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お前みたいなヒロインがいてたまるか! 作者:白猫

本編

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そして、ついに鳳峰学園中等部の入学式がやってきた。
椿は中等部の制服に着替え、姿見の前で己の頬を両手で叩いて気合を入れる。
気合いを入れ終わった椿は、鞄を手に取りダイニングに向かうと、どこか緊張した面持ちの母親が椿の姿を見るなり早足で寄り、やや早口で朝の挨拶の言葉を口にする。

「おはよう椿ちゃん。中等部の制服が良く似合っているわ」
「ありがとうございます」

母親はとても嬉しそうに制服姿の椿を眺めていたが、急に緊張した面持ちになり口を開く。

「椿ちゃん、何かあったら私でも薫さんでもお兄様でも良いから直ぐに言うのよ?」
「心配し過ぎですよ、お母様」

学校内での椿の姿を知らない母親からしたら、自分を敵視している女性の娘であり、椿の異母妹である美緒と学校生活を送る事になるのだから心配になるのも無理はない。
学校内での椿の件は父親と伯父にしか報告されていなかった。
だが、学校内での姿に対して椿が父親や伯父から何かを言われた事は一度も無かった。
その為、椿は自分の意図が父親と伯父にきちんと伝わっていると思っていた。
そして、心配を掛けない様にと父親は椿の学校内での姿を母親に報告していないので知りようもないのだ。
だから母親は、椿の事を少々お転婆なところもあるが、弟妹思いの優しい子だと認識していた。
そんな椿を1人送り出さなければならない事に母親は胸を痛めていた。
更に母親はなんとも申し訳なさそうな表情を浮かべて口を開く。

「……入学式に出られなくてごめんなさいね」
「私が無理を言って中等部に進学したのですから仕方ありません」

倉橋の一件で何をしでかすか分からないと判明している美緒の母親と椿の母親が対峙する事を周囲は避けたいと思っている。
だから、父親のみが入学式に出席し、母親は欠席する事になっていた。
中等部に進学する事を決めた時からこうなるのは分かっていた椿は、別段落ち込む事も無く当たり前の事だと受け止めていた。
それまで成り行きを見守っていた父親は話が終わったタイミングを見計らい口を開いた。

「百合ちゃん、椿ちゃんはまだ朝ご飯食べてないんだからその辺で。入学式に遅れちゃうよ」

父親の声を聞いて落ち着きを取り戻したのか、母親は前のめりになっていた体勢を直した。

「それも、そうですわね。…椿ちゃん、お兄様と朝比奈のお義父様が手を回して下さっているみたいだから大丈夫よ」
「スケールが大きそうな話は事前に行っておいて下さいよ!」

心の準備ってもんがあるんですよ!

伯父と朝比奈の祖父が結託するとは、と椿は乾いた笑いしか出なかった。
一体どう言うバックアップの仕方をされるのかと椿は期待しつつも不安が拭えない。

椿は両家の祖父が手を回している事が何なのかを考えながら朝食を食べ終えた。そして、玄関を出るまで何度も何度も母親に心配されながら車に乗り込んだのだった。
朝から疲れた…と椿は背もたれに寄りかかる。
初等部までの通学路とは違う景色を眺めながら、これからはこの景色が日常になるのかと感慨に耽っていた。

車が走り出してしばらくしてから、椿は窓の外を見たまま運転手の不破に話し掛ける。

「不破、校門の近くで降ろして頂戴。少し歩くから」
「畏まりました」

初等部と比べれば生徒数が多くなっていると言う事もあり、朝と放課後の校門前は非常に混み合う。
特に高等部の校舎も反対側にあるので、送迎車の数が多い為に道も混むのだ。
校門に着くまで待っていて遅刻するなど馬鹿げているので、椿は少し歩いてでも良いから登校しようと決めていた。
だが、今日は新入生しか登校しないので通常より生徒は少ないかもしれない。

そんな事を椿が考えていると、運転手の不破の方から話し掛けてきた。

「椿様」
「何?」
「恐らく一両日中に奴らからの接触があると思われますが、くれぐれもお気を付けください」
「どこの秘密結社に狙われてんのよ!?」

冗談を言う様な人物ではない運転手の不破の言葉に椿は少し取り乱した。

「名前を口に出すのもおぞましい存在です。一応はストッパーも居りますので椿様のご迷惑になる事はあり得ないと思いますが……。それにしても伯父は何故あのような者を派遣したのか」

不破の言葉の後半は小声になってしまい椿の耳には届いていなかった。
だが、何者かが椿に接触を図ってこようとしている事だけは理解出来た。
恐らくこれが両家の祖父が手を回してる事なのだろうと椿は察し、大人しく従う事にした。
いくら何でも情報が少なすぎると思い、椿は不破に質問を投げかける。

