勢とともに城外に出る。明軍はついに崩れ、城の囲みはとかれた。蔚山城は絶体絶命の窮地から奇跡的に救われたのであった。戦後清正は宗茂に、筆舌に尽くしがたい感謝の念をもって丁重に礼をいう。以後両者は極めて親密な仲となり、清正もまた後に宗茂を救うこととなるのである。
この年六月、朝鮮在陣諸侯、そして明国・朝鮮をも揺るがす一大事が勃発した。太閤秀吉が病に倒れたのである。