「呼び出されたら付いて行っても問題はないのね」
「……さすがに椿様に対して無礼を働く真似はしないと思いますので大丈夫だと思いますが、異変を感じたらお逃げ下さい」
「どんな人間が来るのよ!?」
「大旦那様の命により派遣された者です。言うなればあちらの一族の恥とも言える存在」

何でそんな人間を派遣してしまったのか、と椿は朝比奈の祖父を問い詰めたかった。

「ですが、情報収集能力と戦闘力は朝比奈の使用人の中でもトップクラスですので、ご安心を」

あぁ、何とかと天才は紙一重とか言うあれか、と椿は納得する。
しかし、運転手の不破のセリフに気になる言葉があった為、椿は彼に問いかけた。

「……ちょっと待って頂戴。戦闘力?」
「えぇ。年に何度か使用人同士の武術大会が開かれているのですが、奴は前回大会の優勝者でございました」
「朝比奈の使用人はちょっとおかしいとか思ってたけど、大分おかしいと言う事を今理解したわ」

普通の家の使用人は武術大会を催したりなどしない。

「左様ですか。大旦那様も大奥様も毎回楽しみにされておりますのに」

しかもスポンサー朝比奈家かよ!

常々、朝比奈家はお金持ちの家庭らしからぬ家であると椿は思っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
椿の家で働いている使用人達は出来る使用人と言う感じで、個性的な部分は全く無かった。
しかし、運転手の不破の口から聞いた他の使用人の中には個性的な人も居るようで、使用人と言っても様々だなと椿は感じた。

その後も運転手の不破と会話をしていると、車は中等部の校門付近に来ていた。
椿は慌てて降りる準備を始める。
と言っても、鞄を持って手櫛で髪を整えるだけである。

「不破、ここでいいわ」
「畏まりました」

運転手の不破は車を路肩に停めた。
車が停車したのを確認した椿は後部座席のドアを開け車から降りる。

「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
「椿様、危ないと感じたらすぐにお逃げ下さい。よろしいですね」

あまりの剣幕に椿はどもりながら「え、えぇ」としか返事をする事が出来なかった。
朝比奈の祖父が派遣してくれた人物に会うのが少しだけ怖いと椿は思ってしまう。

車から降りた椿が校門に向かって歩いていると、前方に見慣れた後ろ姿の少年を見つけた。
言わずもがな恭介である。
恭介も車が混むことを見越して少し離れた場所から歩いているようであった。
周囲の女子生徒達の視線を独り占めしている様はさすがとしか言いようがない。
椿は少し速度を上げて女子生徒達の視線を独り占めしている恭介に向かって歩いて行く。
そして、恭介の隣に並んだ椿は彼に声を掛けた。

「ごきげんよう、恭介さん」

椿の挨拶に恭介がチラリと視線を向けて「おはよう」と口にする。

「そう言えば、恭介さん新入生代表で挨拶なさるのでしょう?さすがですわね」
「たまたま成績が良かっただけだろ」

たまたまで新入生代表になれる訳ないだろうが!

そうツッコミたかったが、人前と言う事もあり、椿は言葉をグッと堪えた。

それにしても、と椿は周囲の生徒達から向けられる不躾な視線を感じてうんざりしていた。
水嶋の御曹司と言う事で鳳峰学園以外でも名前と顔が広く知られている恭介。
片や椿は水嶋と朝比奈の主催するパーティーにしか出席した事が無く、名前は知られていても顔を知らないと言う状態であった。
生徒達は恭介の隣を許された少女が朝比奈椿であると予想し、その顔を見ようとして椿に不躾な視線を向けてきていた。
椿は品定めされているようで気分は良くなかったが、生徒達の気になる気持ちも分かる為、少しの間だけ我慢していた。
入学初日なので、外部生は椿の擬態令嬢っぷりを知らない。
初等部に知り合いが居れば朝比奈椿には関わるなとアドバイスもしただろう。
実際、椿を一瞥しただけで通り過ぎた生徒達は初等部に知り合いが居るか、きちんと躾がされているかのどちらかである。
未だに椿に視線を向けている生徒達はただの野次馬だと判断し、それに付き合う義理は無いと思い、椿は無表情で未だに視線を向けている生徒達をジロリと睨んだ。
椿の視線を受け、バツが悪くなったのか生徒達はすぐに視線を逸らし足早に離れて行った。

「私はパンダじゃありませんのに」
「お前どっちかと言うと猛獣だもんな」
「強く反論出来ないのが悔しいところです」

悔しさなど全く感じさせぬポーカーフェイスの椿を見て、恭介は相変わらず表情を隠すのが上手い奴だと感じていた。

「そう言えば、クラス発表は見たか?」
「春休みに貼り出されておりましたわね。やはりと言うか、同じクラスは無理だった様で」
「それは当たり前だろうな。親族である以上に8クラスもあれば確率は減る」
「学年の生徒の名前と顔を覚えられるか不安ではありますわね」

いざ啖呵を切った時に名前が言えないようでは威力が減ってしまう。
人の名前と顔を覚えるのは苦手ではないが得意でもない椿は少しだけ不安に思った。
その点で言えば恭介は記憶力が常人と違うので、きっと覚えるのも簡単だろうと椿は羨ましくなる。

「ですが、苗字が朝比奈ですので、すぐ見つけられるのは楽ですわ」
「僕は中途半端に後半辺りだから面倒だ」
「これから6年間毎年恒例になりますからね」

椿がそう言うと恭介は軽くため息を吐いた。
最初のクラスの方に名前があれば良いが、8クラス目だと面倒だろうな、と椿は思い自分がア行の苗字で良かったと実感するのだった。
そして椿はちゃんと美緒のクラスも見ていた。2組の椿と7組の美緒。鳳峰学園の配慮が窺い知れる。

そうして、椿と恭介が話しながら歩いていると、ようやく校門に近づいてきた。
その付近で送迎車から降りる生徒や少し離れた場所から歩いてきた生徒達で校門前は多少混雑していた。
明日からは早めに家を出てラッシュを避けようと椿はこの混雑ぶりを見て誓った。

「あ、」

椿と恭介が校門を潜り抜けた瞬間、誰かの声が聞こえ、人が2人の前に飛び込んできた。
2人、と言うか恭介の目の前に飛び込んできたのである。
それを恭介はヒラリと交わし何事も無かったかのようにスタスタと歩いて行った。
咄嗟の事に椿は立ち止まり、地面に横たわっている人物に視線を向け、驚いた。

「やだー転んじゃった……」

そこに居たのは倉橋美緒、もとい立花美緒であったからだ。
拳で頭をコツンと叩き舌を出している美緒。

あまりの事に椿は呆然としていると、美緒は目的の人物が居ない事に気付き慌て始めた。
そして周囲を見渡し、目的の人物の後ろ姿を見つけて声を掛けた。

「ちょ!ちょっと!女の子が転んだのよ!助け起こすのが常識でしょ!」

声を荒げた美緒が勢いよく立ち上がり、恭介に駆け寄る。
その姿を見て、椿も慌てて恭介に近づいた。
声を掛けられた恭介が面倒臭そうな顔をしながら振り向く。
初めてまともに至近距離で恭介の顔を見た美緒は見惚れていたが、すぐに正気に戻り、上目遣いで恭介の目を見る。

「なぜ僕が名前も知らない人間を助け起こさなければならないんだ」
「じゃあ、名前を知ってればいいんだ。私は立花美緒って言うの。よろしくね!」

美緒がウインクしながら自己紹介をした事で恭介は驚きで目を見開いていた。

「あ、そうだ!私の事は美緒って呼んでね、恭介様」

それまで遠巻きに様子を窺っていた生徒達がざわめきだした。
恭介の事を名前で呼んでいるのはごくごく親しい間柄の人間だけである。
先ほどまでの会話の内容から、美緒と恭介が初対面である事を生徒達は理解しており、美緒が恭介の事を名前で呼んだ事に対して驚きを隠せなかった。
実は前から知り合いで、椿の手前初対面を装っているのかもしれないと言う考えが浮かんだ者すら居た程だ。

「初対面で親しくも無い人間を名前で呼ぶ気はないし、呼ばれたくもない。行くぞ、椿」

美緒に呼び止められ恭介は留まっていたいたが、時間の無駄だと判断し椿を伴いその場から離れようとした。
恭介に名前を呼ばれた事で美緒はずっと近くに居た女子生徒が椿であるとようやく気付いた。
相手を椿だと認識し、美緒は自分と恭介の邪魔をした椿を睨み付ける。

美緒が睨んだ先、そこには無表情で美緒を見下ろしている椿が居た。
4歳の頃に1度だけ離れの庭で会話した記憶しかお互いに無かった。
10年近く経過し、美緒は椿の顔をおぼろげにしか覚えてはいなかった。
原作ゲームとは違い、前髪が切り揃えられ素顔を出している椿の整った顔を見て美緒は一瞬だけ怯む。
身長的に椿の方が背が高いので見下ろす角度になってしまっているのだが、美緒は椿の視線が自分を見下しているものだと思い違いをしていた。

やっぱりこいつは私の邪魔をするんだ、と美緒は憤りを感じていた。

椿はすぐに視線を逸らして「では」と美緒に挨拶し、歩き始めた恭介の後を付いて行った。
美緒は椿の視線に気を取られてしまい恭介が歩き始めていた事に気付いていなかった。
椿が動いた事で恭介も離れて行った事に気付き、美緒は急いで後を追う。

「ま、待ってよ!」

椿はチラリと美緒に視線を向けただけであったが、恭介に至っては無視を決め込んでいた。

そこへ、小学校時代から美緒の取り巻きの1人であった琴枝美波ことえだ みなみが人垣をかき分けて美緒の元へとやって来る。

「美緒様、初日から騒ぎを起こすなんて」
「うるさいな。最初が肝心なんだから仕方ないでしょ」

美緒が琴枝と話している間に、椿と恭介は下駄箱で上履きに履き替えそれぞれの教室へと足早に向かった。
椿のクラスの前で恭介と別れたのだが、彼の背中からは疲労感が漂っていた。

椿もまさか美緒が初日の登校時に仕掛けて来るとは思いもしていなかった。
そもそも恭介と美緒の出会いは放課後のはずである。

ゲーム内では、放課後、お金持ち学校である鳳峰学園中等部の校舎を興味津々で見て回っていた美緒が校舎裏に迷い込んでしまい、そこで女子の集団から追われて隠れていた恭介と出会うのだ。
美緒は相手が新入生代表で挨拶をしていた相手なので恭介の顔と名前を知っていたが、恭介は勿論美緒の名前も顔も知らない。
騒ぎ立てない美緒を見て敵ではないと判断した恭介は美緒がそこに居る事を許可し、ちょっとした世間話をして別れる。
そして数日後に恭介は、椿を通じて校舎裏で会った少女が、叔母を自殺に追い込んだ女の娘であると知り、態度を変える。
と言うものであった。

それにしても、恭介の前で転んで助け起こしてもらおうだなんてチャレンジャーであると思わずにはいられない。
原作の恭介を知っていれば助け起こすような人間でない事は分かりきった事なのに、と疲れ切った頭で椿は思っていた。

教室へと入った椿は、空いている席に座ろうと周囲を見渡した。
すると何人かはそっと目を逸らせたので内部生だと察した椿はすぐ近くの席に座ろうと鞄を机に置き、椅子に座った。
内部生はともかく、外部生はそれぞれの学校から入学してきているのでクラス内ではまだグループが出来上がっておらず、近くの席の生徒同士で話していた。
人を寄せ付けない雰囲気を出していた椿に話し掛ける猛者は居るはずもなく、椿は鞄から取り出した小説を読み始めた。

「あ、朝比奈様も同じクラスなのですね」

ホッとしたような声色で話しかけられ、椿は本から顔を上げて声の主を見上げた。

「あら、周防さんも同じクラスでしたのね。1年間よろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願い致します」

周防は空いていた椿の横の席に座った。
顔見知りが居ると言うのは心強いものだと椿は感じ、本を鞄にしまった。

「でも朝比奈様がいらしてくれて良かったです」
「知っている方がおられると言うのは心強いものですからね」
「全くです」
「でも千弦さんとクラスが離れてしまったのは残念ですわ」

そう、今回椿と千弦はクラスが離れてしまっていた。
さすがにクラス数が多いともう同じクラスになるのは無理だろうなと椿は残念に思った。
しかし、椿と臆することなく喋ってくれる周防と同じクラスになれたので一安心であった。
しばらく周防と話していると教室に教師がやって来てホールへと移動する事になった。

入学式では、理事長や校長の長い挨拶を聞きながら、椿は『恋花』の中等部のことに想いをはせていた。

確か、中等部では攻略キャラがあと2人出てくるはずである。
同級生で優等生キャラの篠崎大和しのざき やまとと2学年下の久慈川蛍くじかわ けい
下級生の久慈川はともかく、同級生である篠崎はここにいるはずだ。
だが、人数も多く、全員が前を向いている状況でキョロキョロできるはずもない。
椿は、3年もあるのだから、いずれどこかで会う事もあるだろうと思い、この場で篠崎を探すのを諦める事にした。

入学式が終わり、教室へと戻った生徒達は、担任から様々な書類を渡され説明を受ける。
そして自己紹介の時間になり、出席番号1番の椿がトップバッターに選ばれた。
椿は静かに席を立ち、椅子を机の下にしまってグルリと教室を見渡す。
目を逸らす者、あれが水嶋恭介の婚約者かと言う目で見る者、興味が無いのか窓の外を眺める者と様々である。

「朝比奈椿と申します。鳳峰学園初等部出身です。1年間よろしくお願い致します」

軽く会釈をした椿は他の生徒の反応を見ないまま、椅子に座る。
背中に視線を感じるが、椿はツンと澄ました顔をして真っ直ぐに前を見た。
最後まで自己紹介が終わり、学級委員の選出になる。
だが、案の定誰も名乗りを上げる事も無く、担任が内部進学生の男女2人を指名して終了する。

そうして初日が終了し、下校となる。
帰り支度を整え、椿が廊下に出ると千弦が待ち構えて居た。

「あら、どうなさったのかしら」
「どうなさったのかしらじゃありませんわ。用事は分かっておられるでしょう?」

と、千弦が険しい顔をして椿に話し掛けてくる。
理由など今朝の美緒の件であろう事は椿も分かっていた。

「……場所を変えましょうか」

椿の言葉に千弦は頷き、中庭のベンチまで移動する。
送迎の時間が迫っている為、手短に済ませようと椿は考えていた。

「あの方が水嶋様を下の名前でお呼びになった事、すでに噂になっておりますわ」
「人の噂が知れ渡るのは本当に早いですわね」
「感心している場合ではありません」

こめかみを押さえた千弦が呆れた声を出した。

「あ、そうだ。千弦さん、あの方に物申したいとは思いますけれど、しばらく我慢していただけませんか?」
「すでに物申したい気持ちでいっぱいなのですが」
「そこを我慢してくださいませ」

千弦は不満そうな顔をしているが、事を起こそうにも恭介がハッキリと最初に引導を渡さなければ意味が無い。
先ほども、急いで玄関に向かう恭介の後ろ姿を見掛けた椿は、彼が美緒に会わない様に逃げたのだと認識していた。そして初対面のイベントが起こらない事も。
朝の件でも十分に恭介はハッキリと物申してはいたが、美緒には全く通じていない様子であった。
椿は予定を大幅に変更するしかなさそうだと思い、頭を抱えたくなる。

「……分かりました。貴女の顔を立てると言う意味でしばらくは口を出す真似は致しません」
「ありがとう」

ため息を吐いた千弦がベンチから立ち上がる。

「お話はまた後日でよろしいかしら」
「えぇ。サロン棟の個室でお話しましょう」

後日、話し合う事を約束し、椿と千弦は校門まで連れ立って歩き、それぞれの家の送迎車に乗り込み帰宅した。

自宅へと帰った椿は玄関ホールで待ち構えて居た母親から質問攻めにあってしまう。

「入学式はどう?お友達は出来たのかしら?何か変わった事はありました?」
「恭介さんが新入生代表で挨拶をされていました。友人は初日ですのでまだです。変わった事は何もありませんでしたよ。いつも通りです、お母様」

椿の言葉を聞き、母親は安堵した表情を浮かべている。
こうして母親を蚊帳の外に置く事が正解なのかは椿には判断がつかない。
しかし、精神的に脆く病んだ姿の母親のイメージが未だに強い椿は全ての事実を母親に言って、また母親が壊れてしまったらどうしようかと不安なのだ。
父親や伯父達が居るから大丈夫だと思っていても不安は拭えない。
綺麗なところで綺麗な物だけを見ていて欲しいと思うのは椿の我儘でしかないのだ。

自室に戻った椿は制服から着替え、ベッドに腰を下ろし今日の事を振り返っていた。

千弦から出向いてくれたお蔭で今日中に千弦にストップをかけられて良かったと椿は思っていた。
正義感が強く鳳峰学園の模範生であろうとする千弦にとって、今朝の美緒の行動はありえないものであっただろう。
明日にでも千弦は美緒に物申したいと思っていただろうが、何事にもタイミングと言うものがある。
美緒がどういう人間なのか分からない状況で口を出すのはこちらの首を絞めかねない行為である。
それに今朝のことを考えると美緒がこちらの話に耳を傾けてくれるような性格をしているとは思えない。


それにしても、本当にヒロイン補正は無かったのだと分かった事は収穫であった。
ほんの少しだけ、椿は恭介が強制的に美緒に惚れてしまったらどうしようかと思っていたのである。
だが、今朝と放課後の恭介の態度を見るとその可能性は低いと見て良いだろう。

椿は美緒が恭介の前で転んだ事や人前で恭介の名前を呼んだ事など計画性のない行動をしていた事で、彼女が大した脅威ではないと認識していた。
まぁ、なんとかなるでしょうと楽観視していたのだが、そう簡単にはいかないものである事を椿は気付いていない。
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